■『古事記』について
『古事記』と『日本書紀』
『古事記』と『日本書紀』は共に日本最古の書物である。
『古事記』は神話時代から推古天皇の時代に至る事柄を記述したものであり、原本は現存せず「伊勢本系統」と「卜部本系統」の写本がある。
その構成は下記の3巻より成っている。
・上つ巻(序・神話)
・中つ巻(神武天皇から十五代応神天皇まで)
・下つ巻(第十六代仁徳天皇から三十三代推古天皇まで)
乙巳(いっし)の変で、蘇我入鹿が討たれた時、入鹿の父の蝦夷が自分の屋敷に火をかけ自害した。その時、朝廷の書庫までが炎上し、多くの歴史書が失われた。そこで、各豪族に散逸していた書物を集めて国史を編纂するため、天武天皇が稗田阿礼に『帝紀』及『本辭』などの文献を「誦習」させた。その後に元明天皇が太安万侶に命じて、稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)から『古事記』を編纂・完成させたとされている。
『古事記』と『日本書紀』を比較してみると下記のようになる。

また、『古事記』と『日本書紀』では、使用している漢字が違う。いくつかの使用例を下記に示す。

江戸時代の学者の『古事記』に対する考え方の違い
本居宣長(もとおりのりなが) (1730~1801)
・江戸時代中期の国学者で、後世にとくに大きな影響を与えたものとしては、つぎの三つをあげることができる。
①皇国史観
②『古事記』の注釈
③偽僣(ぎせん)説
・皇国史観わが国は、天照大御神の子孫が治めている国であるから、わが国は万国のなかですぐれて尊く、万国の中心となるべき国である。他の国々はそうでないから卑しく、天地のあらゆる国々の王たちは、みな、天皇の臣となって仕えるべきである。
・偽僣説「魏に使いを出したのは、筑紫(つくし)の南の方で勢力をもつ、熊襲(くまそ)などの類が、女王(神功皇后)の名前が諸外国にまでなりひびいているので、その使いであるといつわって、かってにつかったものだ」と解釈した。

山片蟠桃(やまがたばんとう)(1748~1821)
・「蟠桃」は、「番頭」で、倒産寸前となった主家升屋を、番頭として縦横の商才を発揮して大坂屈指の豪商に仕あげた鬼才であった。そしてまた、当時の、大坂第一流の町人学者であった。
・死の前年の1820(文政3)年に『夢之代』と題する12巻の大著を書き終えた。
・商人的実証主義、合理主義に立脚して、「日本の神代のことはそこに存在しているままにして、議論しないのが良い」とし、「日本に文字が渡って来たのは、応神天皇(第15代)のころであり、それ以前のことは、口で伝えた伝説であって、そこから事実を取り出すことはできない」としている。
・山片蟠桃の考えかたをうけついだのが津田左右吉[そうきち](1873~1961)で、『古事記』『日本書紀』は第29代の欽明天皇の時代に皇室が日本を統治するのを正当化するためにつくりあげられたものであり、神話は事実を記したものではないとした。

『古事記』神話の地名
①神話の地名は九州地方、出雲地方が圧倒的に多いことが分かる。『古事記』の神話の主要なモチーフは高天原の出来事と出雲の国譲りとなっている。このことは、大和朝廷の発祥とこの地方とに、何らかの関係があったと考えさせられる。(右のグラフ参照)
②地域を表す表現から比定すると下記のようになる。
高天原=北九州
(たかあまのはら)
葦原の中国=出雲
(あしはらのなかつくに)
根の堅州国=出雲東側
(ねのかたすくに)

