2.02.出雲~神武誕生

■八俣の遠呂智

須佐之男の命の降臨は山陰地方へ舞台が移ったと考えられる。
八俣の遠呂智(やまたのおろち)は鉄の生産と関係しているのではないか?

山陰地域

①出雲大社、須賀、伊賦夜坂(いふやさか) 、鳥上(とりかみ)など古事記に関係する地名の近くに、弥生時代の遺跡が多くある。
②山陰地方の大きな遺跡である妻木晩田(むきばんだ)や仲仙寺古墳群は、伊邪那美が葬られた比婆山に近い。また荒神谷遺跡から多くの銅剣、加茂岩倉遺跡からは多くの銅鐸が出土している。

山陰の主な遺跡

出雲の国譲りと銅剣・銅鐸

①1985年(昭和60年)には荒神谷遺跡から358本の銅剣が出土し、更に銅鐸6個、銅矛16本が出土した。
荒神谷遺跡から出土した大量の銅剣
(島根県教育委員会)

②荒神谷遺跡から約4kmしか離れていない加茂岩倉遺跡から1996年(平成8年)に、39個の銅鐸が出土している。
加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸
(加茂町教育委員会)


これらは埋納されており、その理由にには、政権の交代で廃棄されたとか保管のために埋めたとかの説がある。

八俣の遠呂智退治 『古事記』の要点
①須佐之男の命は高天原を追われ、出雲の国の肥の河の川上の鳥上(鳥髪)に降り着く。
②そこで、足名椎(あしなづち)、手名椎(てなづち)と会う。話を聞くと、 8人の娘がいたが毎年八俣の遠呂智によって食べられ、櫛名田(くしなだ)比売が最後の娘であると言われる。
③八俣の遠呂智は頭が八つで、尾が八つあり、その大きさは谷は八谷、尾は八尾根に渡る。いつも腹が赤くただれている。
④須佐之男の命は八つの大きな酒樽を用意させ、酒を飲んで寝ている八俣の遠呂智を退治する。
⑤八俣の遠呂智の尾から刀が出てきて、この刀を天照大御神に献上する。これが三種の神器となる草薙(くさなぎ)の太刀である。
⑥須佐之男の命は櫛名田比売を娶り、出雲の須賀(すが)の宮を造営して住む。
⑦須佐之男の命の神裔(しんえい)で、櫛名田比売の子の八島士奴美(やしまにぬみ)の神を1世として、6世目が大国主の命となる。

八俣の遠呂智退治
①八俣の遠呂智を退治する話しは出雲地方での製鉄を表現し、製鉄のために大量の木を使うことで、川が氾濫しやすくなったことを表しているのではないか。また「腹が赤い」との表現は鉄の成分から川が赤くなっていることを表しているようにも見える。
②この地方の鉄の生産は、高天原勢力に対抗して、鉄を手にいれることを表したものか。
③須佐之男の命は須賀の地に宮を造り住んだことが記されており、須佐之男の神裔(しんえい)ではその6世の孫にあたるのが大国主の命となる。
④6世の孫とされているが、物語の内容から、大国主は須佐之男の子供の世代であることが推定できる。
⑤ そして、出雲地方を舞台とした神話は須佐之男の命から大国主の命へと移って行く。

八俣の遠呂智と剣
①十握の剣の「握(拳、掬、束とも書く)」とは長さの単位である。 「一握は、小指から人差指までの幅、8から10センチメートル。従って十握剣は80から100センチメートルの剣。

