白村江の戦い
『日本書紀』 によれば西暦663年に日本・百済は唐・新羅と白村江で戦い大敗する。
6世紀末の東アジア
■隋による中国統一
・魏晋(ぎしん)南北朝の末期、北周(北朝)の外戚だった楊堅(ようけん)は、581年に北周の静帝に禅譲(ぜんじょう)をせまって帝位につき、隋を建国した。これが文帝である。
・文帝は、587年に後梁を併合、589年には南朝の陳をたおして、中国の統一を完成した。
■朝鮮半島の動き
・高句麗の平原王は陳が亡んで、隋の進攻を恐れ、防備をかためた。そのあとを継いだ嬰陽(えいよう)王は文帝に遼東郡公高麗王に封じられた。
・百済の威徳王も隋がおこるとすぐに朝貢して、帯方郡公に封じられた。これに対し新羅は地理上中国との交渉も疎遠であったのか、隋とはしばらくのあいだ交渉がなかった。
・この頃日本は崇峻天皇の時代で、 591年(崇峻4年)に任那再建をはかり、2万の軍を筑紫に駐屯させ、新羅と交渉したとある。
・その後、594年に新羅の真平王は隋に朝貢し、楽浪郡公新羅王に封じられた。
6世紀末の東アジアの年表

朝鮮半島の緊張
・高句麗は百済の支援もあり、隋の遠征から切り抜け、百済とは親密な関係となった。しかし、新羅には奪われた地を回復するために戦い、勝てなかった。
・百済は新羅と積極的に戦い、伽耶地方を攻めとろうとしていた。
・新羅は高句麗と百済に攻められ、孤立する状態が続く。
・中国では隋から唐になり、引き続き高句麗を攻めることが課題となっていた。
・このような状況で、新羅は唐に助けを求め、百済・高句麗と対抗していた。

百済の状況
・475年:漢城を高句麗に占領され、蓋鹵(こうろ)王が殺害されるほどの国難に瀕する。
・538年:高句麗の圧迫により、聖王の時期に王都を熊津[ゆうしん] (忠清南道公州市)から南の泗沘[しひ](忠清南道扶余郡)へ移す。その後の威徳王も高句麗と新羅と戦う状況であったが伸展はなかった。
・600年:武王の時代になり百済は高句麗と和解して、新羅を攻める。
・642年:義慈王は新羅が併合していた伽耶地方の大耶城を攻め取り、積極的に新羅侵攻を図る。その結果、新羅が唐の支援を要請し、唐・新羅連合軍の侵攻を受けることになる。
・660年:唐は蘇定方(そていほう)を遣わし、新羅と共に百済攻撃を命じた。百済の佐平義直(ぎちょく)は唐兵が上陸したらすぐに決戦すべきと進言したが、義慈王は聞かず、白江(伎伐浦[ぎばつぽ])に引き込んでからの迎撃となり大敗を繰り返した。義慈王が降伏して百済は滅んだ。
・662年5月:百済の遺臣が蜂起して、日本支援を求めたので、中大兄皇子は余豊璋(650年に倭へ人質として来ていた)を百済に戻して即位させ、更に軍隊を派遣して積極的に百済支援を開始する。

■百済(Wikipediaより)
第30代の王(在位:600年 – 641年)武王(ぶおう)
朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済においても新羅においても、高句麗への対抗のために隋の介入を求める動きが活発となっていた。武王は隋に高句麗討伐を願い出たが、陰では高句麗とも手を結ぶ二股外交をしており、612年に隋の高句麗遠征軍が発せられたときには、百済は隋の遠征軍に従軍はしなかった。一方で新羅とは南方の伽耶諸国の領有をめぐって争いが絶えなかった。
第31代の王(在位:641年 – 660年)義慈王(ぎじおう)
百済最後の王。642年7月に単独で新羅に親征し、8月には将軍の允忠に兵1万を率いさせて派遣し、大勝した。 651年に唐に朝貢した折には、高宗から新羅との和睦を進める璽書を送られたが、その後も新羅との争いは止まらず、655年には高句麗・靺鞨と組んで新羅の30城を奪っている。しかしこの頃から連戦連勝で驕慢になり、諫言するものはいなくなった。660年、唐の高宗は詔をして蘇定方に大軍13万を率いて海路より進ませ、新羅の武烈王・金庾信の軍5万と連合して百済を攻めることとなった。これに敗れて妻子とともに長安に送られ、そのまま中国で病死した。
新羅の状況
・新羅は法興(ほうこう)王、真興(しんこう)王の時代に領土を拡大し、 562年に伽耶地方を併合した。しかし、真智王の時代から政治が混乱。
・626年:高句麗と百済が和解して共に新羅攻撃となり、新羅が劣勢に立たされる。その後、善徳女王の時代の内乱後に真徳女王となる。新羅は孤立状態が続き、唐に接近して行く。
・642年:金春秋は高句麗へ行く。百済の侵攻対応だったが逆に高句麗によって監禁され、かろうじて脱出するありさまだった。
・647年(大化3年):金春秋は倭へ行く。『日本書紀』に「春秋は容色美しく快活に談笑した」とある。
・648年:金春秋は唐へ行く。これで唐から出兵に関する何らかの確約があったのか? 翌年、新羅の衣冠を唐制に改める。
・654年:金春秋は真徳女王が亡くなり、群臣に推挙され武烈王として即位した。在位中に百済を滅ぼし、三国統一の基盤をなした。
・661年6月:武烈王は高句麗攻撃に向かう途中、病気で亡くなる。武烈王が死んでその子の文武王(金法敏)が即位。

