転変する政局
鎌足からの藤原氏系図

不比等からの藤原氏系図

藤原仲麻呂の台頭
・仲麻呂はもともと、若くから学問を修めた学者はだの秀才であったという。年少にして大納言・安倍宿奈麻呂(あべのすくなまろ)に算術を学び、優れた学才を示した。最初に大学少允に任官し、 734年(天平6年)従五位下になった。
・737年(天平9年)天然痘の流行により父・武智麻呂(むちまろ)ら藤原四兄弟が相次いで死去し、藤原氏の勢力は大きく後退する。
・代わって橘諸兄が台頭して、聖武天皇の信任を得て政権を担い、 743年(天平15年)には従一位左大臣にまで昇進した。
・仲麻呂は741年(天平13年)民部卿。 743年(天平15年)参議に任ぜられ公卿に列する。 746年(天平18年)式部卿に転じる。仲麻呂は伯母にあたる光明皇后の信任が厚く、また皇太子・阿倍内親王(後の孝謙天皇)とも良好な関係にあったとされる。
・744年(天平16年)閏1月に聖武天皇の第二皇子・安積(あさか)親王が恭仁(くに)京で急死した。17歳であった。これは仲麻呂による暗殺ではないと言われている。
・749年(天平勝宝元年)聖武天皇が譲位して阿倍内親王が孝謙天皇として即位すると、仲麻呂は参議から中納言を経ずに直接大納言に昇進する。次いで、光明皇后のために設けられた紫微中台(しびちゅうだい)の長官と、中衛大将を兼ねた。
・光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に政権と軍権の両方を掌握した仲麻呂は、左大臣・橘諸兄と権勢を競うようになった。
・755年(天平勝宝7年)、諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したとの密告があり、翌年、諸兄は早々に職を辞した。
・その5ヶ月後、皇太子を新田部親王の子道祖(ふなど)王とすると遺言を残して、聖武太上天皇が亡くなった。
・しかし、うしろだてのない道祖王は孝謙天皇により不行跡を理由に、皇太子を解かれ、仲麻呂が推す大炊(おおい)王が立太子した。大炊王は仲麻呂の早世した長男・真従(まより)の未亡人[粟田諸姉(あわたのもろあね)]を妃としていた。
・757年(天平宝字元年) 5月、祖父の不比等が着手した養老律令を施行。同月、仲麻呂は紫微内相に任ぜられ大臣に准じる地位に就いた。
橘奈良麻呂の変
・橘奈良麻呂は橘諸兄の子で母は光明皇太后と姉妹の多比能(たびの)である。奈良麻呂は756年(天平勝宝8年) 6月に右大弁になった。奈良麻呂は仲麻呂の専横に強い不満を持ち、大伴古麻呂、小野東人らと語らい仲麻呂の排除を画策した。
・ 757年(天平宝字1年)6月、長屋王の子の山背王(やましろおう)が孝謙天皇に「奈良麻呂らが兵器を準備している」と密告した。
・最初は孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発したのでこれで収まるかにみえた。
・しかし、小野東人から奈良麻呂の謀反計画へ参加するように呼びかけられたと、中衛府の舎人から仲麻呂へ密告があった。
・東人らが捕らえられ、拷問を受け、全てを白状した。計画は奈良麻呂らが兵を起こして仲麻呂を殺し、皇太子を退ける。次いで駅鈴(えきれ)と玉璽(ぎょくじ)を奪い、右大臣・藤原豊成を奉じて天下に号令し、天皇を廃して塩焼王、道祖王(ふなどおう) 、安宿王(あすかべおう)、黄文王(きぶみおう)の中から天皇を推戴(すいたい)するというものであった。
・東人の供述に基づき、奈良麻呂、道祖王(ふなどおう)、黄文王(きぶみおう)、古麻呂、多治比犢養(たじひのこうしかい)、賀茂角足(かものつのたり)等、名前を挙げられた人々は一斉に逮捕された。
・奈良麻呂は永手の訊問に対して「政治が無道だから兵を起こして、その上で陳情しようとした」と答え、更に「何ゆえ政治が無道なのか」と問うと、「東大寺などを造り人民が辛苦している」と答えた。永手が「東大寺はお前の父の時代に造ったものだ。お前の言うべきことではない」と問い詰めると奈良麻呂は答えに窮したという。
・陸奥守佐伯全成(さえきのまたなり)の自白によると、奈良麻呂が謀反を考え始めたのは745年(天平17年)に聖武天皇が難波に行幸したときのことで、その時に初めて謀反に誘われたと答えた。訊問後、佐伯全成は自殺した。
・道祖王、黄文王、古麻呂、ら六人は獄死し、首謀者の奈良麻呂については続日本紀に記録が残っていないが、おそらく獄死したと思われる。
・塩焼王は直接関与した証拠がなかったので、氷上真人(ひがみのまびと)塩焼と改名して臣籍降下となった。
吉備真備
・716年(霊亀2年)、下道(しもつみち)真備は22歳のときに遣唐使となり、阿倍仲麻呂、玄昉らと共に入唐した。
・帰路で、種子島に漂着するが、 735年(天平7年)に多くの典籍を携えて帰朝した。唐では儒学のほか、天文学や音楽、兵学などを学んだ。
