1.03.謎の四世紀

                                      Rev02.2025.3.5
何故謎の四世紀か? 
中国の文献
238年 卑弥呼、魏に遣使(『魏志』倭人伝)
243年 卑弥呼、魏に遣使(『魏志』倭人伝)
266年 倭の女王、西晋に遣使(晋『起居(ききょ)注』)
 この間が謎の四世紀
413年 倭王讃、東晋に遣使(『南史』 『倭国伝』 )
425年 倭王讃、宋に遣使(『梁書』 『倭伝』 )

266年413年の約150年間、中国の文献から倭の情報が無い。そのため、この時代は、謎の四世紀(空白の四世紀)と呼ばれる。
しかし、日本の文献では『日本書紀』『古事記』にこの時代の記載があるので、謎の四世紀とは言えない。
戦後の考古学会では戦前の皇国史観が否定され、『日本書紀』『古事記』の記述を認めなくなった。歴史を知るには日本の文献も必要である。

謎の四世紀前後の東アジア年表



4世紀の日本の天皇は誰なのか?


世界の王の平均在位年数から考える
・日本では、江戸時代からの「17世紀~20世紀」の400年のあいだに即位した天皇は、17天皇いて、その、のべの在位期間は、379年間ということである。もちろん、一人一人の天皇をとれば、在位年数の長かった天皇も存在するし、短かった天皇も存在する。しかし、400年間のように、長い期間の平均値をとれば、一定の傾向がみてとれる。それは、古代にさかのぼるにつれ、平均在位年数が、短くなる傾向である。
・17世紀~20世紀の天皇の平均在位年数は、昭和天皇のように長く在位した人もふくめて、22.29年であった。これに対し、5世紀~8世紀ごろの平均在位年数は、その半分以下の10.88年となっている。
・同様のグラフを、東京創元社刊の『東洋史辞典』『西洋史辞典』にもとづき、「中国の王」「西洋の王」「世界の王」という形でまとめれると、「中国の王」のばあいも、「西洋の王」のばあいも、「世界の王」のばあいも、「日本の天皇」のばあいと、同じような傾向がみとめられる。すなわち、古代にさかのぼるにつれ、平均在位年数が、短くなる傾向がみられる。

邪馬台国の会HP第387回より

雄略天皇以前の天皇の年代を推定する

邪馬台国の会HP第387回より


上のグラフから、4世紀より前の天皇の年代を推定する
・第21代雄略天皇から第50代桓武天皇までの期間を見ると、315.5年の期間に29代の天皇が在位し、天皇一代の平均在位年数は10.88年である。
・崇神天皇は、雄略天皇より11代前の天皇なので、天皇一代の在位期間約10.88年で計算すれば、雄略天皇よりも約120年前の天皇であり、358年ごろ在位した天皇ということになる。

4世紀に当てはまる天皇を安本美典氏による天皇1代10年説による4世紀の天皇を列挙する。
・第2代天皇~第9代天皇
綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化天皇は欠史八代と言われるが、『日本書紀』の年代は BC.571年BC.98年となる。
これを天皇1代10年説から計算すると、297年343年になる。

・第7代以降の天皇          『日本書紀』の年代
(第10代)崇神天皇(342年357年)[BC.97年BC.29年
(第11代)垂仁天皇(357年370年)[BC.29年70年
(第12代)景行天皇(370年386年)[71年131年
(第13代)成務天皇(386年390年)[131年192年
(第14代)仲哀天皇(390年~           [192年200年
      神功皇后      410年)[200年270年
(第15代)応神天皇(410年425年)[270年310年

『日本書紀』は年代を古くしている。
今回は崇神天皇から神功皇后について扱う

崇神天皇から神功皇后の系図

①神武天皇~崇神天皇系図(『日本書紀』より作成) 

②崇神天皇~応神天皇系図(『日本書紀』より作成) 

欠史八代
欠史八代とする理由

・事績記事の欠如
第2代綏靖(すいぜい)天皇から第9代開化天皇までの各天皇について、『古事記』『日本書紀』に系図的な記事の記載があるのみで、事績についての記載がない。

・後世的な名前
第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの名前が後世的である。

・父子継承
神武天皇から開化天皇までの9代の天皇は、みな、父子の関係にある。皇室の系譜としてほぼ確かな応神天皇以後では、7世紀に至るまで、皇位の継承は複雑で、父子継承というような単純なものではなかった。これは、皇位継承法が、中国の相続法の影響を受けて変化してきた7世紀に設定したものではなかろうか。

・古い時代の伝承の信憑性
那珂通世(なかみちよ)の年代論によると、神武天皇は西暦紀元前後の人となり、『古事記』『日本書紀』の成立まで700年もの年月が経過している。文字も暦も知らなかった日本人が、そのように昔のことをどのていど記憶していたか疑わしい。 

初期天皇は存在したか?