■新羅(Wikipediaより)
第28代の王(在位:647年 – 654年)真徳女王(しんとくじょおう)
648年百済からは10余城が陥落させられたが金庾信の活躍で撃退。唐に金春秋を派遣し、百済討伐の援軍を願い出てようやく太宗から一応の了承を得ることができた。
第29代の王(在位:654年 – 661年)武烈王(ぶれつおう)
金春秋。655年には高句麗・靺鞨・百済の連合軍が攻め入って北部辺境の33城が奪われたため、唐に使者を送って救援を求めた。659年にも百済が国境を侵して攻め込んできたため、唐に出兵を求める使者を派遣した。660年3月には唐は百済討伐の出兵を行なったが、この討伐軍は左武衛大将軍蘇定方を神丘道行軍大摠管とし、副大摠管は唐に宿衛していた武烈王の息子の金仁問としていた。新羅王に対しても嵎夷道行軍摠管とする勅命が出されており、唐と新羅との連合軍としての百済討伐であることが明瞭であった。
第30代の王(在位:661年 – 681年)文武王(ぶんぶおう)
金法敏。 661年唐からは高句麗討伐軍に呼応することを求められ、文武王は金庾信らに命じて唐軍のいる平壌へ食糧を補給し、全面的に支援をする構えを保った。
唐の状況
・ 618年:隋は2代目の煬帝の高句麗遠征をきっかけに反乱が起きた。隋王室と姻戚の李淵・世民親子が煬帝の孫の恭帝(きょうてい)を擁立して政権を奪い、更に恭帝から譲り受けるかたちで高祖(淵)が即位し、隋から唐に変わった。
・ 626年:2代皇帝の太宗(世民)は国内整備で実績を上げ、国力が高まり、突厥討伐をおこない、「貞観(じょうがん)の治」といわれた。しかし、対高句麗政策は失敗だった。
・645年: 第一次高句麗遠征をおこなうが、高句麗の守りが堅く兵を引き、高句麗が罪を謝罪したので、軍をおさめた。
・647年:第二次高句麗遠征で多少の成果を上げる。
・648年:第三次高句麗遠征は30万の大軍で攻撃したが649年の太宗の死で中止。高句麗を屈服させられなかった。

・ 649年:第3代皇帝の高宗(治)が即位。
・ 665年:新羅からの要請で高句麗征服にのりだし、程名振(ていめいしん)・蘇定方(そていほう)を将軍として高句麗を討たせた。その後唐軍と高句麗軍は遼東で攻防を繰り返した。
・ 660年:新羅の武烈王は百済が高句麗と繋がり新羅を攻めるので援助を要請した。唐は高句麗を滅ぼすには百済を先に滅ぼす方が得策と考える。
・ 660年3月:これに応えて蘇定方を大総管とし、新羅の武烈王の子を副総管として陸海10万の大軍が遼東方面から百済を攻撃する。新羅は武烈王が5万の軍で唐軍と合流する。
・ 660年7月:唐・新羅連合軍は百済の泗沘(しひ)城を陥落させた。義慈王はのがれて熊津(ゆうしん)城に立てこもったが、降伏した。そして、義慈王たち王族は長安へ連行された。


高句麗の状況
・安原王(在位:531年 – 545年)は中国の南北朝両面に対して朝貢を続けた。
・陽原王(在位: 545年 – 559年)の時代は従来の南北朝両面への通好の方針は取りやめられ、北朝の東魏・北斉のみへの朝貢を続け、南朝との交流は廃絶した。新羅に領土を奪われる結果となることが多かった。
・平原王(在位: 559年 – 590年)の時代は百済・新羅同盟の崩れたことで、三国間の対立。
・598年:嬰陽(えいよう)王の時代に靺鞨の人々を率いて遼西に進入。隋の高句麗遠征のきっかけとなった。第1~4次の隋の遠征を退ける。
・栄留(えいりゅう)王の時代に唐が建国され、ただちに朝貢して和親を結んだが、唐が国内の混乱を収めてから緊張が高まった。また新羅とも対決した。
・ 642年:宝蔵王(栄留王の弟の太陽王の子)は栄留王を弑逆した淵蓋蘇文(えんがいそぶん)によって王位につけられたので、王としての実権は持っていなかった。
・ 645~ 648年:唐の太宗の時代に3回の遠征を退けた。
・ 665年~:しかし唐の高宗の時代になってからの遠征について、
当初はよく防いでいた。

