1.12.武家の台頭

前九年・後三年の役

源氏系図

日本の歴史7巻より作成

清和源氏系図

日本の歴史7巻より作成

前九年の役
・9世紀の初め、坂上田村麻呂が陸奥方面の蝦夷(えぞ)を征服した。胆沢(いざわ)城(岩手県奥州市)を築いて鎮守府をここに移し、更に北方に志波(しば)城を築いてからあと、争乱はなかった。
・その後、日本海側の出羽ではしばしば反乱があり、朝廷側はその対策に苦慮していた。9世紀末に藤原保則(やすのり)がなんとか出羽の乱を収束した。
・10世紀ごろ、陸奥の北部地方で安部氏の勢力が拡大していた。安部氏は律令国家に帰順した蝦夷[これを俘囚(ふしゅう)という]で、中央政府はこれら俘囚の有力者をえらんで、俘囚長に任じ、さらに郡がつくられると、郡司に任じてきた。
・安部忠頼(ただより)のころ、衣川関(ころもがわのせき)以北の北上川流域地方に勢力を拡大していた。孫の頼良(よりよし)は陸奥の奥六郡の郡司となっていたが、その南限の衣川関を越えて、南に勢力をのばし、国司に従わなかった。

・陸奥国司藤原登任(なりとう)は、出羽国秋田城介(あきたじょうのすけ)平重成をはじめ数千の兵を引き連れ、安部頼良を攻めたが、安部頼良は支配下の俘囚を動員して、戦い、登任軍は大敗をきした。
・この報を聞いた中央政府は1051年(永承6年)に源頼義を陸奥守に任命した。頼義は平忠常の乱で追討使となった源頼信の子で、平忠常の乱では追討に加わり、坂東武者としての武勇が知られていた。
・頼義が着任するとまもなく大赦が出され、安部頼良が前国司と戦った罪が許された。喜んだ安部頼良は名前を頼時と変え(読みが同じ「よりよし」のため)、頼義をたてて平穏に過ぎていった。

前九年の役関係図(図説日本の歴史5巻より)拡大可

・国司の任期が終わる年、頼義は胆沢城に行った。安部頼時は大いにもてなしたが、頼義が多賀城に帰る途中、権守藤原説貞(ときさだ)の子の光貞(みつさだ)・元貞(もとさだ)の野宿で、人馬が殺された。
・頼義は、この事件が安倍頼時の長男の貞任(さだとう)によるものとして、貞任を召喚して罪科に処そうとした。いままで忍耐していた安倍頼時は貞任を見捨てられないとし、戦の準備を始めた。頼義も坂東の兵を集め、 1056年(天喜4年)前九年の役が始まった。
・その8月に安倍氏追討の宣旨が出され、征討軍がおこされた。しかし戦は思うように進まなかった。藤原経清(つねきよ)や平永衡(ながひら)ははじめは頼義側についていたが、頼義が平永衡の行動を疑って、これを殺したので、藤原経清は安倍頼時側に走った。
・頼義も国司の任期が切れ、合戦のため陸奥守が敬遠され、頼義が重任された。しかし食糧不足などで、苦戦した。そこで、頼義は奥地の俘囚に兵をあげさせ、安倍頼時の背後をつかせた。頼時は対応の戦の中で矢に当たり、鳥海(ちょうかい)柵にて亡くなる。

1057年(天喜5年)11月、頼義は河崎柵で抗戦していた貞任と戦い大敗をする。頼義の長男の義家の奮戦でようやくのがれることができた。
1062年(康平5年)となり、また国司の任期が切れた。新任国司は高階経重(たかしなつねしげ)であったが、陸奥の民が新任国司を相手にしなかったので、都に帰っていった。

前九年の役合戦絵巻(図説日本の歴史5巻より)

・その年の7月に頼義は出羽の俘囚清原光頼(みつより)と弟の武則(たけのり)に助力を請い、1万余の兵の支援を受けた。
・この軍を元に、頼義の3000兵とで、8月に小松柵を攻略し、9月に衣川関、鳥海柵、17日は最後の拠点厨川(くりやがわ)柵をも落とした。これで前九年の役が終わった。
・ 『陸奥話記』で安倍氏を「賊」と記しているが、悪く書いていない。当時から安倍氏には同情が寄せられていたゆえんである。
・ 『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』に、衣川館の戦いで、衣川館から落ちていく貞任に、義家が
「衣のたてはほころびにけり」と歌いかけると、貞任は
「年をへし 糸のみだれの くるしさに」と歌いかえしたので、義家は矢を射るのをやめた という話があるのは有名である。
1063年(康平6年)2月、頼義は貞任以下の首を携えて京にもどり、勲功を賞された。頼義は正四位下伊予守、義家は従五位下出羽守となった。
・清原武則は従五位下に叙され、鎮守府将軍となり、安倍氏に代わって陸奥の奥六郡を支配することになる。
・清原氏は出羽仙北(せんぼく)郡の俘囚の長であったが、陸奥へ進出する足がかりとなった。

後三年の役

・ 前九年の役が終わり、20年の年月が過ぎ、陸奥奥六郡を支配する清原氏も武則から武貞をへて真衡(さねひら)の代となった。真衡は子がなかったので、桓武平氏系の成衡(なりひら)を養子にし、源頼義の娘をその妻に迎えた。
・その婚礼の時、出羽から清原一族の武勇の士、秀武(ひでたけ)が砂金を持って祝いに来たが、無視され、砂金を庭に撒いて帰った。このことを怒った真衡が秀武を討とうとした。
・秀武は真衡に不満を持っていた家衡と清衡を味方にして、戦った。 1083年(永保3年)秋に源義家が陸奥守として赴任した。真衡は義家をもてなし、味方にした。
・義家は家衡と清衡を蹴散らした。この時期、真衡が病死する。家衡と清衡は義家に陳謝し、義家はこれをゆるし、奥六郡を二分して、家衡と清衡に分け与えた。

