■仲哀(ちゅうあい)天皇・神功皇后(じんぐうこうごう)
・倭建(やまとたける)命の流れの仲哀天皇
・神功皇后が目立って、仲哀天皇の影はうすい
・神功皇后の出自は近江国の豪族
后妃と御子 『古事記』の要点
①帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)は穴門(あなと)の豊浦穂宮(とよらのみや)、また筑紫(つくし)の訶志比宮(かしひのみや)で天下をおさめた。
②大江王(おおえのみこ)の女(むすめ)の大中津比売命(おおなかつひめのみこと)を娶って生まれた子が、香坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)である。
③また、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)を娶って生まれた子が、品夜和気命(ほむやわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)[亦の名は品陀和気命(ほむだわけのみこと)]である 。
④この皇太子の名が大鞆和気命(おおともわけのみこと)と名付けられたのは、生まれた時に、腕が鞆(とも)[左の臂(ひじ)に付ける武具]のようになっていたためである。
⑤皇后のお腹中にいるころから、天下をおさめた。そして、この御世に淡路島の屯倉(みやけ)を定めた。
仲哀天皇について
・仲哀天皇は『日本書紀』では西暦192年~200年となっているが、西暦390~410年頃と思われる。
・和風諡号(しごう)は『古事記』では帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)であり、『日本書紀』では足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)である。
・穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)(『日本書紀』も同じ)(現在の下関市)と、筑紫の訶志比宮(つくしのかしいのみや)[『日本書紀』は橿日宮(香椎宮)](現在の福岡市)にいたとある。 亡くなった年は52歳としている。
・ 陵墓について、『古事記』では「御陵(みはか)は河内の恵賀(えが)の長江にあ」と記述し、『日本書紀』では河内国長野陵とある。
・仲哀天皇陵は惠我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ) [岡ミサンザイ古墳]は全長242メートル、後円部直径148メートルである。前方部幅182メートルの前方後円墳である。
・仲哀天皇陵の所在地は大阪府藤井寺市藤井寺4丁目である。
仲哀天皇などの系図

神功皇后について
・神功皇后の時代は、『日本書紀』では西暦201年~269年となっているが、西暦390~410年頃(『古事記』と同じように仲哀天皇の時代とする)と思われる。
・ 陵墓について、『古事記』では「狭城楯列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬る」と記述し、『日本書紀』でも同じ狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬るとある。亡くなった年齢は百歳。
・神功皇后陵の沙紀盾列池上陵(さきのたたなみのいけがみのみささぎ) [五社神(ごさし)古墳]は全長273メートル、後円部直径196メートルであり、前方部幅168メートルの前方後円墳である。
・神功皇后は『日本書紀』では天皇なみに神功皇后紀として扱っている。
また、記紀では天皇としていないが、『常陸(ひたち)国風土記』は「息長帯比売(おきながたらしひめ)の天皇(すめらみこと)」と記しており、『扶桑略記(ふそうりゃくき)』(平安時代に作られた私撰歴史書)は、神功皇后を第15第の天皇とし、「女帝これより始まる」と記している。
・ 『日本書紀』の神功皇后紀39年に『魏志倭人伝』の引用として景初3年に倭の女王が大夫を帯方郡へ遣(つか)わしたとあり、それに続いて40年[正始元年] 、43年[正始4年]に記述がある。
神功皇后の系図

天之日矛から葛城高額比売の系図

神功皇后の出自
・系図で、神功皇后は第10代開化天皇の5代の孫であるとしており、母は葛城高額比売(かずらぎのたかぬかひめ)としている
・この葛城高額比売は天日槍(あめのひぼこ)の5代の孫となっており、新羅の王子の子孫なのである。
・神功皇后の父の息長(おきなが)は近江国坂田郡(滋賀県酒田郡近江町)を本拠とする古代の豪族である。
・一方、日子坐(ひこいます)王と息長水依(おきながのみずより)比売の系統は四道将軍の丹波比古多多須美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)に繋がる。