■高句麗(Wikipediaより)
第27代の王(在位:618年 – 642年)栄留王(えいりゅうおう)
即位した年に中国では唐が建国されており、栄留王は直ちに唐に対して朝貢を行い、和親を結んだ。両国は外交使節をしばしば交換し、622年には、隋の高句麗遠征の時に捕虜を互いに交換した。唐の高祖は非常に喜んだ。唐が国内の混乱を収めていったころから両国間の緊張は高まってきた。半島内では新羅に奪われた領土の回復のために新羅とも対決したが、新羅には金庾信(きんゆしん)などがおり敗戦を重ねるだけとなった。
第28代の王(在位:642年 – 668年)宝蔵王(ほうぞうおう)
淵蓋蘇文(えん がいそぶん)によって王位につけられ、王としての実権を持つことはできなかった。唐と結んだ新羅とは敵対関係が続いていたが、百済とは緊密な関係を維持した。百済が唐に滅ぼされ、さらに淵蓋蘇文の死後にその三子の後継争いが生じると、唐は新羅と図って高句麗遠征を開始した。太宗の間は凌いだものの、高宗の代になって防ぎきれず、668年に長安城(平壌市)を陥落させられて高句麗は滅亡した。宝蔵王は唐に投降して長安に連行されたが、政治の責任が王になかったとして処刑されることはなかった。
日本の対応
・660年(斉明6年):斉明天皇は百済の遺臣の鬼室福信の要請に応えて、みずから筑紫に赴いて救援軍を派遣しようと考えた。そのため難波で種々の兵器を準備し、駿河国に船を造らせた。
・661年(斉明7年) :斉明天皇は各地で兵を集めながら、瀬戸内海を西に進んだ。伊予国熟田津(にぎたつ)に寄り、
「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今漕ぎ出でな」
万葉集で額田の王の歌とするが、斉明天皇の作歌。
・661年(斉明7年)7月:斉明天皇が朝倉宮で亡くなる。中大兄皇子は即位せずに政務をとる。(称制[しょうせい])
・661年(斉明7年) 8月:中大兄皇子は阿雲比羅夫連(あずみのひらぶのむらじ)、その後、狭井連殯榔(さいのむらじあじまさ)、秦造田来津(はたのみやつこたくつ)を百済に派遣。余豊璋を送らせた。
百済の反乱
・660年(斉明6年):唐・新羅によって百済王室は滅んだが、百済旧領で鬼室福信(王族ではないが有力貴族)が唐軍に抵抗し百済復興運動の指導者となった。
・抵抗の拠点は周留(する)城で、錦江の南北の諸城があり、唐・新羅両軍は王城陥落後もこれらの諸城を虱潰しに攻め落とす必要があった。
・一つの城を陥落させても、そこに立て籠もっている兵はまた別の城に移って抵抗するといった状態であった。
・661年(斉明7年) 8月:中大兄皇子は阿雲比羅夫連(あずみのひらぶのむらじ)、その後、狭井連檳榔(さいのむらじあじまさ)、秦造田来津(はたのみやつこたくつ)を百済に派遣。余豊璋を送らせた。
・662年(天智元年) :唐・新羅軍が高句麗攻撃を行う、しかし高句麗が耐え、唐・新羅軍は高句麗より撤退。
・662年(天智元年) 5月:余豊璋が百済の王位についた。鬼室福信と手を結び、日本の援助で、百済再興に動きだす。
白村江の戦い
・662年12月:豊璋が避(へさし)城へ移る。
・663年2月:新羅は百済領に攻め入り、豊璋は周留(する)城へ戻る。
・6月:豊璋は鬼室福信を殺す。
・8月:唐水軍(170艘)と日本水軍(400艘以上)が白村江で激突。日本水軍が完敗し、
・豊璋は高句麗へ逃げたと伝えられるが詳細は不明。

白村江の戦い詳細
『日本書紀』 663年(天智2年)
・8月17日:新羅軍は周留城に至って、この包囲を完了した。唐軍の諸将は兵船170艘を率いて白村江に布陣を完了した。
・ 8月27日:日本の水軍の最初に到着したものと唐水軍が戦った。日本水軍に利がなく退却した。唐水軍は陣形を堅固にした。
・ 8月28日:日本の諸将と百済王豊璋は、気象を見ることがなく、「われらが先を争うようにして攻めかかれば、敵はおのずから退却するに違いない」として、戦列の乱れた中軍の兵士を率いて、唐軍へ挑みかかった。唐水軍は左右から挟み込むようにして戦った。短時間のうちに日本水軍は破られ、水に落ちて死ぬ者が多かった。日本水軍は退却しようにも艫舳(へとも)を旋回することもできなかった。秦造田来津(はたのみやつこたくつ)は天を仰ぎ誓い、歯を食いしばって憤り、数十人を殺し、ついに戦死をとげた。豊璋は数人の従者と船に乗り、高句麗に逃げ去った。 ・ 9月7日:周留城は唐軍に降伏した。
白村江の後(朝鮮半島)
・664年:唐は旧百済の太子扶餘隆(ふようりゅう)を熊津都督(ゆうしんととく)に任じ、旧百済の安定を図る。
・665年:絶大な権力があった高句麗の泉蓋蘇文(えん がいそぶん)が死に、その三子の後継者争いの隙につけこみ、唐・新羅連合軍が高句麗に攻め入る。
・668年:唐・新羅連合軍は平壌の長安城を攻め、高句麗が滅びる。高句麗が滅ぶと、朝鮮半島の支配を争い、唐と新羅が争う。
・670年:高句麗の遺臣が唐に反乱し、新羅は高句麗の宝蔵王の庶子である安勝を高句麗王として、これを支援。
・671年:新羅は百済の泗沘の占領など百済の支配について唐と対抗した。唐は新羅征伐にのりだし、唐と新羅が本格的に戦う。
・676年:新羅は白江河口部の戦いで唐軍を破り、唐は遼東半島と朝鮮半島から引き上げ、朝鮮半島は新羅により統一された。
白村江の後(日本)
・665年(天智4年):対馬・壱岐・筑紫に防人と烽(すすみ)、筑紫に水城(みずき)を築く。唐は日本へ254人の使いを遣わす。 日本は第5次遣唐使を派遣。これで白村江の後に日本と唐の間での和親の道が開けた。
・666年(天智5年): 1月と10月の2回、高句麗が使いを遣わす。日本へ軍事支援要請か?
・667年(天智6年) :百済鎮将劉仁願(りゅじんがん)が使いを遣わす。日本へ高句麗への支援をしないよう要請か?日本は山城を築く(大和の高安城[たかやすのき]、讃岐の屋嶋城、対馬の金田城)
・668年(天智7年) :新羅使が9月と11月に来る 。高麗滅亡後の国際情勢のため日本へ接近を図ったのか?
・671年(天智10年):(天智8年の記述と重なる) 唐が二千余人を遣わしてきた。捕虜返還か?これにより、唐は日本の新羅支援をさせないよう図ったのではないか?
・670–676年:新羅・唐戦争に対し、天武朝は朝鮮半島不介入外交をとる。
古代山城・神籠石(こうごいし)
古代山城研究会代表・向井一雄氏の第289回邪馬台国会(2010.4.25)の講演から一部を紹介
防衛体制
・中大兄皇子は白村江の敗北から、次は唐が攻めてくると考え、防衛体制を整備した。
・直木孝次郎著『日本の歴史2 古代国家の成立』(中央公論)から、663年に白村江の戦いで負けてから中大兄皇子がとった外敵防衛策。
・第一線防備:対馬・壱岐と筑紫に防人(さきもり)をおくことで、防人は制度化された。また、急を伝えるために狼煙を上げる設備である烽(とびひ)の制度も定められた。
・第二戦防備:大宰府周辺の防衛のため、大宰府前面に水城(みずき)が築かれ、大宰府の北方にそびえる大野山に大野城(おおののき)を築き、南方10キロの基山に橡(き)城[基肄(きい)城]を築いた。大野城や橡城は日本の城ではなく、百済から来た帰化人の指導によるもので朝鮮式の山城である。
・豪族との妥協によって分裂を防ぐことが出来た政府は民衆の不満をおしつぶして工事を強行した。長門の国の下関市の背後の丘陵ではないかと言われているところにも城を築いたとある。
防人
・朝鮮にわたった遠征軍は海になれた西国の兵士であったと思われる。東国の兵士は勇猛であるが海に慣れないため、親衛軍として北九州に留まっており、そのまま防人に転用されたのではないか。
・ 646年(大化2年):改新の詔に防人を置くことが規定されている。ただ孝徳天皇の時代は外敵からの防衛のための防人であったか分からない。
・ 664年(天智3年):「対馬・壱岐・筑紫国などに防人と烽(すすみ)[のろし台]をおいた」とあるのが外敵からの防衛の最初。
防人は3年交代で行われたが任期の延長もある。食糧は自分で負担するので、東国の農民の負担は大きかった。しかも、この防人の制度は長い間続き、海外との緊張が薄れた後にも続く。
『万葉集』は防人のために徴用された兵や、その家族が詠んだ歌が100首以上収録されている。防人の悲惨さが詠われている歌も多い。
水城(みずき)
・全長1.2kmの土塁が残っている。質の異なる土を交互に突き固める版築工法による。
・礎石が残っているところは城門が設けられていたことが分かる。
・『日本書紀』に「大堤を築きて水を貯えしむ」とある。御笠川をせきとめ、堤の内側に水をたたえ、敵の進撃を妨害したものか?