後三年の役関係図(図説日本の歴史5巻より)拡大可

・ 清衡は安倍頼時の娘と藤原秀郷の子孫とされている亘理経清(わたりつねきよ)の子であった。前九年の役で、父の亘理経清が安倍氏に味方したが、母が清原武則の長男清原武貞に再婚することになり、運が開けた。
・家衡は武貞とその安倍頼時の娘の子である。家衡からみれば、清衡は連れ子であり、清原氏とは関係がない。しかも清衡は奥六郡の土地が豊かな南側を支配しており、不服に思っていた。
・家衡は義家に清衡を讒訴したが、聞き入れられなかった。そこで、家衡は清衡の宿所を襲撃して妻子を殺害した。清衡はこれを義家に訴え、義家は1086年(応徳3年)、数千騎で、出羽の沼柵を攻めた。しかし義家は寒さと飢えで苦戦した。
・家衡の叔父の武衡が加勢し、強固な金沢柵に移るよう進言し、家衡・武衡の軍は金沢柵に籠城して戦った。しかし義家の弟の新羅三郎義光が都から戦いに加わったことと吉彦秀武献策の兵糧攻めにより、 1087年(寛治1年)金沢柵は陥落した。
・ 義家は勝利を収めたあと、恩賞を申請したが、中央政府は「私合戦」として、恩賞を出さなかった。 1088年(寛治2年)1月の除目で、義家は陸奥守を解任されている。
・前九年の役と違い後三年の役は私闘とみなされ、朝廷から清原氏追討の宣旨は得られなかった。義家は陸奥守の権限以外は国家のバックなしに戦ったことになる。しかし当時、源氏の棟梁として、私的武力集団は強力なものとなっていた。
・また清衡にとって、後三年の役は官位も恩賞もなかったが、戦いに勝ち奥六郡を支配する勢力者となった。そして、実父の姓に戻って藤原清衡と名乗り、奥州藤原氏の祖となった。
・その後、奥州藤原氏は江刺郡豊田館(奥州市)に本拠をおき、京都の藤原氏へともつながり、勢力の拡大をはかった。更には嘉保年(1094年1095年)頃に磐井郡平泉に移り、奥州の統治者として君臨する。


院政
村上天皇からの天皇系図

日本の歴史6巻より作成

後三条天皇からの天皇系図

日本の歴史7巻より作成

兼家からの藤原氏系図

日本の歴史6巻より作成

後三条天皇の親政
・尊仁(たかひと)親王(後三条天皇)は、後朱雀天皇が親仁親王(後冷泉天皇)に譲位したときの強い希望で皇太弟となった。しかし母が皇族の禎子内親王のため後ろ盾がなく、頼通など藤原一門から疎外された。
・尊仁親王は、道長の子だが傍流だった能信(よしのぶ)の支えと後朱雀天皇の希望に応えるために耐えた。
・後冷泉天皇は子供ができず亡くなったので、1068年(治暦4年)に後三条天皇が即位する。藤原氏の束縛がなく、35歳での即位であった。しかもすぐれた素質を持ち、学問にも積極的で果断厳正な性格であった。
・後三条天皇は皇太子を能信の養女茂子(もし)の子の貞仁(さだひと)親王(白河天皇)とし、積極的に摂関家を排除する方向で親政を開始した。「延久の善政」といわれている。
・後三条天皇はわずか4年の在位で、 1072年(延久4年)12月に白河天皇が20歳で即位する。ここで、後三条上皇の院政がはじまる。しかし、翌年の6月に亡くなった。
摂関家に対抗する院政ではあったが、短い期間となった。

白河天皇
・白河天皇が即位しても、後三条上皇の路線を歩むように定められていた。源顕房(あきふさ)の子で、藤原師実(もろざね)の養女であった中宮賢子(けんし)を寵愛したが、賢子は28歳の若さで病死する。
1075年(承保2年)に教通(のりみち)が亡くなり、関白は頼通の子の師実(もろざね)に代わった。村上源氏の勢力も大きくなり、 1083年(永保3年)には源俊房、顕房(あきふさ)の兄弟が左大臣、右大臣となった。天皇親政のかたちであったが、天皇の意思が強く反映されるところではなかった。
・白河天皇の即位後、後三条天皇によって決められていた皇太子の実仁(さねひと)親王(後三条天皇の皇子)が亡くなる。次の候補は後三条天皇の皇子の輔仁(すけひと)親王であった。
・白河天皇は、それを無視して中宮賢子の子である善仁(たるひと)親王(堀川天皇)を皇太子とした。 しかも、すぐに退位して、1086年(応徳3年)11月に堀川天皇が即位する。
・しかし、堀川天皇は病気がちであるのに、輔仁親王は聡明の誉れ高く、源氏の人々の支持が高かった。白河上皇が院政を開始した事情は堀川天皇の頼りなさから、皇位を見守るためでもあった。

・師実は8歳で皇位を継いだ堀川天皇の外戚として、摂政となって政治をするはずであったが、もとのような摂関政治に戻らなかった。
・師実は外戚といっても、賢子は養女であり、実の親は村上源氏の源顕房であったこと。当時、公卿の数では源氏が多くなり、藤原氏と拮抗するようになっていたことなどが考えられる。

藤原氏・源氏の公卿数比較(日本の歴史7巻より)

・更に、師実は極めて控えめであり上皇や村上源氏との妥協的であった。更に上皇が天皇時代に賢子を寵愛したこともあり、上皇と親密な関係であった。
・もう一つの要因はこのころから、婚姻制度が変わって来て、嫁側の外祖父の影響力が弱まって来たことも考えられる。

婚姻制度の変化
①妻問婚(つまこいこん)
日本の婚姻形態は、男性が妻を求めてうごく多夫多妻の結婚形態である妻問婚から始まる。

②招婿婚(むことりこん)
大化時代に招婿婚に変化する。そして、招婿婚が一般化するのが平安中期である。この形式は妻の家の側から婿えらびをして、婿を妻の家に住みつかせるもので、そこで生まれた子は妻の家で養育する。男子は成人すると養育された家を出ることになる。家は女系となる。また夫婦同居が原則ではないので、一夫多妻となる。