・帰朝後、聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、 737年(天平9年)に従五位に列せられた。
・翌年に、橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると同時に、帰国した玄昉とともに重職に任じられ、真備は右衛士督の役職を兼ねた。
・その後、 743年(天平15年)には従四位下、春宮大夫兼皇太子学士、 746年には吉備朝臣の姓を賜り、翌年に右京大夫に転じて749年(天平勝宝元年)には従四位上に昇った。
・しかし、750年(天平勝宝2年)に、藤原仲麻呂により、筑前守、肥前守に左遷される。翌年には遣唐副使となり、 752年(天平勝宝4年)に入唐、阿倍仲麻呂と再会するが、その翌年には帰朝する。
・754年(天平勝宝6年)には大宰少弐に昇任、 756年(天平勝宝8年)に新羅に対する防衛のため筑前に怡土(いと)城を築き、 758年(天平宝字2年)に大宰府で唐での安禄山の乱に備えるよう勅を受け、翌年に大宰大弐(だいに)[大宰府の次官]に昇進した。
・恵美押勝が反乱を起こした際には、従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して乱の鎮圧に功を挙げた。

・766年(天平神護2年)、称徳天皇と道鏡の下で中納言となり、藤原真楯(またて)の死去で大納言となった。その後右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手とともに政治を執った。
・光仁天皇即位後、771年(宝亀2年)に辞職し、それ以後の生活については何も伝わっておらず、 775年(宝亀6年)に70歳で死去する。
・地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、吉備真備と菅原道真のみである。
新羅との関係
・新羅は唐を後ろ盾にして、渤海と親交していた日本へ強気の態度で臨んでいた。その結果、聖武天皇のころから、日本と新羅の関係は悪化いていた。そこで、仲麻呂は安禄山の乱で唐が混乱している時期に、新羅征伐で一気に解決しようと考えた。
・755年(天平勝宝7年) 、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳しくすることを命じる。
・759年(天平宝字3年)に仲麻呂は新羅征伐のため軍船500隻の建造命令を山陽、山陰、南海、北陸諸国へ出す。その2年後には、新羅語の通訳の養成及び、東海・南海・西海三道の節度使が任命された。更に、翌年の762年(天平宝字6年)に、大宰府へ唐の新様式の武具[綿襖甲(わたのおうこう)]を作るように命令を出した。
・しかし、その後、『続紀』で新羅討伐関する記事がなくなる。数年続いた飢饉とか、孝謙上皇と仲麻呂との不和などにより、この遠征は実行されずに終わったようだ。
藤原仲麻呂の政策
・藤原仲麻呂の主導で、757年(天平宝字元年)に養老律令が施行された。大宝律令とは大きな差異はないが、戸令(こりょう)などに変更がある。
・藤原仲麻呂の主な政策
①中男(ちゅうなん)・正丁の年齢を繰上げ
農民の負担軽減のため、中男(17→18歳)・正丁(21→22歳)とする
②雑徭(ぞうよう)の半減
令の規定を最大60日→30日に変えた
③問民苦使(もんみんくし)
民の苦しみを巡問する。唐の観風俗使をまねたと言われている
④平準署(へいじゅんしょ)の創設
米価の季節的変動を調整するため、
常平倉(じょうへいそう)と左右の平準署をおいた
⑤官名を唐風に改称させるなど唐風政策を推進した。
その政策は学問文物の奨励と、儒教精神にのっとった民心安定政策で、単なる人気取りを超える熱心さがあった。天平以来の疲弊した民力を向上させたいとの意欲があったのであろう。
恵美押勝(仲麻呂)の専横
・奈良麻呂の変で反対派を一掃した仲麻呂は名実ともに独裁者になった。758年(天平宝字2年)8月、孝謙天皇が譲位して大炊(おおい)王が淳仁天皇として即位する。淳仁天皇は仲麻呂の傀儡のようなものだった。
・この時期に仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、姓に恵美の二字を付け加えられるとともに、押勝の名を賜与(しよ)された。また押勝は鋳銭(ちゅうせん)と出挙(すいこ)の権利も与えられた。
・760年(天平宝字4年)押勝は皇族以外で初めて太師(太政大臣)に任ぜられる。同年6月に光明皇太后が逝去した。皇太后の信任厚かった押勝にとっては大きな打撃となる。更にこの年には弟の乙麻呂も失っている。
・762年(天平宝字6年)6月には尚蔵・尚侍を務めて押勝と太上天皇の間のパイプ役になっていた正室の藤原袁比良(おひら)を、続く7月と9月には押勝の腹心から議政官になった参議紀飯麻呂(きのいいまろ)と中納言石川年足(としたり)を失った。このため、押勝の政治的基盤が弱体化した。
恵美押勝の乱