■神功皇后の新羅遠征
・朝鮮半島との関係、九州の足跡
西を攻めよとの神託 『古事記』の要点
①天皇が筑紫(つくし)の訶志比宮(かしひのみや)に居て熊襲(くまそ)を撃とうとした時に、天皇が琴を弾き、建内宿禰大臣(たけうちのすくねのおおおみ)が神託を請い求めたとき、皇后の息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)が神がかりした。
②「西の方に国がある。金銀をはじめたくさんの宝物がある。私はその国を服属させてあげようと思う」と言った。
③ところが天皇は「高いところに登って西の方を見ると、国土は見えず、ただ大海があるだけだ」と言って、いつわりを言う神だと思い、琴を弾くのをやめた。
④するとその神がひどく怒って、「この天下(あめのした)はそなたがおさめる国ではない。そなたは黄泉の国へ行くべきだ」と言った。
⑤建内宿禰は「おそれ多いことです。やはり琴をお弾きください」と言った。そこで天皇はしぶしぶ、琴を弾いたが、間もなく琴の音が聞こえなくなった。火を灯(とも)してみると、天皇は亡くなっていた。
⑥そこで建内宿禰が国家的な大祓(おおはらえ)の儀式をして、改めて神託を求めると、「皇后のお腹いる御子は男子で、この国はその御子が統治すべきだ。そうして、神を祀って海を渡るべきだ。」と言った。
新羅遠征 『古事記』の要点
①そこで、皇后は、すべて、神が教えさとしたようにして、軍勢を整え、船を並べて海を渡って行った。
②海原の魚はその大小を問わず、ことごとく船を背負って進んだ。そして、順風が吹き、波に従って進んだので、新羅の国の半分にまでに押し上がった。
③そこで、新羅の国王が畏れをなして、「今後は天皇のご命令のとおりに従い、御馬飼(みまかい)となって、毎年船を並べ、天地の続く限り貢物(みつぎもの)をたくさん奉り、お仕えします」と言った。
④こうして、新羅の国は馬飼と定め、百済の国は海を渡った屯家(みやけ)と定めた。 そこで、皇后は新羅の国王の住まいの門に杖を立て、住吉の神を以て、守護神として祭って、還った。
⑤これらが終わらないうちに、皇后のお腹の中の御子が、生まれそうになった。そこで皇后はお腹をしずめようとして、石を取って御裳(みも)の腰に付け、出産を抑えて、筑紫の国へ還られて御子をお生みになった。
⑥その地を宇美(うみ)と言い、御裳につけた石は筑紫の国の伊斗村(いとのむら)にある。
⑦また、松浦県(まつらのあがた)の玉島里(たましまのさと)で、御裳の糸を抜き取り、鮎を釣った逸話もある。
神功皇后の新羅遠征
・戦前の皇国史観と戦争中の戦意高揚の動きと重なり、神功皇后は新羅征伐の英雄から軍国の象徴として祭り上げられた。
・そして戦後は180度方向が変わり、古代の天皇の存在を認めないこと、特に、神功皇后の記述が神話的なことが多いなどから、神功皇后を架空の存在とするようになった。
・しかし、4世紀末の国際情勢を反映していることや、神功皇后の母方が新羅系であったこと、更に神功皇后の九州伝承地などを考えると、神功皇后の実在を認めてもいいのではないか。