③経営所(けいえいしょ)婿取婚
11世紀頃から、経営所婿取婚という形式が始まる。これは妻の親が本宅以外の場所に経営所(婚礼執行の場所)を設けて、そこへ婿を招く儀式を行い、そこに仮住まいした後、永住の新居へ移る。ここに単婚世帯が生まれ、新宅が妻の本宅から分離される。
その後、婿側の家が経営所、新居のめんどうをみる。これらは嫁とり婚へと移行する過渡期的段階となる。

白河院政
1094年(寛治8年)に師通が父師実から関白の地位を譲られた。師実は極めて控えめであったに対して、師通は剛毅な性格であったので、上皇の政治に反発するものがあった。 1096年(永長6年)に白河上皇は出家し、法皇となる。
・堀川天皇は成長するに従い、英明の君主といわれるようになり、かならずしも白河法皇の意のままにならなくなった。このようにして、天皇を中心とする摂関・朝廷政治と上皇を中心とする院政が、不明瞭な対立関係をもちながら政治が運営された。
1099年(康和1年)に師通が亡くなり、嫡子の忠実(ただざね)が内覧となり、氏の長者となる。この忠実は師通とことなり、白河法皇の意見に従った。 1107年(嘉承2年)堀川天皇が亡くなり、5歳の宗仁(むねひと)親王(鳥羽天皇)が即位する。
1113年(永久1年)10月、輔仁親王と村上源氏が共謀して鳥羽天皇殺害の計画をしていると落書が投げ込まれた。この事件で、輔仁(すけひと)親王の人望と、村上源氏の勢力がそがれ、白河院政が専制的になる。

鳥羽上皇
・ 藤原公実(きんざね)の娘の璋子(しょうし)[待賢門院]を養女として育てていたが、璋子が18歳のとき、上皇のはからいで。当時16歳の鳥羽天皇の中宮となった。入内の翌年に皇子顕仁(あきひと)親王[崇徳天皇]を産んだ。この子が白河法皇の子ではないかとのうわさがあった。
・ 忠実ははじめ白河法皇の信任もあり、院政にも参画していたが、鳥羽天皇とは近い関係となり、 政治権威を維持していた。
・しかし、白河法皇と鳥羽天皇の関係が悪化すると、忠実は白河法皇の意にさからうことが多くなり、 1120年(保安1年)に内覧を解任され、嫡子忠通(ただみち)が関白となる。忠実・忠通父子に反目が生じる。
・璋子[待賢門院]は美人の誉れが高く。鳥羽天皇に寵愛され、4皇子、2皇女をもうけた。 1123年(保安4年)白河法皇は顕仁親王が5歳になると、むりに鳥羽天皇を譲位させ、顕仁親王を崇徳天皇として即位させた。
・この件から、白河法皇と鳥羽上皇の関係は冷えきって行く。 1129年(大治4年)に白河法皇は77歳で亡くなった。
・鳥羽上皇は当初院庁の官人をそのまま継承したが、その後は人事の刷新・交替をすすめ、鳥羽院政を行った。基本は白河院政の否定であった。
・そして、藤原長実(ながざね)の娘で、美貌の噂の高かった得子(とくし)[美福門院]を入内させ、得子は躰仁(なりひと)親王[近衛天皇]を産む。待賢門院[璋子]とは不和になった。
・鳥羽院政が始まると、引退していた忠実に内覧の宣旨が出され、忠通の関白は有名無実となった。
・鳥羽上皇は崇徳天皇に、躰仁親王を天皇の子として譲位をすすめ、崇徳天皇も承諾するが、宣命には躰仁親王を皇太子と書かず、皇太弟と書いた。これによって、崇徳上皇は院政を行う根拠を失う。 1141年(永治1年)に近衛天皇が即位する。
・忠実の寵愛を受けた頼長が官位を高め、 1149年(久安5年)に30歳で左大臣となる。摂政の兄忠通(53歳)に対抗する。近衛天皇の妃でも対立し、頼長の養女多子(まさるこ)が皇后、忠通の養女(美福門院の養女)呈子(ていし)が中宮となった。これにより頼長は美福門院を敵にまわした。

荘園公領体制(院政期)
荘園と国衙領
・11世紀末以降でも土地が全て荘園化していたわけではなく、公領=国衙領も多かった。荘園は単なる私的大土地所有といったものでなく、土地支配の承認の仕組みは公的なものが含まれている。
・荘園が中央貴族や寺社を荘園領主とするのに対して、国衙領は国衙・国守の支配する領域である。土地支配機構のメカニズムも荘園と国衙領と変わりはなかった。
・この時代になると、荘園・公領の混在、荘地・公地のかさなりあい、荘公両属といった土地が整理され、荘園・国衙領の領域支配が分かりやすい体制となったことである。
・これは1069年(延久1年)に後三条天皇により「延久(えんきゅう)荘園整理令」が出され、加納田(かのうた)[荘園領主が荘園の本来の荘域外から年貢をとりたてる田地]や出作田(でさくた)[荘民が公領にでて耕作する田地]などが整理された成果である。

荘園体制の完成
・荘園整理令に抵抗していた荘園領主も国衙領との領有権が明確になっていった。このことは合法とされた荘園には国司も手をつけることができなくなり、荘園としては地位が法的に確立したこととなる。このことは荘園領主が荘園から収奪することが国法からも正当となったことである。
・これは荘園の不輸租権の獲得と公事夫役(くぶじやく)の免除の実現で果たされた。更には不入権(国家の官吏の立ち入りを拒否)にまで進む。このように8世紀から始まった荘園は11世紀中から末にはできあがったことになる。これは室町時代の荘園制崩壊期まで続き、太閤検地で完全に終わる。
・荘園領主としても、形式的に政治権力の強い者が要求される。そのため、本家(ほんけ)・領家(りょうけ)・預所(あずかりどころ)のように、荘園領主が幾重にもかさなりあう形態をとった。鳥羽院政期は荘園整理を後退させたので、荘園の拡張期となり、飛躍的に荘園が増えた。
・荘園の形態にも種類がある。畿内地方ある畿内型の均等名荘園は土地を耕作する名主はせいぜい数町部にすぎず。辺境地の在地領主のように大きな規模にはならなかった。