・しかし、御笠川の水量ではそのような人造湖を造ることが困難なので、土塁として利用しただけとの説もある。

基肄(きい)城
・基肄城は日本最古の古代山城(朝鮮式山城)で、 665年(天智4年)に亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくふ)が筑前の大野城とともに建設した。
・太宰府の南方、標高404メートルの基山(きやま)から標高414メートルの北帝にかけて築かれ、四方を4200メートルにわたって土塁が取り巻いている。
神籠石(こうごいし)
・「神籠石」は全国に70ヶ所以上あり、神社などに多い。
・文献などの記録がない列石などの遺跡に対し、「神籠石系山城」と神籠石の呼称が使用されているが、神籠石とは本来列石のことではない。奇石単体で「磐座[いわくら] (神体石)の一種」を指した名称であり、「皇后石」、「神護石」など多くの当て字がある。
・最近発掘された神籠石系山城では学術的表記では「神籠石」の名を付けない。
・岡山県鬼ノ城(きのじょう)や愛媛県永納山城(えいのうざんじょう)もこの系統をうけている。近年の佐賀県のおつぼ山、帯隈山(おぶくまやま)、福岡県の杷木(はき)城の例。
・山口県の石城山の場合は列石の上に版築からなる土塁があり、土塁の根止め石であることが明らかにされた。ほぼ城柵であるとしたが年代について問題がある。
神籠石の霊域説と古代山城説の対立
両説の対立は大正初頭まで神籠石論争が展開され、近年まで後を引いている。
■霊域説
・喜田貞吉らが主張したもので、下記をあげている。
①列石が城柵としての機能を果たさないこと。
②城柵の位置としてふさわしくないところにある。
■城柵説
・八木奘三郎(やぎそうざぶろう)らによってなされたもので、 下記をあげている。
①古代朝鮮式山城などと比較し、城柵としか考えられない。
②切石列は上に柵のようなものを設けたと考える。

(邪馬台国の会HP第348回より)
喜田貞吉らの霊域説を柳田国男が磐境(いわさか)ではないと批評。喜田は磐境説を退けるが磐座(いわくら)説で神籠石とした。
古代山城
■城
漢字で書くと 土+成=版築土塁を意味する。
土を固めた高い塀の状況で、戦国時代の建物としての城とは異なる。


■列石の役割
石の役割は土留めの他、土塁基底部を雨水・霜の浸食から守るためのようだ。
・朝鮮式山城・瀬戸内の山城
被覆(非露出)=土塁の保全
・北部九州の神籠石系山城
露出=見せる効果
近年の調査結果
■ 1990年代頃から発見された古代山城
1988年:播磨の城山(きのやま)城
[室町時代の赤松氏の城と同じ場所に立地]
1998年:四国の屋嶋城(文献に記録があった)
1999年:大宰府の近くの阿志岐(あしき)城(大野城の東南)で列石が発見された。列石の他に版築土塁がある。見せるための山城
1999年:福岡県の唐原(とうばる)山城(大分県の近く) ただ石が並べられているだけで、喜田貞吉が述べている列石だけでは城にならないと言ったもの。
2006年から7年計画 岡山の鬼ノ城は調査進展中。土器が出てきており、7世紀末ごろと思われる。一般に7世紀中葉から8世紀頃。
九州の神籠石系山城の数
■軍団の数と神籠石系山城の数

九州の軍団の数は分かっており、山城もその数にあっている。
ただ防衛地域と離れると山城はないようである。

古代山城の分布

遺跡の判明している古代山城

北部九州と瀬戸内の山城

築城について、6世紀の磐井の乱や7世紀中頃の斉明天皇に結び付ける説は影をひそめ、白村江以後の7世紀後半との説が有力である。
百済式山城という幻影
・百済の人が造ったので、百済式山城といわれるが、最近ようやく百済式山城が分かってきた(栢嶺山城、聖興山城など)
・日本の山城は朝鮮半島と異なる所が多く日本独特の特徴も多い。日本の山城は、朝鮮半島城郭のデッドコピーではない。日本式山城と言ってもよい。
①規模:半島南部では周長1Kmでも大型であるが、基肄(きい)城などは4.2kmもあり日本の方が大きい
②占地:圧倒的に山頂式(鉢巻式)が多い、大型の包谷式は時期が下る

