1.02.邪馬台国の時代

中国文献による『魏志倭人伝』前の倭の記述
『論衡(ろんこう)』
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草(ちょうそう)を献ず
周の時代の記述で、この倭が日本であるか議論の余地がある。

『山海経(せんがいきょう) 』
蓋国(がいこく)は鉅燕(きょえん)の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。
この倭が日本で、燕と関係があったと考えられる。

『漢書』地理志燕地条
楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。
前漢の時代に、倭の国々を認識していた。

後漢書』
建武中元二年(57年)、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した。光武帝は印綬を賜る。
安帝の永初元年(107年)、倭国王が帥升らに奴隷百六十人を献上・・・
弥生時代の「奴国」が中国に認識された最初の国と考えられる。

弥生時代の東アジア年表

奴国について
 倭伝(後漢書から)『後漢書』[范曄(はんよう)]
・建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国、貢(みつぎ)をささげて朝賀す。 使人は、みずから大夫(たいふ)と称す。(倭の奴国は、)倭国の極南界なり。光武(帝)は、賜うに印綬をもってす。
・安帝の永初元年(西暦107)倭国王の帥升等、生口160を献じ、願いて 見(まみ)えんことを請う。
・桓(帝)・霊(帝)の間(146年189年)、倭国大いに乱れ、更々(こもごも)相攻伐し、 年を歴るも、主無し。
・一女子あり。名を卑弥呼という。年長ずるも嫁せず。鬼神の道に事(つか)えて、能く妖を以って、衆を惑わす。是に於いて(倭国の人々は、卑弥呼を、)共に立てて王と為す。
弥生時代の国は奈良時代の郡程度の大きさと思われ、奴国は後漢から金印を受ける関係で、倭国では大きな国といえる。

奴国の所在地と金印が発見された場所

奴国は須玖岡本遺跡(春日市)が中心となる
(邪馬台国の会HP第311回より)
邪馬台国の会HP第311回より

・那珂川と御笠川とに挟まれた地域が奴国の地域である須玖岡本遺跡(春日市)が中心となる。
・更に御笠川の支流の諸岡川と牛頸川の間に背振山地からから張り出した台地がある。ここが、『和名抄』『延喜式』の那珂郡である。
・現存する地名は那珂川、那の津、仲、東那珂、那珂八幡神社などである。

・後漢の光武帝が奴国に金印を与えた。
・この金印が志賀島(しかのしま)(現、福岡県福岡市東区志賀島叶が崎)で江戸時代の1784年(天明4)に発見された。
・現在ここは、金印公園となっている。
・定説では、奴国が滅ぶときに、志賀島に埋められたとされている。(隠匿説)

金印とは

志賀島で発見された金印
(邪馬台国の会HP第311回より)

・金印は、一辺2.3cmのほぼ正方形で厚さ0.9cmのもので、蛇形の紐がつく。印面には「漢委奴国王」の5文字が3行にわたって陰刻されている。『後漢書』にいう建武中元2年(57年)に倭の奴国王が後漢に朝貢して光武帝から印綬を受けたという記事と符合する。
・読みは「かんのわのなこくおう」とされている。
・一方で、金印偽造説もあるが、江戸時代に入手できる資料には、銅の印と亀の鈕である。金の印と蛇の鈕する根拠が薄いと思われる。詳細は「第311回邪馬台国の会」参照
・「滇王之印」が1957年に雲南省晋寧県石塞山の土壙墓から出土した。これは金印で蛇の鈕である。また、「滇王之印」は紀元前109年に、漢の武帝が滇王に与えた『漢書』に記されているものとみられる。

『魏志倭人伝』から邪馬台国について
『魏志倭人伝』とは
① 『三国志』は、晋の史官陳寿(ちんじゅ)によって執筆され、太康(たいこう)年間(280~289)に成立したと考えられている。魏書(魏志)、呉書(呉志)、蜀書(蜀志)があり、現在の『三国志』のテキストが成立するまでには多くの変遷を経ている。
② 『三国志』のなか、魏志から、『魏志倭人伝』があり、倭について、帯方郡から出発して、倭の国にいたるまで、更には倭の風俗、動植物に至るまで書かれおり、女王国についての政治状況、卑弥呼の死、台与の代についてまで書かれている。
③中国側が日本について、このような詳細な記録を行うのは珍しく、その後もここまで詳細な記録書を残すことはない。これは倭に行った魏の使いの張政(ちょうせい)の詳細な報告書を陳寿(ちんじゅ)が書き写したとの説が有力。