国衙領の形成
・国衙について、この時代から国司の支配する土地は国衙領と呼ばれるようになり、行政単位として郡や郷が確立し、別符名(べつぷみょう)・保(ほ)などが多く成立する。
・この場合に、在地の有力者たる在地領主層の開発成果を承認する体制をつくり、その開発者の土地に対する権利を認めたうえで、彼らを郡司・郷司(ごうじ)・保司(ほじ)・公文(くもん)などに任命した。
・受領が荘園を含めて、国衙領を一元的に支配していたものが、荘官が支配する荘園と、受領が支配する国衙領(公領)とに分かれてくる。
・このように荘園と公領とからなる社会体制を「荘園公領体制」という。

中世所領のはじまりと武士
・国司は権限が絞られたなか、検田を厳しくおこなって田地を見つけ出し賦課を強化して収奪を増やそうとした。これに対し、農民は国司の検田に対し抵抗した。
・11世紀末から12世紀ごろになると、国司の検田はかなり形式的になる。各行政単位から申告したもので検田にかえるようになる。国衙の土地台帳に登録された各行政単位の田畠の面積より、実際に存在する田畠の面積が多くなる。この差が在地領主の収益となった。
・これらの在地領主は下司(げし)とか地頭とかよばれる荘官として在地支配をおこなっていた。また、郡司・郷司・保司である。かれらは「開発領主」の地位を相伝して「根本私領」を持ち、また戦功によって他の荘園公領の所職を獲得し、これを生活の基盤として「一所懸命の領地」といったのである。
・在地領主(開発領主)が、自衛的組織として形成した武士団が原初的武士団である。これは血縁的結合関係をもととして、組織された戦闘集団で、個々の独立した存在であった。
・在地領主が同族的結合を中核としながら武士団の規模を拡大した。個々の武士団相互の争いから、より強い武士団が他を統合するかたちで、武士団の規模が大きくなる。特に辺境の東国では豪族的な武士団もできることになる。
・武士団は血縁だけでなく、郎等(ろうとう、ろうどう)[郎従(ろうじゅう)]といった主人に直接奉仕する従者がいる。その主従関係は恒久的で、主君一代とは限らなくなる。[譜代の郎等、累代の家人]
・これは12世紀なかばになると、大きな武士団では主人に仕える郎等が、また主人となって郎等を従えるということになり、武士団の階層関係ができあがる。

源氏と平氏の動き
河内源氏の凋落
・河内源氏は義家の時代に武勇の家として、東国に源氏勢力の地盤を築き、都でも武勇が知られ、武士の長者となった。しかし、義家の弟の義綱も武家の棟梁としての力を持つに至っていた。
・このような状況で、義家の嫡男の義親(よしちか)が、対馬守として、九州にいたが、人民を殺し、官物を略奪するなどした。中央政府はこれを反乱として、追討使を派遣したが、義家の郎等の派遣などは義親に加担するありさまで、義親は山陰道の出雲でも略奪をした。
・そこで、中央政府は伊勢平氏の正盛に義親追討を命じた。 1107年(嘉承2年)12月に正盛は出発し、翌年1月には義親の首とともに凱旋した。
・源氏は義家の四子義忠(よしただ)が嫡流をつぎ、義親の嫡子の為義を養子とした。義忠は義家の死後に何者かに殺害された。
・強く疑われたのは叔父の義綱であった。義綱は事件と無関係であるとの弁明が受け入れられないので、近江の甲賀に引きこもったが、討伐に来た為義によって滅ぼされた。こうして源氏の勢力は凋落していき、為義の官位は検非違使・左衛門尉(さえもんのじょう)までであった。

河内源氏系図

日本の歴史7巻より作成

伊勢平氏の進出
・源氏に対し、もう一方の武門の棟梁としての平氏は桓武平氏となる。平将門で武門の誉れは高かったが、逆賊となった。この将門に敵対したのが貞盛で、その四子が維衡(これひら)である。伊勢平氏は維衡からはじまる。
・そのため、東国との関係があったせいか、維衡は998年(長徳4年)に下野守となっていた。その後、上野介、 1021年(治安1年)のころには常陸介となった。維衡は遙任の国司で京都にとどまっていた。しかし、一族の本拠地は伊勢であって、伊勢で勢力の拡張をしていた。
・平氏の家系は維衡の子の正度(まさのり)、その子の正衡(まさひら)、その子の正盛となる。1098年(承徳2年)の頃、義家が昇殿を許されたころ、正盛はまだ隠岐守であったが、義親追討の功によって、但馬守となった。
・その後、正盛は西国地方の国司を歴任したことで、西国と深い関係を持つ。正盛は国司在任中に蓄財し、地方武士とも新しい関係を構築した。
・それを背景に正盛の子の忠盛は京都における平氏の地位を押し上げていった。