・押勝は、正月に息子の真先を参議としていたが、更に12月の除目(じもく)では2人の息子の訓儒麻呂(くすまろ)・朝狩(あさかり)、更に娘婿の藤原弟貞(おとさだ)[長屋王の子]を参議に任じた。
・1年のうちに息子3名と娘婿を参議にする押勝の人事は更なる反対派を生むことになる。
・一方、この頃に病となった孝謙太上天皇は自分を看病した道鏡を側に置いて寵愛するようになった。淳仁天皇は道鏡との関係を諌めたので、孝謙太上天皇は激怒し、 762年(天平宝字6年)に、出家して尼になるとともに天皇から大事・賞罰の大権を奪うことを宣言する。
・孝謙太上天皇・道鏡と淳仁天皇・押勝との対立は深まり、危機感を抱いた押勝は、 764年(天平宝字8年)9月2日に、自らを四畿内・三関国などの軍事権を掌る官に任じ、さらなる軍事力の掌握を企てる。
・日ごろ押勝が目をかけていた陰陽師の大津大浦が押勝の謀反を密告し、舎人親王の孫の和気王も通報する。ここで孝謙太上天皇が先手を打ち、9月11日に天皇の居宅の中宮院にある玉璽と駅鈴を没収する。
・押勝は淳仁天皇を平城京に残したまま、玉璽と駅鈴を武力で奪回、一族を率いて、平城京を脱出し、宇治へ行く。
・孝謙は造東大寺司(ぞうとうだいじし)長官であった吉備真備を召して従三位に叙し、押勝誅伐を命じる。真備は山背守日下部子麻呂(くさかべのこまろ)と衛門少尉佐伯伊多智(さえきのいたじ)の率いる官軍を先回りさせて勢多橋を焼き、東山道への進路を塞いだ。
・押勝は再起をかけて、子の辛加知(からかち)が国司になっている越前国に入ろうと琵琶湖の湖西を越前に向い北進する。
・官軍の佐伯伊多智は越前に馳せ急ぎ、まだ事変を知らぬ辛加知を斬り、授刀舎人物部広成らに愛発関(あらちのせき)を固めさせた。
・辛加知の死を知らない押勝は愛発関を避け、舟で琵琶湖東岸に渡り越前に入ろうとするが、断念して、塩津に上陸し陸路、愛発関の突破をはかった。佐伯伊多智が防戦して、押勝軍を撃退する。
・押勝軍は退却して三尾の古城に籠もった。討伐軍は三尾を攻めるが、押勝軍は応戦する。
・9月18日に、備前守藤原蔵下麻呂(くらじまろ)[宇合の九男]の援軍が到着して、海陸から激しく攻めたので、ついに押勝軍は敗れた。
・押勝は湖上に舟を出して妻子とともに逃れようとするが、斬られ、その一家も皆殺しにされた。塩焼王も同時に殺された。
・押勝の一族はことごとく殺されたが、六男・刷雄(よしお)は死刑を免れて隠岐国への流罪となり、桓武天皇の時代に大学頭・陰陽頭を歴任している。
また、押勝の推進してきた政策のうち官名の唐風改称こそは廃されて元に戻されたものの、養老律令をはじめ多くの政策が一部修正を加えられながらも、その後の政権によって継続されている。

道鏡
称徳天皇
・淳仁天皇は身分を親王に落とされて淡路国に流され、その後、淡路で怪死した。 33歳であった。
・764年(天平宝字8年)10月、孝謙太上天皇は皇位に復帰した(孝謙太上天皇が重祚し称徳天皇となる)。以降、称徳天皇と道鏡による政権運営が6年間にわたって続くことになるが、皇太子は決めなかった。
・一方で政治と刑罰が厳しく、ささいなことで極刑が行われ、冤罪が多くなったと言われている。
・765年(天平神護元年)に押勝の陰謀を通報した和気王は謀反で捕らえられ、伊豆に流されるところを殺された。乱後の政情は不安定であった。
・769年(神護景雲3年)には押勝が最後にかつぎだそうとした氷上塩焼の妃の不破内親王(称徳の異母妹)とその子の氷上志計志麻呂(しけしまろ)が天皇を呪詛したとして、内親王は名を厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)改めた上で都から追放され、子は土佐に流された。
・この事件は称徳天皇が亡くなった後、不破内親王は冤罪だったとされ内親王に復帰した。
・この時代に最優先されたのは造寺造塔で、寺院・僧侶に対する保護であった。聖武天皇の時に始まった各地の国分寺の造営に、拍車がかけられた。新規の造営として、西大寺と西隆寺の建造がはじまる。
・西大寺は東大寺に対応し、伽藍の壮大さも東大寺に匹敵する。
・押勝の乱の懺悔のため発願された百万塔は乱の直後からつくられはじめ、称徳天皇が亡くなる直前に完成した。塔の中には陀羅尼(だらに)の経文一巻が納められている。これは日本最古の印刷物である。
・このように称徳天皇は仏教重視の政策を推し進めた。一方で神社に対する保護政策も厚かったが、伊勢神宮や宇佐八幡宮内に神宮寺を建立するなど神仏習合がさらに進んだ。また神社の位階である神階制度も開始されている。
・称徳天皇は770年(宝亀元年)3月なかばに発病し、病臥する事になり、道鏡は崩御まで会うことはなかった。称徳天皇は8月に平城宮西宮正殿で53歳で崩御した。

道鏡
・道鏡は河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)の弓削氏出身である。仏道は、法相(ほっそう)宗の高僧・義淵(ぎえん)に学んだ、東大寺の開山師の良弁(ろうべん)につき従い、梵語(サンスクリット語)を学び、禅に通じていた。