古代山城論
・古代山城の分布は一見、北部九州から瀬戸内海沿岸と敵の侵攻ルートに沿った縦深シフトと解釈できるが、
①王都近くに高安城1城しかない
(奈良県生駒郡平群町と大阪府八尾市にまたがる)
②山陰-日本海側に分布していない
これについて防衛目的だけでは説明がつかない。
・大宰府を中心に展開(現在の大宰府は白村江後) 駅路に沿って20~30Kmごとに配置 駅路は7世紀後半に建設された計画的な直線道路
・山口県方面以外では駅路に沿って配置されている。
・駅路から見える箇所のみ城壁築造
平城京の羅城(京の南面のみに設けられ外国使節迎接儀式用)と同じような断面 構造であり、見せる構造であると思われる。
・斉明天皇の築城説があるが、神籠石系山城の分布の中心は斉明天皇の朝倉宮ではなく、大宰府を中心としている。
これから九州王朝説の朝倉中心説は成り立たない。
・古代山城を中心に半径11kmの円を描くと隣の山城と重ならない。また複数の地域中心地と等距離にある。
例:鬼ノ城、大廻小廻山城/屋嶋、永納城、石城山 ・さまざまな編年指標
地域の何らかの計画によって作られたのか。
・従来の文献記録の有無による分類の考え方が成り立たなくなった。
文献記録あり=朝鮮式山城
文献記録なし=神籠石系山城
古代山城として一括して編年すべきで、文献記録のありなしは見直しの時期に来ている。
韓国の山城は記録に残っており、韓国から見れば、日本の朝鮮式山城は古くないと考えられる。
天智天皇の政策
天智天皇は大化の改新を更に推し進めた。
甲子(かっし)の改革
・ 中大兄皇子(なかのおおえのおおうじ)は白村江の敗戦の翌年
[664年(天智3年)]に三つの制度を行った。
①冠位を改め、二十六階の新冠位とした。
聖徳太子時代[推古天皇11年(603年)]は冠位十二階であったものが、
大化の改新で大化3年(647年)に冠位十三階となり、その2年後に冠位十九階となり、ここで二十六階となった。
②氏上(うじのかみ)[氏の代表者]を定めた。
臣(おみ)、連(むらじ)、伴造(とのものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)という古い身分制度を大氏、小氏、伴造(とのものみやつこ)とした制度に改めた。
③民部(かきべ)・家部(やかべ)を定めた。
大化の改新で部曲(かきのたみ)[民部などのことか?]を廃止し、食封(じきふ)を支給しようとしたが徹底できなかった。この段階ではかたちを変えてある程度古い制度を認めざるをえなかったのではないか。
これらの制度は大化の改新を進めるための政策と考えられる。
近江遷都
・ 中大兄皇子は近江大津宮へ遷都
唐が高句麗遠征をおこなった翌年[667年(天智6年)]に近江大津宮へ遷都した。近江は海外からの攻撃にあいやすい難波から離れており、北陸、東海、東山の三道のいずれとも通じる交通の要所でもある。飛鳥よりも近江の方が有利と考え遷都したと思われる。
・ 斉明天皇が亡くなった後、即位せずに称制(しょうせい)として唐・新羅との戦争に対応していた中大兄皇子は遷都の翌年[668年(天智7年)]に即位して、天智天皇になった。

天智天皇は間人(はしひと)皇女が亡くなり(天智4年)、斉明天皇と間人皇女の合葬が終わってから(天智6年2月)即位した。即位が遅れた理由に同母妹の間人皇女との関係をあげる説がある。
庚午年籍(こうごねんじゃく)
・庚午年籍の実物は残っていないが、「大宝令」にはこれを永久に保存することが定められている。奈良時代には庚午年籍を根拠にして、氏姓(うじかばね)を改めることを願い出て許される例が多い。
・670年(天智9年):に庚午年籍が定められ、西は九州から東は常陸・上野までにわたってつくられたものと思われれる。日本国内でかなり行きわたっていたようだ。 645年(大化元年)から25年の成果であろう。

正倉院 宝物(忍者ホームページより)
近江令(おうみりょう)
・天智天皇の成果として、庚午年籍と並んで論ぜられるのが近江令の編纂である。
・天智天皇は即位の年に近江令を制定したという。『日本書紀』に近江令の制定が書いていないことなどから、近江令の存在を疑う説がある。
・ 『日本書紀』では近江令の存在をにおわせる記述がある。
(天智9年「朝廷の礼儀」の話があり、 中国では律令格式とともに「礼」を編纂させた)
・天武天皇の飛鳥浄御原令は律令を更改(こうかい)するとある。これは前の律令を改めるということで、近江令があったのではないか。
・近江令には律がなかった(飛鳥浄御原令も同じ)。それまでは唐律を用いた。日本で律令がともに備わったのは文武天皇の大宝律令からである。
・近江令の官制は唐をまねたものであるが、百済の影響と思われるものもある。近江令は天智天皇が鎌足に命じ、鎌足が「時の賢人」を集めて作くらせたという。この賢人は百済の亡命貴族が多かったのではないか。
太政官制
・671年(天智10年):大友皇子を太政大臣、蘇我赤兄(あかえ)を左大臣、中臣金(かね)を右大臣にした、蘇我果安(はたやす)以下三人を御史大夫(ぎょしだいふ)とした。
・これは近江令にもとづく任命によるものである。左右大臣はすでに、大化の時代に定まり、その上に太政大臣おいている。これは後の名目的な太政大臣とは違い、『懐風藻』大友皇子伝では実質的な長であったようだ。ちょうど中大兄皇子の存在を制度化したように思われる。
・御史大夫(ぎょしだいふ) は新しい官名で、後の納言(なごん)の前身である。これは副丞相(ふくじょうしょう)をさす秦・漢時代の制度を借用したようであり、大化以前の大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)の下にあった国政参議官、大夫(まえつきみ)の制度を官制化したものではないか。
・太政官ー六官は外廷で、宮内官は内廷である。近江令で太政官制として外廷が充実したことになる。
天武天皇と壬申(じんしん)の乱
・『日本書紀』 によれば672年に古代史最大の戦いと言われる壬申の乱がおこる。
大海皇子(おおあまのおおじ)[天武天皇]

