2.04.崇神天皇・垂仁天皇

崇神(すじん)天皇・垂仁(すいにん)天皇

■『古事記』の天皇の年代
天皇の即位年について、『日本書紀』は古く設定しており、天皇1代10年説とでは大きな差がある。
神武天皇で938年の差があり、崇神天皇でも439年である。


崇神・垂仁天皇系図


■崇神天皇
崇神天皇について
・崇神天皇は『日本書紀』ではBC.97年~BC.29年となっているが、AD.342~357年と思われる。
・和風諡号(しごう)は 『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)であり、『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)である。
・師木(しき)の水垣(みづかき)宮[『日本書紀』は磯城(しき)の瑞籬(みずかき)宮]にいたとあり、この付近は桜井市纒向(まきむく)遺跡である。
・東洋史学者の江上波夫氏は『騎馬民族征服王朝説』で任那(ミマナ)を直轄支配していたことを示す証拠としているが、 『日本書紀』の垂仁天皇の条でこの「みまき」から朝鮮半島の「みまな(任那)」を命名したとある。
・また、崇神天皇は御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。御肇國天皇のことから、初代の天皇ではないかとの説もある。

崇神天皇陵

・崇神天皇陵と景行天皇陵についての記紀の記述

・『古事記』の記述
崇神天皇:御陵は山辺の道の勾(まがり)の岡の上にあり。
景行天皇:御陵は山辺の道の上にあり。

・『日本書紀』の記述
崇神天皇:山辺の道の上の陵に葬りまつる。
景行天皇:倭国(やまとのくに)の山辺の道の上の陵に葬りまつる。

・崇神天皇陵[行燈山(あんどやま)古墳]は全長242メートル、後円部直径158メートルである。前方部幅102メートルの前方後円墳である。
陵墓要覧では山辺道勾岡上陵(やま のべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)

・考古学からの古墳名
戦後、天皇陵名表記が避けられ、考古学上の古墳名は下記となる。
  崇神天皇陵:行燈山(あんどんやま)古墳
  景行天皇陵:渋谷向山(しぶやむかいやま)古墳

柳本古墳群にある崇神天皇陵、景行天皇陵
邪馬台国の会HP第240回より作成

三輪山の大物主神 『古事記』の要点
①疫病が流行して、民がたいそう減った。そこで天皇はこれを心配して、神意を請うた。
②大物主大神が夢に出て、「疫病の流行はわたしの意志によるものだ。意富多々泥古(おおたたねこ)という人に、わたしを祭らせるならば、神の祟(たた)りは起こらなくなり、国内も安らかになるだろう」という。
③そこで、急使を四方に遣わして、意富多々泥古(おおたたねこ)という人を尋ねた求めたところ、河内(かわち)国の美努村(みのむら)にその人を見出した。
④天皇が「そなたは誰の子か」と尋ねると、「私は、大物主大神が陶津耳命(すえつみみのみこと)の女(むすめ)の活玉依毘売(いくたまよりびめ)を妻として生んだ子である櫛御方命(くしみかたのみこと)の子、飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)の子、建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子である。」と言った。
⑤すると天皇はたいそう喜で、「これで天下は穏やかになり、民は栄えるであろう」と言った。
⑥意富多々泥古を神主として、御諸山(みむろやま)の意富美和之大神(おほみわのおおかみ)を斎(いつ)き祭った。 ・・・・・。これによって疫病がおさまって、国内は平穏になった。