『魏志倭人伝』のテキスト
現在まで残っている『三国志』のテキストは次の二つがよく知られている。
①紹興本
 南宋の初期の紹興年間(1131~1162年)に刊行されたもので、「東夷伝」、「倭人伝」を含む刊本としては現存最古。
 文字数は1,985文字。

慶元(けいげん)本[いわゆる紹熙(しょうき)本]
 南宋の紹熙年間(1190~1194年)に刊行されたとしばしばいわれているテキスト。南宋中期の建安で印刷された坊刻本(民間で刊行された本)で紹熙年間に刊刻された根拠はない。慶元年間の刊本が存在するだけで、現在は宮内庁書陵部に存在する。張元済(ちょうげんさい)(清時代から中華民国)が百衲本二十四史を編纂したなかでの『魏志倭人伝』は日本の宮内庁書陵部に存在する「慶元本」を写真印刷したもの。
 文字数は1,984文字。

『魏志倭人伝』の本文については、「邪馬台国の会」のホームページ『魏志倭人伝』参照

邪馬台国の位置
漢の武帝時代の朝鮮半島

・漢の武帝は朝鮮の衛満(えいまん)のたてた王朝を滅ぼし、BC.108年に楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四つの郡を設置した。
・その後、BC.82年に真番、臨屯、玄菟は廃止され、楽浪郡による朝鮮支配となった。
・そして、後漢から遼東太守に任命された公孫氏の公孫度は後漢から自立して、190年頃には朝鮮半島の楽浪郡を支配する。
・公孫度の後を継いだ公孫康は、楽浪郡18城の南半を割いて帯方郡として設置した。(204年頃)

3世紀頃の朝鮮半島
・その後190年頃には公孫氏が後漢から自立して、楽浪郡を支配する。
・3世紀ごろ、朝鮮半島では三韓があった。
  馬韓(ばかん)
  弁韓(べんかん)
  辰韓(しんかん)
・各韓の国の中は小さなクニが存在し、
 統一国家までに至ってなかった。
・『三国誌東夷伝』の「韓伝」に、韓は帯方〔郡〕の南にあって、東西は海をもって境界とし、南を倭と〔境界を〕接しているとある。
・弁辰伝では弁辰の瀆盧(とくろ)国は直接倭に接していたとある。
朝鮮半島の南端に倭があったのではないか。

前漢の武帝が朝鮮半島においた四つの郡
(邪馬台国の会HP第406回より)

狗邪韓国について
・狗邪韓国は、 『三国志』の「弁辰伝」に、「弁辰狗邪国」とある。これが狗邪韓国のことと考えられ、現在の慶尚南道の金海付近にあった。
・狗邪(くや)→伽耶(かや)となったことが考えられ、金海の加羅を指すのではないか? これは日本では「南加羅」として「任那」のことを言う。
・また、『三国志』の『魏志』の「韓伝」では「韓は、帯方の南にあり、東西は海をもって限りとなし、南は、倭と接す。」とある。これは、韓が南は海をへだてではなく、陸つづきで、倭と接していたと読み取れる文である。
・朝鮮の歴史書『三国史記』では「金官国」と記されている。また、『三国史記』にみえる「加耶(かや)国」の「加耶」も「狗邪」に通じる。同じく朝鮮の歴史書である『三国遺事』では、「駕洛(からく)国」、『日本書紀』では「南加羅」と記されている。
・『魏志倭人伝』は下記の記述がある。
「郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍(しばらく)南乍東、その北岸、狗邪韓国(くやかんこく)に到る。七千余里。」
・この郡より最初にいたる場所を狗邪韓国としている。この狗邪韓国は倭に行く朝鮮半島の通過路と考えられる。そして「韓国」の一部と考えられるが、倭の一部とも解釈できる。
・そうすると、朝鮮半島南岸に倭の領域があり、その地域は狗邪韓国も含め、韓と倭が混じった状態はであったと考えられ、右の地図あるように、『魏志東夷伝』の『韓伝』の記述とあうことになる。


