清寧(せいねい)・顕宗(けんぞう)・仁賢(にんけん)・武烈(ぶれつ)・継体(けいたい)・安閑(あんかん)・宣化(せんか)・欽明(きんめい)天皇までの系図

■清寧・顕宗・仁賢・武烈天皇
・天皇の血筋が絶えて行く
・『古事記』の事績記述が少ない天皇
清寧(せいねい)天皇について
・清寧天皇は『日本書紀』では西暦480年~484年となっており、実際の在位年の西暦も同じ480年~484年と思われる。この時代くらい以降は『日本書紀』と記述と実際の在位年の差が無くなるのではないか。
・和風諡号(しごう)は『古事記』では白髪大倭根子命(しらかのおほやまとねこのみこと)であり、『日本書紀』では白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)である。
・宮は伊波礼(いはれ)の甕栗宮(みかくりのみや)、『日本書紀』は磐余(いわれ)の甕栗(みかくり)とある。 『日本書紀』で、亡くなった年は明確でないとしている。
・ 陵墓について、『古事記』では記述はなく、『日本書紀』では河内の坂戸原陵(さかとはらのみささぎ)に葬ったとある。
・清寧天皇陵は白髭山古墳で全長115メートル、後円部直径63メートル、前方部幅128メートルの前方後円墳であり、前方部幅が大きい。
・清寧天皇陵の所在地は大阪府羽曳野市西浦6丁目である。
皇子発見 『古事記』の要点
①雄略天皇の御子の白髪大倭根子命(しらかのおほやまとねこのみこと) [清寧天皇]は伊波礼(いはれ)の甕栗宮(みかくりのみや)に居て天下をおさめた。
②この天皇には皇后がなく、また御子もいなかったので、天皇の御名代として、白髪部(しらかべ)を定めた。天皇が亡くなると、天下を治めるべき王がいなくなった。
③そこで、皇位を継ぐ王を尋ね求めたところ、市辺忍歯王(いちのべのおしはのみこ)の妹の忍海郎女(おしぬみのいらつめ)[またの名は飯豊王(いひとよのみこ)]が葛城の忍海の高木の角刺宮(つのさしのみや)に居た。
④ここで、山部連小楯(やまべのむらじをだて)が播磨(はりま)[針間]国の長官に任じられた時、その国の民の志自牟(いじむ)が屋敷の完成を祝って酒宴を開いた。その酒宴が盛んになったころ、貴賤長幼の順にみな舞を舞った。
⑤そして、火を焚く少年にも舞わせることとなった。その少年兄弟は互いに順番を譲ったが、兄が舞い終わった後に、弟が舞い、私は履中天皇の子の市辺忍歯王の子孫ですと歌った。
⑥山部連小楯はこれを聞き、驚き、二人を仮宮殿を作って住まわせ、早馬で皇子たちの叔母の飯豊王(いひとよのみこ)に知らせた。飯豊王は喜び、二人を角刺宮(つのさしのみや)に迎えた。
志毘(しび)臣との闘歌 『古事記』の要点
①さて、天下を治めようとしていたところ、平群臣(へぐりのおみ)の祖先である志毘臣(しびのおみ)が歌垣に加わって、袁祁命(をけのみこと) [後の顕宗(けんぞう)天皇]が求婚しようとしている少女の手を取った。その少女は莬田首(うだのおびと)の女(むすめ)で、大魚(おふを)といった。
②そして、袁祁命(をけのみこと)も歌垣に加わり、志毘臣(しびのおみ) と夜を明かして歌で争った。
③その翌朝、意祁命(おけのみこと) [後の仁賢(にんけん)天皇] と袁祁命(をけのみこと) ) は相談して、「朝廷に仕える人々は朝は参内し、昼は志毘臣(しびのおみ) の家に集まっている。今は志毘臣は寝ているだろうから、志毘臣を討つなら、今がチャンスだ」いった。そして、ただちに軍勢を集めて志毘臣の家を囲み、討ち殺してしまった。
④こののち、二人は互いに、天下を譲り合ったが、意祁命(おけのみこと)は「播磨国の志自牟(いじむ)の家に住んでいる時に、袁祁命(をけのみこと) が名を明らかにしなければ、天下を治める君にはなれなかった」といって、袁祁命に天下を譲った。
⑤それで袁祁命(をけのみこと)は辞退できず、先に天下を治めた。
顕宗(けんぞう)天皇について
・顕宗天皇の在位年は西暦484年~487年と考えられる。
・和風諡号(しごう)は『古事記』では袁祁石巣別命(をけのいはすわけのみこと)であり、『日本書紀』では弘計天皇(をけのすめらみこと)である。
・近つ飛鳥宮(ちかつあすかのみや)[ 『日本書紀』は近つ飛の鳥八釣宮(やつりのみや)とし、ある本は宮は二か所あって、その一つは小野、その二つは池野にあったとある。またある本には甕栗(みかくり)に宮をつくったという]。 亡くなった年は38歳としている。
・ 陵墓について、『古事記』では「御陵(みはか)は片崗(かたおか)の石坏崗(いわつきのおか)の上にある。」と記述し、『日本書紀』では傍丘磐杯丘陵(かたおかのいわつきのおかのみささぎ)とある。