⑦この意富多々泥古(おおたたねこ)が神の子孫であるということを知ったわけは次のとおりである。
⑧活玉依毘売(いくたまよりびめ)は容姿が美しく輝くほどであった。ここに姿といい装いといい比類ない気高い男が夜に訪ねてきて、しばらくして毘売が身ごもった。
⑨そこで、父母は娘が身ごもったことを不審に思い、「夫がいないのになぜ身ごもったのか」聞いた。
⑩娘は「たいそう立派なおとこの人で、その姓(かばね)も名もしらない人が夜ごと通(かよ)って来て、ともに住んでいる間に身ごもった」と答えた。
⑪これを聞いて、父母は、その男の素性を知ろうと思って、娘に「赤土を床の前に撒き散らし、糸巻に巻いた麻糸を針に通し、男の着物の裾(すそ)に刺しなさい」と言った。
⑫教えのとおりにして、翌朝みると、麻糸は、戸の鍵穴から抜け通って出て、糸巻に残っている麻糸はわずか三輪だけであった。その糸をたどって行くと、三輪山に続き、神の社(やしろ)で留まっていた。
⑬それで生まれた子が三輪の大物主の子であることが分かった。そしてその地を美和(みわ)という。

三輪山の大物主神
① 天下が穏やかになって、伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に、天神(あまつかみ)、地祗(くにつかみ)の社(やしろ)を定めたとある。
② 『古事記』の崇神天皇紀で、三輪山の大物主神について書かれているのは、意富多々泥古(おおたたねこ)の話と活玉依毘売(いくたまよりびめ) の話である。『日本書紀』では更に、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の話がある。
③ 『古事記』上巻の大国主命のところで、三輪山に祀られている神は、海を光(てら)して来た神を大和の三諸(みもろ)山に祀ったとする話である。
『日本書紀』では不思議な光が海を照らして来た神を幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)としている。この神のみ子は加茂君(かものきみ)、大三輪君(おおみわのきみ)、姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)としている。
また『日本書紀』では別の説として、事代主神(ことしろぬしのかみ)が大きな鰐(わに)になって、三島の溝樴姫(みぞくいひめ)、あるいは玉櫛姫(たまぐしひめ)に通い、姫蹈鞴五十鈴姫が生まれたとする。

四道将軍 『古事記』の要点
①この天皇の御代(みよ)に、大毘古命(おおびこのみこと)を越(こし)国に遣わし、その子の建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)を東の方(ひがしのかた)十二国に遣わして、まつろわぬ人たちを平らげた。
②また、日子坐王(ひこいますのみこ)を旦派(たには)国に遣わして、玖賀耳之御笠(くがのみみのみかさ)を討たした。

四道将軍
①広辞苑は四道将軍について次のように記述している。
「記紀伝承で、崇神天皇の時、四方の征討に派遣されたと いう将軍。北陸は大彦命(おおびこのみこと)、東海は武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、西道 (山陽)は吉備津彦命、丹波(山陰)は丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)。 古事記は西道を欠く。」(人名表記は『日本書紀』による
②埼玉県の埼玉(さきたま)古墳群・稲荷山(いなりやま)古墳出土の鉄剣銘文に大彦の名前が記されている。
従来、四道将軍や大彦を架空の人物とする意見もあったが、この銘文の発見で、大彦は実在の人物の可能性がたかまった。

建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反逆 『古事記』の要点
①大毘古命が越(こし)国行ったとき、少女が崇神天皇の命が狙われていることを歌にしてうたった。
②そこで大毘古命(おおびこのみこと)が都に引き返して天皇にこのことを報告すると、建波邇安王が反逆するしるしに違いないとして、大毘古命に丸邇臣(わにのおみ)の祖先の日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)を副(そ)えて遣わせた。
③日子国夫玖命が丸邇坂(わにさか)に斎(いみ)清めた酒瓶(さかがめ)を据えて、神を祭り、下っていき、山城の和詞羅河(わからがわ)に達したとき、建波邇安王が軍勢をととのえて、行く手をさえぎった。たがいに戦をしかけので、そこを伊杼美(いどみ)という。
④日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)が相手に合戦の合図の矢を放つように言うと、建波邇安王が矢を射たが、命中しなかった。ところが日子国夫玖命が放った矢は建波邇安王に命中して、王(みこ)は死んだ。
⑤王が死んだので、軍勢は総くずれとなって、逃げ去った。その逃げた軍勢を追いつめて久須婆(くすば)にきた。
⑥斬りつけて、死体が鵜のように川に浮かんだので、鵜河といい、兵士を屠(ほうむった)ので、波布理曾能(はふりその)という。