・『古事記』には記載れていないが、『日本書紀』では仲哀天皇の熊襲(くまそ)征伐に、神功皇后が同行し、仲哀天皇が亡くなった後、神功皇后が九州の各地を訪れたとしている。
・香椎宮(かしいのみや)から、層増岐野(そそきの)にいき、羽白熊鷲(はじろくまわし)を殺したとある。
・神功皇后伝承地は北部九州で3000ヶ所、福岡県だけで750ヶ所となる。
・また神田を定め、那珂(なか)川の水を引いて、神田に入れようとして、雷により岩を踏み裂いて水を通じさせた。これを裂田溝(さくたのうなで)という。
■神功皇后の大和制圧
・忍熊王(おしくまのみこ)の反逆を討つ
忍熊王(おしくまのみこ)の反逆 『古事記』の要点
①息長帯比売命(おきながたらしひめ)[神功皇后]が大和に帰る時に、反逆の心を抱いているのではないかと考え、喪船(もふね)を用意して、御子を乗せ、「御子、すでに亡くなった」と言い洩らさせた。
②香坂王(かごさか)と忍熊王(おしくま)はこれを聞いて、皇后を待ち受けて討ち取ろうと、斗賀野(とがの)に進出して、占いの狩りをしたところ、香坂王は大きな猪(いのしし)に殺された。
③弟の忍熊王はこれにひるまず、難波の吉師部(きしべ)の祖の伊佐比宿禰(いさひのすくね)を将として軍勢を起こし、皇后を待ち受けた。皇太子は丸邇臣(まるにのおみ)の祖の難波根子建振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)を将として、山代(やましろ)で戦った。
④しかし勝敗が付かなかったので、建振熊命(たけふるくまのみこと)が計略をもって、皇后は既に亡くなったので、戦うことはないと言い触らして、弓の弦(つる)を切って降伏した。
⑤敵がこれを信じて、弓の弦を外して、武器をおさめたので、建振熊命の兵は髻(もとどり)から用意してあった弦(つる)を取り出し、弓を張って追撃した。その結果、逢坂(おうさか)まで追い、楽浪(ささなみ)に追い詰めた。そこで忍熊王は追い詰められ、淡海(あわうみ)[琵琶湖]に身を投げて死んだ。
忍熊王(おしくまのみこ)の反逆
・『古事記』の記述の系図では、景行天皇の孫にあたる大中津(おおなかつ)比売命と、開花天皇の五世の孫の神功皇后と比較すると、大中津比売命の方が天皇家の血筋が濃い。
・しかし、迦具漏比売(かぐろひめ)命は若建王(わかたけるのみこ)の孫にあたり、若建王は倭建(やまとたける)命の子だから、景行天皇は倭建命の曾孫(ひいまご)を娶ったことになり、年齢的にありえない。この迦具漏比売命については、まったく別人の伝承があり、出自があやしい。結果として景行天皇の孫でも大中津比売命のランクが落ちるのではないか。
・だから、神功皇后の御子(応神天皇)が跡継ぎになったのは、血筋的には上と思ている香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)が母方の出自が悪いだけで跡継ぎなれなかたことに不満があったのではないか。
・戦の展開、建振熊命(たけふるくまのみこと))の計略など、策略をもった戦いが記されている。大和を制していた忍熊王(おしくまのみこ)に勝利するのは容易ではなかったと思われる。
・ 『日本書紀』では、応神天皇が逆賊を撃つにあたり、将軍の建振熊命(たけふるくまのみこと)[ 『日本書紀』は武振熊命]より建内宿禰(たけうちのすくね)[『日本書紀』は武内宿禰]の方が将軍として活躍している。
気比大神(けひのおおかみ) 『古事記』の要点
①建内宿禰(たけうちのすくね)が、皇太子を連れて禊(みそぎ)をしようとして、近江、若狭の国を経て、越前の角鹿(つぬが)[敦賀(つるが)]に仮宮を造って、そこに皇太子を住まわせた。
②ところが、そこに鎮座していた伊奢沙和気大神命(いざさわけのおおかみのみこと)が夜の夢に現れ、「私の名を御子の名に変えたいと思う」と言った。
③そこで、「恐れいりました。仰せのとおり、名を頂いて、名を変えましょう」と申し上げた。
④するとその神は「明日の朝、浜に出てきなさい。名を変えたしるしに贈り物を進ぜよう」と言った。
⑤そこで、皇太子が浜に行ってみると、鼻の傷ついた入鹿魚(いるか)[海豚(いるか)]が浦いっぱいに集まっていた。これを見て、「神が私に食料の魚を下さった」と言って、その神の名をたたえて御食大神(みけつおおかみ)と名付けた。今の気比大神である。
⑥また、その入鹿魚の鼻の血が臭かったので、血浦(ちうら)と言ったが、今は角鹿(つぬが)と呼んでいる。
気比大神
・応神天皇が皇太子の時代に伊奢沙和気大神(いざさわけのおおかみ)命と名を交換し、伊奢沙和気大神命から入鹿魚(いるか)[海豚(いるか)]を献じられた話がある。
・『日本書紀』でも、神功皇后紀で応神天皇が皇太子の時に筒飯大神(けひのおおかみ)にお参りしやことが書かれているが、名の交換、入鹿魚(いるか)の話は無い。
・現在の気比神宮は本殿(本宮)に伊奢沙別命(いざさわけのみこと)、仲哀天皇、神功皇后を祀る。
・そして、四社で日本武尊(やまとたけるのみこと)[『古事記』倭建命]、応神天皇、玉姫命(たまひめのみこと)[『気比宮社記』では神功皇后の妹の虚空津比売命(そらつひめのみこと)]、武内宿禰命[『古事記』建内宿禰] を祀る。
・入鹿魚(いるか)を献じた話からも、伊奢沙別命は『気比宮社記』では「保食神(うけもちのかみ) 」とも記され、食べ物に関連した神のようだ。
・気比大神は大和朝廷に関連した神というより、敦賀地方の神であり、神功皇后、応神天皇との関係、更に天日槍の話など、朝鮮半島との関係があったのかもしれない。
酒楽(さかくら)の歌 『古事記』の要点
①御子が都に帰って来た時、その母の息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)[神功皇后]は、御子を祝福して、待酒(まちざけ)を造って、御子に献(たてま)つった。
②その時に息長帯比売命は歌で「この御酒(みき)は酒の支配者である。常世(とこよ)の国に居る少名御神(すくなみのかみ)[少名毘古那神(すくなびこなのかみ)]が、大いに祝福して、踊りまわって醸(かも)した御酒です。すっかり飲み干してください。さあさあ。」と言った。
③このように歌って、御子に御酒をすすめた。そこで、建内宿禰(たけうちのすくね)が、御子に代わって、「この御酒を醸した人は、その鼓(つづみ)を臼(うす)のように立て、その周りを歌い踊りながら醸したのであろう。たいそう味が良くて楽しい。」と言った。
④およそ、仲哀天皇は五十二歳で、壬戌(みずのえいぬ)の年の六月十一日に亡くなった。陵墓は河内国の恵賀(あが)の長江(ながえ)にある。
⑤皇后は百歳で亡くなり、狭城(さき)の楯列陵(たてなみのみささぎ)に葬られた。
■東アジアの情勢
・朝鮮半島[高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)]との関係
・更に倭と関係の深い伽耶(かや)について考える
・衛氏朝鮮(えいしちょうせん)はBC194年ごろに、朝鮮半島北部に建国された。衛氏は中国の燕(えん)の出自であるとされている。
・漢の武帝がBC108年に衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪(らくろう)郡、真番(しんばん)郡・臨屯(りんとん)郡・玄菟(げんと)郡の四郡を置き、400年続いた。
・中国の支配が及ばない南に馬韓(ばかん)、辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)があった。
・夫余(ふよ)系[満州系]の高句麗(こうくり)の南下から、4世紀中には馬韓が百済、辰韓が新羅となった。
・一方、弁韓は一時的に、金官伽耶(きんかんかや)などがまとめた。しかし小国の集まりで、倭に支配された時期もあったが、6世紀中ごろ、百済や新羅に併合された。
・その後の7世紀に、中国の唐が百済、次に高句麗を滅ぼす。この戦いに唐側として参戦した新羅が朝鮮半島を統一する。