第二代の綏靖天皇から第九代の開化天皇にいたる八代については、『古事記』、『日本書紀』で皇室の系図的な記事があるにとどまる。その事跡については、記されていないので、存在が疑わしいとする説がある。

①天皇の系譜は重要
・帝紀とは大事なことで、古代では、天皇と血筋が濃いことが尊いことになる。そのため天皇の系譜は『古事記』に整理する必要があった。帝紀は国家の中心である。帝紀はもともと系譜的記載だけのものである。
・七、八代にとどめず、更に十数代を加えれば、在位年数が不自然に長くなることも無かったのにそれをしなかったのは、帝紀を尊重したためである

②后妃について
・天皇の母になった女性は58人いる。古い時代は在地豪族の娘との結婚が多く、その後は皇族の娘が多くなる。10代の崇神天皇以後では皇族の娘との結婚が増えている。もし、『古事記』、『日本書紀』が、6、7世紀頃に机上で作ったならば、古代の天皇も皇族との結婚にすれば良いが、そうなっていない。

③都の所在地について
『古事記』、『日本書紀』、『続日本書紀』、『延喜式』に記されている古代天皇の都の所在地は
・第1代神武天皇~第9代開化天皇までの都は葛城郡に多い。
・第10代崇神天皇~第43代元明天皇までの都は磯城郡に多く、奈良県以外も少なくない。

④陵墓の所在地について
・第1代神武天皇~第9代開化天皇までの陵墓は高市郡と葛城郡に存在。
・第10代崇神天皇~第43代元明天皇までの陵墓は添(そふ)郡、磯城郡(8例)、
に多くなり、大阪府(15例)になる。尚、高市郡と葛城郡にも8例ある。
これも第1代~第9代の天皇が、後につくられたものであるなら、大阪府に多くあってしかるべきである。

⑤陵墓の築かれた地形について
・初期は自然の丘陵が多い
邇邇芸の命は日向の可愛之山稜
火遠理の命は日向の高屋(たかや)山上陵
鵜葺草葺不合の命は日向の吾平山(あひらやま)上陵
など、山にあり、第1代神武天皇~第9代開化天皇までは山や岡や坂の一部を利用して築かれたとする記述がある。
・その後は平地に降りてくる。
初代の天皇の陵墓の記述が後代につくられたものであるなら、後代と同じ原や野に陵墓が築かれたとする記述が多くてもよいのだがそうなっていない。

旧辞的部分の有無と天皇の実在性
帝紀的部分だけがあって、旧辞的部分を全く欠いている天皇の一覧表

邪馬台国の会講演資料より作成

・「帝紀的部分だけがあって、旧辞的部分を全く欠いていること」を、古代の諸天皇非実在 説の根拠にしようとすると、論理のすじが、ほとんど通らなくなってしまう。
・『古事記』全体から、「帝紀的部分だけがあって、旧辞的部分を全く欠いている」のは、第二代の綬靖天皇から、第9代の開化天皇までの八代の天皇だけではない。上表の各天皇も帝紀的部分だけがあって、旧辞的部分を全く欠いている。したがって、「旧辞的部分を欠いていること」が、その天皇の、「造作」されたことの基準になると定めたならば、用明、崇峻、推古など、多くの天皇の存在も、また、否定しなければならなくなる。

古代の帝紀は後世の造作ではない
東京大学教授であった坂本太郎氏は論文「古代の帝紀は後世の造作ではない」で次のよう に述べている。
・古代の歴代の天皇の都の所在地は、後世の人が、頭のなかで考えて定めたとしては、不自然である。古伝を伝えたものとみられる。第5代から見える外戚としての豪族が、尾張連(おわりむらじ)、穂積臣(ほずみの おみ)など、天武朝以後特に有力になった氏でもないことは、それらが後世的な作為のよるものではないことを証する。
・ 天皇の姪とか庶母(ままも)(父帝の妃)とかの近親を妃と記して平気なのは、近親との婚姻を不倫とする中国の習俗に無関心であることを示す。

東洋史学者、植村清二氏は、崇神天皇以前の天皇は最初から帝紀に記載されていたもので、それは古い伝承であると次のように述べる。
・初期の系譜的記事のすべてが、机上で制作されたと考えるのは、古人の構想力を高く評価しすぎるものである。
・帝記はもともと系譜的記載だけのものである。『古事記』『日本書紀』の原型は、帝記に、旧辞が加わってできたと考えられるから、旧辞の物語が欠けていたとしても、それは、帝記を疑う理由とはなりえない。