②銅剣の出土例ではもっとも長いものは51.5センチであり、十握の剣は鉄の剣の可能性が高い。

③大蛇から出た剣は草薙の太刀で、『日本書紀』の一書では天の叢雲(あめのむらくも)剣とある。熱田神宮に祀られている。

④大蛇を切った剣は、『日本書紀』一書第二に、蛇の麁正(おろちのあらまさ)といい石上(いそのかみ)神宮にあると記されている。天羽々斬(あめのはばきり)ともいう。

『倭王卑弥呼と天照大御神伝承』安本美典著、勉誠出版刊より

■大国主の試練
稲羽の素莬(しろうさぎ)から、須佐之男の命の所での話は大国主に試練を与えた話となっている

大国主の命の試練 『古事記』の要点
①稲羽の素莬(しろうさぎ)
和邇(わに)[鰐鮫]に身を赤裸にされた兎を助ける。真水で洗い、蒲の花粉を地面に敷きその上に寝転がれば直るとした。稲羽の八上比売と結ばれる。
②赤猪の試練
八十神(やそがみ)達によって転がされた赤く焼いた石を猪として、取り組み焼けて死ぬ。このとき、御祖(みおや)の命が神産巣日の神にお願いして、神産巣日の神が きさ貝比売(赤貝)と蛤貝(いむぎ)比売を遣わして、命をよみがえらせた。
③茹矢(ひめや)の試練
八十神達は大樹を切り倒し、そこに茹矢(楔)を打ち込んで、その割れ目に大国主の命を誘い入れ、茹矢を抜いて挟み殺す。
このときも、御祖の命が命をよみがえらせ、このままで八十神達に亡ばされるとして、木の国の大屋毘古(おおやびこ)の神のもとへ逃がした。しかし、八十神達が追ってきたので、大屋毘古の神は根の堅州国へ行くことを勧める。
④須佐之男の命による試練
根の堅州国では須佐之男の命による蛇、呉公(ムカデ)、蜂、鳴鏑(かぶらや)、虱の試練を受ける。

大国主の命の試練
出雲地方を舞台とした神話は須佐之男の命から大国主の命へと移る。
須佐之男の命は出雲の東側であるのに対し、大国主の命の本拠は出雲の西側である。当初は因幡、伯耆、出雲と移動していく。
①稲羽の素莬
うさぎを医学的知識で助けるのは、試練に合格したことになる。その結果、八上比売と結ばれる。(因幡)
②赤猪の試練で、御祖(みおや)の命が神産巣日の神にお願いして、命をよみがえらせたことは、大国主の命が神産巣日の神と繋がっていることを示す。(伯耆)
③茹矢の試練でも、御祖の命が命をよみがえらせて、木の国の大屋毘古(おおやびこ)のもとに逃がした。この大屋毘古は『日本書紀』一書第五では須佐之男の命の子の五十猛(いたける)の命の妹に大屋津姫(おおやつひめ)の命がいるとある。大屋毘古と五十猛と同神との説がある。
④須佐之男の命による試練
須佐之男の命による試練は須佐之男の命の娘である須世理毘売によって救われる。(出雲)

根の堅州国へ行った大国主の命は須世理毘売の助けで須佐の男の命の試練に耐える。そして二人で駆け落ちする。


大国主の命の独立
①須佐の男の命は大原郡の海潮に宮を建てたと推定され、大国主の命を黄泉比良(よもつひら)坂とされる揖屋まで追いかけ、現在の御崎山である宇迦の山の麓の出雲大社(杵築大社)に住めと言った。
②神社は神となる人物が住んでいた地域に建てられる傾向があり、大国主の命は出雲大社のあるところに住んでいたと思われる。
③古事記が出雲を舞台として描写した内容は須佐の男の命までが出雲の東半分を描き、大国主の命から出雲の西半分を描いている。

須賀、揖屋の位置(『邪馬台国と出雲神話』安本美典著、勉誠出版刊より)