高句麗の広開土王碑文
・広開土王(こうかいどおう)[好太王ともいう](374~412、在位391~412)は、古代の朝鮮半島から中国東北地方にかけて栄えた高句麗の第19代の王で、18歳の時に王位を継ぎ、百済を攻めて、漢江以北の地を奪い、396年に再び、百済を攻め、日本・百済の連合軍を破って、百済の王都に迫った。かくして、朝鮮半島の大部分を支配下におさめた。
・あとを継いだ長寿王(ちょうじゅおう)[高璉(こうれん)]により、広開土王の死後2年(414年)に、広開土王の功績を記した石碑が鴨緑江岸の通溝に立てられた。この広開土王碑は高さ6.3メートル、碑文は4面にきざまれ、41字詰め44行、約1800字である。
・広開土王碑によれば、下記の記述(要約)がある。
391年:倭は海を渡って来て、百済・新羅を破って、臣民とした。
399年:百済が高句麗を裏切り、倭と同盟した。
400年:倭軍は新羅中の城を占領していたが、高句麗がこれを破った。
404年:再び倭軍が、帯方を越えて来て、百済と一緒に石城を占領した。
407年:高句麗は倭軍と同盟する百済軍を討ち破り、鎧1万余領を捕獲した。
当時の日本と朝鮮の関係
・日本文献の記述
『古事記』『日本書紀』の記述
日本軍が、「新羅の王の門」にまでいたったと記している。『風土記』『万葉集』『続日本紀』『古語拾遺』その他古代の史書は、こぞって新羅進出に関係する記事をのせている。
・「広開土王碑の碑文」の記述
391年~407年に、倭が朝鮮半島を攻めた記述がある。
・『三国史記』の記述
393年に、「倭人が、金城(新羅の王城)を包囲して、五日も解かなかった」と記している。
402年に、「王子未斯欣が、倭の質になった」と記している。
これらを総合すれば、日本側の史書と、朝鮮側の史書とが、一致して記しているのであるから、391年~407年ごろに、日本側が新羅の王城にまで至ったことは、事実のようである。
この時代が神功皇后の時代390~410年と一致する。
中国からの爵号
・仲哀天皇から2代後の仁徳天皇(倭王珍)の時に宋からの爵号を受ける。[『宋書』「倭国伝」、『南史』(倭国伝)421年~438年]
みずから「使持節・都督・倭 百済 新羅 任那 秦韓(辰韓 ) 慕韓(馬韓) 六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」と称し、「安東大将軍・倭国王」の爵号を受けた。
・百済の腆支王(てんしおう)王は416年に東晋から「使持節・都督・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王」の爵号受けた。軍事支配権のおよぶ範囲は、百済だけとなっている。
・高句麗の長寿王(高璉)は413年に晋から「使持節・都督・営州諸軍事・征東将軍・高句麗王・楽浪公」の爵号を受ける。楽浪も勢力圏に入っていることが分かる。
5世紀初め頃の朝鮮南部、百済、新羅、高句麗の勢力範囲
・倭:朝鮮半島の南部に任那、加羅、秦韓、慕韓、などを勢力範囲としていた。
・新羅:半島東の地域で範囲はまだ小さい
・百済:三国時代の馬韓の全羅南道(ぜんらなんどう)をのぞく地。
・高句麗:遼東半島の地と、南満州、朝鮮半島の北部、および営州、平州の地。

