蘇我氏の台頭
古代の豪族
・天皇を助ける朝廷の最上位に大連[おおむらじ](連姓から選ばれる)と大臣[おおおみ](臣姓から選ばれる)がある。
・連姓の豪族は忌部、弓削、鏡作りなど担当する職務に関係のある名を氏とするものが多い。
・それに対し臣姓は葛城、平群など地名を氏の名としているものが多く、土地に根をはった豪族である。
・物部氏は大連で、蘇我氏は大臣である。

聖徳太子の系図

蘇我氏の系図
・欽明天皇は継体天皇の後、天皇家の血筋の濃い天皇として権威があり、在位年数も長かったので、安定した存在となった。
・蘇我氏は建内宿禰を祖先とし、確かな存在は稲目からとなる。
・稲目の妻は名門の葛城氏の出身で、稲目のむすめ堅塩媛(きたしひめ)、小姉君を欽明天皇へ嫁がせた。
・その結果、蘇我氏はむすめの子が天皇となり、大きな勢力となって行く。

物部氏とは
■ 『古事記』『先代旧事本紀』
・物部氏の祖先は邇芸速日命(にぎはやひのみこと)[饒速日命(『日本書紀』)]である。邇芸速日命は河内の国の河上の哮峰(いかるがのみね)に天下った。さらに大和の国の鳥見(とみ)の白山にうつった。とある。
・邇芸速日命に供奉した天物部(あまつもののべ)ら二十五部があり、九州北部の地名と関係している。特に、遠賀川流域が注目される。
・邇芸速日命は那賀須泥毘古[長髄彦( 『日本書紀』 )]の妹の登美夜毘売(とみやひめ)を娶り、宇摩志麻治命(うましまじのみこと) という子をもうけている。宇摩志麻治命は島根県の物部神社に墓がある。
■畿内での物部氏
・物部氏は河内国・渋川郡(大阪府八尾市・東大阪市付近)を本貫地とし、大和へ進出する。遠くは尾張まで進出している。
・朝廷の軍事・警察権を握り勢力を拡大してきた。飛鳥時代には大連(おおむらじ)を得、大きな勢力であった。
物部氏と蘇我氏の対立
・欽明天皇のあとを、敏達天皇が継ぎ、炊屋(かしきや)姫(後の推古天皇)が皇后となった。
・敏達天皇没後、蘇我氏と物部氏の対立は激しくなり、蘇我氏が強力にバックアップする大兄(おおえの)皇子 (用明天皇)が即位した。一番年長であるとのことで一応は決着したようである。
・用明天皇の即位に不満があった小姉君の子の穴穂部(あなほべ)皇子が騒ぎを起こす。物部守屋は穴穂部皇子をバックアップする。
・用明天皇は即位2年後に亡くなる。後継ぎ問題で、蘇我馬子は兄弟相続の習慣を生かし、泊瀬部(はつせべ)皇子(崇峻天皇)を擁立。守屋は用明の異母兄弟の穴穂部皇子を奉じて兵を起こそうとしたが、謀が漏れ、馬子は穴穂部皇子と険悪な関係であった炊屋(かしきや)姫にとりいり、詔を出してもらって穴穂部皇子を殺した。
・守屋は穴穂部皇子を失い孤立する。それに対し、馬子は泊瀬部皇子、厩戸皇子など多くの皇子を味方にする。
物部氏の没落