・舒明(じょめい)天皇と斉明(さいめい)天皇[皇極(こうぎょく)天皇]の皇子として生まれ、中大兄皇子とは両親を同じくする弟にあたることになる。
・生年は不明なことから、年は中大兄皇子より上との説がある。
・天智天皇の死後、壬申の乱で天智天皇の皇子の大友皇子(弘文天皇)を打倒し、天皇に即位する。
・八色の姓で氏姓制度を再編することにより、旧来の氏族制度の臣(おみ)、連(むらじ)の権威を弱体化した。

持統天皇(645~703)
・鸕野讚良(うののさらら)皇女、父は天智天皇で、母は遠智娘(おちのいらつめ)といい、母方の祖父が蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)である。
・父母を同じくする姉に大田皇女がいた。大田皇女の子が、後に悲劇の皇子となる大津皇子である。
・大海皇子に嫁ぎ、 壬申の乱で大海皇子が吉野に隠せいしたとき、草壁皇子を連れて従った。決起して壬申の乱を起こした時、子の草壁皇子、母を異にする忍壁(おさかべ)皇子を連れて、夫に従い美濃に向けた脱出の強行軍を行った。
・『日本書紀』は壬申の乱で大海皇子と「ともに謀を定め」たとあり、壬申の乱への関与の高さを感じさせる。

大海皇子の吉野脱出と主な反撃経路
・大海皇子は吉野から脱出し、まず、東国と西国を分離するため不破道をふさいだ。
・当初は近江朝側だった美濃と尾張の勢力を味方にし、東国の軍を短期で編成した。
・大和(飛鳥)で吹負(ふけい)の軍が蜂起したが、東国の軍勢の加勢がなければ勝てなかった。
・男依(おより)が横河で大勝し、その勢いで大津京の陥落へと進む。