朝鮮半島の国々と日本の関係
・「戦闘および不和」の文脈であらわれる「倭」とは、たとえば、「新羅本紀」のなかから、
「倭兵が大挙して攻めてくる……。」
「倭人は、大いに敗れて逃走した。」
「倭人が来て、金城を包囲して、五日も解かなかった。」
「倭兵が、明活城(慶州付近)に攻めてきて、勝てずして帰るところを、王が騎兵をひきいて、独山(迎日郡)の南で迎撃して、ふたたび戦ってこれを破り、三百余名を斬殺した。」
「倭人が、東辺をおかした。」
「倭人と風島で戦ってこれに撃ち勝った。」
・「戦闘および不和」の文脈以外のなかであらわれる「倭」は、ほとんど、「百済本紀」のなかにあらわれる。
「王は、倭国と友好関係を結び、太子の腆支(てんき)[直支(とき)]を人質にした。」
「使者を倭国に遣わして、大きな珠を求めた。」
「倭国の使者が来たので、王は、彼を迎えて、慰労し、とくに厚く遇した。」
「[王が薨(こう)じ]腆支太子は、倭国において、訃報を聞いて、哭泣(こっきゅう)しながら、帰国を請うた。倭王
は、兵士百名をともなわせて、護送してくれた。」
このように、倭、新羅、百済、高句麗の国際関係を示す、この図から倭と新羅の関係は友好より、敵対関係であったことが分かる。それに対し百済とは友好的であったことが分かる。
注1:黒帯は戦闘or不和、グレー帯はその他 注2:数字は文献の件数