・馬子に主な豪族も加わり、主軍は蘇我氏中心に諸皇子や、紀、巨勢、膳、葛城の諸氏からなり、第二軍は大伴、阿倍、平群、坂本、春日の諸氏からなる。
・守屋は中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)が味方になったがその後裏切られ、河内を中心とした物部氏の一族で戦った。しかしその勢力は大きいものであった。
・『日本書紀』によれば、守屋側の頑強な抵抗により馬子側も一時苦戦におちいった時、厩戸皇子が四天王の像を刻み、この敵をほろぼすことができれば四天王のため寺と塔を建てると誓願したとある。
・結局、この戦いで守屋が死んで、物部氏は亡んだ。
この戦いを丁未の乱(ていびのらん)ともいう。
強い勢力となった蘇我氏
・炊屋姫は在位14年に渡った敏達天皇の皇后であったことから皇族内で重きをなしていた。しかも馬子と伯父と姪の関係である。物部氏が亡んだ朝廷で馬子は強い立場となった。
・崇峻天皇は影の薄い存在で后妃に皇族がおらず。大伴氏からの妃としている。馬子によって擁立された崇峻天皇であったが、その後馬子と対立し、馬子により暗殺された。
崇峻天皇の後、後継者が問題となった。厩戸皇子が有力であるがまだ19歳であり、炊屋姫の子の竹田皇子はそれより若かった。そこで炊屋姫が推古天皇として即位し、聖徳太子が摂政となった。日本で初めての女帝である。
・用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の3代は蘇我稲目の孫となる。
飛鳥仏教
・仏教伝来時の天皇である欽明天皇は仏教に対し傍観中立の立場であったようで、次の敏達天皇も同じようであった。用明天皇は病気がちであったので、病気平癒のために仏教に帰依した。
・続く、崇峻天皇、推古天皇も仏教に対する伝統的な立場を変えなかったようだ。
・そのような中、仏教の推進役となったのが蘇我氏で、飛鳥寺を建立した。蘇我氏を中心として発展させていった。
・蘇我氏の流れをくむ聖徳太子は深く仏教に帰依し、四天王寺を建立した。また、斑鳩(いかるが)の地に斑鳩宮を建て、この近くに建てられたのが法隆寺である。

聖徳太子
・574年~622年(推古30年)の飛鳥時代の人。
父は用明天皇、母は欽明天皇の娘の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女。
・厩戸(うまやど)皇子、上宮(うえのみや)王・豊聡耳(とよとみみ)などともよばれた。
・推古天皇の皇太子で、摂政となり政治を行った。特に遣隋使の派遣など外交で活躍をした。
・冠位十二階の制定、憲法十七条の制定、三経義疏(さんぎょうぎしょ)をあらわした。
・『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ) 』 に伝記が記されている。

『上宮聖徳法王帝説』
・『上宮聖徳法王帝説』は最古の聖徳太子伝である。聖徳太子の誕生、一族のこと、仏教興隆のためのことなどを記す。
・『上宮聖徳法王帝説』は性質の異なる五つの部分(①②③④⑤)からなる。
① 聖徳太子の系譜で、大宝年間(701~704年)、慶雲年間(704~708年)以前の成立と見られている。
②聖徳太子の事績などをのべた部分で、奈良時代の成立と見られている。
③聖徳太子関係の古文の引証とその註釈で、法隆寺の『薬師像・釈迦像の光背の銘文』などがあり、平安時代中期ごろの成立と見られている。
④聖徳太子の事績関係の史実についての記録の再録と追補で、平安時代初期以前の成立と見られている。
⑤聖徳太子に関係する五天皇と聖徳太子の略歴の記録で、大宝年間、慶雲年間の成立と見られている。
・はじめ、 ①の部分ないし、 ②の部分が加わった原初的な形が奈良時代に成立し、それに④と⑤の部分が加わり、更に平安時代に③の部分が付加されて今本の形ができたと考えるのが一般的。
■表記の差
・地名の「をわり」を『古事記』『日本書紀』では「尾張」と書くのに対し、『上宮聖徳法王帝説』では「尾治」と書いている。「大宝戸籍」の表記は「尾治」であり、「尾治」の表記の方が古い。
・また、「こ」は古い表現で「古」、新しい表現で「子」である。『上宮聖徳法王帝説』は「古」を使っており(例:馬古)、『古事記』『日本書紀』 (例:馬子)より古い。
・『古事記』で「こ」が古い表現「古」となっているのは下記で、上巻である古い時代の方が多いことが分かる。