・顕宗天皇陵は傍丘磐杯丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ) で、前方後円墳である。
・顕宗天皇陵の所在地は奈良県香芝市北今市4丁目(JR香芝駅付近)である。
置目の老媼(おきめのおみな) 『古事記』の要点
①履中天皇の子の市辺忍歯王(いちのべのおしはのみこ)の子の袁祁石巣別命(をけのいはすわけのみこと)[顕宗(けんぞう)天皇]は近(ちか)つ飛鳥宮(あすかのみや)で天下をおさめた。
②石木王(いはきのみこ)の女(むすめ)の難波王(なにはのみこ)を娶ったが、子はなかった。
③天皇が父の市辺忍歯王(いちのべのおしはのみこ)の遺骸を探している時に、近江(おうみ)[淡海]国の老婆が「埋めたところを知っている。三枝の八重歯によって確認できる。」と話した。
④そこで、人を動員して、土を掘り、遺骸を探し出し、蚊屋野(かやの)の東の山に御陵を作り葬った。
⑤この老婆に置目(おきめ)の老媼(おみな)の名を付け、宮殿の近くに家を作り、日ごとに召した。その後、置目の老媼は年を取り、近江に帰った。
⑥天皇は市辺忍歯王(いちのべのおしはのみこ)が殺される災難に会った時、御粮食(みかれひ)[乾飯(ほしい)]を奪った猪飼(いかい)の老人を探し出して、飛鳥河の河原で老人を斬り、一族の者たちの膝(ひざ)の筋を断ち切った。
御墓の土 『古事記』の要点
①天皇は父王[市辺忍歯王(いちのべのおしはのみこ)]を殺した、雄略天皇を深く恨んで、その霊に報復しようと考え、雄略天皇陵を壊そうと思った。
②そこで、人を遣わそうとした時、兄の意祁王(おけのみこ)[後の仁賢(にんけん)天皇]が、「御陵を破壊するのに、人を遣わしてはなりません。私が行って、破壊してきましょう。」と言った。
③天皇が許可したので、意祁王(おけのみこ) は自ら出かけ、御陵の傍(かたわ)らを少し掘って、皇居に帰り、「掘り壊しました。」と復命した。
④天皇は意祁王(おけのみこ)の帰りが早かったので、不思議に思い、どのように壊したか問うた。
⑤そこで、意祁王(おけのみこ)は御陵の土を少し掘ったと答えたので、天皇は何故すっかり破壊しなかったのかと聞いた。
⑥意祁王(おけのみこ)は「雄略天皇は私たちの叔父であり、天下を治めた天皇です。その御陵をすっかり破壊したら、後世の人はかならず非難するでしょう。また、父君の仇だけは討たなければなりません。そこで、御陵の土を少し掘ったのです。」と言った。
⑦天皇はこのことは大変道理にかなっているといった。
仁賢(にんけん)天皇について 『古事記』の要点
①袁祁王(をけのみこ)の兄の意祁王(おけのみこ) [仁賢天皇]は、石上(いそのかみ)の広高宮(ひろたかのみや)で天下を治めた。
②天皇は雄略天皇の御子の春日大郎女(かすがのおおいらつめ)を娶って、生まれた御子が高木郎女(たかぎのいらつめ)、財郎女(たからのいらつめ)、久須毘郎女(くすびのいらつめ)、手白髪郎女(たしらかのいらつめ)、小長谷若雀命(をはつせのわかさざきのみこと) [後の武烈天皇] 、真若王(まわかのみこ)である。
③丸邇(わに)の日爪臣(ひつまのおみ)の女(むすめ)の糠若子郎女(ぬかのわくこのいらつめ)を娶って生まれた子が春日山田郎女(かすがのやまだのいらつめ)である。
仁賢天皇について
・仁賢天皇の在位年は西暦488年~498年。
・『日本書紀』の和風諡号(しごう)は億計天皇(おけのすめらみこと)である。
・宮は記紀ともに、石上広高宮(いそのかみのひろたかのみや)とする。
・仁賢天皇陵は埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)[野中ボケ山古墳]は全長175メートル、後円部直径65メートル、前方部幅107メートルの前方後円墳である。仁賢天皇陵の所在地は大阪府藤井寺市青山3丁目である。
武烈(ぶれつ)天皇について 『古事記』の要点
①小長谷若雀命(をはつせのわかさざきのみこと) [武烈天皇]は長谷(はつせ)の列木宮(なみきのみや)で、天下を治めた。
②天皇に子はいなかったので、御子代(みこしろ)として、小長谷部(をはつせべ)を定めた。御陵(みはか)は片崗(かたおか)の石坏崗(いわつきのおか)にある。
③天皇が亡くなって、皇位を継ぐ皇子がいなかった。そこで、応神天皇の五代孫の袁本杼命(をほどのみこと)[後の継体天皇]を近江国(おうみのくに)から迎えて、手白髪命(たしらかのみこと)と結婚させて、天下を授けた。
武烈天皇について
・武烈天皇の在位年は西暦498年~506年。
・『日本書紀』の和風諡号(しごう)は小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと)であり、宮の記述は列城宮(なみきのみや)とある。