井上秀雄氏、『東アジア民族史1』(平凡社刊)から(邪馬台国の会HP第232回より)

『魏志倭人伝』から九州説と畿内説の論争
①邪馬台国までの道程
   どちらが記述にあうか?
②出土物
   記述の鉄鏃、絹、 孔青大珠、の出土物はどちらに有利か?
③鏡
   魏からの「銅鏡百枚・・」、これは三角縁神獣鏡か?
④矛
   「兵には矛、楯・・」、矛の文化圏はどちらか?
⑤墓制
   「棺あって槨なし。土を封じて、塚をつくる。」 卑弥呼の墓はどこか?
⑥卑弥呼の墓
   「大いなる塚を作くる。径百余歩」 卑弥呼の墓どちらにあるか?

道程は放射状に行ったことも考えられる
魏志倭人伝では、朝鮮から伊都国までと、それ以降とは、道のりの書き方が異なっている。
・朝鮮から伊都国までは「A国、又・・・至B国」のように国が連続して繋がっているように書いてあるのに対して、以降は、「伊都国・・・・東南至奴国・・・・東行至不弥国・・・・南至投馬国・・・・南至邪馬台国」のように書かれており、伊都国を起点として放射状に国々が配置されている(放射式)と解釈するべきである。
・また、熱暑の中、道なき道を歩む当時の旅を想定して行った実地踏査では、1日の行程は7キロがやっとであり、リアス式海岸伝いに、このペースで2日歩いても直線距離にして5キロほどしか進めないことが多かった。当時の1日の陸路の行程は予想外に短いようだ。この程度の速度で旅をしたとすると、邪馬台国への道のりを順次式で考えても、邪馬台国は九州の中として考えられる。

「水行十日、陸行一月」の解釈
南至投馬國 水行二十日 (南、投馬国に至る。水行二十日なり)
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月(南、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月なり。)
・「水行十日、陸行一月」などの表現は、先に水路を10日行ってから、続いて陸路を一月進んだという実際に道を進めた”所要日数”のことを意味しているのではない。
・地勢によって、沿海水行したり、山谷を乗り越えたり、川や沼地を渡ったり、陸路を行ったり、さらに、天候などの事情によって進めなかった日数や、休日、祭日その他の日数も加算し、卜旬の風習も頭に入れておおざっぱながらも、整然とした「十日」「一月」で表記したのであろう。
・つまり、魏使の道程には水行の部分、陸行の部分、さまざまな部分があり、その水行の部分を合計すれば『水行十日』」となり、その陸行の部分を合計すれば『陸行一月』」となるという意味であるとする。

魏志倭人伝による邪馬台国までの道程


帯方郡~邪馬台国までの距離:一万二千余里

『魏志倭人伝』は帯方郡から、邪馬台国に至る道程が書かれており、記述を素直にたどると、海の中に邪馬台国があることになり、九州説も近畿説も合わなくなる。
伊都国を中心に放射式に道程を考えると、九州説で距離が短いところが補える。

邪馬台国までの距離

・帯方郡から狗邪韓国まで7千余里、狗邪韓国から末盧国までの3千余里を合計すると1万余里、

・従って末盧国から邪馬台国までは1万2千余里から1万里を引いて、2千里ほどとなる

・1里=約100mと想定して末盧国と考えられる松浦半島から、円を描くと左図となる。

・邪馬台国は北九州の範囲にあったと考えられる。

邪馬台国の会HP第410回より

邪馬台国時代の遺物について
『魏志倭人伝』記載の出土物

①鉄の鏃(やじり)
鉄の鏃は九州が圧倒的に多い。
②鉄刀、鉄剣、鉄矛(ほこ)、鉄戈(か)
兵器に矛を使うと記されており、武器になりうるのは鉄の矛である。古代人は矛も戈も当時は「ほこ」としていたようであり、刀と剣も明確には区別していなかったようだ。鉄刀、鉄剣、鉄矛、鉄戈をまとめて県別の出土状況をみると、福岡県が102個であるのに、奈良は1個である。

福岡県と奈良県の比較 (邪馬台国の会HP「特集-考古学のデータベース」より作成)