『三経義疏』
・聖徳太子は『三経義疏(さんぎょうぎしょ) 』をあらわしたという。
・ 『三経義疏』 は『法華義疏(ほっけぎしょ)』の四巻、『維摩経義疏(ゆいまぎしょ)』の三巻、『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』の一巻の総称である。
・成立年代は『上宮聖徳法太子伝補闕記』によると、『勝鬘経義疏』が、609年から3年、『維摩経義疏』がそれにつづいて2年、『法華義疏』が2年、合計7年かかって完成したという(聖徳太子36~42歳)。
・ 『三経義疏』 のうちの、『法華義疏』については、聖徳太子の自筆本と伝えられる巻物が存在する。
・ 『法華義疏』は、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の『妙法蓮華経』二十七品本を使用するなど、内容的には古いものである。
『法華義疏』は、614年~615年、聖徳太子41~42歳のころの成立とみられる。
聖徳太子は実在したか?
■聖徳太子は実在しなかったなどとした本
・『 <聖徳太子>の誕生』中部大学人文学部教授大山誠一氏
・『偽りの大化改新』文教大学教育学部教授 中村修也(しゅうや)氏
■聖徳太子は実在したとした本
・『聖徳太子虚構説を排す』東北大学大学院教授田中英道(ひでみち)氏が反論している。
津田左右吉の懐疑論以来、『日本書紀』不信論から、聖徳太子は実在しなかったなどの議論があるが、そうだろうか?
聖徳太子は実在したと考えられる。その論拠を説明する。
「聖徳太子は実在しなかった」の主旨
大山誠一氏の『<聖徳太子>の誕生』の内容は
・聖徳太子がいなかったとしたらインパクトが大きい事を意識しているが、事実は事実と考え、批判を受けるとしている。
・法隆寺の『薬師像・釈迦像の光背の銘文』『中宮寺の天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)の銘文』『三経義疏』などの法隆寺系の資料は分かっているものでも、天平19年(747年)以前の成立とされている。『日本書紀』が編纂される時期に法隆寺系の資料があったのならば、何故 『日本書紀』に引用されていないのか。 それは『日本書紀』編纂時に、これらの資料がなかったからである。
・『勝鬘経義疏』は、中国から隋代にいたる10点ほどの勝鬘経の注釈書のうち、敦煌出土の『勝鬘経義疏本義』と称されるものと7割が同文で、同系統の注釈書である。このことから、『三経義疏』は中国製のものと考えられる。行信がどこからか捜し求めて、聖徳太子遺愛の品と称して、法隆寺に奉納した。行信が捏造の中心人物である。
・聖徳太子は『日本書紀』の中で生まれた。『日本書紀』の編纂直前の政治状況から、誰が、何のためにそうした人物像を捏造したかが問われる。
『聖徳太子虚構説を排す』の主旨
■田中英道氏の『聖徳太子虚構説を排す』の内容
・奈良国立博物館の西山厚氏や、奈良大学教授の東野治之氏が『法華義疏』の題箋から日本の国号を「大委国」としている。この表記は志賀島出土の金印と、『百済本記』(7世紀末成立)しかないので、遅くとも、7世紀末に書かれたものとなる。
・ 『日本書紀』推古14年(606年)に聖徳太子は岡本宮で『法華経』を講じている。他に、『法華経』を講じることができる僧侶の名を挙げることが難しい。
・ 『法華義疏』が8世紀から法隆寺に存在していたことは確認されている。東院が天平11年(739年)に行信によって造営されたとき、聖徳太子のゆかりの品々が集められた。その後納められた写本の3部も含め、今日まで伝えられたことは、いかに本書が大事にされていたかの証である。
・近年『勝鬘経義疏』の種本が西域で見つかり、その7割りが同じであるというが、注釈書は元の本と同じところがあるのは当然で、異なるところを注目すべきである。仏国に関する論究(十重問答)がいい例。
『三経義疏』からの説明
・『三経義疏』については、聖徳太子の撰述を疑う説がある。疑撰説には、法隆寺に撰者不明のままに伝えられてきたものに、747年(天平19年)に寺の資材帳提出のさいに、「上宮王私集」という題箋(だいせん)を付したものであるとする説や、中国敦煌出土の『法華経』の注釈と関係づけて疑う説などがある。
・『法華義疏』をみると、「大委国上宮王私集非海彼本(大委国[やまと]の上宮王の私集、海彼[かいひ] [外国]の本にあらず)」という、題箋の筆跡は本文と同じようにみえる。別人が後から題箋をふしたようにみえない。(例えば、「是」「非」の字を比較)
・「委」の文字を「い(ゐ)」ではなく「わ」と読むのは「推古朝遺文」の読み方であり、田中英道氏が述べているのと同じである。
・『日本書紀』をみても、「委」を「わ」と読むのは、古い百済系資料によると見られるものに限られる。