■出雲経営
・大国主には多くの女性と婚姻の話がある
・出雲経営は大和との関係を物語る

大国主の命の通婚 『古事記』の要点
①八上比売と須世理毘売
八上比売は初めの約束とおり、大国主の命との結婚を許した。そこで、大国主の命は八上比売を伴い出雲に来たが、八上比売は大国主の命の正妻である須世理毘売を憚(はばか)って自分の生んだ子供を木の俣に挟んで因幡に帰ってしまった。子の名は木の俣(きのまた)の神、またの名を御井(みい)の神という。
②沼河比売への求婚
大国主の命は高志(こし)の沼河比売と結婚したく思ってお出かけになった。そして、沼河比売の家に到着した時、求婚を歌で呼びかけた。しかしその夜は一緒にお休みになることはなく、翌晩一緒にお休みになった。
③須世理毘売との別れ
大国主の命の正妻である須世理比売は、沼河比売のことを知ってはなはだしい嫉妬の心を起こしたので、大国主の命は大変当惑した。ちょうどその時、出雲から大和へ行こうとしていたので、須世理毘売へ別れの歌を歌った。
それに対し、須世理毘売も私を忘れないようにと返歌をした。
④大国主の命の神裔(しんえい)
大国主から十代の神々について書いてあり、ここで大国主の婚姻が書かれて

大国主の命の通婚と領国支配
大国主の命はいろいろな土地の豪族の娘と結婚し、戦争をせずに自分の勢力範囲を拡大したようにみえる。主な婚姻関係は下記。
①稲羽(いなば)[因幡]:八上(やかみ)比売
②根の堅州国(ねのかたすくに)[東出雲]:須世理毘売(須勢理毘売)
③高志(こし)[越]:沼河(ぬなかわ)比売
④胸形(むなかた)[宗像]:奥津宮の多紀理(たきり)毘売(大国主神裔)
 子は下照[光](したてる)比売で天の若日子の妻
⑤三島湟咋(みしまのみぞくひ)の娘:勢夜陀多良(せやだたら)比売(神武紀)
 子は富登多多良伊須須岐(ほとたたらいすすき)比売
 [別名:伊須気余理(いすけより)比売]で神武天皇の后
神屋盾(かみやたて)比売:子は事代主(ことしろぬし)の神(大国主神裔)
⑦陶津耳(すえつみみ)の命の娘:活玉依(いくたまより)姫(崇神紀)
 4代後は意富多多泥古(おほたたねこ)で大物主の神を祀る
⑧胸形(宗像):辺津宮の多岐都(たきつ)比売(先代旧事本紀の高津姫)
これは出雲の国が多くの国と関係し、その中心的存在であったであろうと考えられる。

沼河比売

①新潟県糸魚川(いといがわ)市に翡翠(ひすい)[硬玉]産地がある。この地域には大国主命と結婚した奴奈川(ぬながわ)姫の伝承があり、姫を祀る奴奈川神社がある。
②大国主命は多くの女性と結婚したが、高志(こし)の奴奈川姫と結ばれたのは、翡翠入手と関係した政略結婚ではないだろうか。
③『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』では、大国主命と沼河比売との間の子が建御名方(たけみなかた)の命であるとされる。
④大国主の命と沼河比売の子の建御名方が高天原の建御雷男(たけみかづちのを)の神と戦い、科野(信濃)の諏訪湖近くの諏訪神社で降伏するのも、母(沼河比売)の国の高志(越)の方へ逃げていったためではないか。

沼河比売の銅像(糸魚川駅近く)[筆者撮影]
大国主の神の通婚範囲(『邪馬台国と出雲神話』安本美典著、勉誠出版刊より)

大国主の命の出雲経営 『古事記』の要点
①大国主の命が出雲の美保の岬にいるとき、天の羅摩船(かがみぶね)[ガガイモの船]に乗った、小さな神がやって来る。名前をたずねたが何の返答もない。蟾蛙(ひきがえる)が久延毘古(くえびこ)[案山子(かかし)]が知っていると言った。
②この神は神産巣日(かみむすび)の神の子である少名毘古那(すくなびこな)の神とわかる。神産巣日の神は大国主の命へ少名毘古那の神と兄弟となって、一緒に出雲の国造りをするようにうながした。
③大国主の命は少名毘古那と一緒に国造りをするが、その後少名毘古那の神は常世(とこよ)の国へ行ってしまう。
④少名毘古那の神がいなくなり、なげいている大国主の命のところに海を光(てら)して神が来る。
⑤その神は私を鄭重(ていちょう)に祀(まつ)ってくれたら、ともに国つくりをしようと言った。