建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反逆
①山代(やましろ)[山城]の国(現京都府南部)にいた建波邇安王[第八代孝元天皇の子]が、反乱をおこした。崇神天皇は、討伐のために丸邇臣(わにのおみ)の遠祖、日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)を遣わした。建波邇安王は、和詞羅河(わからがわ)で、日子国夫玖命をまち、さえぎった。京都府相楽(そうらく)郡木津町のこととみられる。 
『日本書紀』の表記は武埴安彦(たけはにやすひこ)
②両軍は川をはさんで対陣した。日子国夫玖は建波邇安王を射殺し、さらに、建波邇安王の軍兵を京都府相楽郡精華町の波布理曾能(はふりその)で、斬り葬った。大阪府枚方市楠葉(くすば)で、屎(くそ)を褌(はかま)におとして、怖(お)じ、逃げた話ものっている。
③建波邇安王(たけはにやすのみこ)の墓は椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳と考えられる。全長約190メートルで、山城の国最大の古墳である。当時の天皇の后妃陵(平均約200メートル)なみの大きさである。
④椿井大塚山古墳は三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)を三十数面出土している。だからこの古墳は大和政権が服属の証(あか)しに政権側から各地域の王に三角縁神獣鏡渡し、その渡す役割をやった人の墓だといわれている。

初国知らす天皇 『古事記』の要点
①大毘古命(おおびこのみこと)は高志(こし)国に行き、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)を東の方に行き、相津(あいづ)で行き会った。そこで相津(あいづ)という。
②そして、遣わされた国を平定し、天皇に復命した。このようにして天下は泰平となった。民は富み栄えたので、調(みつぎ)を貢(たてまつ)らしめた。
③その御世を称(たた)えて、初国(はつくに)知らす御真木天皇(みまきすめらみこと)と謂(もう)すのである。

初国知らす天皇
①会津の地名のおこりは大毘古命と建沼河別命が会ったからとしている。
②建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反乱を平定し、四道将軍を派遣して日本を平定した。その結果から初国知らす天皇としているようだ。
『日本書紀』では御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と記述している。

『古事記』による四道将軍派遣

・『古事記』では、孝霊(こうれい)天皇の代に、
吉備へ派遣
 大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)
 若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)

崇神天皇の代に、
高志へ派遣
 大毘古命(おおびこのみこと)

東方十二道へ派遣
 建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)(大毘古命の子)

丹波へ派遣
 日子坐王(ひこいますのみこ)(開化天皇の子、『日本書紀』表記:彦坐王
・崇神天皇の時代では三道派遣の説話になっており、 『日本書紀』と『古事記』の記述が違っている。

邪馬台国の会HP第391回より


『日本書紀』による四道将軍派遣

北陸道[若狭(わかさ)、高志(こし)]
(若狭、加賀、能登、越前、越中、越後)
 大彦命(おおびこのみこと)

東海道[伊賀、伊勢、志摩、尾治(おわり)、三川(みかわ)、遠淡海(とうとうみ)、駿河、伊豆、   甲斐、相武、无耶志、(むさし)、安房(あわ)、総(ふさ)、日高見(ひたかみ)]
(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸)
 武渟川別(たけぬなかわわけ)

西海道[針間(はりま)、吉備(きび)、安芸(あき)、周芳(すおう)、長門(ながと)]
播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門
   注:西海道は九州を示すが、崇神天皇の時代は山陽道と考えられる。
 吉備津彦命(きびつひこのみこと)

山陰道[旦波、多遅摩(たじま)、稲羽、伯伎、出雲、石見、隠岐]
(丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐)
 丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)

四道将軍の派遣先

地図は邪馬台国の会講演資料より(行政区の漢字は古い表記)