桓武平氏系図

日本の歴史6巻より作成

伊勢平氏系図

日本の歴史7巻より作成

清盛を含む平氏系図

日本の歴史7巻より作成

保元・平治の乱
後白河天皇からの天皇系図

日本の歴史7巻より作成

忠実からの藤原氏系図

日本の歴史8巻より作成

保元の乱
・鳥羽上皇と崇徳上皇が対立するなか、近衛天皇は病弱だったので、皇位の継承問題となる。近衛天皇に皇子の誕生をみないなら、崇徳上皇が重祚するか、皇子の重仁親王を即位させるか考えていた。
・このようなとき1155年(久寿2年)に17歳の近衛天皇が亡くなる。生母が早く亡くなって美福門院の養子となっていた雅仁(まさひと)親王の子の守仁(もりひと)親王(二条天皇)を皇太子として次期天皇とさせるために、美福門院と忠通は中継ぎとして、近衛天皇より年上(27歳)の雅仁親王(後白河天皇)を皇位につける。
・これにより、崇徳上皇はまったく望みが断たれた。一方、鳥羽上皇の信任が厚かった、忠実・頼長父子は鳥羽上皇から疎んじられるようになる。きっかけは鳥羽上皇の寵臣の中納言家成と頼長の家人の乱闘騒動であった。後白河天皇擁立の時、頼長は左大臣の辞表を出しており、積極的な発言ができない状態だった。
・更に、美福門院や忠通側の謀略として、近衛天皇の死は忠実・頼長父子の呪詛によるものだとの噂も流れ、鳥羽上皇はこれを信じ込んでしまった。
・頼長は鳥羽上皇の皇后であった妹の高陽院泰子(こうよういんたいし)を通じて、誤解を解くよう努めたが、泰子は1155年(久寿2年)12月に亡くなってしまった。
・こうして、和解の方策がなくなり、宮廷から締め出された頼長と次の院政をもくろみ、それが出来なくなった崇徳上皇との結束が固くなった。そこで、武力を持って、勢力の回復を企てた。
・源氏では為義の嫡子で父と不和であった義朝が、ようやく下野守となり、平氏では忠盛のあとを継いだ嫡流で安芸守の清盛が院の近習として中央政界で勢力をもちはじめていた。
・鳥羽上皇は崇徳上皇一派の反乱を予想して、平清盛、源義朝などに誓詞を入れさせ味方にした。
1156年(保元1年)7月2日に、鳥羽法皇が亡くなった。後白河天皇側は京中の武士をとりしまるなど積極的な手を打ってきた。

保元の乱関係図(日本の歴史7巻より作成)

・崇徳上皇側は、源為義、平家弘、忠正らであったが、源氏は棟梁の為義とその子頼賢、為朝、為仲といった勢力であったが、嫡子の義朝が後白河天皇側であったので、その勢力は期待ほど集まらなかった。
・こうして、崇徳上皇側は7月9日に白河殿にはいり、1000騎となった。後白河天皇側は1700騎が高松殿から東三条殿に場所を移して終結した。
・上皇側の作戦が決まらず無駄な時間を過ごしている間に、天皇側が先制攻撃をかけた。激しい戦いであったが、短時間のうちに勝敗が決まった。上皇側は敗北し、崇徳上皇、頼長は行方をくらませたが、頼長は流れ矢に当たって死に、崇徳上皇は仁和寺に逃れてたが、捕えられ、讃岐に配流された。
・為義など上皇側も武士の多くは降参したが、そのほとんどが斬首された。このようにして、保元の乱は終わった。
 この乱の結果、政界における対立抗争を解決するのに、武士の力を利用する以外に方法がないことが証明された。

平治の乱

・保元の乱の影の立役者は代々学者の家に生まれ、博学の士といわれ、『本朝世紀(ほんちょうせいき)』を編纂した通憲(みちのり)[信西]であった。通憲は妻が後白河天皇の乳母であったことから、早くから天皇に接近して、その信任を得ていた。
・信西は保元の乱では平清盛に軍功をたてる機会を与えた。恩賞でも、軍功一の源義朝は従来の下野守に左馬権守を兼ねただけにすぎなかったのに対し、清盛に播磨守を与え、のちには太宰大弐とした。加えて、平氏一門の恩賞も厚かった。
・これはこの機会に摂関家の勢力をそごうとして、摂関家に近い源義朝の勢力を抑え、平清盛の勢力が上がるようにしたと思われる。更に、信西は忠実、頼長の所領を全て没収させた。
1158年(保元3年)に後白河天皇は天皇親政わずか2年で、皇位を15歳の守仁親王(二条天皇)に譲り、上皇となって院政をはじめた。
1158年(保元3年)に後白河天皇は天皇親政わずか2年で、皇位を15歳の守仁親王(二条天皇)に譲り、上皇となって院政をはじめた。

平治の乱の清盛像(図説日本の歴史5巻より)

・後白河上皇は政治については信西に任せきりにしたので、信西を中心とした院政派が形成された。また、二条天皇は賢者のほまれ高く、天皇親政派も、妹が二条天皇生母である経宗(つねむね)、母が二条天皇乳母である惟方(これかた)などが勢力を持っていた。
・また、保元の乱で恩賞が少なかった源義朝は信西に接近して栄達を図ろうと信西の子是憲(これのり)を娘婿にむかえるよう試みたが、信西から断られ、信西への恨みが強くなった。
・このような中、院政派の信西の権謀術策によって、反感が広まる中、院の近臣で、上皇の寵愛を受けていた、信頼(のぶより)が近衛大将を希望していたが、信西に阻止され、信西と対立するようになった。単なる院政派と天皇親政派の対立ではなく、反信西のつながりが出てくる。
・清盛が一家で熊野詣に出ている時期、 1159年(平治1年)12月10日に信頼、経宗、惟方、義朝が参加して、クーデターを起こす。後白河上皇と二条天皇を内裏に幽閉し、信西の邸をせめて焼き討ちにする。

平治の乱関係図(日本の歴史7巻より作成)

・信西はいったんは逃げたが、検非違使に捕まり、首を晒された。信頼はクーデターが成功し、自らの除目で、念願の近衛大将となり、義朝を播磨守に任じたりした。
・清盛は紀伊の在地武士なのどの協力で、16日には熊野詣から戻り六波羅に入った。清盛の盛んなのを見て、経宗(つねむね)、惟方(これかた)が裏切り、清盛と連絡を取った。清盛も信頼に対し異心がないことを誓って油断させた。
・25日には経宗、惟方が天皇救出を図り、六波羅邸脱出させることに成功する。ここにおいて、清盛は義朝追悼の宣旨を受け、義朝を攻めた。しかし義朝の奮戦により、いったんは退けられた。義朝は勝ちに乗じて六条河原で戦った時、源頼政が兵を動かさなかったので、大敗した。
・このようにして、源氏は敗れ、源氏の者の多くは殺されたが、義朝の三男の頼朝は清盛の義母池禅尼(いけのぜんじ)の除名によって、伊豆に流された。清盛は反対派の貴族の荘園を多く獲得した。