邪馬台国の会HP第370回より 拡大可

③絹
・「養蚕をおこない、糸をつむぎ、細かな縑(けん)や緜(めん)を作くっている」とある。魏への二度目の使者は「倭錦(わきん)、絳青縑(こうせいけん)、緜衣、帛布(はくふ)」を献じた。弥生時代に絹が出土したのは福岡、佐賀、長崎の3県のみ。九州の方が絹は盛んであった。

考古学者の森浩一氏は、その著『古代史の窓』(新潮文庫、1998年刊)のなかでのべている。
・ヤマタイ国奈良説をとなえる人が知らぬ顔をしている問題がある。布目氏(布目順郎、京都工芸繊維大学名誉教授)の名著に『絹の東伝』(小学館)がある。目次をみると、『絹を出した遺跡の分布から邪馬台国の所在等を探る』の項目がある。
・簡単に言えば、弥生時代にかぎると、絹の出土しているのは福岡、佐賀、長崎の三県に集中し、前方後円墳の時代、つまり四世紀とそれ以降になると奈良や京都にも出土しはじめる事実を東伝と表現された。
・布目氏の結論はいうまでもなかろう。倭人伝の絹の記事に対応できるのは、北九州であり、ヤマタイ国もそのなかに求めるべきだということである。この事実は論破しにくいので、つい知らぬ顔になるのだろう。
邪馬台国のあった場所は絹の遺物の出土も多いはずである。

邪馬台国の会HP第416回より

④勾玉

・『魏志倭人伝』で、倭は「白珠五千・孔青大句珠二枚」を献じたとある。
・弥生時代の勾玉の出土は北九州が他を圧倒している。
・平原(ひらばる)遺跡からは青いガラス製の勾玉が出土している。

       邪馬台国の会HP第370回より               『日本神話120の謎』安本美典著、勉誠出版刊より


遺物からからは邪馬台国九州説が有利である。

⑤青銅鏡

中国王朝と青銅鏡
・中国の殷時代から始まった青銅器は周の時代( BC1046~)には盛んに造られていた。
・中国春秋時代(BC770年)には鉄器文化が始まった。
・燕は戦国時代に秦に滅ぼされるが、燕の時代に倭とのつながりあったとされ、初期の青銅器の原料は燕から来たと考えられる。
・それから大幅に遅れて、日本では弥生時代の始まり(BC300~)には青銅器文化が始まり、弥生時代後期には鉄器文化も始まった。
・日本の弥生時代から古墳時代までに出土する鏡は前漢から西晋末ごろまでの鏡となる。

邪馬台国の会HP第367より作成

『魏志倭人伝』で、魏は倭に「銅鏡百枚」を与えたとある。
・寺沢薫氏の土器編年資料による県別・庄内期の鏡の出土数でのグラフでは、奈良県から3個の鏡が出土している。この3個の鏡はホケノ山古墳からの出土である。
・これでも、十分に北九州と奈良県では鏡の出土数に差があるが、関川尚功氏は、ホケノ山古墳は庄内期の古墳ではなく、布留式土器の時代のものであるとしている。
・ホケノ山古墳が布留式土器の時代のものとすれば、奈良県からは庄内様式の時代の青銅鏡の出土数は一例もないことになってしまう。

邪馬台国の会HP第370より作成

三角縁神獣鏡

・日本では500面以上が、出土しているが、中国では1面の出土もない。後漢時代では中原と北方領域では画像鏡と神獣鏡はまったく流行していない。まれに環状乳神獣鏡が出土するがこれは、南方の揚子江流域からもたらされたと考えられる。
鏡全体から見て、中国から出土する北方(魏鏡)であれ、南方(呉鏡)であれ三角縁神獣鏡とは異なっている。
・3世紀の弥生時代の遺跡からは出土せず。古墳時代からの出土が多い。これは畿内でも同じである。出てくる鏡は内行花文鏡、飛禽鏡、盤竜鏡などである。
・また同じ鏡からコピーした仿製(ぼうせい)鏡(踏み返し鏡)が多い。
・破鏡として出土のものが多く、何らかの理由で、鏡を壊して埋めたと考えられる。
・韻を踏んでいない、仿製鏡では文字を拾って集めた鏡もある。後漢に流行した方格規矩四神鏡の代表的銘文では各句末に韻を踏んでいるが、方格規矩四神鏡の後とされている三角縁神獣鏡はまったく韻を踏んでいない。魏の時代は曹操父子をして詩壇が形成された時代である。「景初三年」は正にその時代であり韻を踏まない銘文をつくるはずがない。また踏み返し鏡では文字を拾って集めた鏡もある。
・「景初三年」の紀年銘鏡が島根県雲南市加茂町の「神原神社古墳」から出土、「正始元年」の紀年銘鏡が3面(仿製鏡)[兵庫県豊岡市の「森尾古墳」など]出土している。しかし、この時代に製作されたという根拠が少ない。