天智天皇の崩御
・天智天皇は皇后(倭姫王)には子がなく、皇族・中央豪族など身分の高いきさきには女子が多く生まれ、ただひとりの男子で、最年長の建(たける)皇子は8才で病死した。 他の3人の皇子の母親は身分が低かった。
・ 667年(天智6年):近江の宮に遷都する。
・ 668年(天智7年):天智天皇は長らく皇子の立場で政治を行っていたが、即位して天皇となり、皇太子を大海皇子とした。
・ 669年(天智8年) 10月:天智朝を支えた中臣鎌足が亡くなる。
・ 671年(天智10年)正月:伊賀采女(いがのうめね)宅子娘(やかこのいらつめ)の子の大友皇子を太政大臣にした。
・ 671年 8月:天智天皇が病気になると、天智天皇は大海皇子に後をゆずると言うが、大海皇子は辞退して、出家を申し出て吉野に去る。 これを評して、「虎に翼をつけて放すようなものだ」とうわさされた。
・ 671年 12月:天智天皇が亡くなる。
挙兵の決意
・天智天皇の死後、太政大臣の大友皇子が近江朝廷のトップとなり、吉野の大海皇子を監視をおこたらなかった。
ここで大友皇子は弘文天皇として即位したか?
即位について『日本書紀』に記されていないが、江戸時代に水戸藩の『大日本史』は即位したとした。明治3年に弘文天皇の諡号(しごう)がおくられた。
・672年(天武元年) 5月:朴井連雄君(えのいのむらじおきみ)は近江朝が天智天皇の陵を造るため、美濃・尾張の国司に人夫を動員しているが、武器を持たせている。更に近江京より大和京に至るあちこちに監視人を置いていると大海皇子に報告。
・6月22日:大海皇子は近江朝が大海皇子を攻める動きがあると感じ、村国連男依(むらくにのむらじおより)、和珥部臣君手(わにべのおみきみて)、身気君広(むげのきみひろ)に、美濃国安八磨郡(あはちまのこおり)の多臣品治(おおのおみほんじ)に機密をうちあけ兵を集め、不破道をふさぐよう指示。
東国への出発
・大海皇子は東国へ向かおうとしたが、国中に妨害があると考え、飛鳥守衛の駅鈴を得ようとしたが、得られなかった。
・6月24日:東国へ出発。始めから従ったのは、皇后[鸕野讚良(うののさらら)皇女(持統天皇)]、草壁(くさかべ)皇子、忍壁(おさかべ)皇子ら20人余り。
・その後、兎田(うだ)の安騎[あき](宇陀市)につき、吉野宮から従者が追いかけてきた。
・甘羅[かんら]村(宇陀市神楽岡)で猟師ら20人を加えた。
・積殖(つむえ)の山口(伊賀国拓殖)で、鹿深[かふか](甲賀)を越えて高市(たけち)皇子が合流した。
・伊勢の鈴鹿に着き、伊勢国司の三宅連石床(みやけのむらじいわとこ)、介の三輪君子首(みわのきみこびと)らが一行をお迎えした。
・6月26日:朝明郡(あさけのこおり)[三重郡]の迹太川(とかわ)のほとりで、大津皇子が来る。
反撃の準備
・男依(おより)が美濃の軍勢3千を集め、不破道をふさいだと報告。
・郡家に着くと、高市(たけち)皇子を不破に遣わす。山背部小田(やましろべのおだ)らを東海道諸国へ遣わし、軍兵を募る。稚桜部臣五百瀬(わかさくらべのおみいおせ)らを東山道へ遣わし、軍兵を募る。桑名に着く。
・ 大伴連馬来田(おおとものむらじまぐた)と弟の吹負(ふけい)は戦況の不利なことを知り、病と称して大和の家に退いた。皇位を継ぐのは大海皇子であろうと思った。馬来田は大海皇子に随っておき、吹負だけ大和に留まった。
・6月27日:大海皇子は皇后を桑名に残して不破に入る。尾張国司の小子部連鉏鉤(ちいさこべのむらじさひち)が2万の兵を率いて帰属した。大海皇子はこれらの兵を分けて方々の道の守りにつかせた。
・6月28日:大海皇子は不破の近くの和蹔(わざみ)で、軍隊を閲兵し、翌日には高市皇子に命じて総軍に号令した。
・大海皇子は不破の近くの野上(のがみ)に行宮(かりみや)を設け、留まった。
近江朝廷の対応
・近江朝では、大海皇子が東国に赴かれたことを聞き、ある者は逃げて東国に入ろうとし、ある者は山に隠れようとした。
・大友皇子は、ただちに騎馬隊を集めて急追すべきと進言する者がいたが急追しなかった。
・大友皇子は軍兵を徴発させるため、各地に重臣を遣わせた。
東国:韋那公磐鍬(いなのきみいわすき)、書直薬(ふみのあたいくすり)、忍坂直大麻侶(おしさかのあたいおおまろ)
倭の京(飛鳥):穂積臣百足(ほづみのおみももたり)、弟の五百枝(いおえ)、物部首日向(もののべのおびとひむか)
吉備:樟使主磐手(くすのおみいわて)
筑紫:佐伯連男(さえきのむらじおとこ)
・東国では伏兵により書直薬が捕らえられ、韋那公磐鍬は近江へ引き返した。吉備で磐手は吉備国守を殺した。筑紫で任務は果たせなかった
吹負の奇計・大和の戦い
・6月29日:近江朝の留守司の高坂王と募兵の使い穂積臣百足(ほづみのおみももたり)は飛鳥寺の西に軍営を構えていた。百足は小墾田(おはりだ)の武器庫にいて武器を近江に運ぼうとしていたところ、吹負(ふけい)が秦造熊(はたのみやつこくま)をして、高市皇子が攻めてきたと叫ばせたため、近江朝側は逃げ、百足は殺された。
・近江朝側の穂積臣五百枝(ほづみのおみいおえ) 、物部首日向(もののべのおびとひむか)を捕えたが許して、軍中に入れた。更に高坂王、稚狭(わかさ)王を軍に従わせた。
・大海皇子は吹負を大和の将軍に任命し、諸豪族が旗の下に集まった。
・7月1日:吹負は坂本臣財(さかもとのおみたから)らに300の兵士を率いさせて竜田を守らせ、左味君少麻呂(さみのきみすくなまろ)に数百人を率いさせて大坂に駐屯させ、鴨君蝦夷(かものきみえみし)に数百人を率いさせて石手(いわて)道を守らせた。
・坂本臣財は高安城(八尾市)を攻め取った。しかし、近江軍の壱伎史韓国(いきのふびとからくに)と戦ったが防ぐことができずに退却した。
大海皇子の反撃開始
・7月2日:大海皇子は紀臣阿閉麻呂(きのおみあへまろ)、多臣品治、三輪君子首、置始連兎(おきそめのむらじうさぎ)を数万の兵と共に鈴鹿を越え大和に向かわせた。
・また、村国連男依、和珥部臣君手、書首根摩呂(ふみのおびとねまろ)、胆香互臣安部(いかごのおみあべ)に数万の兵と共に不破から近江に入らせた。
・それに対し、近江方は山部王、蘇我臣果安(そがのおみはたやす)、臣勢臣比等(こせのおみひと)に数万の兵を率いて不破を襲おうとし、犬上川(南彦根付近)のほとりに軍を集めた。
・しかし、山部王は味方の蘇我臣果安、臣勢臣比等に殺され、混乱のため軍は進まなかった。蘇我臣果安は自殺し、近江軍の将軍 羽田公矢国(はたのきみやくに)はその子大人らと一族を率い降ってきたので、印綬を渡し北のかた越の地方へ入らせた。