・これにより内道場(宮中の仏殿)に入ることを許された。また、儒学にも通じていた。
・761年(天平宝字5年)、平城宮改修のため都を一時近江国保良宮に移した際、病を患った孝謙太上天皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病して以来、その寵を受けることとなり、 763年(天平宝字7年)に、道鏡は少僧都(しょうそうず)となった。
・765年(天平神護元年)10月に称徳天皇は道鏡の故郷である河内弓削寺に行幸した。
・この天皇行幸中に道鏡は太政大臣禅師に任じられた。 766年(天平神護2年)10月には海龍王寺の毘沙門像の胎内から仏舎利が出現したとして、道鏡は法王となった。この結果、天皇称徳=法王道鏡の二頭体制が確立された。
・道鏡が関与した政策は仏教関係の政策が中心であったとされているが、彼の後ろ盾を受けて弟の弓削御清浄人(ゆげみきよのきよひと)は従二位大納言にまで昇進し、一門で五位以上の者は10人に達した。
・これが法体で政務に参与する事に対する反感も加わって藤原氏等の不満を高めることになる。
・称徳天皇が亡くなり葬礼の後、道鏡は僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守ったが、770年(神護景雲4年)8月、下野国の造下野薬師寺別当を命ぜられて下向し、赴任地で没した。
・道鏡死去の報は、 772年(宝亀3年) 4月に下野国から光仁天皇に言上された。道鏡は長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、親族(弓削浄人とその息子広方、広田、広津)4名が捕えられて土佐国に配流された。
・道鏡は庶人として葬られたといわれ、龍興寺(栃木県下野市)境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある。
八幡神託
・769年(神護景雲3年)5月頃、道鏡の弟の浄人(きよひと)の配下で、宇佐の神官を兼ねていた大宰主神習宜阿曾麻呂(だざいのかんづかさすげのあそまろ)が宇佐八幡神の神託として、「法王道鏡を皇位に就かせれば天下太平となるであろう」、と称徳天皇へ奏上する。
・道鏡はこれを信じて、道鏡自ら皇位に就くことを望む。しかし称徳天皇は臣下を天皇にするすることは前代未聞のことで悩む。
・称徳天皇は側近の尼僧法均(ほうきん)を遣わそうとしたが、法均は虚弱であるため、弟の和気清麻呂を姉に代わって宇佐八幡の神託を確認するように遣わした。
・清麻呂は天皇の使者(勅使)として八幡宮に参宮し、大神の神前にぬかずいて神託を聞いたところ、道鏡を天皇にせよとの神託であった。
・再度真意を確かめ神託を求めたところ、身の丈三丈で全身が満月のように輝いている大神が出現し、大神は「我が国は君臣の定まった国である。道鏡ごとき無道の者がたやすく神器を望むのは神霊も許さない。汝は帰って我が言葉を天皇に奏せよ。天日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇族を以て立てたまえ」と神託した。和気清麻呂はこの神託を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ奏上した。
・清麻呂の報告を聞いた天皇は怒り、清麻呂は因幡員外介にいったん左遷されたが、さらに別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と名をかえさせられて大隅国に流された。
・姉の法均も還俗のうえ、やはり名を別部狭虫(わけべのさむし)とされ備後に流された。
・清麻呂は称徳天皇が亡くなり、道鏡失脚後、光仁天皇により従五位下に復位された。その後、播磨・豊前の国司を歴任する。
・清麻呂は桓武天皇の時代に実務官僚として重用されて高官となる。

(前賢故実: Wikipediaより)
地方豪族の進展
婿とり婚
・日本史上の婚姻例を研究した高群逸枝(たかむれいつえ)氏の『招婿婚(しょうせいこん)の研究』がある。
これによると、古代では下記のような女子系の同居が普通だった。父母-娘-外孫-外曾孫
其の後、男子系による同居に移っていった。
父母-息子-嫡孫-嫡曾孫

・この「母系原理」は、「父系家族」が形成された後でも存在した。
・婿とり婚は、男性と女性は終生同じ族にはならない。氏(うじ)の名のりも、男子はその父親の氏を名のり、女性は自分の父親の氏を名のる。夫婦は女性の生家に同居し、生活を共にする。子供は父たる氏を名のっても、母たる女性の家の一員として養育される。
・これが男性中心の嫁とり婚に変わるのは、南北朝以後とのことである。
班田法と墾田
・班田収授法の制度の下では、どれほどの豪族でも、自分の家の戸籍にある一人一人の規定通りの口分田と、家屋の敷地である宅地と、調・庸の物をつくるため必要な桑や漆を植えたり、野菜を栽培したりするための園地以外には、いっさいの土地私有は禁じられていた。