⑥大国主の命はその神を大和の三諸(みもろ)山に祀った。

大国主の命の出雲経営
①少名毘古那(すくなびこな)の神の説話の部分では、神産巣日(かみむすび)の神の子として書かれている。しかし『日本書紀』の一書の五では高御産巣日(たかみむすび)の神の子となっている。
②御諸山(みむろやま)に祀れば、国の経営に協力するという神は大和の大神(おおみわ)神社の神で、大国主の命は大和と関係があったことが分かる。
③天照大御神が高御産巣日の神と共に記されるのと、対照的に大国主の命は神産巣日の神が関係している。
④大国主の命の呼び名が変わることは、出雲から全国への勢力拡大を物語っているものとも考えられる。
⑤大国主の命の呼び名が変わる。
-大穴牟遅(おおなむぢ)の神[少名毘古那に会う前に主に呼ばれる名]
-葦原色許男(あしはらしこを)の神[須佐之男、少名毘古那に会った時]
-宇都志国玉(うつしくにたま)の神[大国主が須佐之男から逃げた時]
-八千矛(やちほこ)の神[沼河比売、須勢理毘売に対して]
-大国主の神[少名毘古那以後に主に呼ばれる名]

大国主の神の別名

上記以外に大国主の神は『日本書紀』第四書から下記の呼び名を持つ。
大物主の神、大国魂(大国玉)の神
影響の範囲は下記と広がった。
因幡→伯耆→出雲→越→北九州→畿内

■出雲の国譲り
・大国主の命の神話の終わりは国譲りである
・国譲りは大きな戦いがあったことを物語る

天の菩比(ほひ)の命の派遣 『古事記』の要点
①天照大御神は「葦原の水穂の国は我が御子の天之忍穂耳(あめのおしほみみ)の命が治めるべき国である」と言った。
②天之忍穂耳の命は天の浮橋に立って、葦原の水穂の国を見ると、「この国は目下大変騒がしい」と言って、いったん天にもどった。
③この報告を受けて、天照大御神と高御産巣日の神は八百万の神々を集め、思金の神に「葦原の中国(あしはらのなかつくに)は我が御子が治めるべき国であるが、荒ぶる国つ神どもが多くいて安定していない、どうすれば良いか」とたずねた。
④思金の神は「天の菩比の命を遣わしましょう」と言った。
⑤そこで、天の菩比の命を遣わしたが、戻って来なかった。
⑥古事記には「天の菩比の命は大国主の神に媚び付きて、三年に至るまで、復奏(かえりごとまを)さざりき」とある。

天の菩比(ほひ)の命の派遣
①天の菩比の命は須佐之男の命と天照大御神との宇気比(うけい)による天照大御神の子である。また、天の菩穂耳(あめのおしほみみ)の命と兄弟であり、天照大御神の直系の第一世代となる。
②この天照大御神の直系の第一世代になってから、出雲地方への経略が行われたと考えられる。また、血筋が良い天の菩比の命の子孫が出雲の国造(くにのみやつこ)になっており、出雲氏の祖先扱いである。
③大国主の命に対する国譲りのために、最初に天降ったのが天の菩比の命である。
④しかし3年たっても復奏(ふくそう)しないので、完全に大国主の命に取り込まれたと考えられる。天の菩比の命に対する表現は「媚び付く」であり、高天原勢力から見て、謀反とは考えていないようだ。
⑤『新撰姓氏録』によれば、天の菩穂耳の命と兄弟の天の日子根(天の彦根)の命の子孫は凡河内(おおちこうち)国造(くにのみやつこ)、山代(やましろ)国造となっている。