四道将軍の墳墓の位置


大毘古命(おおびこのみこと)の墓
川柳将軍塚(せんりゅうしょうぐんつか)古墳を大毘古命の墓と考える。
『日本書紀』の表記は大彦命

・長野市の長野自動車道の更埴(こうしょく)インターチェンジ近くで、千曲川を望む標高480mの山頂上に川柳将軍塚古墳という古墳がある。
・この前方後円墳については、地元の『石川村誌』『布施五明村誌』などに、「崇神天皇十年、詔あって大彦の命、本村長者窪に本貫(本籍地)をうつし北陸を鎮撫し、ついに本村にて薨ず。その埋葬せし墳墓を将軍塚と いう。」という伝承が記されている。
・4世紀ごろの古墳は山の上や尾根の上にあることが多く、5世紀になると仁徳天皇陵[大仙陵(だいせんりょう)古墳]のように平地に築かれる。川柳将軍塚古墳は、山の頂に築造されていて、この古墳が4世紀のものであることを思わせる。
・川柳将軍塚古墳は竪穴式石室で、第Ⅱ型の円筒埴輪や内行花文鏡、方格規矩四神鏡類など42面の鏡がでている。
・ここは古戦場で有名な川中島のそばで、すぐ近くに、式内社の布施神社がある。 布施は、古代の布施氏に由来するもので、布施神社は布施氏がその祖の大彦の命を 祀ったものであるという。

大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)の墓
中山茶臼山古墳(なかやまちゃうすやまこふん)を大吉備津日子命の墓と考える。
『日本書紀』の表記は吉備津彦命

・中山茶臼山古墳は、吉備津神社の近くにあり、岡山県岡山市尾上並びに吉備津に所在する大形前方後円墳で、岡山平野の中央に位置する独立小山塊の吉備中山の山頂直下の南尾根筋上に立地する。
・山の上や尾根の上に築造されており、この古墳も4世紀型古墳の特徴を備えている。
・『陵墓要覧』によれば、中山茶臼山古墳は大吉備津日子命の墓となっている。大吉備津日子命は、箸墓の被葬者の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)(『日本書紀』表記)とは兄妹である。
・中山茶臼山古墳からは、特殊器台型埴輪片が出土している。また、箸墓からも特殊器台型埴輪が出土しているが、大吉備津日子命と倭迹迹日百襲姫が兄妹であるならば、同じような埴輪が出土することに不思議はない。
・大吉備津日子命の墓とされる中山茶臼山古墳は、崇神天皇古墳と正確に相似形で、ちょうど半分の寸法である。

建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)の墓
会津大塚山古墳を建沼河別命の墓と考える。
『日本書紀』の表記は武渟川別命

・会津には、白虎隊で有名な飯盛山から1.5Km北西に会津大塚山古墳があり、これは東北南部の代表的古墳である。
・会津という地名は、北陸を遠征していた大毘古命と、大毘古命の息子で東海地域を征討していた建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)とがこの地で落ち合ったことが語源であるとされる。
・ここからは、三角縁神獣鏡や碧玉(へきぎょく)製品が出土しており、出土品の特徴は4世紀型の古墳であることを示している。
・また、この古墳は、会津盆地の東南部標高270mの独立丘陵上の最高所に立地しており、これも山上に築かれる4世紀型古墳の特徴である。
・伝承から見ても年代から考えても、建沼河別命の墓としてもおかしくない。
会津大塚山古墳は全長90mあり、前方部の長い柄鏡型古墳と呼ばれる種類の墳形を持つ。そして、桜井市の桜井茶臼山古墳も同じ柄鏡(えかがみ)型古墳である。