・ 陵墓について、『日本書紀』では傍丘磐杯丘陵(かたおかのいわつきのおかのみささぎ)に葬ったとあり、『日本書紀』の顕宗天皇陵の表記と同じである。
・武烈天皇陵は傍丘磐杯丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ) で、前方後円墳。所在地は奈良県香芝市今泉(香芝IC近く)である。
・『日本書紀』では事績記事がいくつか掲載されている。
■継体・安閑・宣化天皇
・継体天皇の謎
・磐井の乱
継体天皇について
・継体天皇は『日本書紀』では西暦507年~531年となっている。
しかし『日本書紀』は亡くなる年について、『百済本記』を引用したとしており、西暦507年~534年の方がよいのではないか。
・和風諡号(しごう)は『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)であり、『日本書紀』では男大迹天皇(おおどのすめらみこと)である。
・磐余(いわれ)の玉穂宮(たまほのみや)にいて、天下を治め、亡くなったのは43歳としている。[ 『日本書紀』は磐余の玉穂宮の宮で崩御したとあり、 亡くなった年は82歳で大きく違っている]
・ 陵墓について、『古事記』では「御陵(みはか)は三島の藍陵(あいのみささぎ)である」と記述し、『日本書紀』でも同じ藍野陵とある。
・継体天皇陵の三嶋藍野陵(みしまのあいのみささぎ)[太田茶臼山古墳]は墳丘長226メートル、後円部直径138メートルである。前方部幅147メートルの前方後円墳で、所在地は大阪府茨木市太田3丁目である。
・継体天皇について、『古事記』の事績記事は少ないが、『日本書紀』の事績記事は「継体天皇が擁立された話」「任那(みまな)四県の割譲」「己汶(こみん)・帯沙(たさ)をめぐるあらそい」「磐井の乱」「近江毛野(おうみのけなのおみ)の安羅(あら)への派遣」などと多い。
継体天皇について 『古事記』の要点
①応神天皇の五世の袁本杼命(をほどのみこと) [継体天皇]は磐余(いわれ)の玉穂宮(たまほのみや) にいて、天下を治めた。
②天皇が三尾君(みおのきみ)の祖先の若比売(わかひめ)を娶って生んだ子が太郎子(おおいらつこ)と出雲郎(いずものいらつめ)である。また、尾張連(おわりのむらじ)らの祖先の凡連(おほしのむらじ)の妹の目子郎女(めのこのいらつめ)を娶って生んだ子が広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと) [後の安閑天皇]、次に建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと) [後の宣化天皇]である。
③また、仁賢天皇の御子の手白髪命(たしらかのみこと)娶って生んだ子が天国押波流岐広庭命(あめくにおしはるきひろにはのみこと) [後の欽明天皇]である。また、息長真手王(おきながまてのみこ)の女(むすめ)の麻組郎女(をくみのいらつめ)を娶って生んだ子が佐佐宜郎女(ささげのいらつめ)[伊勢神宮に仕える]である。・・・・・・・
④この御世(みよ)に、筑紫君石井(つくいのきみいわい)が天皇の命令に従わないで無礼なことが多かったので、物部荒甲之大連(もののべのあらかひのおおむらじ)と大伴金村連(おおとものかねむらのむらじ)を派遣して、殺した。
⑤天皇は43歳で崩御し、御陵は三嶋藍野陵(みしまのあいのみささぎ)。
継体天皇の系譜
・戦後、継体天皇が応神天皇の五世の孫であるというのは、後世の造作であるとする見方が有力であった。
・皇統譜に神経質な『古事記』『日本書紀』が天皇の出自を書きもらすはずがないから、 「五世の孫」の途中が記紀に書かれていないことがおかしいし、戦後、記紀の記述すら否定する傾向があったことからである。
しかし、今日ではこうした諸説は否定されているといってよい。
・『釈日本紀』にある推古天皇前後の時期に成立したと推定される『上宮記曰一云(いわくいちにいう)』に、応神天皇から継体天皇に至る系譜がしるされている(下記)。
凡牟都和希王(ほむつわけのみこ)(応神天皇)→①若野毛二俣王(わかのけふたまたのみこ)[若野毛二俣王]→②大郎子(おおいらつこ)[一名、意富々等王(おほほどのみこ)]→③乎非王(をひのみこ)→④汗斯王(うしのみこ){彦主人王(ひこうしのみこ)}→⑤乎富唐大公王(おほどのおおきみ)(継体天皇)
注1: []は『古事記』 の記述、{}は『日本書紀』の記述
注2 : 『釈日本紀』:鎌倉時代末期に成立した『日本書紀』の注釈書
継体天皇陵