・また、近江方は精兵を放って、玉倉部村(米原市近辺)を急襲したが、大海皇子側は出雲臣狛(いずものおみこま)を遣わして撃退。
大和の苦戦
・ 7月2日:近江軍が集まって来たので、吹負は防戦できず、退却したが、墨坂(奈良県宇陀市西方の坂)で置始連兎(おきそめのむらじうさぎ)の軍と落ち合い、散った兵士を集め、当麻(当麻村)の村で、壱伎史韓国(いきのふびとからくに)と戦い勝った。
・7月3日:吹負は奈良山に駐屯し、固守する覚悟。荒田尾直赤麻呂(あらたおのあたいあかまろ)・忌部首人(いんべのおびとこびと)らを遣わし古京を守らせる。赤麻呂らは古京に入り、道路の橋の板をはいで盾に造り、京のあちこちに立てて守りとした。
・7月4日:吹負は近江方の将軍の大野君果安と飛鳥の奈良山で戦い、敗れて逃げる。大野君果安は高所か京を見て、街角ごとに盾が立っているので、伏兵がいると思い、兵を引く。
・7月5日:近江軍の副将軍の田辺小隅(たなべのおすみ)は鹿深(かふか)山(甲賀の山)を越え人に知られぬように侵入、田中臣足麻呂(たりまろ)の陣中に入った。田中臣足麻呂の陣は混乱。
・7月6日:小隅は更に莿萩野(たらの)の陣を急襲したが多臣品治(おおのおみほんじ)がこれを防ぎ、精兵で追撃した。小隅はなんとか逃げて再び現れなかった。
大和で攻勢に転じる
・7月9日:大和に向かった東道将軍の紀臣阿閉麻呂(きのおみあへまろ)は吹負が敗れたことを聞いて、軍勢を分け、置始連兎(おきそめのむらじうさぎ)に千余騎を率いさせ大和へ急行させた。
・東国から本体が続々集まり、吹負は奈良への道の上道、中道、下道に分けて兵を配置、吹負自らは中道にあたった。
・近江軍の将、犬養連五十君(いぬかいのむらじいきみ)は中道から来て、村屋(奈良県田原本町蔵土)に駐屯し、別将廬井造鯨(いおいのみやつこくじら)に200の精兵を率いさせ、吹負の陣を襲わせた。
・吹負の陣は兵が少なくて、防ぐことが出来なかったが、大出寺の奴の徳麻呂(とこまろ)らが先頭になって進んで射かけたので鯨は進めなかった。
・上道を守っていた三輪君高市麻呂(みわのきみたけちまろ) 、置始連兎は大いに近江軍を破り、鯨の軍の後続を断った。鯨の軍はちりぢりになって逃走した。
・7月22日:吹負は大和の地を完全平定し、大坂を越え難波に向かった。
大津京陥落
・7月7日:男依は近江軍と息長(おきなが)の横河(米原市近辺)で戦って破った。
・7月9日:更に、鳥籠山で秦友足(はたのともたり)を斬る。
・7月13日:男依は安河の辺(野洲川近辺)の戦いで大勝し、社戸臣大口(こそへのおみおおくち)、土師連千島(はじのむらじちしま)を捕虜とする。
・7月17日:更に栗太[くるもと](滋賀県栗東市)の軍を追撃した。
・7月22日:男依は瀬田についた。大友皇子と群臣は瀬田の西に大きな陣を構え、将の智尊(ちそん)は精兵を率いよく防戦した。
・大分君稚臣(おおきだのきみわみ)が単身突入して良く戦ったので、近江軍は混乱し、智尊も斬られ、大友皇子は逃げた。
・男依らは粟津岡[あわずのおか](大津市膳所[ぜぜ])に集結。また、羽田公矢国(はたのきみやくに)、出雲臣狛(いづものおみこま)は連合して、三尾城[みおのき](三尾神社付近か?)を攻めおとした。
・7月23日:男依は近江軍の将を粟津市(あわずにいち)で斬った。
・大友皇子は逃げるところがなくなり、山前[やまさき](大津市長等[ながら]山、他諸説あり)に引き返し自害した。
壬申の乱後
・8月25日:大海皇子は高市(たけち)皇子に命じて、近江方の群臣の罪状と処分を発表した。
・9月12日:勝利をおさめた大海皇子は大和の飛鳥の右京に戻った。
その後、斉明天皇の岡本宮の南に新しく飛鳥浄御原宮を造った。
・673年(天武2年)2月:天武天皇が即位する。
・万葉集に天武天皇の飛鳥浄御原宮を賛美した歌がある。
「大君は神にし坐せば水鳥の多集(すだ)く水沼(みぬま)を京師(みやこ)となしつ」
・このように、宮廷の貴族が天皇をたたえるのに対し、
天皇みずからも「明神(あらひとかみ)と(して)大八州(を)御(しら)す日本根子天皇(やまとねこすめらみこと)」として、神と称した。
・近江朝廷の敗北と同時に、蘇我・中臣・巨勢(こせ)など有力な豪族が没落し、壬申の乱以後の天皇の権力がより強大になったと考えられる。
「乙巳の変から壬申の乱まで」まとめ
・新羅の武烈王(金春秋)は即位まえから活躍し、唐・倭・高句麗などと外交交渉を行い、新羅の力を蓄え、唐の力で隣国を討とうとしていた。
・ 660年7月に唐は蘇定方を遣わし、新羅と共に百済の泗沘城を陥落させた。そして、義慈王たち王族を長安へ連行した。
・百済旧領で鬼室福信(王族ではないが有力貴族)が唐軍に抵抗し百済復興運動の指導者となったので、 662年5月に中大兄皇子は余豊璋を百済に戻して即位させた。 更に、阿雲比羅夫連(あずみのひらぶのむらじ)、その後、狭井連殯榔(さいのむらじあじまさ)、秦造田来津(はたのみやつこたくつ)を百済に派遣。
・ 663年8月に唐水軍(170艘)と日本水軍(400艘以上)が白村江で激突。日本水軍が完敗する。その後、唐・新羅により、668年に高句麗が滅ぼされる。更に唐は高句麗より後退、朝鮮半島は新羅により統一される。
・天智天皇は白村江の敗北から、次は唐が日本に攻めてくると考え、防衛体制を強化する。北九州に防人をおき、九州、瀬戸内海沿岸に朝鮮式の山城を築く。
・神籠石に対し喜田貞吉らの霊域説と八木奘三郎らの古代山城説がある。神籠石(こうごいし)は本来列石のことではなく、「磐座[いわくら] (神体石)の一種」を指した名称であり、「皇后石」、「神護石」など多くの当て字がある。
・瀬戸内の神籠石系山城は7世紀後半~7世紀末に畿内中央政権(天智朝~天武朝)が白村江後に築城を計画したが、壬申の乱で中止となった。
・北部九州の神籠石系山城は7世紀末~8世紀初頭に畿内中央政権(大宰府が造営)が戦闘・防衛目的の城ではなく九州統治のための政治的・軍事示威的な城郭として構築。
・壬申の乱で大海皇子は不破・鈴鹿を早くにふさぎ、東国をおさえ、東国の軍を早期に編成した。近江朝は地方の把握が十分でなく、西国(吉備、筑紫)の協力も得られなかった。
・大海皇子は東国の数万の兵により不破から近江へ進軍して、近江朝を滅ぼす。一方大和で吹負が大海皇子側に寝返って挙兵、東国の援軍により、大和を制圧。
・近江朝廷の敗北と同時に、蘇我・中臣・巨勢(こせ)など有力な豪族が没落し、壬申の乱以後の天皇の権力がより強大になったと考えられる。