三角縁獣神獣鏡
『古鏡集成』宮内庁書陵部陵墓課編、学生社刊より

・三角縁神獣鏡は古墳築造時に製作された
古墳時代からの出土が多い。また同じ古墳から出土した同じデザインの鏡は面径が一致する。つまり葬儀にあたり同時に鋳造されたのではないかと推定される。また、氏族が職業に関係しており、鏡作り師がいたと思われる。

遺物からは邪馬台国九州説が有利である。

弥生時代から古墳時代初期の墳墓について
方形周溝墓

・弥生時代中期中頃に南関東、後期には北関東・東北南部と広がったとされている。
・普通一辺6~25mほどの方形にして、周囲に1~2mの溝を掘り、墳丘は0.5m程度に盛り上げる。
・供献(きょうけん)に使われた土器類は、地域によって異なるが、一般に壺・高杯に器台・甕、鉢がある。
・土壙(どこう)墓から墳丘墓に変化していったものとして、方形周溝墓が考えられ、溝を円形にした円形周溝墓も存在する。
・分布も東国だけでなく、近畿、山陰、九州など全国にも存在していた。

Webより

甕棺

・甕(かめ)や壺(つぼ)を棺(ひつぎ)として埋葬する墓で、世界各地に見られるが、乳幼児の墓として用いられる例が一般的である。

・弥生時代の甕棺墓の特色は、成人を埋葬したこと、成人埋葬用に大型の甕棺を製造したことであり、世界的にも非常に珍しい。

・1個の甕に土器などの蓋をするもの(単棺)、2個の甕を開口部で合わせたもの(合口棺)などがある。

Webより

箱式石棺墓

・石を箱のように配置する墓で、弥生時代後期から北九州で増える。

・魏志倭人伝の「棺あって槨なし・・」の記述などから、邪馬台国時代は箱式石棺の時代と考えられる

筆者撮影

四隅突出型墳丘墓

・方形の墳丘の四隅が外方に突出する特徴をもつ墳墓で、突出部を墳丘への通路とみる考えがあり、また時期が下がるにつれて突出部が発達する。
・墳丘斜面に葺石をもつ点は特異である。埋葬は木棺で、多数から少数へ変化し、また墳丘もしだいに大型化する。
・地域は山陰が中心だが、越前、吉備までの広がりがある。

Webより

弥生時代前期の墳墓

・弥生時代前期には、既に九州と近畿とでは墓の造り方や構造が違う。

・支石墓は縄文時代晩期に、長崎県に出現しており屈葬などがある。弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉。