「是」「非」の字を比較
(邪馬台国の会HP第302回より)
・朝鮮系の資料に基づいたときのみ「わ」と読んだようだ。
①「賁巴委佐(ほんはわさ)」(安羅の人「継体天皇紀」)
②「委陀(わだ)」(朝鮮の洛東江口の地名「継体天皇紀」「推古天皇紀」)
③「竹斯物部莫奇委沙奇(つくしのもののべまがわさか)(百済の人「欽明天皇紀)」
・例文のなかにみえる「奇(が)」「奇(か)」「意(お)」「移(や)」などはいずれも推古朝遺文にみられる古い用法である。
・『日本書紀』の編纂者は、歌謡を記す時は「委」の文字を「ゐ」と読んでいる。
①「等利委餓羅辞(とりゐがらし)[鳥居枯らし]」(歌謡中の万葉仮名「応神天皇紀」)
②「委遇比莬区(ゐぐひつく) [堰杙築(ゐぐひつ)く] 」(歌謡中の万葉仮名「応神天皇紀」)
③「爾加委(にかゐ)(島の名。伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)の書(ふみ)のなかにでてくる「斉明天皇紀」
・金印は定説どおり「漢の委(わ)の奴(な)の国王」でよい。
聖徳太子と外交手腕
■隋による中国統一
・魏晋南北朝の末期、北周(北朝)の外戚だった楊堅(ようけん)は、581年に北周の静帝に禅譲(ぜんじょう)をせまって帝位につき、隋を建国した。これが文帝である。
・文帝は、587年に後梁を併合、589年には南朝の陳をたおして、中国の統一を完成した。
■朝鮮半島の動き
・高句麗の平原王は陳が亡んで、隋の進攻を恐れ、防備をかためた。そのあとを継いだ嬰陽(えいよう)王は文帝に遼東郡公高麗王に封じられた。
・百済の威徳王も隋がおこるとすぐに朝貢して、帯方郡公に封じられた。これに対し新羅は地理上中国との交渉も疎遠であったのか、隋とはしばらくのあいだ交渉がなかった。
・この頃日本は崇峻天皇の時代で、 591年(崇峻4年)に任那再建をはかり、2万の軍を筑紫に駐屯させ、新羅と交渉したとある。
・その後、594年に新羅の真平王は隋に朝貢し、楽浪郡公新羅王に封じられた。