継体天皇陵古墳(太田茶臼山古墳)は継体天皇の墓ではない
・1986年5月29日読売新聞夕刊の記事:継体天皇陵古墳の外堤護岸工事に伴う事前発掘調査を進めていた宮内庁は5世紀中期に築造されたことを示す円筒埴輪の破片など、約2000点を確認したと発表。継体天皇は6世紀前半とされているため、100年近くズレがある。
今城塚古墳
・一方、継体天皇のほんとうの陵墓ではないかと近年注目を集めているのが、北東に1.5キロの今城塚古墳(高槻市郡家新町)[墳丘長190メートル]で、淀川流域で群を抜いて大きい。築造時期は出土埴輪や形などから6世紀前半とされ、継体天皇の没年と合致する。
・戦国時代の武将の三好長慶は今城塚古墳の上に城を築いたという言い伝えがあり、そこから「いましろ」と呼ばれるようになったとの説がある。

継体天皇の出身地
・継体天皇の出身地は近江か越前か?
『日本書紀』では大伴金村らによって越前三国からむかえられて即位したとある。
・そして、継体天皇の父である彦主人王(ひこうしのみこ)は、近江国高嶋郡の三尾、現在の高島市今津の辺りに別邸があった。
・しかし、継体天皇の毋の振媛(ふるひめ)は越前の出身で、父が亡くなった後、幼い継体天皇は毋に抱かれて彼女の実家である越前に行ったとある。
・また、彦主人王(ひこうしのみこ)は近江の息長(おきなが)王家の出身であったように思われる。
継体天皇の父親が近江で、母親が越前であったのではないか。
百済へ四県割譲
『日本書紀』「継体天皇紀」6年12月の条に四県割譲の記事がある。
冬十二月に、百済、使を遣(まだ)して調貢(みつきたてまつ)る。別(こと)に表(ふみ)たてまつりて任那國(みまなのくに)の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)、四県を請う。哆唎国守(たりのくにのみこともち)穂積臣押山奏(まう)して曰(まう)さく、「此の四県は、近く百済に連(まじは)り、遠く日本を隔(へだた)る。旦暮(あしたゆうべ)に通ひ易(やす)くして、鶏(にわとり)犬別(わ)き難し。
今百済に賜(たまは)りて、合(あわ)せて同じ國とせば、固く存き策、以て此に過ぐるは無けむ。・・・
四県は上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)で、全羅道の殆ど全域に及ぶ地域である。

朝鮮半島の前方後円墳
・朝鮮半島西南部の地域に、 1991年から発掘調査されている前方後円墳が10数基ある。これらの古墳は5世紀後半から6世紀前半に築造されたと推定されている。
・これらは日本列島の前方後円墳とも共通し、この地域は全羅南道(ぜんらなんどう) である。
・『日本書紀』継体天皇紀6年(512年)の4県割譲との関連が考えられる。
・このことは、この地域が日本の支配下にあったことを示しており、築造年代と矛盾がない。

磐井の乱
・筑紫君磐井(つくしのきみいわい)は『日本書紀』では筑紫国造(くにのみやつこ)磐井とされ、国造が姓(かばね)化している。本来は職名で、君が姓。九州の国造級豪族は火君、大分君、阿蘇君など君姓が多い。
・筑紫国造は『日本書紀』の孝元7年に大彦命(おおびこのみこと)を祖とするとあり、『先代旧事本紀』「国造本紀」では成務天皇の御世に阿部臣と同祖の大彦命五世の孫である日道命(ひのにちのみこと)を国造としたとある。6世紀前半に、筑紫国造として北九州最大の勢力を誇る。
・『日本書紀』によると継体天皇21年に「近江の毛野臣(けなのおみ)が兵力6万を率いて任那(みまな)に行き、新羅に破られた南加羅・喙己呑(とくことん)を回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫の磐井が反乱しようとしたがぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを恐れて、隙を窺っていた。新羅がこれを知って磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍を妨害するよう勧めた。」とある。
・朝廷が朝鮮半島へ出兵しようとしてたとき、新羅と通じて、大規模な反乱を起こした。継体天皇22年に朝廷の派遣した物部麁鹿火(もののべのあらかい)の軍と戦って敗死したという。
・『筑後国風土記』によると「上妻(かみつやめ)の県(あがた)・・・この墓には石の人物と石の盾が各々六十枚あって、交互に陣列を組んで周囲を巡っている。・・・ここに官軍追ひ尋(と)むるに蹝(あと)を失いけり。士(もののふ)の怒り泄(つ)きず、石の手を撃ち折り石馬の頭を打ち堕(おと)しけり」とある。