・九州では区画を重視しない木棺墓や石棺墓で、瀬戸内では埋葬施設を方形や円形の溝で区画する周溝墓が出現。

『弥生王墓誕生』
島根県立古代出雲歴史博物館企画展
2007年刊より作成

弥生時代中期の墳墓

・弥生時代中期には、地域性が現われてくる。

・九州は甕棺が全盛となり、瀬戸内では方形に加え円形区画の墓が増加。

・山陰では方形貼石墓がつくられる。 ④関東や東北南部では、遺体が腐敗した後、収骨して壷に収めて埋葬する再埋葬が流行る

『弥生王墓誕生』
島根県立古代出雲歴史博物館企画展
2007年刊より作成

弥生時代後期の墳墓

・弥生時代後期には、墓の地域性が複雑になる。

・九州は甕棺が衰退して、箱式石棺が増加。

・中国地方では様々な形態の墳丘墓が登場。

・東日本では、方形周溝墓が主流だが、近江・伊勢湾岸に起源を持つ前方後方形墳墓が数を増やしている。

『弥生王墓誕生』
島根県立古代出雲歴史博物館企画展
2007年刊より作成

甕棺と箱式石棺の分布

甕棺

箱式石棺

邪馬台国の会HP第347回と第409回より

・金印で有名な奴国時代に甕棺が隆盛であった。甕棺の分布は福岡県、佐賀県に多く分布している。弥生時代中期から後期に発展するが、後期中頃から急速に減少する。その北限は嘉穂盆地である。
・しかしその時代でも遠賀川流域などでは箱式石棺墓が行われていた。このような地域から箱式石棺が勃興して、甕棺墓地域を圧倒していった。このように箱式石棺墓が甕棺墓を駆逐すたのではないか。こうして、奴国の甕棺墓時代から、箱式石棺墓が邪馬台国時代となる。
・箱式石棺の分布は茂木雅博著の『箱式石棺』(同性成社2015年刊)が参考になる。
・この本によると、箱式石棺に関し、都道府県別では福岡県が多く、市・町別では朝倉市が一番多く、次は北九州市である。これは人口の分布と一致している。
・北九州では弥生時代の墓は甕棺とか箱式石棺なので、遺跡の跡が残る。しかし奈良県は土壙墓が多かったので、中の死体が土に返ると何も残らない。そこで、弥生時代の遺跡の墓が見られないのではないか。

墳墓から
・九州と他の地域では大きな差がある。
・甕棺の墓制を持つ部族は副葬品から当時一番強力な権力があった集団と考えられる。弥生中期から北九州を席巻するが、弥生後期に急激に減少する。
・甕棺の墓制と入れ替わるように増えるのが、箱式石棺を墓制とする部族である。
・弥生後期は各地方は独自の墓制であったのが、古墳時代になり前方後円墳に統一されていく。
・大和朝廷の統一に向けて、新たな墓制を持つ部族が現れたのではなく、統一のプロセスで各部族の要素が加わったため、墓制が変化して前方後円墳になって行ったと考えられる。

棺あって槨なし
・『魏志倭人伝』には、倭人の墓制が記されている。そこには「棺あって槨なし」とある。
・中国の「槨は」学校の教室かそれ以上の大きな部屋とする説があるが、『三国志』の「文帝紀」に、「棺槨(内棺と外棺)は、骨を朽ちさせ、衣衾(いきん)[衣服と褥(しとね)]は肉を朽ちさせるだけのもので充分と考える。」とある。要するに「槨」は。「外棺」で、「大きな部屋」のようにはみえない。
・北部九州の「甕棺」や「箝式石棺」、あるいは「木棺直葬」などは、「棺あって槨なし」の記述に合致する。
・ホケノ山古墳からは、木槨が出土している。これは『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述に合致しない。
・箸墓古墳は、宮内庁の公開資料をもとにするとき、「竪穴式石槨」がるように見える。箸墓古墳となんらかの関連がうかがえる古墳で、これまでに発掘された古墳は、ことごとく、「石槨(竪穴式石室)」、または「木槨」をもっている。
・ホケノ山古墳や箸墓古墳などの槨のある墓制は、時代的に、邪馬台国よりものちの時代の墓制ではないか。

銅鐸について
銅鐸の種類

銅鐸の年代
・銅鐸は祭器と考えられるが、ある時期に、山麓など、人が来ないようなところに埋めるのに効率のよい入れ子などにして、まとめて埋められた。
・考古学では、土器による編年が進んでいる。そこで考古学上の遺物は一緒に出土した土器によって、年代を決めていく。
・しかし銅鐸は土器と一緒に出てこない。
・その結果、銅鐸のはじまりの時期についての諸説があり、小林行雄氏や佐原眞氏は古い時代にしているが、藤瀬禎博(よしひろ)氏、杉原壮介(そうすけ)氏は新しい時代にしており、そこには300年の隔たりがある。