平清盛の進出
院政派と天皇親政派の対立
・平治の乱が終わっても、政界は安定しなった。後白河上皇と二条天皇の対立が深かまっていった。乱の立役者は天皇親政派の経宗(つねむね) 、惟方(これかた)と清盛であったが、乱後、天皇親政派が清盛の力を使って、院政派の有力者をつぶしてしまった。
・平治の乱で、後白河上皇は頼りにしていた信西を失ったことが大きく、信西派は失脚して、公卿たちの多くは上皇を見放してしまった。そのような中、上皇は反撃に出て、 1160年(永暦1年)2月に天皇親政派の中心の経宗、惟方の逮捕を命じ、流罪してしまった。その後、経宗は天皇親政派の巻き返しで復帰している。
・このような院政派と天皇親政派の対立の中、清盛は政界を巧みに泳ぎ、両方の派と結びながら、官位をあげて行った。
1165年(永万1年)に二条天皇は2歳の順仁(のぶひと)親王(六条天皇)に位を譲り、まもなく22歳で亡くなる。そして、平滋子(しげこ)が産んだ後白河上皇の皇子、憲仁(のりひと)親王(高倉天皇)が東宮となった。
このような状況から、清盛は後白河上皇に接近していく。

平氏一門の繁栄
・平清盛の昇進にともない、平氏一門の栄達もめざましいものがあった。清盛は1167年(仁安2年)に太政大臣になり、長男の重盛は従二位権大納言となり、弟の宗盛は参議近衛中将として、公卿となり、清盛の弟の頼盛は従三位にのぼった。しばらくして清盛は重病から出家し、 1168年(仁安3年)に後白河上皇の発議で憲仁(のりひと)親王が即位して高倉天皇となり、上皇も出家して法皇となった。
・平氏は権勢を支える経済力においても、全国の荘園が500ヶ所にのぼったという。この荘園を経済基盤とするやりかたは藤原摂関家と変わらなかった。
・清盛は藤原摂関家の近衛家に接近し、娘の盛子(せいし)を忠通の嫡子基実(もとざね)に嫁した。基実は二条天皇の関白、六条天皇の摂政となったが、若くして亡くなった。基実の嫡子の基通は2歳であったので、摂政は基実の弟の基房が継ぎ、氏の長者の摂関家の所領の多くは盛子が管理するようにした。
このようにして、摂関家へも影響力をもつようになる。

平氏のクーデター
・平氏一門は権勢をほこり、専横なふるまいも多くなった。しかし貴族達は後白河法皇の後援もあるので、傍観せざるをえなかった。
・院政派と寺院とはしばしば争いが繰り返されたが、後白河上皇が法皇となり、ますます激しくなった。特に延暦寺との対立が激しくなる。これに対し平氏は清盛が天台座主明雲(みょううん)を導師として、出家したくらいの深い関係だった。
1169年(嘉応1年)に法皇の近臣の目代が日吉(ひえ)神社の神人(じにん)と争い神人を殺したことから騒ぎが大きくなった。結局法皇側がおれるかたちで収まったが、清盛側も複雑な動きをし、三者が微妙な関係となった。その後に起こった白山事件でも同様であった。
・更に、1177年(治承1年) 6月に鹿ヶ谷事件で院の近習の成親(なりちか)、西光、康頼(やすより)らが法勝寺の俊寛(しゅんかん)と反平氏の陰謀を図ったことが暴露された。関係者のうち成親と西光は殺され、康頼と俊寛などは流罪となった。しかし法皇におとがめがなかった。
・摂関家の所領を所有していた盛子が亡くなり、法皇はその所領を没収し、重盛が亡くなると知行国の越前を没収し、院領とした。
・この動きに対し、福原にいた清盛は1179年(治承3年)11月に数千騎の兵を率いて上京し、クーデターを起こした。京都に入り、関白基房をやめさせ、師家を解官し、基通を関白、内大臣、氏の長者とし、反平氏の公卿を官職を奪った。その空位に平氏一門をすえた。
・ 後白河法皇は妥協を模索したが、清盛は許さず、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した。清盛は基房を大宰権師に左遷し、師長を流罪にした。もはや中央政界で清盛に反対できる者はいなかった。
・平氏は都を軍政下とし、平氏の兵士が都を制圧していた。更に禿童(はむろ)とよばれる密偵を都に放ち反対者達を監視させた。
1180年(治承4年)2月に高倉天皇は譲位し、三歳になったばかりの言仁(ときひと)親王が即位して、安徳天皇となった。高倉上皇の院政が始まったが、実態は清盛の独裁政治だった。
・平氏一門およびその家人の受領は13か国となり、知行国と受領を合計すれば28か国となる。当時の全国66か国の半分近くが平家一門の手中にあったことになる。

平氏滅亡
反平氏の動き(地方武士・寺社の動き)
・ 平氏の支配は地方の在地領主(武士)個別的、直接的に把握して、在地領主の所領を安堵して支配するかたちではなかった。そのことは荘園も公領も、従来の摂関政治や院政と変わることがなかった。
・地方の在地領主は荘園主や国司に反抗する傾向があり。平氏は武家の棟梁として、これら在地領主を代弁代する立場から離れていった。これら在地領主の不満は反平氏として動き出したが、それを束ねるものがいなかった。
・一方、貴族社会は勢力をのばす平氏を排除したいところだが、寺社勢力の圧力に対抗するため、武士の力を必要とし、清盛以外に有力な武士がいない状態となっては清盛と妥協せざるを得なかった。
・寺社勢力は各寺社での対立と、散発的な強訴であったため、寺社勢力として力を結集することはなかったが、高倉天皇が上皇になって最初の社参の儀を京都の石清水八幡宮などではなく、厳島神社で行うとしたことで、結集することになる。