旦波比古多々須美知宇斯命(たにはのひこたたすみちのうしのみこと)の墓
黒部銚子山古墳(くろべちょうしやまこふん)を旦波比古多々須美知宇斯命の墓と考える。
『日本書紀』の表記は丹波の道主の命で、以下はこの表記とする
・開化天皇の息子の日子坐王(ひこいますのみこ)の子が、四道将軍の一人として丹波に使わされた丹波の道主命である。道主の命の娘は垂仁天皇の后になった日葉酢媛命である。
・丹波方面には、黒部銚子山古墳、神明山古墳(しんめいやまこふん) 、網野銚子山古墳(あみのちょうしやまこふん)などの古い古墳がある。これらの古墳は墳形から、四道将軍が活躍した4世紀ごろの古墳と推定できる。
・丹波の道主の命の墓は、陵墓要覧に明確に記載されてはいないが、丹波方面にはそれらしい墳墓があるのである。地元に丹波の道主の命の墓とする伝承がある。崇神天皇陵古墳や中山茶臼山古墳とほぼ相似形である。
・墳丘全長は100mで、大吉備津彦の墓と伝えられる中山茶臼山古墳(全長120m)にほぼ近い規模である。
・丹波の道主の命の館跡と伝えられるところや、中古の丹波郡の郡家(郡役所)の近くである。

箸墓古墳
『日本書紀』の記述
・倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が、大物主神の妻になった。ところが夫の神は、夜にしかあらわれず、どんな姿かを見せない。姫が懇願すると、明朝おまえの櫛箱に入っているから、自分を見ても驚かないようにと答えた。
・姫が明るくなってから櫛箱を見ると、そこに美麗しい小蛇(おろち)がいる。あまりのことに姫が驚いて声をあげたので、蛇神である大物主神がいかって三輪山へ登ってしまった。
・嘆き悲しんだ姫は、箸で陰(ほと)をついて死んだので大市に葬り、時の人たちは箸墓となづけた。
・その墓は昼は昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から、墓に至るまで、人々が連なって手渡しにして運んだ。

・『日本書紀』の記述は「大坂山」の石を運んで築造したとあり、 『日本古代遺跡事典』(吉川弘文館刊)の「箸墓古墳」の項には、箸墓古墳の葺石は黒雲母(うんも)花崗岩と斑糲岩(はんれいがん)で近くの初瀬川から採取されたらしいが、石室材はカンラン石輝石(きせき)玄武岩で大阪府柏原市国分(かしはらしこくぶ)の芝山産と推定され、伝承(『日本書紀』の記述)と一致する。 とある。
・『日本書紀』の記述がある程度正しいとすると、箸墓は倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓であり、その時代は崇神天皇の時代である。崇神天皇は『日本書紀』ではBC.97年~ BC.29年であるが、天皇一代10年説から、325年~357年となる。

邪馬台国の会HP第400回より

笠井新也(かさいしんや)氏は箸墓を、『魏志』倭人伝に記載する女王卑弥呼の墓に想定した。根拠の一つが、崇神天皇没年を『古事記』の「没年干支(かんし)」の戊寅(ぼいん)であることから258年とした。
・やはり、崇神天皇は4世紀中頃で、その他のことからも箸墓古墳を卑弥呼の墓とするには無理があると思われる。

倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ) 『日本書紀』
・『日本書紀』の崇神天皇6年条から、「宮中に祀っていた天照大神・倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)の二神の勢いを恐れて、天照大神を豊鍬入姫(とよすきいりびめ)命に託して、大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀った」とある。
・この、天照大神の話は八咫(やた)の鏡を伊勢に祭った話につながる。
・また、「倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)は渟名城入姫(ぬなきいりびめ)命に預けて祀った」とあり、渟名城入姫命は髪が落ち、痩せて、倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を祀ることができなかった。
・この話は大田田根子(おおたたねこ)に大物主の神を祀らさせる話に関係して、倭大国魂神は市磯長尾市(いちしのながおし)が祀ることになる。
・市磯長尾市(いちしのながおし) は倭直(やまとのあたい)(倭氏)の祖先であり、倭大国魂は天理市にある大和神社(おおやまとじんじゃ)である。
・市磯長尾市(いちしのながおし)は『日本書紀』の表記だが、『古事記』 では槁根津日子(さをねつひこ)で、神武紀では速吸の門(はやすいのと)で亀に乗ってきて水先案内をしたものである。