『古事記』上巻(神代編)の構成
①天地開闢(かいびゃく)
・絶対神、祖神の出現
・岐・美による国・神生み
・伊邪那美の命の死
・黄泉の国訪問と帰還
②天照大御神伝承
・三貴神誕生
・須佐之男の命の反抗
・二神による宇気比(うけい)
・須佐之男の命の暴行
・天の岩戸ごもり
・天照大御神の天の岩戸出御
・須佐之男の命の追放
③出雲神話
・八俣の遠呂智(おろち)退治
・大国主の命の試練
・大国主の命の出雲経営
・天の菩比(ほひ)の命の派遣
・天の若日子の命の派遣
・出雲の国譲り
④天孫降臨
・邇邇芸(ににぎ)の命
・火遠理(ほおり)の命
・鵜葦草葺不合の命 ・神武天皇の誕生
■天地開闢・国生みと神生み
天地開闢
天地開闢の『古事記』 要点
①天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神の名は、天之御中主(あめのみなかぬし)の神。次に高御産巣日(たかみむすひ)の神。次に神産巣日(かみむすひ)の神。
②此の三柱の神は、並(みな)独神(ひとりがみ)と成り坐(ま)して、身を隠したまひき。
③次に国稚(わか)く浮きし脂(あぶら)如くして、久羅下那州(くらげなす)多陀用弊流(ただよえる)時、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物に因りて成れる神の名は、宇摩志阿斯詞備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天之常立(とこたち)の神。
④此の二柱の神も亦、独神と成り坐して、身を隠したまひき。
⑤上(かみ)の件(くだり)の五柱(いつはしら)の神は、別天(ことあま)つ神。
次になれる神の名は、国之常立(くにのとこたち)の神。
・・・・・次に伊邪那岐の神、次に妹伊邪那美の神。・・・
古事記における天地開闢、神々の出現

国生みと神生み
伊邪那岐の命(いざなぎのみこと)・伊邪那美の命(いざなみのみこと)の国生みと神生み 『古事記』の要点
・国生み
①伊邪那岐の命と伊邪那美の命が天の御柱を回り、島を生む。
②最初は蛭子(ひるこ)や淡島で失敗するが、再度やり直して、大八島[淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、大倭豊秋津島(おおやまととよあきづ)島]と六島[児島(吉備)、小豆島、大島、女島、知訶(ちか)の島(九州の五島列島)、両児(ふたご)の島]と合わせて十四島を生む。
・神生み
①更に、神を生む。大事忍男(おおことおしを)の神、 ・・・・、次に石巣比売(いはずひめ)の神、次に大戸日別(おおとひわけ)の神、次に天之吹男(あめのふきお)の神、・・・・・・(十神)
②此の速秋津日子(はやあきつひこ)、速秋津比売の二はしらの神、河海に因りて生みし神の名は沫那芸(あわなぎ)の神、次に沫那美(あわなみ)の神・・・・・・(沫那芸の神から八神)
伊邪那岐の命と伊邪那美の国生みと神生み 『古事記』の解釈
国生みと倭国の大乱
・『魏志倭人伝』の記述
「倭国乱れ、相攻すること歴年、乃ち一女子を共立して王となし、名づけて卑弥呼という」とある。(180年頃)[『後漢書』にもある]
・解釈
①この倭国の乱は北九州[高天原](箱式石棺)と山陰勢力[伯耆(ほうき)の国](四隅突出型墳墓)の連合が筑後川流域中心とした勢力[甕棺(かめかん)]と戦ったことを表している。この戦いによって勢力の拡大が国生みを意味したのではないか。
②甕棺勢力の勢いを削いだ後、北九州勢力と山陰勢力も決別して戦う。このような戦いを倭国の大乱といったのではないか。
墳墓(ふんぼ)と棺(かん)の形状
・墳墓の形状
①土壙(どこう)墓(縄文時代からあり、土に穴を掘る墓:木棺など)
②支石(しせき)墓(朝鮮半島にあるが、弥生時代の墓:甕棺、木棺、石棺)
③墳丘(ふんきゅう)墓(埋葬地に土で塚を築く[円墳]、弥生時代前期から見られたが、比較的小規模であった。弥生後期になると墳丘の規模が一気に大きくなり、その後の古墳へとつながっていく)
・墳墓の名称
①方形周溝墓(木棺埋葬地の周囲を方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築く墓 :木棺)
②方形貼石墓(出雲地方:木棺)
③四隅突出型墳丘墓(主に出雲地方:木棺)
④前方後円墳(畿内から全国へ:石棺など)
・ 遺体を入れる棺
①棺なし(土壙墓など土に穴を掘り、遺体を直接葬る)
②木棺(腐食するので遺物から全体が分からない)
③甕棺(かめかん)(北九州地方)
④石棺(特に箱式石棺は北九州地方が多い)
弥生時代後期の墳墓
・弥生時代後期には、墓の地域性が複雑になる。
・九州は甕棺が衰退して、箱式石棺が増加。
・中国地方では様々な形態の墳丘墓が登場。
・東日本では、方形周溝墓が主流だが、前方後方形墳墓が数を増やしている。
・箱式石棺の時代が邪馬台国の時代とされている。
・箱式石棺が「棺あって槨なし」の『魏志倭人伝』の記述に合っている。