■隋と高句麗
・ 598年(推古6年)高句麗と隋の間で大きな衝突となる。高句麗の嬰陽王は「靺鞨(まつかつ)の衆、万余騎」を率いて遼西を攻めたので、隋の文帝が怒り「水陸30万」をもって高句麗を攻めた。しかし決定打を与えることが無く、多くの兵士をうしなった。高句麗が謝辞して国交は回復した。
・600年に長男から皇太子の地位をうばった文帝の次男楊広は、文帝が604年に病死すると、即位し、第2代煬帝となる。煬帝は、文帝がはじめた江南と華北をむすぶ大運河の建設事業を完成させた。これによって、南北の政治的・経済的・文化的一体化がすすんだことの意義は大きい。
・煬帝は3度にわたり大軍をひきいて高句麗を攻めたが、成功しなかった。
朝鮮の情勢
■高句麗(Wikipediaより)
第25代の王(在位:559年 – 590年)平原王(へいげんおう)
新羅が独自に中国との朝貢を行なって冊封体制下に入ったこともあって、三国間の対立情勢となったので、大きな戦は少なかった。
第26代の王(在位:590年 – 618年)嬰陽王(えいようおう)
598年に遼西に進入し、隋の文帝の怒らせ、隋の高句麗遠征(第一次遠征)を引き起こす。30万の大兵を率いた隋軍だが、長雨・大風に悩まされたために早々に引き上げ、嬰陽王も謝罪したことで、和平が取り戻された。607年には東突厥に使者を派遣したところから、隋の煬帝による第二次遠征(612年)となった。隋軍を疲弊させ、諸軍を壊滅させた。続く第三次遠征(613年)、第四次遠征(614年)でも隋軍を退け、隋の衰亡を早めさせることとなった。その間、百済・新羅に対しても攻撃を行った。
第27代の王(在位:618年 – 642年)栄留王(えいりゅうおう)
即位した年に中国では唐が建国されており、栄留王は直ちに唐に対して朝貢を行い、和親を結んだ。唐が国内の混乱を収めていったころから両国間の緊張は高まってきた。新羅に奪われた領土の回復のために新羅とも対決したが、敗戦を重ねるだけとなった。
■新羅(Wikipediaより)
第26代の王(在位:579年 – 632年)真平王(しんぺいおう)
半島内では防戦状態が続いた。626年には高句麗と百済とが和解してともに新羅に当たる状況となり、三国間での新羅の劣勢はいよいよ深刻なものとなった。
第27代の王(在位:632年 – 647年)善徳女王(そんどくじょおう)
新羅初の女王。朝鮮半島での孤立打破のため。唐に積極的に近づき、朝貢を重ねる。642年7月には高句麗と百済とが連合して党項城(京畿道華城郡南陽面)を奪取した。
第28代の王(在位:647年 – 654年)真徳女王(しんとくじょおう)
648年百済からは10余城が陥落させられたが金庾信の活躍で撃退。唐に金春秋を派遣し、百済討伐の援軍を願い出てようやく太宗から一応の了承を得ることができた。
■百済(Wikipediaより)
第27代の王(在位:554年 – 598年)威徳王(いとくおう)
倭国と共に新羅と戦ったが、緒戦で奇襲を受けて聖王が戦死するという結果に終わった。隋に高句麗との戦争の際に道案内をすること申し出た。このことから高句麗は百済に侵攻してくる。
第28代の王(在位:598年 – 599年)恵王(けいおう)
第29代の王(在位:599年 – 600年)法王(ほうおう)
第30代の王(在位:600年 – 641年)武王(ぶおう)
朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済においても新羅においても、高句麗への対抗のために隋の介入を求める動きが活発となっていた。陰では高句麗とも手を結ぶ二股外交をしており、612年に隋の高句麗遠征軍が発せられたときには、百済は隋の遠征軍に従軍はしなかった。一方で新羅とは南方の伽耶諸国の領有をめぐって争いが絶えなかった。
第31代の王(在位:641年 – 660年)義慈王(ぎじおう)
百済最後の王。
隋の文帝への遣い(第81巻東夷)倭国伝
・開皇二十年、倭王の姓は阿毎(あめ)字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)号して阿輩雞弥(あほけみ)というもの、使を遣わして闕(けつ)に詣(いた)らしむ。上(しよう)、所司(しょし)をして其の風俗を訪ね令む。使者言う、「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺(かふ)して、坐(ざ)す。日出ずれば便(すなわ)ち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」と。
・高祖曰く、「此れ太(はなは)だ義理無し」と。是に於いて訓して、之を改め令む。王の妻は雞弥(けみ)と号す。後宮には女六七百人有。太子を名づけて利歌弥多弗利(りかみたふり)と為す。城郭無し。
■倭の五王以来、100年近く中国との外交が無かった中、隋が陳を滅ぼし、中国を統一したので、外交を始めたが、倭の五王とは違い、「アメタラシヒコ」と称し、隋の臣下ではない表現をした。
また、開皇20年は西暦600年で推古天皇の時代であり、女帝なのに何故男王としたか?
聖徳太子が摂政であったからか?
使者の小野妹子の小野氏は『古事記』から天押帯日子(あめのおしたらひこ)命の後裔であったからか?
■註釈
・「闕(けつ)」は王宮の門、「上(しよう)」は文帝、「所司(しょし)」は所管の役人。「義理無し」は理くつが立たない。
・「阿毎(あめ)」は「天」を記したもの。
・「多利思比孤(たりしひこ)」は「たらしひこ」を表記したもの。 天皇の国風諡号から男性は「たらしひこ」女性は「たらしひめ」。
・「鷄弥(けみ)」(王の妻)は「君」とみてよい。
・「阿輩鷄弥(あほけみ)」は「大君」とみてよい。奈良時代に「沖縄」を「阿児奈波」と記した例があり、「阿」は「お」とも読む。「輩」は「倍」と同じで「ほ」と読む。
・「利歌弥多弗利(りかみたふり)」は『翰苑』から「和哥弥多弗利(わかみたほり)」があり、「利」は「和」の間違いと考え、「和歌弥多弗利」と考え、「わかんとぼり」とみてよい。
隋の煬帝への遣い
・新羅(しんら)・百済(ひゃくさい)は、皆倭を以って大国にして、物品多しと為し、並に之を敬仰して、恒に、使いを通じて往来す。
・大業三年、其の王多利思比孤(たりしひこ)、使いを遣わして朝貢せしむ。使者曰く、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門(しゃもん)数十人来たりて仏法を学ばしむ」と。