■垂仁天皇
垂仁天皇について
・垂仁天皇は『日本書紀』ではBC.29年~AD.70年となっているが、AD.357~AD.370年と思われる。
・和風諡号(しごう)は 『古事記』では伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)であり、『日本書紀』では活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)である。
・師木(しき)の玉垣宮(たまがきのみや)[『日本書紀』は纒向(まきむく)の珠城(たまき)宮]にいたとある。
『日本書紀』では土師部(はじべ)を設けて、埴輪(はにわ)の起源となる土器を使って殉死を禁止したとある。

垂仁天皇陵

・ 陵墓について、『古事記』では「御陵(みはか)は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」と記述し、『日本書紀』では「菅原の伏見陵に葬った」とある。

・垂仁天皇陵[宝来山(ほうらいやま)古墳]は全長227メートル、後円部直径123メートルである。前方部幅118メートルの前方後円墳である。
陵墓要覧では菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)

垂仁天皇陵[宝来山(ほうらいやま)古墳]の拝所 Wikipediaより

沙本毘古(さほひこ)・沙本毘売さほひめ) 『古事記』の要点
①沙本毘古(さほひこ)が沙本毘売(さほひめ)に「夫と兄といづれが愛(は)しき」と問う、沙本毘売は兄と答える。そこで、沙本毘古は沙本毘売に小刀で天皇が寝ている時に刺し殺せと言う。
②沙本毘売は天皇がひざまくらで寝ている時に、三度刃を下ろそうとするが、出来なかった。天皇は目が覚める。そこで、沙本毘売は兄の謀反の話を天皇にする。
③天皇は沙本毘古を攻めるようとすると、沙本毘古は稲城で待ち受ける。そこに沙本毘売も逃げ込んだ。皇后は懐妊していた。
④天皇は皇后を寵愛していたので、稲城を急には攻めなかった。そのうち、子が生まれる。沙本毘売は天皇に子を引き渡すと言う。天皇はその時、兵士に沙本毘売も連れ戻すよう命じるが失敗する。
⑤そこで、天皇は沙本毘売に、自分の皇后は誰にすれば良いか問う。沙本毘売は、旦波比古多々須美智宇斯王(たにはひこたたすみちのうしのみこ)の女(むすめ)、兄比売(えひめ)、弟比売(おとひめ)にしなさい」と答えた。
⑥かくして、天皇は沙本毘古を討った。そして妹沙本毘売も兄に従って亡くなった。

沙本毘古(さほひこ)・沙本毘売(さほひめ)
①沙本毘売の話は『古事記』と『日本書紀』では少し異なり、 『日本書紀』では、沙本毘売から赤子を無理やり引きもどさせる話はない。
②沙本毘古・沙本毘売は開化天皇の子である日子坐王(ひこいますのみこ)の子であり、旦波比古多々須美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)も日子坐王の子である。沙本毘売は自分の後の皇后は姪の比婆須比売命(ひばすひめのみこと)などがよいと推挙した。
③この比婆須比売命(ひばすひめのみこと)、弟比売命(おとひめのみこと)、歌凝比売命(うたごりひめのみこと)、円野比売命(まとのひめのみこと)の話が後の円野比売命の悲劇につながる。
④最初の皇后である沙本毘売の子の本牟智和気王(ほむちわけのみこ)は口がきけないこともあり、次の天皇にはなれず、比婆須比売命(ひばすひめのみこと)の次男の大帯日子淤斯和気命(おおたらしひこおしろわけのみこと)が景行天皇となる。