島根県立古代出雲歴史博物館企画展
2007年刊より作成
甕棺グループと箱式石棺グループの戦い
・甕棺の分布は福岡県、佐賀県に多く分布している。弥生時代中期から後期に発展するが、後期中頃から急速に減少する。
・箱式石棺は遠賀(おんが)川下流、宇佐地方など北九州に分布する。邪馬台国時代に発展するが、その後は減少する。
・嘉穂(かほ)盆地の立岩式甕棺は早くから消滅する。
・箱式石棺グループは最初に嘉穂盆地の甕棺グループを攻め、その後二手に分かれて、福岡平野、早良平野、から唐津へ、もう一方は筑後川流域を攻めたと考える。
・箱式石棺を墓制とする邪馬台国と、甕棺を墓制とする奴国などの国とが争ったことではないか。

■伊邪那美の命の死
伊邪那岐・伊邪那美と黄泉の国
伊邪那岐・伊邪那美と黄泉の国 『古事記』の要点
①伊邪那美の命が火の神「迦具土(かぐつち)」を産む事により死ぬ。
②伊邪那岐の命は伊邪那美の命に会いたくて、黄泉(よみ)の国を訪問する。
③伊邪那美の命がその場で待つように頼むが、伊邪那岐の命は待てない。明かりを灯して、伊邪那美の命の変わり果てた姿を見てしまう。
④伊邪那美の命は予母都志許売(よもつしこめ)[悪霊?魔女?]に伊邪那岐の命を追わせる。
⑤ その後、八柱の雷神に1,500の軍を付けて伊邪那岐の命を追わせ、更には伊邪那美の命みずからが追いかける。
⑥逃げた伊邪那岐の命は黄泉比良坂(よもつひらさか)で、千引(ちびき)の岩により、伊邪那美の命がいる黄泉の国をふさいだ。
岐伊邪那・伊邪那美と黄泉の国 『古事記』の解釈
伊邪那岐・伊邪那美の命伝承
・黄泉(よみ)の国とは
①鳥取県の島根県境近くの米子市付近の弓ヶ浜は夜見が浜と言いい、黄泉の国は黄泉浜(夜見が浜)が変化したとも考えられる。
②伊邪那美の命が葬られたのは、出雲の国と伯耆(ほうき)の国との堺の比婆山と伝たえられており、現在も陵墓がある。
・北九州勢力と山陰勢力の戦争
①北九州勢力と山陰勢力が決別するきっかけは、伊邪那美の命の死であり、山陰勢力1,500の兵と戦ったことは大きな戦いがあったことを表している。
②この戦いの結果、北九州勢力と山陰勢力が伊賦夜坂(いふやさか)を境として決別したことを意味する。
・出雲神話の地域
①伊邪那美の墓は『出雲風土記』から、島根県能義郡伯太(はくた)町横屋比婆(ひば)山が有力であり、夜見が浜は黄泉の国に通じる。
②『古事記』の「黄泉比良坂(よもつひらさか)」は「伊賦夜坂(いふやさか)」と考えられ、『出雲風土記』で伊布夜の社(いふやのやしろ)があったと伝えられる。