伽耶地方
・伽耶(かや)は別に加羅(から)、加良、駕洛と書かれる。日本では任那(みまな)とも言われ日本府で良く知られている。
・3世紀ころ『魏志倭人伝』の韓伝で弁韓(伽耶地方)、辰韓を弁辰と呼び小国に分かれていた。
・4世紀ごろ、金海地方の狗邪韓国(くやかんこく)が成長して金官伽耶(きんかんかや)が起こり、倭の進出に合わせて勢力をのばした。
・高句麗の長寿王の南下で、百済が圧迫され、百済は南の伽耶地方に進出、新羅も西の伽耶地方を攻める。倭の勢力の減退もあり、伽耶地方は衰退する。
・金官伽耶は百済の進行に対抗するため、新羅と同盟しようとしたが、かえって、532年に新羅によって滅ぼされた。554年に百済が新羅破れ、562年に伽耶諸国も新羅によって滅ぼされた。

鉄鋌(てってい)[ねりかね]
・『魏志』の弁辰の条で「國出鐵、韓、濊、倭皆從取之[国、鉄を出す。韓・濊(わい) ・倭みな従ってこれを取る]」とある。
・『日本書紀』の「神功皇后紀」46年に百済王が、日本の使臣に「鉄鋌(ねりかね)40枚」を与えたとある。
・5世紀初頭の畿内の古墳で多数の鉄製武器類を副葬するようになる。
・神功皇后陵がある佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群の東群に属する宇和奈辺(うわなべ)古墳の陪塚から多量の鉄が出土した。(大型282枚、小型590枚) 。
・鉄鋌は、新羅の慶州にある金冠塚からも多量に出土している。

・『日本の考古学Ⅳー古墳時代』〈上〉所収、河出書房新社刊において、森浩一・石部正志両氏は、この鉄と佐紀盾列古墳群の関係について次のように述べる。
五世紀初頭を中心にした約一世紀間に構築された畿内の大古墳のうちで、多数の鉄 製武器類を副葬する例は、河内の古市誉田古墳群、和泉の百舌鳥古墳群がとくに顕著 である。
大和では、河内・和泉ほどではないが、おなじ傾向がこの佐紀古墳群と馬見 古墳群にあらわれている。南朝鮮に鉄の産地があったことは『魏志』の東夷伝弁辰の 条(「国鉄を出す。韓・濊・倭みな従ってこれを取る、……」)にうかがうことができる ので、大和勢力の南鮮出兵の盛衰が古墳に副葬された鉄素材や鉄製品の増加や減少の 傾向に関係があるとすれば、奈良盆地の古墳群のうちでも、この佐紀古墳群は南鮮出 兵に関与したか、出兵の影響を直接につよくうける集団の古墳群と想定したい。
七支刀(しちしとう)
・『日本書紀』の「神功皇后紀」52年に、七枝刀(ななさやのたち)が百済の王から 贈られたと記されている。
・奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に 伝えられてきた七支刀(しちしとう)がある。
・七支刀には金象嵌(ぞうがん)の銘文が記されているが、かなり腐食しているので文字の判別がしにくくなっている。
裏:先世以来未有此刀百済王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世
聖の次の文字の読み方が問題となる。
これを「聖晋」と解釈した場合、 「聖晋」は古代朝鮮語で王子を意味する「セシム」と読める。

七支刀が造られた泰和(たいわ)四年(369年) は、第13代「近肖古王(きんしょうこおう) 」(346~375)の治世であり、次の王「近仇首王(きんきゅうしゅおう)」(375~384)が王子の時代に当たる。
近肖古王(きんしょうこおう)の王子の名は次のように記されている。
・『三国史記』の「近肖古王」の条:「仇首(きゅうしゅ)(クスワン)」
・『日本書紀』の神功皇后紀:「貴須(くるす)」
・『日本書紀』の欽明天皇紀:「貴首(くいしゅ)」
すなわち、七支刀は「百済王の世子である貴首(仇首)王子が倭王に贈ったもの」と解釈すべきである。また、泰和四年(369年)は、おおよそ、垂仁天皇の時代である。

『古事記』と『日本書紀』の記述の違い

古事記と日本書紀の表記比較 上段が『古事記』下段が『日本書紀』