・また奴婢以外にはだれも強制的に常時働かせることはできないから、農作業の日程を組んで必要な季節に必要力を確保することも難しい。
・6年ごとに繰り返される班田収授のときに、新しく開墾されてた土地は国司によって取り上げられる恐れがあった。
・しかし、 723年(養老7年)に三世一身法ができ、今まで耕されたことのない荒地を開墾したばあいは本人の子から曾孫まで、三世のあいだ、かつて耕されたが今は荒廃している土地を再開墾したばあいは本人一身かぎり、墾田の私有を許すということになった。
・開墾は弥生時代から行われていたが、大化の改新で「公地公民」となり、新たな開墾が減ってきたのではないか。
・「公地公民」とは朝廷が全国の国造を評司、さらには郡司に解体して、土地人民を朝廷の手に直接掌握してゆく過程である。
・この過程は国造や郡司級の豪族でない庶民からみると、国造や郡司級が領主であったが、その権威が薄れ、中央の権威や権力が国司を通じて張り出してきたことになる。制度的に豪族であろうと、庶民であろうと同じ戸籍につき同じ口分田となる。
・つまり、耕作権が国司によって保障されたことになり、農業に打ち込めることになる。庶民としてはさしあたって、耕地面積拡大より、反当収穫量の増加に努力したのではないか。
・反当収穫量の増加の統計的データは無いが、『続日本紀』では筑前、肥後守であった道首名(みちのおびと)の事績があり、溜池築造など灌漑用水の確保、更には果樹、野菜の栽培法、豚の飼い方に努力したことが書かれている。
帰化人の増加などで農業関連技術の発展もあり、人口は増えて行った。
浮浪と逃亡
・律令制度は、建前としては公地公民として平等のようであったが、制度が進むにつれ、内部矛盾から、貧富の差が生じていった。
・特に、 743年(天平15年)の墾田永年私財法により、貴族や寺院が大きな荘園(初期荘園)を営むようになり、逃亡する農民が隠れる場所ができてきた。荘園側も新たな開墾のため労働者が必要となっていた。
・また、悪徳国郡司は無頼の徒が課役をのがれて他郷にもぐりこもうとすると、彼らとぐるになり、自分の利益にした。
・その手口は、780年(宝亀11年)の法令で他国から流れてきた浮浪人は摘発した土地の戸籍につけることになってたことをいいことにして、今年はその者の名義で口分田を班給し、次の年になると逃亡したといって、口分田を返さず、人も、田もともに消えることになる。
・しかし、浮浪した農民の中には、巧みに世をわたり、富裕となっていった者も現れてきた。新たに勃興してきた新興勢力である。これらのものは更に私出挙により富を拡大する者、武力を背景として勢力を伸ばす者も出てくる。
・これらがその後平安・鎌倉時代に地方の豪族(武士など)として伸びていく層である。
・光仁天皇の780年(宝亀11年)に軍団の兵士が虚弱で使いものにならないので、兵制の一部を手直しした。その理由は国司や軍毅(ぐんき)がかってに兵士を使役して、じゅうぶんな教練を行わないためという。
・そのため殷富(いんぷ)の百姓のなかから弓馬の堪能な者を指定して、組をつくって交替で武芸を習わせるとした。
・これは桓武天皇の792年(延暦12年)に施行された健児(こんでい)の制の先駆けである。
・ 陸奥で伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)による蝦夷の大反乱がおこり、30年にわたり蝦夷との戦いとなる(後の「東北経営」で説明)。このとき戦費調達と兵士として期待されたのは郡司の子弟や殷富の百姓であった。
・光仁天皇の時代は蝦夷の反乱の鎮圧は失敗におわり、桓武天皇に変わり、 783年(延暦2年)に坂東諸国の兵士を動員して対処を開始した。その時浮浪人が位を持つ者や、郡司とならんで、同等に扱われている。
長岡京遷都
天皇系図

光仁天皇
・770年(神護景雲4年)に称徳天皇は皇太子を決めずに53歳の生涯を閉じた。独身だった女帝には皇子がいないので次の天皇について、吉備真備は天武天皇の血すじの長屋王の子の文室浄三(ふんやのきよみ)と大市(おおいち)の兄弟を推した。
・それに対し、藤原氏は式家の左中弁の百川が北家の左大臣の永手や式家の参義の良継と示し合せ、策略で偽の宣命を読ませて62歳の年老いた光仁天皇を即位させた(その年770年10月)。
・藤原氏としては、久しく低迷していた一族の盛運を、この機会にかけたと思われる。
・光仁天皇は天智天皇の孫で、母は紀橡(きのとち)姫といった。恵美押勝の乱や道鏡の専横の時代は争いにかかわらずに来たようだが、大納言になっていた。百川らは天皇に恩を売ることになった。
・光仁天皇は、即位後まもなく、妃の井上(いがみ)内親王(聖武天皇の皇女)を皇后とし、その子皇太子他戸(おさべ)親王を皇太子とした。