天の若日子の派遣 『古事記』の要点
①そこで、高御産巣日の神と天照大御神は諸神に「葦原の中国(あしはらのなかつくに)に遣わした天の菩比の命はいっこうに復奏しない。次にどの神を遣わせば良いか。」と尋ねた。
②思金の神は「次は天の若日子(わかひこ)を遣わすのが良いと」言った。
③そこで、天の若日子に天の真迦弓(まかゆみ)と天の波波矢(ははや)を賜って、遣わした。
④しかし、天の若日子は大国主の命の娘の下照(したてる)比売を妻として、「其の国を獲(え)むと慮(おもいはかり)て、八年に至るまで復奏(かえりごとまを)さざりき」とある。
⑤そればかりか、天の若日子は高天原勢力が遣わした雉の鳴女(なきめ)に矢を放って射殺した。
⑥その矢が高天原まで届く、高御産巣日の神はその矢を地上へつき返したので、天の若日子はその矢に当たって死ぬ。
⑦天の若日子の葬儀で、弔問した阿遅志貴高日子根(あぢしきたかひこね)の神が死んだ天の若日子に間違われて怒り、喪屋を壊す話がある。

天の若日子(わかひこ)の派遣
①次に遣わされた天の若日子は天の真迦弓(まかゆみ)と天の波波矢(ははや)を奉じて天降る。このように武器を与えているところから、この派遣は軍事的なものであったと考えられる。
②天の若日子は大国主の命の娘の下照(したてる)比売を妻として、葦原の中国を自分のものとしようと謀反した。
③そこで、使いを出して説得にあたらせたが、逆にその使いが殺されてしまった。
④鳴女(なきめ)に射た矢の帰り矢で死んだということは、高天原勢力が軍隊を使ったか、暗殺によって天の若日子を殺したものと考えられる。
⑤下照比売の母は宗像神社奥津宮の多紀理(たきり)毘売である。このことから、天の若日子が派遣されたところは、北九州の宗像神社付近である可能性がある。
⑥天の若日子の死によって、宗像方面の問題は終わったことになる。次は大国主の居る出雲の問題だと解釈できる。

出雲の国譲り 『古事記』の要点
①天照大御神は「亦(また)曷(いづ)れの神を遣わさば吉(よ)けむ」と言った。
②そこで、思金の神は「次の派遣は天の尾羽張(おわばり)の神が良い」と言った。
③天の尾羽張の神は「自分は年を老いたので、自分の代わりに子の建御雷男(たけみかづちのを)の神を遣わしてほしい」と言った。
④そこで、建御雷男の神は天の鳥船の神と共に、出雲の伊那佐の小浜(いなさのをはま)に降りて、十握の剣の切先の方を上にして波頭に立て、その上に趺み坐(あぐみま)して[アグラをかいて]、大国主と談判した。
⑤建御雷男の神は大国主の命に葦原の中国は天照大神の子孫の国だと話す。大国主の命は「既に子の時代となったので、子と話して欲しい」と言う。
⑥そこで、大国主の命の子である八重言代主(やへことしろぬし)の神に話した結果、八重言代主の神はすぐに国譲りを承諾した。
⑦しかしもう一人の大国主の命の子である建御名方(たけみなかた)の神は力ずくで抵抗する。両神の力比べで、建御雷男の神が勝利した。

出雲の国譲り
①天照大御神の「亦(また)曷(いづ)れの神・・・」との発言は、天の若日子の問題を引き継いでいない。建御雷男の神の派遣は出雲全体の問題の対応ととれる。
②天の尾羽張(おわばり)の神は伊邪那岐の命が迦具土(かぐつち)[伊邪那美の命が亡くなった原因]を切った時の刀の神である。
③建御雷男の神の派遣は軍事的行動であり、北九州から出雲地方へ船で行くと、稲佐の浜(伊那佐の小浜)に着く。
④八重言代主はあっさり降伏するが、建御名方は軍事抵抗をする。建御雷男と建御名方は激しく戦い、最後は信濃の諏訪まで行き、そこで建御名方が降伏する。
⑤この結果、出雲地方と其の関係が深い、越、信濃、大和も高天原勢力の影響が及ぶ範囲となる。しかしこれらの地域の支配権はそれほど強くないように思われる。