三貴神の誕生 『古事記』の要点
①伊邪那岐の命は黄泉の国から戻り、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あわぎはら)で禊(みそぎ)をする。
②杖、帯、着物、袴、冠、腕輪などから化生(けしょう)して神がうまれる。
③禊の水の中で、黄泉の国の汚いものから神がうまれ、水の底から海の神などがうまれる。
④最後に貴い神がうまれることになる。左目から天照大御神(あまてらすおおみかみ)、右目から月読の命(つきよみのみこと)、鼻から須佐之男の命(すさのうのみこと)である。
⑤伊邪那岐の命は「天照大御神は高天原を治めよ、月読の命は夜の国を治めよ、須佐之男の命は海原を治めよ」と命じた。
三貴神の誕生 『古事記』の解釈
・天照大御神の存在
①伊邪那岐の命にとって、天照大御神は後継者と考えられる。
②天照大御神の子孫として、その直系が継ぐかたちとなっている。
・天照大御神と卑弥呼との共通性
①卑弥呼も天照大御神もともに女性である。
②天照大御神も卑弥呼も、ともに宗教的権威をそなえている。
③ともに夫を持たなかったようである。
④卑弥呼には、弟がいたことになっている。天照大御神にも須佐之男の命、月読の命という弟がいる。
・天照大御神と須佐之男の命支配地域
①天照大御神は高天原なので、北九州を支配したと考えられる。
②須佐之男の命は海原を治めよとなっている。須佐之男の命はその後、宗像の方と関係するので、この海原は玄海灘方面で朝鮮との関係も含めるかと考えられる。
■宇気比(うけい)による変化
宇気比(うけい)
宇気比(うけい)『古事記』の要点
①須佐之男の命は伊邪那岐の命から「海原をおさめよ」と命じられるが、実行せず、泣いてばかりいたため、青山は枯れ、河や海が涸れ、災いがおこる。
②伊邪那岐の命が「何故泣いているのか」と問いただすと、「母の国の根の堅州国に帰りたい」というので、伊邪那岐の命は怒り「それならこの国に住むな」として追放する。
③須佐之男の命はそれでは天照大御神に挨拶に行として、高天原の天照大御神のもとに行く。
④須佐之男の命は己の潔白を示すため宇気比をしたいと天照大御神に申し込み、宇気比を行う。
⑤宇気比で須佐之男の命の十拳の剣から姫神3柱がうまれ、天照大御神の八坂の勾玉からは5柱の男神がうまれる。
⑥姫神をうんだ須佐之男の命は身の潔白が証明され、宇気比に勝ったとして暴れまわる。
宇気比(うけい) 『古事記』の解釈
天照大御神が須佐之男の命と戦ったことを宇気比(日本書紀は誓約と表記)として表したのではないか。また、須佐之男の命から生まれた神は宗像(むなかた)神社と関係がある。その後、宗像神社のひめは大国主の命も関係している。
須佐之男の命:
①多紀理毘売の命(たきりびめ)田心姫神(たごりひめ) :奥(沖)津宮(沖ノ島)
②市寸嶋比売の命(いちきしまひめ)市杵島姫神:辺津宮[へつみや] (田島)
③多岐都比売の命(たきつひめ)湍津姫神(たぎつひめ) :中津宮(大島)
注:青文字は『日本書紀』の漢字表記
天照大御神:
①天之忍穂耳の命(あめのおしほみみ):天孫直系
②天之菩卑の命(あめのほひ):出雲の国造系
③天津日子根の命(あまつひこね):地方の国造系
④活津日子根の命(いくつひこね)
⑤熊野久須毘の命(くまのくすび):出雲の熊野神社
天照大御神後の系図