・しかし、 772年(宝亀3年)に井上内親王が天皇を呪ったという罪で皇后の地位をうばわれ、皇太子の他戸親王も皇太子を廃された。そして山部(やまべ)親王を皇太子にした。これで、次の天皇にも恩を売ったことになる。
桓武天皇
・山部親王は光仁天皇の第1王子として737年(天平9年)に産まれた。生母は和氏(やまとうじ)出身の高野新笠(たかののにいがさ)であった。
・和氏は百済から大和朝廷へと献上された人質であった武寧王の10世孫で、6代前に帰化して、和姓を下賜された。
・新笠は和乙継(やまとのおとつぐ)の娘で、母は土師宿禰(のち大枝朝臣と改姓)真妹であり、土師(はじ)氏は出雲氏と同じ天穂日命の後裔である野見宿禰を始祖とする古代氏族である。
・生母の出自が身分の低い帰化系氏族であったために当初は官僚としての出世が望まれ、父王の即位後は親王宣下とともに四品(しほん)が授けられ、後に中務卿(なかつかさきょう)に任じられた。
・山部親王は781年(天応元年)には光仁天皇から譲位されて桓武天皇として即位する。翌日には早くも同母弟の早良(さわら)親王を皇太子とした。その年の12月に光仁太上天皇が亡くなる。
・783年(延暦2年)に、藤原乙牟漏(おとむら)を皇后とした。皇后との間に、安殿(あての)親王[のちの平城天皇]と神野(かみの)親王[のちの嵯峨天皇]をもうけた。
・また、夫人藤原旅子との間には大伴親王[のちの淳和天皇]がいる。
・785年(延暦4年)9月頃には、皇太子早良親王を藤原種継暗殺の事件により廃太子の上で流罪に処し、親王が抗議のための絶食で配流中に死去するという事件が起こった。これを受け、同年11月に安殿親王を皇太子とした。
・806年(延暦25)年3月に崩御する。
桓武天皇は多くの子をもうけ、後の平清盛、関東の北条氏、三浦氏、千葉氏などの平氏の祖となっている。

(延暦寺蔵: Wikipediaより)
氷上川継(ひかみのかわつぐ)の乱
・氷上川継は、新田部親王の子の塩焼王(「氷上真人」の氏姓を与えられて「氷上塩焼」となっていた)と、聖武天皇の娘不破内親王(井上内親王の同母姉妹)のあいだに生まれた子で、天武の曾孫にあたる。
・しかし、父の塩焼王は橘奈良麻呂の乱で坐し、いったん罪が許され、次に恵美押勝の乱で天皇に擁立されようとして殺害された。
・母の不破内親王も称徳女帝を呪詛(じゅそ)したとして流罪の経験があり、皇親の身分を奪われている。しかし、父と母の双方を通じて天武につながっているその血統は、問題を起こす要因となっていた。
・782年(天応2年)閏正月、氷上川継の資人であった大和乙人が、密かに武器を帯びて宮中に侵入し発見されて逮捕されるという事件が起きた。
・乙人は尋問を受けて川継を首謀者とする謀反の計画があることを自白する。川継はこれを知って逃亡したが、大和国葛上(かつじょう)郡に潜伏しているところを捕らえられた。
・川継の罪は死刑に値するところ、光仁の喪中であるという理由で、罪一等を減じられて伊豆国へ流された。母の不破内親王は淡路国へ流された。
・氷上川継の妻は藤原法壱(ほういつ)であり、法壱の父である参議藤原浜成はおりから大宰員外帥(だざいのごんのそち)として大宰府に赴任していたが参議を解任された。浜成の属する藤原京家はこれをきっかけに凋落に向かう。
・この後、京家出身の公卿は、浜成の子藤原継彦が非参議の従三位、孫の冬緒(ふゆお)が大納言となったのみで、やがて歴史から消えてゆくこととなる。そして藤原式家の全盛となる。
・参議左大弁大伴家持・右衛士督坂上苅田麻呂はその官職を解かれた。『続紀』782年(天応2年)によれば、そのほかにも連坐する者が35名いたという。その年5月には大伴家持、坂上苅田麻呂は罪を許されている。
・すでに772年(宝亀3年)7月に他戸親王が皇太子を廃され、 775年(宝亀6年)4月、幽閉の身で母井上と同日に変死をとげており、この事件によって天武系の皇族は皇位継承から完全に排除され、天武系の血すじをひく者の登場する疑獄事件はおこらなくなる。
・川継は、 805年(延暦24年)3月に罪を許され、その後帰京して翌年の3月には従五位下に復している。
藤原種継
・式家の宇合の孫であった種継は、叔父である良継・百川の死後、最年長者となり、式家を代表する立場になった。桓武天皇の即位に伴い従四位上に昇叙される。
・桓武天皇の信任が非常に厚かった種継は急速に昇進を果たし、 782年(延暦元年)参議として公卿に列し、1年後に従三位、2年後に中納言に叙任される。
・種継は山背国長岡の地への遷都を提唱し、桓武天皇の命をうけ長岡京の造宮使に任命される。事実上の遷都の責任者となった。
・種継は母の実家渡来系秦氏の根拠地山背国葛野郡に近いことで、秦氏の協力を得たいという事も考えられる。実際、秦氏一族の者は造宮に功があったとして叙爵されている。

・桓武天皇の母も長岡の地に近い交野(かたの)に本拠を持つ百済系氏族の和(やまと)氏である。このような繋がりがあったのではないか。