・磐井は官軍が攻めて来たとき、勢力差から勝ち目がないと判断して、豊前の国の方へ逃げてしまった。官軍は追い探したが跡を見失ってしまったので、憤懣やるかなく石造を傷つけたとのことである。
・その墓は福岡県八女市にある岩戸山古墳で、全長約135mの九州地方最大級のものである。


靫(ゆぎ)と矢がきざまれ、武人を表現(日本の歴史3巻より)
安閑(あんかん)天皇について 『古事記』の要点
①広国押建金日王(ひろくにおしたけかなひのみこ)[安閑天皇]は、勾(まがり)の金箸宮(かなはしのみや)にいて、天下を治めた。
②天皇には御子がいなかった。 ③御陵は、河内国の古市の高屋村にある。
安閑天皇について
・安閑天皇の在位年は西暦534年~536年と思われる。
・『日本書紀』の和風諡号(しごう)は広国押武金日天皇(ひろくにおしたけかなひのすめらみこと)である。
・『日本書紀』の宮は『古事記』と同じ、勾(まがり)の金箸(かなはし)に遷(うつ)したとある。
・安閑天皇陵は河内の古市高屋丘陵(ふるいちのたかやのおかのみささぎ)[野中ボケ山古墳]は墳丘長122メートル、後円部直径78メートルである。前方部幅100メートルの前方後円墳である。
・安閑天皇陵の所在地は大阪府羽曳野市古市5丁目である。
宣化(せんか)天皇について 『古事記』の要点
①建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと)[宣化天皇]は、廬入野宮(いほりののみや)にいて、天下を治めた。
②天皇は、仁賢天皇の御子の橘之中比売命(たちばなのなかつひめのみこと)を娶って生まれた子が、石比売命(いしひめのみこと)、小石比売命(をいしひめのみこと)、倉之若江王(くらのわかえのみこ)、また川内之若子比売(かわちのわくこひめ)を娶って生まれた子が、火穂王(ほのほのみこ)、恵波王(えはのみこ)。
宣化天皇について
・宣化天皇の在位年は西暦536年~539年。
・『日本書紀』の和風諡号(しごう)は武小広国押楯天皇(たけおひろくにおしたてのすめらみこと)である。
・宮について、『古事記』では記載がなく、『日本書紀』は檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりのみや)とある。
・宣化天皇陵について、『古事記』では記載がなく、『日本書紀』は倭国(やまとのくに)の身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのうえのみささぎ) [鳥屋ミサンザイ古墳]とし、墳丘長138メートルの前方後円墳で、所在地は奈良県橿原市鳥屋町である。
■欽明天皇
・欽明天皇は権威ある後継ぎ
・欽明天皇即位の謎
欽明天皇について
・欽明天皇は『日本書紀』では西暦539年~571年となっているが、『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』『元興寺伽藍縁起(がんごうじがらんえんぎ)』では、は西暦532年~571年となっている。
『日本書紀』の年代でよいのではないか。
・和風諡号(しごう)は『古事記』では天国押波流岐広庭天皇(あめくにおしはるきひろにはのすめらみこと)であり、『日本書紀』では天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)と長い諡号である。
・宮は師木島(しきしま)の大宮(おおみや)[『日本書紀』は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)]にいたとある。亡くなった年について、『古事記』では記載がなく、 『日本書紀』は52歳としている。
・陵墓について、『古事記』では記載がなく、『日本書紀』では檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)とある。
・欽明天皇陵は桧隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ) [梅山古墳]は墳丘長140メートル、後円部直径72メートルの前方後円墳である。
・欽明天皇陵の所在地は奈良県高市郡明日香村大字平田(近鉄・飛鳥駅付近)である。
欽明(きんめい)天皇について 『古事記』の要点
①天国押波流岐広庭天皇(あめくにおしはるきひろにはのすめらみこと) [欽明天皇]は師木島(しきしま)の大宮(おおみや)にいて、天下を治めた。
②天皇が宣化天皇の御子の石比売命(いしひめのみこと)を娶って生んだ子が八田王(やたのみこ)、次に沼名倉太玉敷命(ぬなくらふとたましきのみこと) [後の敏達天皇] 、次に笠縫王(かさぬひのみこ)である。