・其の国書に曰く
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云云」と帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿(こうろけい)に謂いて曰く、「蛮夷の書、無礼なる者の有り復た以って聞(ぶん)する勿かれ」と。
菩薩天子は隋の煬帝
沙門は僧のこと。
鴻臚卿(こうろけい)は外務省の接待係の長官。
・国書で日本の独立宣言
この文章は日本が隋に対して、従来の属国的状態から、独立を宣言したもののようである。
・ 『日本書紀』と記述が違う
「東(やまと)の天皇、敬(つつし)みて西(もろこし)の皇帝(きみ)に白(もう)す。・・・」とあり、
隋への国書とはニュアンスが違う。
・倭国の国書への返書( 『日本書紀』推古天皇16年)
「妹子臣、奏(そう)して曰(もう)さく、「臣(やつかれ)、参還(まうく)る時に、唐の帝、書を以て臣に授(さづ)く。・・・」
小野妹子が煬帝から返書を受けたが、百済を経由した時に盗まれたとしている。紛失の罪から流刑になるところ、天皇により罪が許されたとある。
返書は隋の煬帝が日本を中国の属国扱いにしてあったので、直接天皇に報告できないと判断し、小野妹子が隋からの返書を途中で奪われたとする説がある。
冠位十二階と十七条の憲法
・聖徳太子は冠位十二階と十七条の憲法を制定したという
■隋書の記
・内官に十二等有り、一を大徳と曰い、次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信、員に定数無し。
■『日本書紀』の記述
・推古天皇紀11年(603年)条に冠位十二階について記してあり、隋書の記述と官職の順位が合わない。

・最初、冠位十二階は蘇我氏を除く他の豪族に与えられたものらしく、畿内及びその極く周辺に限られており、冠位の施行範囲が限定されていたと考えられる。
・当初、聖徳太子の独創になるものとの見解が有力であったが、井上光貞氏らが、大陸、半島の諸制度を倣ったものと考えている。特に百済の官位制を中心とし、高句麗の制度を参照することによって成立されたとの説。
・また、古田武彦氏は九州王朝だったから隋書と違うとの仮説を唱えているが、仮説に無理がある。
・読み方に、漢音と呉音があり、呉音の方が古い。『日本書紀』で仏教関係と律令関係の読みは呉音で読ます方が多いので、律令関係である官位は呉音で読んでいたと思われる。
・「碁」は漢音では「し」であるが、呉音では「ご」と読む。「碁」は奈良時代以前に百済から入って来たので、呉音となっている。
このことから、冠位十二階は百済から入ってきた可能性が高いと考えられる。
冠位十二階年代による変遷

十七条の憲法
・十七条の憲法は推古12年(604年)に聖徳太子が自ら作ったとされている。
・「君」、「臣」、「民」の三要素に分け、特に「臣」に対して、国家の臣僚として行うべき道徳と従うべき規律をさとしたものである。
・思想的には儒教、仏教、法家の思想がある。仏教については、儒教的な道徳実践のために、仏教への帰依が必要である程度にとどめている。法家思想としては信賞必罰、公私の区別などを盛り込んでいる。
・儒教を軸として書かれているが、「君を天とし、臣を地とする」とし、君・臣の関係は永遠に不動のように記されている。
・十七条の憲法は神話体系や神祇信仰(神道と仏教の習合)で書かれていない。何故、天皇の尊厳をそのようなもので記載しなかったのであろうか?
一つには600年の遣隋使で、隋の文帝に指摘されたことが関係したのかもしれない。
十七条の憲法条文

乙巳(いっし)の変(大化の改新)
・蘇我氏の横暴に対し、中大兄皇子、中臣鎌足が立ち上がる。
・大化の改新で班田収授法、冠位官制の整備を行う。
天皇系図

乙巳の変の前
・聖徳太子、蘇我馬子が死に、73歳の推古天皇は後継天皇を用明天皇系の聖徳太子の子の山背大兄王と敏達天皇の孫の田村皇子のどちらにするか悩み、遺言をして亡くなった。
・なかなか後継ぎが決まらない時、蘇我蝦夷が推古天皇の遺言として、群臣をまとめて、田村皇子に決めた。田村皇子は629年に即位し舒明天皇となった。
・蘇我氏の堅塩媛(きたしひめ) ・小姉君系の天皇は推古天皇で終わった。敏達天皇系の舒明天皇となり、仏教に対する態度が大きく変わった。
・舒明天皇は天皇家として最初の寺である百済寺の造営に着手した。また、宮廷に僧を招いて仏典の講説を行わせ、宮廷仏教を開始した。これは氏族仏教と同質と思われるが、天皇がかかわることで、大きく発展していく。
・舒明天皇が亡くなった後、後継者は舒明天皇の子の古人皇子と中大兄皇子、更に山背大兄(やましろのおおえ)王の3人がいた。後継者を決めるのが難しいなか、642年に舒明天皇の皇后の宝皇女(たからひめみこ)が皇極天皇として即位した。
・蘇我蝦夷と入鹿は墓をあらかじめ築造するにあたり、皇子の部民を多く集め使役したり、天皇に張り合う行為が増える。
・ 644年に蘇我入鹿が巨勢臣徳太(こせのおみとくた)・土師婆婆連(はじのさばのむらじ)らを斑鳩(いかるが)にさしむけ山背大兄王を襲わせて自殺させた。
・蘇我入鹿は古人皇子を擁立しようとした。山背大兄王が死に、次に狙われるのが中大兄皇子となることが予測できたので、中臣鎌足が蘇我氏打倒の組織づくりを行い、蘇我倉山田石川麻呂を仲間に入れることに成功。