反平氏の動き(以仁王の令旨)
・このころ、後白河法皇の第二皇子の以仁(もちひと)王の名による平氏討伐の檄文が諸国の源氏の間に発せられていた。この令旨は源為義の末子で、熊野に隠れていた義盛がひそかに諸国に伝えたといわれた。
・以仁王の令旨から、平氏は以仁王に流罪を定め逮捕しようとしたが、以仁王は園城寺にのがれ、源頼政も軍勢を引き連れ、園城寺にこもった。清盛は大規模な軍勢を集め、園城寺を攻撃し、以仁王や源頼政を敗死させた。
・以仁王の挙兵を鎮圧した清盛は以前から計画していた福原に遷都した。しかし、福原には皇居の準備もなく、反対の声が大きかった。
・以仁王の令旨は東国に影響を及ぼし、伊豆の頼朝は1180年(治承4年)8月の三島大社の祭礼の日に反平氏の挙兵をした。
・伊豆の目代山木判官兼隆(かねたか)を打つことに成功したが、相模に行く途中、石橋山の合戦で伊東祐親(すけちか)等に敗れ、安房に逃れた。上総広常、千葉常胤(つねたね)らの協力で、上総、下総、武蔵を攻略し、10月には相模の鎌倉に入り本拠とした。

反平氏の動き(東国源氏の蜂起)
・8月には甲斐源氏の安田義定が駿河に攻め入り目代を破り、 9月に同じ甲斐源氏の武田信義と一条忠頼が信濃に侵入し、その後、安田義定と行動を共にして、駿河方面一帯に勢力を及ぼした。
・また、木曽の義仲は9月に挙兵し、平氏方の小笠原頼直を討って、越後に追い、信濃一帯を服属させた。その後上野に進出した。しかし頼朝との接触をさけて、北陸方面に勢力をのばす。
・その他、常陸の佐竹秀義(ひでよし)、志田義広(しだよしひろ)とか近江源氏の山本義経、柏木義兼(かしわぎよしかね)など、各地の源氏は頼朝の統制下ではなく、各自かってに反平氏の旗あげをした。しかし頼朝は清和源氏の嫡流としての権威から、反平氏の中心的存在になっていった。
・平氏は9月5日に頼朝追討の宣旨を受けて、維盛(これもり)、忠度(ただのり)などを大将軍とする大規模な軍を派遣するが、進発したのは24日後であった。頼朝も軍勢を率い鎌倉を出発した。

反平氏の動き(富士川の合戦)
・平氏軍は在地武士の多くを徴兵しようとしたが応ぜず、しかも駿河一帯を制圧し甲斐源氏は4万騎と言われ、頼朝軍も来るとの報で、戦意を失っていた。しかし富士川西岸に陣を構えた。脱落者が増え2千騎に減っていた。
・10月20日夜半、武田軍が背後に迂回しよとして兵を動かした時、水鳥が驚いて一斉に飛びたった。その羽音に敵の来襲と思い、平氏軍は大混乱となり、一戦も戦わず敗走した。
・この状況で、畿内での反乱も激しくなった。12月のはじめになると、平氏も反撃をととのえる。まず近江・美濃方面で戦ったが、苦戦をしいられた。興福寺・東大寺も不穏な動きを見せ、重衡(しげひら)を大将軍とする討伐軍が南都を攻めた。重衡は興福寺・東大寺を焼き討ちにして大仏も焼けた。
・この南都焼き討ちは、衆徒側を敗退させたが、平氏は仏敵となり寺社勢力から完全に敵対された。貴族たちも平氏から離反した。特に藤原氏は氏寺の興福寺を攻撃された怒りは強かった。

反平氏の動き(清盛の死と長良川の合戦)
・ このような四面楚歌の中、平氏は大規模な勢力立て直しを図っていた。そのさなか、1181年(治承5年)閏2月4日に清盛が高熱に苦しみながら64歳で亡くなる。
・平氏は富士川の合戦で負けてから、東海地方の防衛線を尾張の木曽川として、南都を討った重衡を大将軍として、出撃した。源氏は行家を大将軍として向け討った。閏2月10日に長良川で合戦が行われたが、平氏の大勝利で終わった。この結果、東海・東山道では平氏と源氏は軍事的に均衡状態となった。
・北陸道で、木曽義仲は頼朝との接触をさけ、信濃・越後で活動していた。平氏方の越後の城氏を破り、7月には越中・加賀・能登とを制圧し、越前をうかがう情勢となった。平氏は通盛(みちもり)・経正(つねまさ)を北陸道追討使に任じ、討伐させようとしたが、成果があがらなかった。
・このような混乱のなか、西日本では凶作となったので、戦がしばらく停滞した。その後源平両軍の戦線が動き出した。

平氏滅亡(倶利伽羅峠の合戦)

1183年(寿永2年)4月に北陸道方面の追討のため、維盛をはじめとして4万の大軍を編成して京都を出た。大軍の前に越前・加賀の在地武士は敗れ、追討軍は越中に進出した。
・5月11日に越中・加賀の国境の倶利伽羅峠で、木曽義仲はわずか5千騎による夜の奇襲攻撃で、平氏の追討軍を壊滅させた。
・義仲は勝ちに乗じ、近江を攻略し、 7月10日には延暦寺の衆徒の勢力と提携した。

木曽義仲の進路(日本の歴史7巻より)拡大可

平氏滅亡(平氏の都落ち)

・京都を守るべく、局地的に守備をしていた平氏は兵力が集まらず。 7月25日には安徳天皇を奉じて都を離れた。平氏としては地盤である西国地方にいったん逃れ勢力を回復して都に立ち帰るつもりであった。
・7月28日には義仲などの源氏が京都に入った。後白河法皇は義仲、行家を御所に召して平氏追討を命じた。8月には後白河法皇は後鳥羽天皇をたて、平氏一門二百余人の官職を解き、所領五百か所を没収した。
・その後、義仲は京都を軍政下においたが、法王、貴族たち反感もあり評判は悪かった。東国からは頼朝の軍勢が近づき、義仲はクーデターを決行し、法皇や摂政基通を幽閉した。

京都に迫る源氏勢(日本の歴史7巻より)拡大可

平氏滅亡(義仲の敗死と平氏の反撃)