崇神天皇の時代
・崇神天皇は『日本書紀』ではBC.97年29年となっているが、342年357年と思われる。
・和風諡号(しごう)は『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)である『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。
・東洋史学者の江上波夫氏は『騎馬民族征服王朝説』で任那(ミマナ)を直轄支配していたことを示す証拠としているが、『日本書紀』の垂仁天皇の条でこの「みまき」から朝鮮半島の「みまな(任那)」を命名したとある。
・また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。御肇國天皇のことから、初代の天皇ではないかとの説もある。
・『日本書紀』 『古事記』の記述では、崇神天皇は「山辺の道の上の陵に葬りまつる」とある。

斎藤忠氏(東大教授だった)
「今日、この古墳(崇神天皇陵古墳)の立地、墳丘の形式を考えて、ほぼ四世紀の中頃あるいはこれよりやや下降することを考えてよい。」
「崇神天皇陵が四世紀中頃またはやや下降するものであり、したがって崇抻天皇の実在は四世紀の中頃を中心とした頃と考える……。」

川西宏幸氏(筑波大教授だった)
円筒埴輪の編年にもとづき、崇神天皇陵古墳の時期を、西暦360年~400年に位置づけて

森浩一著作集の第1巻『古墳時代を考える』(新泉社、2015年刊)
「崇神陵の構築年代は、四世紀中頃から後半とするのが妥当てある。」

関川尚功氏(橿原考古学研究所) 『季刊邪馬台国』42号、1990年刊)
崇神天皇陵古墳の築造年代を四世紀後半~五世紀初頭とする(「大型前方後円墳の出現は、四世紀である」


前方後円墳の形状

邪馬台国の会HP第424回より作成

・前方後円墳は時代が下がるにつれ、後円部に比し、前方部が相対的に発達する。

横軸(x軸):前方部の幅後円部の直径

縦軸(y軸):前方部の幅墳丘全長

・多くの代表的な古墳をxーy座標上にプロットする(下図参照)。

・時代の新しい古墳は右上の方に、古い古墳は左下にくる傾向がある。

前方後円墳の築造年代推定図

邪馬台国の会HP第424回より 拡大可

4~6世紀の古墳の特徴

邪馬台国の会HP第424回より

崇神天皇と大吉備彦の古墳

・孝霊天皇の系譜である大吉備津彦命は吉備に遣わされた。吉備の墓と伝えられる、岡山県の中山茶臼山古墳がある。

・崇神天皇陵とされる古墳と中山茶臼山古墳と比較すると、寸法が1/2で相似形である。

・崇神天皇の時代の中国は東晋の時代で、崇神天皇陵古墳の長さは晋の単位で丁度千尺である。当時の日本では正確な寸法で古墳を築造できる技術を有していと思われる。

・吉備の中山にある中山茶臼山古墳は大吉備津彦の命の墓であると伝えられている。

邪馬台国の会HP第391回より

崇神天皇と四道将軍

邪馬台国の会講演資料より拡大可

・ 『日本書紀』では崇神天皇の10年に四道将軍を各地に派遣したとされている。

・この四道将軍は皇族将軍であり、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇の時代の皇族となる。

・神武天皇から、崇神天皇の時代になり、各地を制圧する必要から、各地に軍隊を派遣したことが考えられる。

・「道」は現在の「北海道」のように、行政単位であり、単なる「道」ではない。

『日本書紀』による四道将軍

北陸(道)[若狭(わかさ)、高志(こし)](若狭、加賀、能登、越前、越中、越後
 大彦命(おおびこのみこと)

東海(道)[伊賀、伊勢、志摩、尾治(おわり)、三川(みかわ)、遠淡海(とうとうみ)、駿河、伊豆、甲斐、相武、无耶志、(むさし)、安房(あわ)、総(ふさ)、日高見(ひたかみ)]
   (伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸
 武渟川別(たけぬなかわわけ)

西海(道)[針間(はりま)、吉備(きび)、安芸(あき)、周芳(すおう)、長門(ながと)]
   (播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門
   注:西海道は九州であるが、崇神天皇の時代は山陽道と考えられる。
 吉備津彦(きびつひこ)

丹波山陰道)[旦波、多遅摩(たじま)、稲羽、伯伎、出雲、石見、隠岐]
   (丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐
 丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)

『古事記』による派遣
孝霊(こうれい)天皇の代に、吉備へ派遣
 大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)
 若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)