③また、その妹の小石比売命(をいしひめのみこと)を娶って生んだ子が上王(かみのみこ)である。また春日(かすが)の日爪臣(ひつまのおみ)の女(むすめ)の糠子郎女(ぬかこのいらつめ)を娶って生んだ子が・・・・・・・・である。
④また、宗賀(そが)の稲目宿禰大臣(いなめのすくねのおおおみ)の女(むすめ)の岐多斯比売(きたしひめ){堅塩媛}を娶って生んだ子が橘之豊日命(たちばなのとよひのみこと)[後の用明天皇]、次に妹石坰王(いもいはくまのみこ)、次に足取王(あとりのみこ)、次に豊御気炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)[後の推古天皇]、次に・・・・・・・である。
⑤また、岐多志毘売命(きたしびめのみこと)の叔母(おば){『日本書紀』は妹}の小兄比売(をえひめ){小姉君}を娶って生んだ子が馬木王(うまきのみこ)、次に葛城王(かつらぎのみこ)、・・・・・・次に長谷部若雀命(はつせべのわかさざきのみこと)[後の崇峻天皇]である。
欽明天皇について『日本書紀』の記述
欽明天皇について、『古事記』の事績記述は少ないが、『日本書紀』の事績記述は多い。
・欽明天皇が幼少のころ、夢で秦大津父(はたのつち)を寵愛すれば、壮年になって天下が治められると言われた。
・継体天皇を擁立した大伴金村が百済に任那の4県を割譲したことを新羅が恨みに思っているとのことから、大伴金村が失脚する。
・任那復興に向けて、日本側の努力と新羅、百済などの動きなど朝鮮半島の記述が多い。
・百済の聖明王の記述と仏教公伝の記述がある。
・その後、新羅による任那の滅亡の記述と日本側と新羅、高句麗との戦いの記述がある。
欽明天皇の時代、朝鮮半島情勢が大きく変化していることが分かる。
血筋が良い天皇
・継体天皇のあとを継ぐ天皇は安閑天皇・宣化天皇と続く、安閑・宣化天皇の母は目子郎女(めのこのいらつめ)[『日本書紀』では目子媛(めのこひめ)]で、継体天皇が天皇になる前の女性で、尾張連草香(おわりのむらじくさか)[『古事記』に尾張連等遠祖、凡連(おほしのむらじ)の祖とある]の妹である。
・継体天皇は応神天皇から5世の孫だったので、安閑・宣化天皇は更に血筋が薄くなることになる。
・それに対し、欽明天皇の母は、雄略天皇の娘の春日大郎女(かすがのおおいらつめ)と仁賢天皇[意祁王(おけのみこ)]との子である手白髪命(たしらかのみこと)[『日本書紀』は手白香(たしらかの)皇后]である。このように母が天皇の血筋の濃い女性であったため、欽明天皇は血筋が良い天皇となる。
・欽明天皇は血筋の良さと在位の長さで、天皇の権力を強化させた。
その後、天皇になる敏達(びたつ)、用明(ようめい)、崇峻(すしゅん)、推古(すいこ)天皇の父親となった。
欽明天皇陵
・1991年12月27日『朝日新聞』の記事は「市民が奈良県橿原市五条町の見瀬丸山古墳の内部を撮影した写真から、見瀬丸山古墳が欽明天皇の陵ではないか」というもの。しかし、現在宮内庁は梅山古墳を欽明天皇陵としている。
・「檜隈(ひのくま)」と「身狭(むさ)」見瀬丸山古墳は図にあるように、「身狭」または、「軽(かる)」の地にある。
・一方欽明天皇陵は『古事記』に記載がなく、『日本書紀』に「檜隈(ひのくま)の坂合(さかひ)の陵(みささぎ)に葬(はぶ)りまつる」と記されている。
『日本書紀』は「檜隈(ひのくま)」と「身狭」「軽」とを書き分けていると考えられるので、「檜隈の坂合の陵」を「身狭」の地に求めるのは間違っていることになる。

欽明天皇即位の謎
『日本書紀』は継体天皇が531年に崩御、安閑天皇が534年に即位、宣化天皇が536年に即位、欽明天皇が539年に即位したとしている。これに対し『古事記』 『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』『元興寺伽藍縁起(がんごうじがらんえんぎ)』等は違う記述となっている。そこで下記の説がある。
①喜田貞吉説
「『日本書紀』にある安閑・宣化天皇はそのまま認める。しかし欽明天皇が532年から即位し、並立で存在した」とする説。
②平子鐸嶺(たくれい)説
「継体天皇崩御の年は『日本書紀』の531年ではなく『古事記』の527年で、527年から安閑天皇、続けて宣化天皇が即位、532年に欽明天皇が即位した」とする説。
③沖森卓也説
「天皇は欽明天皇のみで、欽明天皇が幼いため、安閑・宣化天皇は政治をとったかもしれないが、安閑・宣化天皇を天皇として認めない」とする説。
この三説どれが正しいか難しい問題である。
欽明天皇即位と仏教伝来年の謎

仏教伝来と朝鮮情勢
・仏教公伝は何年か?