本牟智和気王(ほむつわけのみこ) 『古事記』の要点
①本牟智和気王は長い鬚が胸元にとどくようになっても、口がきけなかった。ところが、ある時、空を飛ぶ鵠(くくい)[白鳥]の鳴き声を聞いて、はじめて片言をしゃべった。
②そこで、人を遣わせて、その鳥を捕えさせようとした。紀伊(きい)国から始め、10か国を巡り越(こし)国でとらえた。しかし期待通りしゃべれるようにならなかった。
③天皇は夢から、出雲の大神によってしゃべれないことを知り、御子を出雲大神の宮に参拝させることにした。
④御子は曙立王(あけたつのみこ)と莬上王(うなかみのみこ)を本牟智和気王を供にして、出雲に行き、無事参拝をすませた。
⑤御子は帰る時に肥河(ひのかわ)で葦原色許男大神(あしはらしこをのおおかみ)を祭っている祭場に寄る。
⑥そこで、肥長比売(ひながひめ)と結ばれるが、そのおとめをそっとのぞくと、正体が蛇であった。これに恐れをなして、大和に逃げ帰った。
⑦本牟智和気王がしゃべれるようになったので、天皇は喜んで、出雲に神殿を造らせ、鳥取部、鳥甘(とりかい)部、品遅(はむち)部などを定めた。

本牟智和気王(ほむちわけのみこ)
①叛乱拠点の稲城に篭もった沙本毘売が生んだ王(みこ)が本牟智和気王である。幼児期の戦争体験、母親の死などの精神的なショックから口がきけなくなったのではないか。
②『古事記』では二俣榲(ふたまたすぎ)を二俣榲小舟(ふたまたこぶね)に作くって、倭(やまと)の市師(いちし)池・軽池に浮かべて遊んだとある。何かの伝承があったものと思われる。
③市師(いちし)池は履中天皇紀の「磐余市磯池(いはれのいちしのいけ)とあり、磯城(しき)郡にあった池と思われる。
④御子を出雲大神の宮に参拝させる話について、『日本書紀』では出雲で白鳥を捕えたことになっている。
⑤白鳥の話が出てくるが、白鳥については倭建命(やまとたけるのみこと)が死んで、白鳥になった話と共通するところがある。
⑥垂仁紀の白鳥は鵠(くくい)とあり、倭建命のところは八尋白智鳥(やひろしろちどり)と書かれている。

円野比売命(まとのひめのみこと) 『古事記』の要点
①また皇后の沙本毘売(さほびめ)が言ったとおり、天皇は比婆須比売命(ひばすひめのみこと)、弟比売命(おとひめのみこと)、歌凝比売命(うたごりひめのみこと)、円野比売命(まとのひめのみこと)の四柱を妃として召した。
②ところが、比婆須比売命(ひばすひめのみこと)、弟比売命(おとひめのみこと)を宮中に留めて、その妹の二柱は容姿が醜かったので、故郷へ帰した。
③そこで、円野比売命(まとのひめのみこと)はこれを恥じて、「同じ姉妹の中で、容姿が醜いという理由で返されたことが、隣近所に聞こえるであろう。これはまことに恥ずかしい」といって、山城の国の相楽(さがらく)にやって来たとき、木の枝にぶらさがって死のうとした。それでそこを名づけて縣木(さがりき)という。今は相楽(さがらか)という。
④また、弟国(おとくに)にやって来たとき、とうとう深い淵に落ちて死んでしまった。そこでそこを名づけて堕国(おちくに)といった。今は弟国(おとくに)という。

円野比売命(まとのひめのみこと)
①円野比売命の話は『古事記』と『日本書紀』では少し異なる。
② 『古事記』では、美知能宇斯王(みちのうしのみこ)の子として、比婆須比売命(ひばすひめのみこと)[または氷羽州比売命]、弟比売命(おとひめのみこと)、歌凝比売命(うたこりひめのみこと)、円野比売命の四柱を妃とし、醜いので下の二柱をくにに返したとある。
③そして、返された二人の比売のうち、円野比売命だけが返されたのを恥じて、山代(やましろ)国の相楽(さがらく)で死んだとある。
『日本書紀』 では垂仁天皇の条15年に、丹波の五人むすめを召したとし、日葉酢媛(ひばすひめ)、渟葉田瓊入媛(ぬはたにいりひめ)、真砥野媛(まとのひめ)、薊瓊入媛(あざみにいりひめ)、竹野媛(たけのひめ)である。
そして不器量だったので、竹野媛だけを返した。竹野媛は返されたのを恥じて葛野(かずの)で自ら輿(こし)より落ちて死んだとある。
注:この話は、邇邇芸(ににぎ)の命が木の花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)を娶った時の話の「大山津見の命が、姉の石長(いわなが)比売をそえて、木の花之佐久夜毘売を献上ところ、石長比売はたいそう醜くかったので、姉の石長比売だけ返された。」と似ている。
⑥このように、姉妹の人数、死んだ姫の名も違う。