崇神天皇の代に、
 高志道へ派遣:大毘古命(おおびこのみこと)
 東方十二道へ派遣:建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)(大毘古命の子)
 旦波派遣:日子坐王(ひこいますのみこ)(開化天皇の子、『日本書紀』表記:彦坐王)

崇神天皇の時代では三道派遣の説話になっており、『日本書紀』と『古事記』の記述が違っている。

地図は邪馬台国の会講演資料より(行政区の漢字は古い表記)拡大可

大彦の命(大毘古命:『古事記』の表記)
・北陸道へ遣わされた大彦の命の墓(大彦の命の墓は二箇所が比定されている)
①川柳(せんりゅう)将軍塚古墳
長野県長野市の千曲川をのぞむ標高480mの山頂に立地した全長90mの前方後円墳。この墳墓は4世紀型古墳群の中で、崇神天皇陵に比較的近い時期のもの。
27面もの鏡が出土したことでも知られている。

②御墓山(みはかやま)古墳
三重県伊賀市の上野盆地の北東隅にある全長188mの前方後円墳。
造営時期としては5世紀初頭が考えられる。

・大彦の墓として、どちらを考えてもおかしくない。
・大彦の命の系図
・本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)に大彦命の系図があり、阿部朝臣、安部氏が子孫となる。

天照大神・倭大国魂神
・『日本書紀』の崇神天皇6年の時に宮中に祀っていた天照大神・倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)の二神の勢いを恐れて、
・天照大神を豊鍬入姫(とよすきいりびめ)命に託して、大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀った。
・また、倭大国魂は渟名城入姫(ぬなきいりびめ)命に預けて祀ったとある。
・天照大神の話は八咫の鏡を伊勢に祭った話につながる。
・渟名城入姫命は髪が落ち、痩せて、倭大国魂を祀ることができなかった。
・この話は大田田根子(おおたたねこ)に大物主の神を祀らさせる話に関係して、倭大国魂は市磯長尾市(いちしのながおし)が祀る。
・大田田根子は崇神天皇に誰の子かと聞かれ、父は大物主の大神、母は活玉依毘売(いくたまよりびめ)で『陶津耳(すえつみみ)』の娘とこたえている。

景行天皇(日本武の尊の活躍)

倭建命および吉備の武彦命の東征経路

倭建命および吉備の武彦命の東征経路
(邪馬台国の会HP第331回より作成)拡大可

・吉備の武彦命が越国
(こしのくに)へ派遣された話は、『日本書紀』に記されているが、『古事記』にはない。

・倭建命(やまとたけるのみこと)は尾張(おわり)の美夜受比売(みやずひめ)のもとに行ってから、東国へ行き、また尾張の美夜受比売のところに戻っている。

・記紀では書かれていないが、倭建命は常陸国(ひたちのくに)まで、行ったとの伝承がある。

『日本書紀』の吉備氏の系図

『日本書紀』の吉備氏の系図
(邪馬台国の会HP第342回より)

・ 『古事記』では倭建命(やまとたけるのみこと)が吉備臣(きびのおみ)等の祖の御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)を従えて東征したとある。
・ 『古事記』に孝霊天皇の御子に大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)[大吉備津彦命]がいた。その異母弟の若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)[稚武彦命(わかたけひこのみこと)][吉備の下の道の臣の始祖]が吉備にいた。
・『日本書紀』に日本武尊が稚武彦命の子である吉備の武彦命(たけひこのみこと)をつき従えて各地を攻めたとある。
・このことから、御鉏友耳建日子が吉備の武彦命であると推定される。

日本武の尊(やまとたけるのみこと)
・景行天皇は370年385年頃と考えられる。
・『日本書紀』景行天皇40年の条の中で「日本武尊は上総から移って陸奥国(みちのくのくに)に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦に回った。玉浦を横切って蝦夷の支配地に入った。」とある。
・この大きな鏡は三角縁神獣鏡ではないか?
・日本武の尊の東征の北限と三角縁神獣鏡の北限がほぼ一致する。

三角縁神獣鏡

三角縁獣神獣鏡
『古鏡集成』宮内庁書陵部陵墓課編、学生社刊より

・日本では500面以上が、出土しているが、中国では1面の出土もない。(異論あり)椿井大塚山古墳では32面出土している。
・3世紀の弥生時代の遺跡からは出土せず。古墳時代からの出土が多い。
・また同じ鏡からコピーした仿製(ぼうせい)鏡(踏み返し鏡)が多い。
・破鏡として出土のものがおおく、何らかの理由で、鏡を壊して埋めたと考えられる。
・韻を踏んでいない。また仿製鏡では文字を拾って集めた鏡もある。
・「景初三年」の紀年銘鏡が島根県雲南市加茂町の「神原神社古墳」から出土、「正始元年」の紀年銘鏡が3面(仿製鏡)[兵庫県豊岡市の「森尾古墳」など]出土している。