神々の系図と『魏志倭人伝』の官職名

・神々の系図にある名前は『魏志倭人伝』の官職名と共通するものが多く存在する。
『魏志倭人伝』は、卑弥呼のあとをつぐ宗女(一族の娘)の名を、「台与(とよ)」と記す。
系図をみると、「トヨ」という音のはいる女性の神名に、「万幡豊秋津師比売(よろづはたとよあきづしひめ)」「豊吾田津姫(とよあたつひめ)」「豊玉姫(とよたまひめ)」などがある。
・『魏志倭人伝』に、倭の国の「官名」として、「弥(み)(甲)弥(み)(甲)」が記されている。系図をみると、「ミ(甲)ミ(甲)」という音をふくむ神名として、「忍穂耳(おしほみみ)の尊(みこと)」「八箇耳(やつみみ)」「溝橛耳(みぞくひみみ)の神(かみ)」「手研耳(たぎしみみ)の命(みこと)」「神八井耳(かむやいみみ)の命(みこと)」「神渟名川耳(かむぬなかはみみ)の尊(みこと)」などがある。
詳細は邪馬台国の会第399回参照

天の岩戸
天の岩戸 『古事記』の要点
①須佐之男の命の乱暴がエスカレートして、機屋(はたや)に、馬の逆剥(さかは)ぎの皮を投げ捨てたので、御衣織女(みそおりひめ)が驚き、死んでしまった。
②須佐之男の命の乱暴を許していた天照大御神もこのことから、天の岩戸に篭(こも)った。そのため、高天原も葦原の中つ国も暗闇になり、多くの災いが起こった。
③そこで、八百万の神々が天の安川に集まり、相談した結果、思金(おもいかね)の神が中心となり、天照大御神が天の岩戸からお出でになるための考えをめぐらせる。
④その考えから、神が集い、天の宇受売(うずめ)の命の踊りなどにより大騒ぎをしたので、天照大御神は不思議に思い扉を少し開け、何故大騒ぎをしているかを問う。
⑤天照大御神より、貴い神が現われたと答えられたので、その神を見ようとした時、扉が開けられ、天岩戸からお出になった。その結果、すべてがもとの明るさとなる。
天の岩戸 『古事記』の解釈
①天照大御神が天の岩戸に入ること。これは天照大御神の死を意味し、天の岩戸から、出たときは宗女台与(とよ)[万幡豊秋津師比売の命(よろずとよあきつしひめ)]が引き継いだことを表している。
②これは『魏志倭人伝』にある、卑弥呼の没後、大きな塚が作られ、男王がたったが、国中が服さず、戦いがおこなわれ、台与がたって国中がおさまったという話と符合する。
③『魏志倭人伝』には、人が死ぬと、他人は、歌舞飲食につく、とある。これは天の岩屋戸のまえで、天の宇受売(うずめ)の命が、歌舞をし、諸神が、「歓喜び咲(わら)い楽(あそ)んだ」と一致する。
高御産巣日の神
①『古事記』には、「天照大御神、高御産巣日(たかみむすひ)の神をもちて」などの記述がしばしばみられる。すなわち、高御産巣日の神は、天照大御神といっしょに、しばしば、命令を下したりなどしている。『魏志倭人伝』の、女王のことばを伝えるために出入りしている一人の男と、高御産巣日の神とが符号するように思える。
②天照大御神が天の岩戸に入った後では、高御産巣日の神がよく出てくる。台与の代に変わってから、台与はまだ小さかったので、父親の高御産巣日の神の発言が増えることを表している。
③天の安川では高御産巣日の神の子の思金(おもいかね)の神が中心なっていることも、高御産巣日の神の勢力が強いことを表している。
このように天の岩戸の前後で、天照大御神の行動が変わっている。

邪馬台国の会HP第319回より作成
須佐之男の命の追放
須佐之男の命の追放 『古事記』の要点
①そこで、八百万の神々はみんなで協議して、須佐之男の命に罪穢(つみけが)れを贖(あがな)う品物を出させる。
②また鬚(ひげ)と手足の爪を切る。 ③更に高天原から追放する。
須佐之男の命の追放 『古事記』の解釈
①敗れた須佐之男の命は八百万の神々によって、持っているものを出させられ、肉体的苦痛も受けて、高天原から追放される。
②これは、須佐之男の命の軍事力を奪い、少数の勢力で出雲に行かされたことを意味しているのではないか。
③これにより、『古事記』のはなしは出雲の地に移る。