・朝鮮半島との関係
日本の仏教伝来の前
・中国の仏教文化は南北朝時代に最盛期をむかえ、北魏では皇帝の権力のもとに広がり、南朝では江南貴族の熱心な信仰にささえられて繁栄した。
・朝鮮で仏教伝来が最も早かったのは高句麗で、小獣林(しょうじゅうりん)王の時代に中国の五胡十六国時代の前秦から372年に伝えられたとされる。
・『三国史記』によれば、東晋から百済に仏法が伝わったのは、384年であると記されている。枕流(ちんる)王が東晋の胡僧(こそう)の摩羅難陁(まらなんだ)を招来して伝わった。
しかし本格的に普及するのはもっと後であったようだ。
・新羅は朝鮮では一番遅れ、5世紀初めごろ、高句麗から伝えられたようだ。しかし新羅の初期仏教説話では布教僧に対する迫害の話が多い。王室が布教を迫害していたが、528年(法興王の時代)に仏教保護政策に切り替えた。
・日本では、民間で司馬達当(しばのたつと)の造寺伝説等によって公伝以前、とくに渡来人の間で仏教信仰が行われていたことが知られている。
仏教伝来
・新羅は真興王(しんこうおう)の時代で、積極的な領土拡張を行っていた。百済は聖明王(せいめいおう)の時代で、新羅と戦ったり、新羅と協力して高句麗と戦ったりしていた。
・『日本書紀』欽明天皇13年(552年)の5月に「百済、加羅、安羅は高麗と新羅と連合して臣の国と任那を滅ぼそうとしていると奏上した。」とある。
・このような国際情勢の中、 同じ年の10月「聖明王は西部姫氏達率怒唎斯致契(せいほうきしたつそつぬりしちけ)らを遣わして、釈迦仏の金銅像一軀(かねのみかたひとはしら)・幡蓋(はたきぬがさ)若干・経論(きょうろん)若干巻をたてまつった。」として、仏教伝来の公伝があったとする。
・仏教公伝は『日本書紀』による552年説と『上宮聖徳法王帝説』及び『元興寺伽藍縁起』による538年(記載からは欽明7年とあるが『日本書紀』では宣化3年にあたる)説がある。
・学校の教科書では538年となっている。しかし、これらの資料で『日本書紀』が一番古い。
仏教公伝の年は552年でよいのではないか。

・ 『日本書紀』欽明天皇13年で天皇は仏を祀るかどうか、群臣に訊ねた。蘇我稲目(そがのいなめ)は「西の国の諸国は皆礼拝している日本だけが背いてよいでしょうか」と賛成。
・それに対し、物部尾興(おこし)・中臣鎌子は「わが帝は常に天地社稷(あまつやしろくにつやしろ)の百八十神(ももあまりやそがみ)を、春夏秋冬にお祀りされることが仕事であります。今始めて蕃神(仏)を拝むことになると、恐らく国(くに)つ神の怒りをうけることになるでしょう」と反対した。
・天皇は稲目の意見から試しに礼拝することになった。その後、疫病がはやり、人民で若死にするものが多かった。それが長く続き手立てがなかった。
・物部尾興・中臣鎌子はもとに戻すように奏して、許可を得、仏を難波の堀江に捨て、寺を焼いた。すると雲も風もないのに、にわかに宮の大殿に火災が起きた。
・欽明天皇14年に、河内国から「海中から仏教の楽の音がし、日輪のように美しく照り輝いている」と報告があった。そこで探させたところ、照り輝く樟木(くすのき)がみつかり、これから仏像2軀を造らせた。とある。
朝鮮半島情勢
・『日本書紀』欽明天皇紀の多くは朝鮮半島情勢の記事が多い。欽明2年に百済の聖明王(聖王)が任那復興の協議をしたとある。欽明5年に任那復興計画を立てた。
・欽明6年(545年)に高句麗で大乱が起こり、欽明7年に王権跡目争いとなった。
・欽明8年(547年)に百済の聖明王が日本への救援を要請してきた。安羅国と日本府が高句麗に百済進攻を勧めたとのこと。
・欽明12年(551年)に聖明王は自国と新羅任那の兵を率いて、高句麗を打ち、漢城を回復した。
・欽明13年(552年)に、このような情勢の中、聖明王が仏像・経典を日本へ送り、仏教が伝来したことを記載している。
・欽明15年(554年)に百済は高句麗と新羅を敵にして苦戦し援軍を依頼する。日本も援軍を出す。
・欽明16年(555年)に聖明王は子の余昌(よしょう)が新羅と戦い戦果が上がらず苦しんでいるのを助けに行き、新羅に捕えられ、死ぬ。