三角縁神獣鏡と日本武尊
・三角縁神獣鏡は長野、静岡より更に東の山梨、神奈川、群馬、千葉、茨城、福島へと広がっている。この地域が日本武尊が進出した地域と重なる。
・三角縁神獣鏡は北限が福島までのびており、岡山県発掘の同型鏡が関東に達している。これは、倭建命の従者が吉備の人たちで、同型鏡を関東へもたらしたのではないか。
・京大の小林行雄氏によれば、岡山県の備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同笵鏡(どうはんきょう)[コピーした鏡]が群馬県の北山茶臼山古墳、三本木古墳、山梨県の銚子塚古墳、神奈川県の真土(しんど)大塚山古墳などから出てくる。
・ 『古事記』に孝霊天皇の時代、吉備国へつかわされた吉備津彦の命がいた。その異母兄弟の稚武彦(わかたけひこ)の命(吉備の臣の始祖)が吉備にいた。
・『日本書紀』に日本武の尊が稚武彦の命の子である吉備の武彦の命をつき従えて各地を攻めたとある。

三角縁神獣鏡の北限

三角縁神獣鏡の北限は日本武の尊の東征経路に合う(邪馬台国の会HP第331回より)

成務天皇
・成務天皇は第13代の天皇で、12代の景行天皇と14代の仲哀天皇に挟まれ影が薄い天皇だが、国の造、県主を一番多く定めた。(386年390年

県・県主(『国史大辞典』吉川弘文館刊による)邪馬台国の会講演資料より

・成務天皇は

代の景行天皇と14代の仲哀天皇に挟まれ影が薄い天皇。

・しかしこの時代の天皇の中で、成務天皇が国造(くにのみやつこ) 、県主(あがたのぬし)を一番多く定めた。

・『古事記』『日本書紀』に大国、小国の国造、大県、小県の県主を定めたとある。

・これは日本武の尊(景行天皇の時代)が平定した地域を、次の成務天皇の時代に国造、県主として、大和朝廷に組み入れたのではないか。

国造本紀で国造を定めた天皇

(邪馬台国の会講演資料より作成)

・『先代旧事本紀』の「国造本紀」に何天皇の時代に国造を定めたか記してある。

・この中で、成務天皇の時代が一番多く記載されている。

・全体130ヶ国中、
62ヶ国を政務天皇が定めた。次の応神天皇は18ヶ国。

『先代旧事本紀』について
・『先代旧事本紀』は「さきのよのふることのもとふみ」とも読み、江戸時代に、偽書の疑いがかけられた。近年、上田正昭(歴史学者)などにより、偽作は序文のみではないかとされている。
・成立時期
828年前後には成立していたようで、936年ごろに序文などを加えたとされている。
・編纂者
物部(もののべ)氏のことが書かれており、物部氏系の人物である興原敏久(おきはらのみにく)[平安時代初期の明法博士]と矢田部公望(やたべのきんもち)が有力とされる。
・ 本文は興原敏久が『日本書紀』の推古天皇の条に記された史書史料の残存したものに、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』などの文章、物部氏系の史料なども加えて整えた。
・そして、矢田部公望が「序」文と『先代旧事本紀』という題名を与え、その他の情報などを加えて現在の『先代旧事本紀』を成立させたと考える。

『先代旧事本紀』は10巻からなる。
・神代から推古天皇まで記載
 第1巻~第9巻
神代本紀:天地の始まり
神代系紀:神代の系譜
陰陽本紀:二神の国生み~三貴子の分治
神祗本紀:天の安河の誓約~素戔鳴(すさのう)の尊の追放
天神本紀:饒速日の尊の天下り~葦原中国(あしはらのなかつくに)の平定
地祗本紀:八岐大蛇(やまたのおろち)~事代主(ことしろぬし)の神の子孫
天孫本紀:饒速日(にぎはやひ)の尊~宇麻志麻治(うましまじ)の命
皇孫本紀:天孫降臨~長髄彦(ながすねひこ)降伏
天皇本紀:神武天皇~仲哀天皇・神功皇后
神皇本紀:応神天皇~武烈天皇
帝皇本紀:継体天皇~推古天皇