出雲大社 『古事記』の要点
①建御雷男の神は信濃から出雲に帰り、大国主の命に八重言代主の神と建御名方の神の二柱の神が天つ神の御子に服従すると申し出た、あなたはどうすると尋ねた。
②そこで、大国主の命は「わが子の二柱の神の申すとおり、私は背きません。葦原の中国をことごとく献上しましょう」と言った。
③「ただ、私の住居は天つ神の御子の立派な宮殿のように、地下には岩磐に届くほど深く宮柱を掘り埋め、天空にはその千木が高天原に届くほどに高く立派に建てて、そこに祀ってくれれば、はるか遠い冥界に隠れてお仕えしましょう。」
④「また私の子の大勢の者も、八重事代主の神が天つ神の御子の前後を警護する役目となって奉仕すれば、他に反抗するする神はありません。」と言った。
⑤その後、出雲の国の多芸志(たぎし)の小浜に神殿を造った。

出雲大社

①北九州から出雲地方へ船で行くと稲佐に着く。出雲大社付近は交通の要所であったのではないか。
②2000年(平成12年)に境内から1.4メートルの柱を3本束ねて柱としたものが発掘された。本殿と思われ、いかに高く建築されていたか想像できる。
③現在の高さは8丈(じょう) [約24メートル]であるが、古代では高さ32丈[96メートル]あったとされている。
④これは平安時代の東大寺の大仏殿の15丈[45メートル]より高い。

出雲大社のロケーション(邪馬台国の会HP第284回より)

■神代三代
・神武天皇の前となる神代三代は南九州を支配下に置く活動を表現したものではないか

九州進出の経路

高天原勢力の進出ルート

①北九州(遠賀川下流)が根拠地と思われる。

②福岡、佐賀方面
伊邪那岐、伊邪那美連合が甕棺部族を追いやる(倭国大乱)

③熊本方面 
天照大御神が狗奴(くな)国と戦う。

④鹿児島、宮崎方面
邇邇芸(ににぎ)の命:川内(せんだい)市
火遠理(ほおり)の命:霧島市
鵜葺草葺不合(うがやふきあへず)の命:宮崎市

邇邇芸(ににぎ)の命の降臨 『古事記』の要点
①天照大御神は葦原の中国は平定したので、天の忍穂耳の命が降って統治するよう命じた。
②天の忍穂耳の命は万幡豊秋津師(よろづはたとよあきづし)比売[高御産巣日の神の娘]との間で天の火明(あめのほあかり)の命と邇邇芸の命が生まれた。そこで邇邇芸の命を降臨させたいとした。
③邇邇芸の命が天から降ろうとしたとき、上は高天の原、下は葦原の中国を照らす神がいた。そこで天照大神と高木の神(高御産巣日の神)が天の宇受売に問わせると、緩田毘古の神と名乗った。そして、先導役になると言った。
④そこで、天の児屋(あまのこやね)の命、布刀玉(ふとだま)の命、天の宇受売の命、伊斯許理度売(いしこりどめ)の命、玉祖(たまのや)の命の五伴の緒(いつとものを)[5部族の首長]に任務分担させ、天降らせた。
⑤更に、三種の神器を携えさせ、思金の神などを加えて天降らせた。

高千穂の峰はどこか『古事記』の要点
①邇邇芸の命は久士布流多気(くじふるたけ)に、天降りするが、先導の役をしていた天の忍日(おしひ)の命と、天津久米(あまつくめ)の命とは、次のようにいう。
②「ここは、韓国(からくに)に向ひ、笠沙の御前(みさき)を真来通(まきとほ)りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の照る国なり。故(かれ)、此地(ここ)は甚吉き地(いとよきところ)。」