・遷都後間もない785年(延暦4年)、桓武天皇が大和国に出かけた留守の間に、種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日亡くなった。
・暗殺犯として大伴継人・大伴竹良(つくら)・佐伯高成(さえきのたかなり)ら十数名が捕縛されて斬首となった。事件直前に死去した大伴家持は首謀者として官位を剥奪された。
・事件に連座して流罪となった者も五百枝王(いおえのおおきみ)・藤原雄依(おより)・紀白麻呂(きのしろまろ)・大伴永主など複数にのぼった。
・その後、事件は桓武天皇の皇太子であった弟の早良親王の廃嫡、配流と憤死にまで発展する。早良が実際に事件にかかわっていたかは不明だが、家持は生前春宮大夫であり、高成や他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関の官人が複数いたことは事実である。
・この事件で、藤原氏の血を引く、安殿(あての)親王(のちの平城天皇)が皇太子となり、古来の名族の大伴氏・佐伯氏が没落した。
・その後長岡京から平安京へ短期間のうちに遷都することになったのは、後に早良親王が怨霊として恐れられるようになった事も含めて、この一連の事件が原因のひとつになったといわれている。
桓武天皇の時代
・平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、また天武天皇系が断絶し天智天皇系に皇統が戻ったこともあって、当時、秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。
・初め784年(延暦3年)に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がない証拠であり、天子の資格がないと民衆に判断されるのを恐れて、僅か10年後の794年(延暦13年)気学における四神相応の土地相より長岡京から艮(ごん)方位の東北に当たる場所に改めて、平安京へ遷都した。
・また東北地方を侵略し蝦夷を服属させるため、坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を送った。しかし晩年には、平安京の造作と東北への軍事遠征とがともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(おつぐ)[百川の長子]の建言を容れて、いずれも中断した。
・また、健児制を導入し、これにより百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、やがて国衙軍制の成立を見ることになり、さらに後の武士の発生をうながすことになった。
・文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。また最澄と空海が唐から帰国し、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、最澄や空海の保護者として知られる一方、既存の仏教が政権に関与して大きな権力を持ちすぎたことから、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた諸派に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。
・また後宮の紊乱ぶりも言われており、それが後の薬子の変へと繋がる温床となったともされる。
・その他、即位前の775年(宝亀6年)には井上(いがみ)内親王と他戸(おさべ)親王の幽閉先での不自然な死。在位中の785年(延暦4年)には早良(さわら)親王の憤死といった暗い事件があった。
・井上(いがみ)内親王や早良(さわら)親王の怨霊を恐れて800年(延暦19年)7月に後者に「崇道天皇」と追尊し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。
八世紀の東北経営
8世紀前半の東北経営
・陸奥(むつ)国は道奥(みちのおく)といい『常陸(ひたち)国風土記』に、654年(白雉5年)[孝徳天皇]足柄峠の東方に常陸国を始め8国を置いたとあり、この中に道奥が含まれると解されている。出羽国は越後国出羽郡から、712年(和銅5年)9月に出羽国に昇格した。これらは東山道に属した。
・律令政府は東北地方の開拓と蝦夷の鎮撫に力を注いでいた。しかし元明天皇までは、武力で強圧的に征服するというより、蝦夷を帰服させて「編戸」の民とし編入するか、東国地方の公民を柵戸(さくこ)として蝦夷地に移住させた。・737年(天平9年)の大野東人(あずまひと)は陸奥国から出羽の柵に出るルート確保のため、雄勝村(天平5年に雄勝郡を建郡したが反乱で有名無実となっていた)を制圧しようと、東国の兵を集め、蝦夷を征討しようとした。しかし雄勝村に至る前にその地の蝦夷の長が投降した。・これまでの陸奥・出羽に対する対応は蝦夷が反乱などを起こすと、これをきっかけに経略を行い、征討することが多かった。