・欽明18年(557年)に威徳王(余昌)が即位 (『三国史記』では554年)。
・欽明23年(562年)に新羅は任那を併合して、滅ぼした。
・欽明23年に大将軍紀男麻呂宿禰(きのおまろのすくね)を遣わし、新羅が任那を攻めたことを問責しようとした。結局、新羅との戦いとなり、最初は向かうところ敵なしの状況であったが、白旗をあげて進んだことから降伏したとし、攻撃を受け大敗する。
・欽明23年月に大将軍大伴連狭手彦(おおとものむらじさでひこ)を遣わし、数万の兵をもって高句麗を討たせた。
・その後、新羅も高句麗も日本に使いを遣わして、献上品と調をたてまつったとある。
欽明天皇のころ、朝鮮半島の拠点の任那を失った。
ただその利権から、新羅に調を求めていたようだ。百済との良好な関係を維持して朝鮮半島とかかわって行く。
六世紀の高句麗(Wikipediaより)
第22代の王(在位:519年 – 531年)安臧王(あんぞうおう)
梁からは520年<寧東将軍・都督営平二州諸軍事・高句麗王>に冊封された。523年に百済に攻め入り大勝利をあげた。
第23代の王(在位:531年 – 545年)安原王(あんげんおう)
半島内での交流については、540年に百済が攻め入ってきて牛山城を包囲したことと、このときに精兵5千を派遣してこれを撃退させたこととを伝えるのみである。
第24代の王(在位:545年 – 559年)陽原王(ようげんおう)
陽原王の即位には高句麗内部に内紛があった。半島内三国の間では戦乱が多くあったが、新羅に領土を奪われる結果となることが多かった。
第25代の王(在位:559年 – 590年)平原王(へいげんおう)
新羅が独自に中国との朝貢を行なって冊封体制下に入ったこともあって、三国間の対立情勢となったので、大きな戦は少なかった。
六世紀の新羅(Wikipediaより)
第23代の王(在位:514年 – 540年)法興王(ほうこうおう)
百済との良好な関係を背景に伽耶方面への勢力拡張を図り、 532年には金官伽耶を滅ぼした。
第24代の王(在位:540年 – 576年)真興王(しんこうおう)
積極的に領土拡張を進め、新羅の国力を飛躍的に拡張させた。562年には伽耶を滅ぼし、洛東江下流域を制圧した。この伽耶(大伽耶)の滅亡によって、朝鮮半島南東部はすべて新羅の領域となり、文字通りの三国時代となった。
第25代の王(在位:576年 – 579年)真智王(しんちおう)
百済の侵攻を受け、578年百済に対して閼也山城(全羅北道益山市)を割譲した。
第26代の王(在位:579年 – 632年)真平王(しんぺいおう)
半島内では防戦状態が続いた。626年には高句麗と百済とが和解してともに新羅に当たる状況となり、三国間での新羅の劣勢はいよいよ深刻なものとなった。
六世紀の百済(Wikipediaより)
第26代の王(在位:523年 – 554年)聖王(せいおう)
『日本書紀』に継体天皇18年(524年)聖明王が即位したとある。
梁からは524年に〈持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王〉に冊封され、新羅と修好するなど、中国南朝と結び、また新羅・倭との連携を図って高句麗に対抗しようとする百済の伝統的な外交態勢を再び固めた。541年には任那復興を名目とする新羅討伐を企図し、ヤマト王権の介入を要請した。しかし百済は再び新羅と連合して高句麗に当たるようになった。
第27代の王(在位:554年 – 598年)威徳王(いとくおう)
『日本書紀』では欽明天皇18年(557年)に威徳王が即位したと記している。
554年大伽耶(慶尚北道高霊郡)と倭国と共に新羅と戦ったが、緒戦で奇襲を受けて聖王が戦死するという結果に終わった。このとき威徳王も新羅軍に囲まれて死地に追い込まれたところを、倭の軍に助けられ逃げ延びたとされる。隋に高句麗との戦争の際に道案内をすること申し出た。このことから高句麗は百済に侵攻してくる。
『古事記』と『日本書紀』の記述の違い

古事記と日本書紀の漢字表記比較上段が『古事記』下段が『日本書紀』