高千穂の峰の所在地は下記2説が有力
①日向の国臼杵(うすき)郡の高千穂山(宮崎県西臼杵郡、五ヶ瀬川上流部)
②日向の国曽於(そお)郡の霧島山[和銅6年(713年)に、大隈の国が建てられ、それまでの日向の諸県(もろかた)郡と大隈の曽於郡とにまたがっていた。現在鹿児島県と宮崎県にまたがる]

木の花之佐久夜毘売 『古事記』の要点
①笠沙(かささ)の岬で麗(うるわ)しい娘と遇う。名を問うと、大山津見の命の娘で、名は神阿多都(かむあたつ)比売、亦の名は木の花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)と答える。
②邇邇芸の命が大山津見の命に木の花之佐久夜毘売を娶りたいと申し出たところ、大山津見の命はたいそう喜んで、姉の石長(いわなが)比売をそえて、木の花之佐久夜毘売を献上した。
③ところが石長比売はたいそう醜くかったので、姉の石長比売だけ返された。
④大山津見の命はたいそう恥じいって、石長比売は天つ神の御子の命は石(いわ)のごとく永久となるようにと、木の花之佐久夜毘売は木の花の栄えるように栄えますようにと、献上したが、石長比売だけ返されたので、御子の命は木の花のように一時的になりますと言った。
⑤木の花之佐久夜比売が邇邇芸の命に「自分は妊娠しており、もうすぐ天つ神の子が生まれる」と話す。
⑥邇邇芸の命は「一夜の契りで妊娠するのはおかしい、国つ神の子ではないか」と疑う。

邇邇芸(ににぎ)の命の降臨
①邇邇芸の命天孫降臨として、三種の神器を携え、初期の豪族を引き連れ南九州へ行った。
②邇邇芸の命の名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸(あめにきしくににきしあまつひこひこほのににぎ)の命(みこと)であり。天つ神と国つ神の両方を兼ね備えていることを表している。
③神から人への変化として、石長(いわなが)比売の話を加え、寿命が永遠でないとした。
④笠沙(かささ)の岬は現在の南さつまし市で薩摩半島の西端と考えられる。この付近で木の花之佐久夜比売に会い結ばれたと考えられる。
⑤邇邇芸の命は川内(せんだい)市の可愛(えの)山陵に葬られ、霧島神宮に祀られている。
⑥笠沙の岬は薩摩半島中ほどであり、南西九州の制圧を行ったと考えられる。その結果、葬られたところが川内川下流の川内市となる。

火遠理ほおりの命 『古事記』の要点
①木の花之佐久夜比売は、天つ神の子の証を示すため入り口のない産屋に入り、土で内側を塗りふさぎ、しかも出産の時に産屋に火をかけた。
②燃え盛る時に生まれた3人の子の長男が火照(ほでり)の命の海佐知毘古。次男が火須勢理(ほすせり)の命、最後の男子が火遠理(ほをり)の命の山佐知毘古。
③山佐知毘古が海佐知毘古に頼み道具を借りて、海で釣りをしたが、鉤(つりばり)を亡くしてしまう。海辺に居る所に、塩推(しおつち)の神が来て、綿津見(わたつみ)の神(海の神)の所へ行く船を造り、送り出してくれた。
④山佐知毘古は綿津見の神のところに行き、その娘の豊玉(とよたま)比売と会い娶る。
⑤三年もの月日が流れ、亡くした鉤の話をした。綿津見の神は大小の魚を集め、鯛の喉に亡くした鉤があることを見つける。
⑥綿津見の神による「この鉤は淤煩鉤(おぼち)、須須鉤(すすち)、貧鉤(まちち)、宇流鉤(うるち)」の呪文、その他に田の作り方などから、山佐知毘古が海佐知毘古を支配下におくことになる。