時じくの香(かく)の木(こ)の実 『古事記』の要点
①天皇は三宅連(みやけのむらじ)等の祖先の多遅摩毛理(たじまもり)を常世(とこよ)国に遣わせて時じくの香(かく)の木(こ)の実を求めさせた。
②そこで、多遅摩毛理はついにその国へやって来て、その木の実を採(と)り、縵八縵(かげやかげ)、矛八矛(ほこやほこ)をたずさえて、帰ってきたが、その時はすでに垂仁天皇は亡くなっていた。
③そこで、多遅摩毛理は分けて縵四縵(かげよかげ) 、矛四矛(ほこよほこ)を皇后に献(たてまつ)り、縵四縵(かげよかげ) 、矛四矛(ほこよほこ)を御陵の入口に供えて言った。
④「常世(とこよ)国の時じくの香(かく)の木(こ)の実を持って参上しました」と申し上げて、泣き叫んで、死んでしまった。
⑤この時じくの香(かく)の木(こ)の実というのは、今の橘(たちばな)である。
⑥垂仁天皇は153歳で亡くなった。御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にある。氷羽州比売命(ひばすひめのみこと)の時に石棺を造る部を定め、土師部(はにしべ)を定めた。

みかんと橘
①橘(たちばな)について『魏志倭人伝』では「薑(しょうが)・橘・椒(さんしょう)・襄荷(みょうが)があるが、賞味することをしらない」とあり、倭人は橘を食さないことになっている。
②一方、『続日本紀』天平8年の条では「橘は果物のうちで最上のものであって、人々の好むものである。」とあり、元明天皇の頃、橘は果物の頂上であると言っている。
③3世紀の食べられない橘から8世紀の果物の頂上というまでに何故、変化したのか。
④古事記の垂仁天皇の条で田道間守(たじまもり)の話があり、ときじくのかくの木の実は今(『古事記』、『日本書紀』編纂)の橘であるといっており、これは田道間守が橘を日本へ持ってきたものと伝えている。
⑤この結果から、 『魏志倭人伝』に書かれた橘は野生種であり、田道間守が持って来たものがその後の橘で、食べられるものである。現在のみかんは温州みかんであり、奈良時代の橘とは別である。
⑥温州みかんは日本で創製した品種で明治以後普及したもの。その前の紀州みかんは明治中期以前に普及していたもので、特徴は種子が多い。植物学者の牧野富太郎は「橘は紀州みかんに似た食用ミカンであろう」と言っている。

田道間守はどこにとりに行ったのか?
・「遥(はるか)に弱水(よわのみず)を度(わたる)」とあるが、弱水(じゃくすい)について、白鳥庫吉の、『弱水(じゃくすい)考』で、黒竜江(こくりゅうこう)[アムール川]、大秦国(だいしんこく)[ローマ帝国]を示した。
・しかし、黒竜江は寒すぎるし、大秦国は遠すぎる。後漢書の大秦国伝で弱水について西王母(せいおうぼ)[中国でふるくから信仰された女仙]の居るところに近く、日のいるところとあり、弱水は漠然と西の方をさしたとも解釈できる。
・田道間守の垂仁天皇の時代は4世紀の後半で東晋の時代と考えられる。
・中国の江南の浙江省(せっこうしょう)原産である温州密柑の原種を持って来たと考えられるのではないか。

『古事記』と『日本書紀』の記述の違い

古事記と日本書紀の人名表記比較上段が『古事記』下段が『日本書紀』