邪馬台国の会HP第383回より 拡大可

終末期銅鐸の出土分布

邪馬台国は銅鐸王国へ東遷した』安本美典著、勉誠出版刊より作成

銅鐸から
・藤瀬氏などの銅鐸の年代が新しいものとすると、畿内の銅鐸は、二、三世紀の、弥生式文化の後期に、もっとも盛大となり、しかも、突然、その伝統を絶つと考えられる。
・銅鐸は、つねに、人目につかない谷問の斜面や、山腹などに、とくべつな施設も なく埋められた状態で、発見される。
・銅鐸は、弥生式時代の住居のあとから、出土した例がない。
・古い型式の銅鐸は、磨滅した状態がみられ、長年伝世されたあとに埋められたようにみえ る。
・新形式のものには、鋳造してから、すぐ埋められたようなものもある。
・新旧の銅鐸が、いっしょに埋められている例も多い。
・銅鐸は、祭器であったといわれている。しかし、他の祭器といっしょにみいだされる ことはほとんどない。
・近畿式銅鐸と三遠式銅鐸は「終末期銅鐸」で、サイズが大きくなり最終段階の銅鐸と考えられる。
・傾向として、東に行くほど、「終末期銅鐸」の出土率が大きくなる。
・そして、弥生末期に銅鐸は突如埋められて、使用されなくなる。
・ほぼ邪馬台国の時代のころ、箱式石棺と「終末期銅鐸」とが、住みわけしているようにみえる。すなわち、箱式石棺の行なわれている地域では、「終末期銅鐸」は、ほとんど出土しない。逆に、「終末期銅鐸」の行なわれているところでは、箱式石棺は、ほとんど出土していない。
・この箱式石棺と「終末期銅鐸」との住みわけ、対立は、じつは、北九州を中心とする「鏡の世界」と、島根県以東にひろがる「銅鐸の世界」との住みわけ、対立の状況を反映しているとみられる。
・つまり、邪馬台国の時代、庄内式の時代において、畿内は、なお銅鐸の時代であったことをうかがわせる。
・この状況を説明するには、鏡を祭器とする北九州地方の勢力が近畿や中部地方の勢力を制圧したため、祭器が入れ替わったと考えることが妥当である。
・古墳時代は墳墓から鏡の出土が多くなる。
これは、邪馬台国が北九州にあって、邪馬台国が東遷した説を補強するものである。

「邪馬台国の時代」まとめ
・弥生時代の中期に北九州は後漢の光武帝から金印を受けるほどの奴国があり、日本全体を考えると北九州が一番発展していたと考えられる。そして奴国は甕棺の墓制であった。
・一方朝鮮半島では、前漢の武帝が楽浪、真番、臨屯、玄菟の四郡が設置されたが、その後、真番、臨屯、玄菟が廃止され楽浪のみとなった、漢から独立した公孫氏が、この楽浪郡の南半分を割き、その周辺を加えて帯方郡を設置した。
・ 『魏志倭人伝』の記述の道程について、マクロ的に考察すると、帯方郡から邪馬台国までの全体の距離(一万二千里)と帯方郡から末盧国までの距離(七千+千+千+千=一万里)との差は2千里である。邪馬台国は末盧国から2千里のところにあることになる。
・『魏志倭人伝』には、兵器には矛、・・・・、鉄鏃を使うとあり、養蚕し、絹の糸や布、白珠などを献じたとある。邪馬台国に鉄の矛や鏃、絹、勾玉があったと考えられる。これらは、北九州からの出土が圧倒的に多い。
・発掘などの考古学から邪馬台国時代を考えると、土器編年からは庄内式土器の時代であり、墓制からは箱式石棺の時代と考えられる。
・ 『魏志倭人伝』で、魏は倭に「銅鏡百枚」を与えたとある。そして、庄内期の銅鏡の出土は北九州が圧倒的に多い。更に、三角縁神獣鏡は古墳時代の4世紀以後の墳墓からしか出土していない。
・弥生時代後期の墳墓は方形周溝墓、甕棺墓、箱式石棺墓、四隅突出型墳丘墓となる。この中で、北九州では甕棺墓から箱式石棺墓に変わった時期が邪馬台国時代との説がある。
・銅鐸の種類は、初期銅鐸(菱環鈕式)、最盛期銅鐸(外縁付鈕式、扁平鈕式)、終末期銅鐸[扁平鈕式(近畿式、三遠式)]がある。終末期銅鐸は、畿内、中部に多く分布する。
・箱式石棺と終末期銅鐸とは住み分けられているように見える。そして、弥生末期の銅鐸は突然埋められてしまう。これは、北九州勢力が、近畿地方や、中部地方に進出した結果、祭器が入れ替わったと考えられる。