・全国、畿内から西海道までの国造(くにのみやつこ)を記載
  第10巻
国造本紀:国造・県主(あがたぬし)の委任、全国の国造の記載

先代旧事本紀と日本書紀の比較

邪馬台国の会講演資料第218回より

713年に元明天皇が『風土記』を撰進するにあたり、郡郷の名には好ましい漢字二文字で記すようにのべている。

・しかし、『先代旧事本紀』では1文字、3文字のものが多い。

・『先代旧事本紀』の方が『日本書紀』より古い記述であり、「国造本紀」に書いてあることは正しいのではないか。

・また、『先代旧事本紀』で国と呼ばれていた地域が、『日本書紀』で郡になっている場合がある。風土記にはこのように国を郡に変えた事例がいくつか記録されている。『先代旧事本紀』の表記は、のちに郡になった地域が「国」と表されていた古い姿が残されたことを示すのではないか。

行政区比較(邪馬台国の会講演資料より作成)


神功皇后
・神功皇后の時代は、390年410年頃となる。
・『日本書紀』の神功皇后の39年の記述に、魏志倭人伝を引用して、明帝の景初三年に倭の女王は大夫難斗米を魏に遣わしたとあり、卑弥呼が神功皇后であるように感じさせる。(現在、卑弥呼=神功皇后説はごく少数派)
・神功皇后は架空の存在とする説が多いが、女性を朝鮮半島へ出向かせたような伝承があり、『古事記』『日本書紀』ができる頃、神功皇后の伝承を言い伝える人がいたのではないか。
・神功皇后の母方は新羅系の人である。神功皇后は新羅と戦っており、新羅に何らかのかかわりがあったと思われる。
・この年代は広開土王碑の年代と同じころになり、広開土王碑は倭のことが記載されている。当時は日本と朝鮮半島の緊張が高まっていたのではないか。

高句麗の広開土王碑文
・広開土王(好太王ともいう)(374年412年、在位391年412年)は、古代の朝鮮半島から中国東北地方にかけて栄えた高句麗の第19代の王。
・18歳の時王位を継ぎ、百済を攻めて、漢江以北の地を奪った。396年、再び、百済を攻め、日本
・百済の連合軍を破って、百済の王都に迫った。かくして、朝鮮半島の大部分を支配下におさめた。
・あとを継いだ長寿王により、広開土王の死後2年(414年)に、広開土王の功績を記した石碑が鴨緑江岸の通溝に立てられた。
・広開土王碑は高さ6.3メートル、碑文は4面にきざまれ、41字詰め44行、約1800字である。
・碑文によれば、「倭人は新羅の国境に満ちていた」400年、好太王は歩騎5万を派遣し、新羅を救った。しかしその4年後の404年「倭は無軌道にも、帯方郡に侵入」
・「好太王の軍は、倭の主力をたち切り、一挙に攻撃すると、倭寇は壊滅し、切り殺した倭賊は無数であった」
・更に、407年、好太王は「軍令を下し、歩騎5万を派遣して」、「合戦して、残らず斬り殺し、獲るところの鎧鉀(がいこう)一万余領であった。持ち帰った軍資や器械は、数えることができないほどであった」
・朝鮮に侵入した倭は正規の高句麗軍5万と繰り返し戦う力をもつ、万を超える大軍であった。

朝鮮半島での倭の勢力
・歴史学者、坂元義種氏はその著『倭の五王』のなかで、「好太王碑文によると、倭軍は高句麗によりさんざん敗られたことになっているが、実際はかならずしも『倭寇、潰敗し、斬殺すること無数』というわけにはいかなかったようである。
・倭軍が何度となく出兵して高句麗軍と戦っていることは、高句麗軍が決定的な勝利をおさめられなかった証拠である。
・また『三国記史記』によると新羅が倭国とよしみを通じ、奈勿王(なぶつおう)の王子未斯欣(みしきん)を人質として倭国へ送ったとある。
・碑にある『倭が百残(百済のこと)、新羅を破ぶり、以って臣民となす』が妄言ではないと理解される」といっている。

当時の日本と朝鮮の関係
・『古事記』『日本書紀』ともに、日本軍が、「新羅の王の門」にまでいたったと記している。また、『風土記』『万葉集』『続日本紀』『古語拾遺』その他古代の史書は、こぞって新羅進出に関係する記事をのせている。
・「広開土王碑の碑文」には391年に、倭が「海を渡ってきて、百残(百済)、□□新羅を破り、これを臣民とする」と読める記事がある。
・「新羅本紀」は、393年に、「倭人が、金城(新羅の王城)を包囲して、五日も解かなかった」と記している。
・「広開土王碑の碑文」は、400年に、「倭が、新羅城のうちに満ちてあふれていた」と記している。
・『三国史記』は、402年に、「王子未斯欣が、倭の質になった」と記している。
・「広開土王碑の碑文」によれば、404年にも、倭は、「不軌にも帯方界に侵入」している。
・「広開土王碑の碑文」によれば、407年にも、万を超える倭が進出している。これらを総合すれば、日本がわの史書と、朝鮮がわの史書とが、一致して記しているのであるから、390年410年ごろに、日本がわが新羅の王城にまでいたったことは、確実である。