・645年(皇極4年)6月に高句麗・百済・新羅三国の調(みつぎ)をすすめる儀式で、主役の中大兄皇子、中臣鎌足によって蘇我入鹿が殺される。蘇我蝦夷も自宅で自殺する。 (乙巳の変)
・皇極天皇が譲位し、軽(かる)皇子が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子となった。孝徳天皇は大化と年号を改め、都を飛鳥から難波に移した。
大化改新(五つの法令)
①東国の国司を任じ「国家所有の公民、大小所領の人衆(全人民の戸籍の製作と田の面積)」の調査を命じた。
②大和の六県(高市[たけち]、葛城、十市[とおち]、磯城、山辺、添[そう])に使者をつかわせ、造籍・校田を命じた。
③朝廷に匱(ひつ)と鐘を置き、属する伴造や族長の裁判に不服のあるものは、その匱に投書して、直接朝廷に訴えることをゆるし、なお朝廷の裁定に不満のあるものは鐘をならして更に訴えることを認めた。
④男女の法を定め、男女間に子供が生まれたとき、子を父母のどちらの所属にするかを決めた法である。良民間の子は父系制の原則により、賤民間では賤民の実際にもとづき、良賤間の場合は良賤の区別を明確にするための規則。
⑤僧侶を統制するための十師(じつし)と寺院を統制するための寺司・寺主・法頭(ほうず)を任命。仏教を政治の外におかず、統制した。
大化改新(新政の進行)
・大化改新の直前の644年、駿河の富士川のほとりで虫をまつる宗教が流行したという。その虫は長さ4寸あまりで、親指ぐらいの太さで緑色に黒いまだらがあり、蚕に良く似ている。これを常世の神といった。
・まつれば富と寿命とが得られると説いてまわるものがあり大流行となった。いままでの豪族や族長の力では抑えきれない変動が起こりかけていたことが暗示される。
・公地・公民の制は東国や大和以外の地方でも実行されたであろう。中央大豪族の部民や田荘(たどころ)の存在するところでは実行は難しかったのではないか。
・中大兄皇子でさえ、私有の部民と屯倉(みやけ)を天皇にたてまつったのは646年(大化二年)のことである。
・天皇以下臣・連らの豪族にいたるまで私有の部民を収公するむねを明らかにし、同時にあらたに百官と位階をもうけ、官と位をさずけることを約束した。
・薄葬令の詔が出る。これまでの皇族・豪族が葬式にあたって墳丘や石室を盛大にいとなむ厚葬の風習を禁じたもので、宮廷での身分と冠位によって墓の規模を6等級にわけた。以後古墳の築造が衰える。
・また風俗にかんしても、殉死とか祓除(はらえ)とか儒教的な見方から不合理と思われる慣習の廃止を命じた。中国、朝鮮との外交から地方の異様な風習を廃したと思われる。
・推古朝で定めた冠位の制を改め12階を大化3年に13階とし、更には大化5年に19階とした。名称も変えた。
・大化改新の詔は近江令の転載ではないかとの津田左右吉氏の批評があり、後に井上光貞氏が発展させた。しかし改新詔の全部が『日本書紀』編者の造作とは思えない。文体など奈良朝以前のものが多い。たぶん、原文が不完全のまま伝わっていたのを『日本書紀』編者が形を整えたのではないか。その時少し付け加えられた部分もあったのではないか。
冠位の推移