火遠理の命(ほおりのみこと)[穂穂手身]
①『日本書紀』では最初が火酢芹命(ほのすせり)の命[海幸彦]で、次が火明(ほのあかり)の命、次が彦火火出見(ひこほほでみ)の尊[山幸彦] 、記載されている。
②しかし、 『日本書紀』の一書第三と一書第七は火明(ほのあかり)命、火進(ほのすすみ)命[火夜織命(ほのよおり)]、彦火火出見尊の順で、生まれる順番が、 『日本書紀』の本文と違う。
③火遠理の命は鹿児島神宮付近の高屋(たかや)山上陵に葬られ、鹿児島神宮で祀られている。
④笠沙の岬の大山津見の命の流れである海佐知毘古は隼人の祖先であり、山佐知毘古が海佐知毘古に勝ったことは、隼人を支配下においたことを示している。
⑤綿津見の神の娘を娶ったことは、日向灘沿岸の海を支配する住民(日向隼人)の協力体制が整ったことを示している。
⑥ 『日本書紀』の一書第八では瓊瓊杵(ににぎ)尊の兄に火明(ほのあかり)命がいて、尾張の連の遠祖としている。

鵜葦草葺不合の命 『古事記』の要点
①豊玉比売が火遠照の命に、「私は妊娠しており、天つ神の子を産むことになりますので、海の中ではなく陸上で産みたい」と話す。
②火遠照の命は直ちに鵜の羽を葦草(かや)にして産屋を造ったが、まだ屋根が葺けないうちにお産が始まった。
③豊玉比売は「異郷のものがお産をする時に、元の国の姿になって生むので、お産を見ないで欲しい」と言った。
④しかし火遠照の命は豊玉比売の言を不可解に思って、比売の出産状況を覗き見してしまう。そうすると、豊玉比売が大きな和邇(わに) [鰐鮫]の姿になって這い回っていたので、逃げ出してしまった。
⑤豊玉比売は夫が覗き見したことを知って、恥ずかしく思い、妹の玉依(たまより)比売に後を託して、海に帰ってしまう。
⑥このようなことで、ここで生まれた子が天津日子波限建鵜葺草葺不合(あまつひこなぎさたけうがやふきあえず)の命という。

鵜葺草葺不合(うがやふきあへず)の命
①叔母の玉依(たまより)比売(豊玉比売の妹)と結婚。大隈半島の中ばにある吾平山上陵(あひらやまのうえのみささぎ)に葬られ、日南海岸の鵜戸神宮に祀られている。
②『新唐書』では「初めの主は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、彦瀲(ひこなぎさ)に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。」とあり、天皇の前の時代の神の名は天御中主と彦瀲の二柱である。
彦瀲の記載があるのは神武天皇の親であることからであろうか。
③しかし記紀では神代の三代の記述の中で、鵜葺草葺不合の命に関する記述は簡単である。これは鵜葺草葺不合の命が支配地域を大きく拡張することが無かったことの現われと考えられる。
④鵜葺草葺不合の命は、次の神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)の命が東征するための体制を作ったと考えられる。

神武天皇の誕生 『古事記』の要点
①鵜葺草葺不合(うがやふきあへず)の命は叔母の玉依(たまより)比売を娶る。②五瀬(いつせ)の命、次に稲氷(いなび)の命、次に御毛沼(みけぬ)の命、次に若御毛沼(わかみけぬ)の命[別名:豊御毛沼(とよみけぬ)の命、
別名:神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)の命]の誕生。
③御毛沼の命は、波の穂を跳(は)みて常世(とこよ)の国に行く。稲氷の命は、妣(はは)の国とて海原に行った。

神武天皇の誕生
① 『古事記』上巻(神代記)の記述は、第一代の天皇である神武天皇(神倭伊波礼毘古の命)の誕生で終わっている。
②稲氷(いなび)の命と御毛沼(みけぬ)の命は別世界へ行ってしまうので、東征は五瀬(いつせ)の命と神倭伊波礼毘古の命(神武天皇)で行くことになる。