・奈良麻呂の変が終わり、仲麻呂は子朝獦(あさかり)を陸奥守に任命し、積極的に蝦夷経略をすすめた。
・陸奥に桃生(ももお)[ものう]城を築城し、更に雄勝から出羽柵までの道を確保し、雄勝城(おかちのき)の築城であった。
・投降した蝦夷に田地を与え、領民とし、更に坂東の兵や役夫を投入して、 759年(天平宝字3年)には両城は完成した。
・これらの東北経営は戦かわずに進め、投降した蝦夷の首長を、新しくたてた郡の郡司などに任命した。これは将来の宝亀年間の反乱につながる。

八世紀後半の東北経営
・道鏡の時代の767年(神護景雲元年)に伊治(これはり)城が築かれ、この地に郡ができた。そして蝦夷の首領であった伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)が郡の大領職についた。
・780年(宝亀11年)3月、この呰麻呂が同族の牡鹿郡の大領の道嶋大楯(みちしまおおたて)との不仲から伊治城で大楯を殺害し、更に参義陸奥按察使紀広純(ひろずみ)を殺害した。
・この事件で、鎮守府の多賀城の陸奥介大伴真綱(まつな)と掾の石川浄足(きよたり)が脱出し、多賀城が蝦夷の略奪・放火にあい廃墟となった。
・呰麻呂(あざまろ)の反乱に対し、光仁天皇はただちに征東将軍・中納言藤原継縄(つぐただ)、副将軍は大伴益立(なすたち)などを任命し、征討を命じた。
・4月には出発したが、益立は陸奥介などの経歴をもち、征討の難しさを知っており、何かと理由を上げ、ゲリラ戦対処程度にしか戦わなかった。
・継縄を解任して参義藤原小黒麻呂としたが、10月になり、冬の戦いができないので進撃を中止した。かわりに多賀城などの防備をかためた。その後の呰麻呂(あざまろ)についてどうなったかの記録はない。
・その後、桓武天皇に変わり、征討計画を立てるが長岡京遷都や種継暗殺事件などで延期され、武器の準備をして、 788年(延暦7年)に東海・東山道の兵5万を多賀城に結集させた。
・征東将軍は参義紀古佐美(きのこさみ)であった。翌年、征討軍は三軍に分けて胆沢(いさわ)に進んだが、蝦夷軍の巧みな戦い方により、大敗する。
・桓武天皇はこの敗戦をものともせず、第二次の征討を計画。征東将軍は公卿ではなく、武官の経験をもつ大伴弟麻呂を任命した。また四人の副将軍の一人が坂上田村麻呂であった。

・794年(延暦13年)春に10万の大軍が東北に向かい、蝦夷を制した。しかし伊治(これはり)城周辺は確保したが、胆沢の地は確保できていない。蝦夷の首領大墓公阿弖流為(だいぼのきみあてるい)も降伏していない。
・田村麻呂は現地に留まり、陸奥出羽按察使(あぜち)・陸奥守・鎮守将軍の三官を兼ね東北地方一帯の行政・軍事権を持った。 797年(延暦16年)征夷大将軍に任命された。これが第三次征討のスタートであった。
・801年(延暦20年)田村麻呂は4万の兵を率い岩手県東北部へ進出。翌年に胆沢城の築城をすすめる。翌年4月阿弖流為が降伏し、阿弖流為は都に連れて行かれ斬刑となる。
・鎮守府は胆沢城に移る。その後、第四次征討計画もあったが中止された。
まとめ
年表

「奈良時代の終焉」まとめ
・奈良麻呂の変
橘諸兄の子で、母は光明皇太后と姉妹。出世したが、藤原仲麻呂の専横に強い不満を持ち対立、密謀が漏れ捕らえられ処刑された。
・恵美押勝の乱
南家武智麻呂の子で、天然痘の流行により弱体化した藤原氏を隆盛にし、伯母にあたる光明皇后の信任を得て、政敵をつぶし独裁的な立場となった。唐をまねた政治を行い、東北経営、朝鮮政策で積極的な政治をした。当初は良い関係であった、孝謙太上天皇と対立し、軍事行動を取り、孝謙に敗れた。
・吉備真備
若く遣唐使となり入唐し、帰国後、橘諸兄が政権を握ると重用された。しかし藤原仲麻呂により地方に左遷され、恵美押勝の乱で、孝謙側で軍事的に活躍。右大臣までに昇った。称徳後、後継問題で藤原永手に敗れ引退。
・道鏡
梵語、禅、儒学に通じ、病んだ孝謙上皇に近づき寵愛を受けた。法王となり、更に皇位に就かせれば天下太平となるとの宇佐八幡の神託で天皇になろうとした。神託の確認に和気清麻呂が遣わされ、神託は否定された。
・光仁、桓武天皇
称徳天皇が独身であったのと藤原百川のはたらきで、天武天皇系から天智天皇系に変わり、光仁天皇となった。更に皇太子も山部親王(桓武天皇)とした。
桓武天皇は東北経営に成果をあげ、平城京から長岡京、更に平安京に遷都する。
・氷上川継の乱
川継は塩焼王と聖武の皇女(不破内親王)との間の子。塩焼王は橘奈良麻呂の乱で坐したが罪を許され、恵美押勝の乱で天皇に擁立され殺害された。不破内親王も称徳女帝を呪詛して流罪になった。川継は天武系の血が濃いので政争に使われた。この乱後、天武系による疑獄事件はおこらなくなる。
・藤原種継
式家の代表の立場になり、桓武天皇の信任が厚かった。長岡京の造宮使になり、遷都後に矢で射殺される。この暗殺犯として、桓武天皇の皇太子の弟の早良親王が廃嫡となり憤死した。