・ 源氏の諸将はほとんど義仲から離反してしまい頼朝軍と呼応する態勢であった。平氏追討のため播磨にいた義仲は平氏と頼朝攻撃の共同作戦を提案したが、断られた。 1184年(寿永3年)1月20日に義仲は頼朝が派遣した範頼、義経の軍勢と近江の粟津で戦い敗死した。
・このころ平氏は勢力を回復し、美作・播磨以西は支配下においていた。更に京都で源氏同士が戦っているうちに、播磨から摂津の福原まで来て、「一ノ谷」という前線基地を構築していた。
・法皇側は三種の神器を無事に取り返すため、平氏との和平工作も進めていたが、院政の中は強固派が大勢を占め、 1月29日に平氏追討を決定した。源氏は範頼、義経の軍勢が「一ノ谷」に向けて進撃した。
・範頼の本軍は西国街道を西に進み、義経の別動隊は丹波路を迂回した。平氏は諸方面に軍勢を配置し、安徳天皇・賢礼門院ら非戦闘員は船の上に待機していた。

源義経( Wikipediaより

平氏滅亡(一の谷合戦)

・2月5日に義経軍の夜襲を受け、三草山の平氏軍[重衡の子の資盛(すけもり)・有盛・師盛(もろもり)]はあっけなく敗走した。
・2月7日に源氏は総攻撃をした。午前6時ごろから西の城戸で戦いが始まり、大手の生田の森でも合戦が始まった。8時半ごろに、義経が「一ノ谷」の背後の断崖からの鵯越(ひよどりごえ)の逆落しの奇襲攻撃をかける。
・義経による背後からの奇襲攻撃で平氏の本営は大混乱となり、火が燃え広がり、西の城戸方面が崩れたためささえきれず、平氏軍は総崩れとなる。

一の谷合戦図(日本の歴史7巻より)拡大可

平氏滅亡(屋島の合戦)
・ 戦いは正午には終わり、平氏側の戦死は千余人、残ったものを船に収容して海上に逃れた。船は福原の沖から讃岐の屋島へ行った。
・「一の谷」の合戦は源平対決の帰趨を決めるものであった。この合戦で平氏は通盛(みちもり)、忠度(ただのり)、経俊(つねとし)、敦盛(あつもり)、知章(ともあきら)、業盛(なりもり)など若手の武士を失い、重衡は捕えられ、維盛は行方をくらましてしまった。
・ 「一の谷」の合戦後、源氏は海戦になれないため、海を渡って平氏の本拠を討つことができず、半年ほど休戦状態が続いた。この間、源氏は戦いの準備をしていた。
1184年(寿永3年)9月に、平家追討として、範頼は京都から中国地方、長門と進み、平氏の抵抗のなか、翌年1月に九州の豊後へ渡った。
・一方、 1185年(寿永4年) 2月18日に義経は屋島を攻撃する。少数による暴風雨をついての出撃で、屋島の背後からの奇襲攻撃を行い、ほとんど戦わずして、平氏を海上へ追い出す。

平氏滅亡(壇ノ浦の戦い)

・彦島に集まった平氏の宗盛、知盛は最後の決戦として、豊前の田野浦に軍船を集結した。
・3月24日に壇ノ浦の決戦となった。
・戦いは早朝から始まり、潮の流れの変化をたくみに利用した源氏軍のために、平氏はしだいに圧迫され、正午には勝敗が決した。
・ 午後には安徳天皇、二位尼(清盛の妻時子)をはじめとして、平氏一門は次々と海中に身を投じた。 賢礼門院(清盛の娘徳子)は海中から救い上げられ、宗盛とその子の清宗は捕えられた。
・こうして、権勢をほこり、栄華を極めた平氏一門は滅んだ。

壇ノ浦の戦い(Wikipediaより

まとめ
年表

武家の台頭まとめ
・前九年の役
陸奥の奥六郡の郡司の安倍頼時(頼良)がその南に進出、国司も負けたため、源頼義が陸奥守として、安倍頼時と子の貞任と戦うが苦戦し、出羽の清原氏の支援で勝てた。

・後三年の役
清原氏が奥六郡を支配したが、一族で争が起き、源義家が介入、奥六郡を兄弟の家衡と清衡分けたが、兄弟が争い、義家は清衡に味方して家衡を滅ぼした。清衡が奥州藤原氏の祖となる。

・院政
後三条天皇は藤原氏の束縛がなく、積極的に摂関家排除の親政(延久の善政)を行い、白河天皇に譲位して短いが院政を開始した。その後白河法皇、鳥羽法皇が院政を行い、院政の政治が行われるようになる。

・荘園公領体制
荘園整理令により、荘園・公領の混在、荘地・公地のかさなりあい、荘公両属といった土地が整理され、荘園・国衙領の領域が分かりやすくなった。在地領主は下司とか地頭とかの荘官、または郡司・郷司・保司とかの下級官吏となって、在地支配をおこなった。更に土地開発や戦功で土地を広げ、相伝して土地を私領とし、更に戦闘集団として武力も持った。

・源氏と平氏の動き
河内源氏は義家の時代までに武勇の家として、東国に地盤を築いた。義家の後は兄弟争いなどで凋落した。それに対し平将門以後凋落の平氏は伊勢平氏の正盛が西国で力をつけ、忠盛の時代は京都においても勢力を伸ばした。

・保元の乱
崇徳上皇側は、藤原頼長、源為義、平忠正などであり、後白河天皇側は藤原忠通、平清盛、源義朝などであった。鳥羽上皇が亡くなり、合戦となったが、後白河天皇側が勝った。

・平治の乱
後白河上皇側は、信西、清盛などで、二条天皇側は藤原信頼、成親、源義朝などであった。義朝は清盛が吉野へ行っている間に挙兵したが、味方の藤原惟宗、源頼政などの裏切りで、敗れた。義朝側は多くが死罪となった。

・平清盛の進出
平治の乱後も、後白河上皇と二条天皇の対立が続き、清盛は両者の間をたくみに動き、官位をあげて行った。しかし公家の反感もあったので、最後はクーデターで政権を確立した。

・平氏滅亡
平家の独裁は各地の源氏の蜂起を促し、平氏は苦境に立つ。清盛が死んでから、義経と範頼の軍に敗れ、壇ノ浦で平氏一門は滅亡する。