伽耶(かや)
・伽耶は別に加羅、加良、駕洛と書かれる。日本では任那とも言われ日本府で良く知られている。
・3世紀ころ『魏志倭人伝』の韓伝で弁韓(伽耶地方)、辰韓(その後の新羅)を弁辰と呼び小国に分かれていた。
・4世紀ごろ、南朝鮮の地方に扶余系と考えられる金官伽耶が起こり、伽耶地方の文化が入れ替わり、騎馬文化が強くなる。
・一方では4世紀ごろに高句麗の勢力が益々強くなり、新羅を圧迫する。
・伽耶地方の遺跡では古代日本と関係する巴形銅器、筒型銅器などの遺物が出土する。(金海の大成洞古墳など)
・『日本書紀』によれば、垂仁天皇の2年の条に「任那の人、蘇那曷叱智(そなかしち)が先皇(崇神天皇)の御世に日本に来ていて、『国に帰りたい』と言ったので、彼を厚くもてなし、赤絹百匹を持たせて、任那王に贈った。
・ところが、その途中で新羅の人がこれを奪った。このときから、両国の争いは始まった。」とある。
・『日本書紀』では朝鮮半島との関係を最初に記したのが、崇神天皇の条である。
・崇神天皇の条に任那が蘇那曷叱智を遣わしたとある。この当時は朝鮮半島とつながりを持っていたのではないか。

巴形銅器・筒型銅器

巴形銅器(高2.5cm 径12cm)筒型銅器(長13cm,13.5cm)金海大成洞 4世紀『国立博物館』通川文化社(ソウル)より

・4世紀~5世紀ごろの朝鮮半島南部で巴形銅器・筒型銅器が出土する。
・巴形銅器は盾に付ける飾りと思われ、弥生時代後期から日本でも出土する。
・筒型銅器は槍などに嵌め込むもので両方とも象徴的な武器または儀式に使用されたものと思われる。
・両銅器は以前から日本にあり、日本から朝鮮半島へ持ち込んだものと思われる。

伽耶の須恵器

土器各種 金海大成洞 4~5世紀 『国立博物館』通川文化社(ソウル)より

・須恵器は良質の粘土をもちい、ろくろで成形し、 窖窯(あながま)で1000℃以上の高温で焼成されたもの。

・それまでの酸化炎焼成による赤焼き軟質土器の土師(はじ)器にくらべると、はるかにすすんだ焼物。

・金官伽耶で須恵器が多く使われている。

日本での須恵器
・『日本書紀』では須恵器に関連すると見られる記事が、雄略天皇紀以前にいくつも記されている。
・崇神天皇紀で、大田田根子(おおたたねこ)の話があり、 大田田根子を探がし求とめたところ、茅渟の県(ちぬのあがた)[和泉の国一帯の古称]の「陶の邑(すえのむら)」にいた。
・「陶の邑」は和泉の国大鳥郡陶器荘の地で今の大阪府堺市東南部の陶器山から、その西方にかけての地。このあたりから多数の須恵器が出土していることから、須恵器生産の本拠地であったと考えられる。
・陶津耳は陶という地名または陶器をつくる職業集団のリーダーという意味であろう。
・垂仁天皇紀に近江の国の鏡村の陶人(すえびと)が新羅の王子の天の日槍(ひほこ)の従人であったする伝承がある。
・この地の滋賀県蒲生郡竜王町には「鏡神社」があり、「須惠」、「弓削」という古代の渡来系職人集団に由来する地名がある。 ・4世紀末頃に伝わったのではないか。

金冠

新羅の金冠 高さ32.5cm(5~6世紀)
『慶州』宇進文化社(ソウル)より

・韓国では金が出て、金冠などが出土する。倭としてはこの金も目的ではなかった?