大化改新(山田石川麻呂の変)
・孝徳天皇は難波宮で大化改新を推進したが、順調にすすみ冠位と官制の整備で一段落がついた。そのころに大きな事件が起こる。
・649年(大化5年)に阿部左大臣倉梯麻呂(くらはしまろ)が死んだ。7日後、蘇我日向(ひむか)の密告で右大臣の蘇我倉山田石川麻呂(乙巳の変で中大兄皇子の協力者)の謀反が告発され、石川麻呂は飛鳥の氏寺の山田寺にて自殺し、一族が処刑された。
・その後よく調査すると、石川麻呂に謀反を企てた事実がなかったことが分かった。密告した日向は大宰府に左遷されたが、この事件は中大兄皇子が改新の冠位に消極的だった石川麻呂を廃したのではないかとの説がある。
・650年に長門の国司が白い雉を献上したことから白雉と年号を変えた。
斉明天皇の即位
・ 653年(白雉4年)に中大兄皇子は孝徳天皇に都を大和へ移したいと申し出たが天皇は許さなかった。そこで、中大兄皇子は孝徳天皇を難波に残し、皇極天皇だった宝皇女や間人(はしひと)皇后と共に飛鳥に戻る。
・ 655年:難波に残された孝徳天皇が亡くなった。孝徳天皇の一人息子の有間皇子は15歳でまだ年は若かったし、中大兄皇子は即位せず、宝皇女が斉明天皇として即位。前に皇極天皇だった天皇がまた即位するのは初めてであった。[重祚(ちょうそ)]
・657年(斉明7年)斉明天皇と中大兄皇子が湯治で都を離れた時に、有間皇子は蘇我赤兄(あかえ)[日向(ひむか)の弟]に謀反をそそのかされ、皇子がその話にのったところを謀反でとらえられ、処刑された。中大兄皇子の陰謀説が高い。
・これで、天皇の後継者として中大兄皇子が一番の候補となり、政治を行いやすい体制となった。しかしすぐには即位をしなかった。
蘇我氏・聖徳太子・乙巳の変まとめ
・物部氏は河内を本貫地とし、朝廷の軍事・警察権を握り、勢力を拡大してきた。敏達天皇没後、蘇我氏との対立が激しくなった。
・蘇我馬子は用明天皇が亡くなったあとの後継ぎ問題で、泊瀬部(はつせべ)皇子(崇峻天皇)を擁立し、多くの皇子・豪族を味方にして、穴穂部(あなほべ)皇子を擁立した物部守屋を滅ぼす。
・蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺し推古天皇(日本初めての女帝)を即位させ、聖徳太子を摂政とした。
・津田左右吉氏の懐疑論以来、『日本書紀』不信から、聖徳太子は実在しなかったなどの議論がある。しかし『上宮聖徳法王帝説』は最古の聖徳太子伝であり、表記の古い部分から記載は正しいと思われ、更に『三経義疏』をあらわしたとされ、聖徳太子は実在したと考えてよい。
・『隋書』の倭国伝で日本の天皇は男であったとされているのは、聖徳太子のことを記したのではないか。聖徳太子は外交で日本を中国の属国から独立した存在に押し上げたと思われる。その他、冠位十二階など律令制を推進したとされている。
・推古天皇が亡くなったあとの後継天皇は蘇我蝦夷が擁立する舒明天皇(田村皇子)となった。舒明天皇が亡くなった後、後継天皇候補は古人皇子と中大兄皇子、更に山背大兄王の3人であった。後継者を決めるのが難しかったので、舒明天皇の皇后の宝皇女が皇極天皇として即位した。
・蘇我蝦夷と入鹿は天皇に張り合う行為が増え、入鹿は聖徳太子の子の山背大兄王を襲わせて自殺させ、古人皇子を擁立しようとした。
・蘇我氏の権力の増大をそぐため、中大兄皇子、中臣鎌足が乙巳の変で蘇我入鹿を殺した。その結果、蝦夷を自殺に追い込む。皇極天皇が譲位し、孝徳天皇が即位した。
・孝徳天皇は中大兄皇子と大化の改新を推進した。五つの法令を詔し、班田収授法、冠位官制の整備、薄葬礼など新しい改革を行った。
・しかし途中で中大兄皇子と不仲になり、中大兄皇子は難波に孝徳天皇を残し、皇極天皇だった宝皇女や間人(はしひと)皇后と共に飛鳥に戻る。
・難波に残された孝徳天皇が亡くなり、中大兄皇子は即位せず、宝皇女が斉明天皇として即位。[重祚(ちょうそ)]