・『日本書紀』の「仲哀天皇紀」で仲哀天皇が九州へ熊襲征伐に行った時、神功皇后が神懸かりして、「神は眩(まばゆ)い金・銀・彩色などがたくさんある新羅国を討つよう命じた」とある。

・4~5世紀に朝鮮半島では金が豊富であったと思われる。

鉄鋌(てってい)

伽耶で発掘された鉄鋌 5世紀 長さ48.6cm 『国立博物館』通川文化社(ソウル)より

・東夷伝弁辰の条で「國出鐵、韓、濊、倭皆從取之(国鉄を出す。韓・濊・倭みな従ってこれを取る)」とある。

・『日本書紀』の「神功皇后紀」四十六年の条に百済王が、日本の使臣に「鉄鋌(ねりかね)40枚」を与えたとある。

・5世紀初頭の畿内の古墳で多数の鉄製武器類を副葬するようになる。

七支刀

邪馬台国の会HP第240回より

・七支刀は奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に伝えられてきた。 『日本書紀』の神功皇后紀に七支刀(『日本書紀』では七枝刀と表記)が百済の王から贈られたとしている。

・ 『日本書紀』に記載されている七支刀は石上のものと同じと考えられている。

・七支刀には金象嵌の銘文が記されており、その裏面の文字の解読の代表的な説は下記である。

・「先世以来未有此刀百済王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世」

七支刀銘文( 「聖音」と「聖晋」 )
・ 「聖音」説:吉田晶氏(岡山大学で『七支刀の謎を解く』『七支刀銘字一考』『村山図録』執筆)及び、村上正雄氏(『石上神宮七支刀銘文図録』執筆)、福山敏男氏が「音」と読む。
・「聖音」とした場合、釈迦の加護として仏教のことを述べたことになる。
・しかし、朝鮮の三国史記から、百済の仏教伝来が384年と考えられる。表側の銘文の「泰和四年」を369年とする説から、仏教伝来の前に釈迦の話をすることになり、年代が合わない。
・ 「聖晋」説:榧本(かやもと)氏が象嵌での縦溝は確かであり、「晋」としている。また東野治之氏(大阪大学)が「晋」の異体字と考える。「聖晋」と読んだばあいに、二つの説が考えられる。
・一説は当時は「東晋」が存在していたので、その晋からの恩恵があったとする意味。
・もう一つの説が古代朝鮮語として、「セシム」と読むことである。

百済王朝系図

邪馬台国の会HP第240回より 拡大可

・4世紀頃の古代朝鮮語「せしむ(王子)」のことば下記がある。

①新羅の王子天日槍(あめのひぼこ)[垂仁紀]
②(百済の)王肖古(しょうこ)及び王子貴須(くるす)[神功紀]
③ (百済の)王子枕流王(とむる)[神功紀]
④ (百済の)王子阿花王(あくえ)[神功紀]
⑤ (百済の)王子直支(とき)[応神紀]

・ゆえに、「百済王世子貴首王子(せしむ)」が倭王に送ったものと解釈すべきである。(貴首=仇首)

七支刀の年代

邪馬台国の会HP第240回より作成

謎の4世紀のまとめ
・日本の古代の266年413年は、中国の文献から倭の情報が無い。そのため、この期間を謎の四世紀(空白の四世紀)という。しかし、日本にはこの時代を記した『日本書紀』『古事記』(記紀)などの文献がある。そして、戦後の古代史は記紀を無視してきた。
・5世紀から8世紀の世界の王の平均在位年数は10.56年であった。そして、日本の天皇も10.88年である。このことから、古代の天皇1代在位10年説が考えられる。
・天皇1代10年説から崇神天皇は343年360年と計算され、『日本書紀』の年代のBC.97BC.29年とは大幅に違う。
・記紀にある綏靖、安寧、懿徳 、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化の天皇は欠史八代と呼ばれ、存在が疑がわれているが、いろいろな理由で存在したと考えられる。
・崇神、垂仁、景行の天皇は、北陸、関東、越、山陰、九州地方を制覇した。更に以前はゆるやかな支配地域であったが、従わなくなった山陰、九州も服従させる。これが、四道将軍の話となったと考えられる。
・前の代で広がった地域を治めるため、成務天皇の時代に国造(くにのみやつこ)を定めていったと思われる。それが、先代旧事本紀(せんだいくじほんんき)に記されている。
・広開土王碑の碑文で倭が新羅を攻めたことが記されている。これは、神功皇后伝承の朝鮮出兵をあらわしたものではないか。
・倭と伽耶(かや)地方との関係は深く、伽耶地方の巴形銅器・筒型銅器など遺物からも分かる。この当時、鉄は伽耶地方にあり、国際的な鉄の取り合いも関係した。
・当時の日本は、朝鮮半島地域で、百済との関係は親密だった。石上(いそのかみ)神宮の七支刀が百済から贈られたとすることからも分かる。