2.10.敏達天皇~推古天皇、聖徳太子

■敏達(びたつ)・用明(ようめい)・崇峻(すしゅん)・推古(すいこ)天皇
・これらの天皇の『古事記』記述量は少ない
・『古事記』では推古天皇が最終の記述となる

敏達天皇~推古天皇までの系図

敏達天皇について 『古事記』の要点
①沼名倉太玉敷命(ぬなくらふとたましきのみこと)[敏達(びたつ)天皇]は他田宮(おさだのみや)にて、天下を治めること14年であった。
②異母妹の豊御気炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)[後の推古天皇]娶って生んだ子が静貝王(しづかひのみこ)、次に竹田王(たけだのみこ) [またの名は小貝王(をかひのみこ)]、次に葛城王(かづらぎのみこ)・・・・。
③また、伊勢大鹿首(いせのおほかのおびと)の女(むすめ)の小熊子郎女(をぐまこのいらつめ)を娶(めと)って生んだ子が布斗比売命(ふとひめのみこと) 、次に宝王(たからのみこ) [またの名は糠代比売王(ぬかでひめのみこ)] [舒明天皇の母] 。  
④また、息長真手王(おきながまてのみこ)の女(むすめ)の比呂比売命(ひろひめのみこと)を娶って生んだ子が忍坂日子人太子(おしさかひこひとのひつぎのみこ) [またの名は麻呂古王(まろこのみこ)] [舒明天皇の父] ・・・。
⑤また、春日の中若子(なかつわくご)の女(むすめ)の老女子郎女(おみなこのいらつめ)を娶って生んだ子が難波王(なにはのみこ)、・・・。また漢王(あやのみこ)の妹の大俣王(おほまたのみこ)を娶って生んだ子が知奴王(ちぬのみこ) ・・・。
⑥ 御陵(みはか)は川内(かわち)の科長(しなが)にある。

敏達天皇(びたつ)天皇について
・敏達天皇は『日本書紀』では西暦572年~585年となっている。実際の在位年の西暦も同じと考えられる。
・和風諡号(しごう)は『古事記』では沼名倉太玉王(ぬなくらのふとたましきのみこと)であり、『日本書紀』では渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)である。
・宮は他田宮(おさだのみや) で、『日本書紀』は百済の大井につくったとし、その後、訳語田(おさだ)に幸玉宮(さきたまのみや)をつくったとしている。
・ 陵墓について、『古事記』では川内(かわち)の科長(しなが)とし、『日本書紀』では記載がない。
・敏達天皇陵は河内磯長中尾陵(かうちのしながのなかのおのみささぎ)[太子西山古墳]で全長94メートル、後円部直径56メートル、前方部幅70メートルの前方後円墳であり、前方後円墳の末期と考えられる。
・敏達天皇陵の所在地は大阪府南河内郡太子町奥広で、近鉄南大阪線「上ノ太子」駅付近である。

用明天皇について 『古事記』の要点
①弟の橘豊日王(たちばなのとよひのみこ)[用明(ようめい)天皇]は池辺宮(いけへのみや)[紀は池辺双槻(なみつき)宮]にて、天下を治めること3年。
②稲目大臣(いなめのおほおみ)の女(むすめ)の意富芸多志比売(おほぎたしひめ)を娶(めと)って生んだ子が多米王(ためのみこ) 。
③また、異母妹の間人穴太部王(はしひとのあなほべのみこ)を娶って生んだ子が上宮之厩戸豊聡耳命(うへのみやのうまやとのとよとみみのみこと) [聖徳太子] 、次に久米王(くめのみこ) 、次に植栗王(ゑくりのみこ) 、・・・ 。
④また、当麻之倉首比呂(たぎまのくらのおびとひろ)の女(むすめ)の飯女之子(いひめのこ)を娶って生んだ子が当麻王(たぎまのみこ)、次に須加志呂郎女(すかしろこのいらつめ)。
⑤天皇は丁未(ひのとひつじ)の年の4月15日に亡くなった。御陵(みはか)は石寸(いわれ)[磐余(いわれ)]の掖上(わきがみ)にあったのを科長中陵(しながのなかのみささき)に移した。 [紀は磐余池上(いわれのいけのうえ)陵

用明天皇について
・用明天皇陵は河内磯長原陵(こうちのしながのはらのみささぎ) [春日向山古墳(かすがむかいやまこふん) ]で、東西65メートル、南北60メートル、高さ10メートルの方墳で、大阪府南河内郡太子町春日(近鉄南大阪線「上ノ太子」駅)にある。

崇峻天皇について 『古事記』の要点
①弟の長谷部若雀天皇(はつせのわかさざきのすめらみこと)[崇峻(すしゅん)天皇]は倉椅(くらはし)の柴垣宮(しばがきのみや)にて、天下を治めること4年であった。
②天皇は壬子(みずのえね)の年の11月13日に亡くなった。御陵(みはか)は倉椅(くらはし)の崗(をか)の上にある。

崇峻天皇について
・崇峻天皇について、『古事記』は簡単な記述である。しかし、『日本書紀』では西暦587年~592年在位した天皇で、和風諡号(しごう)は泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)と記されている。そして、蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺したことも記されている。
・御陵は『日本書紀』では倉梯岡陵 (くらはしのおかのみささぎ)である 。
・崇峻(すしゅん)天皇陵は倉梯岡上陵 (くらはしのおかのえのみささぎ) [春日向山古墳(かすがむかいやまこふん) ]で、墳丘約15メートルの小円墳である。
・崇峻天皇陵の所在地は奈良県桜井市大字倉橋で、JR/近鉄「桜井」駅からバスで行くところにある。


推古天皇について 『古事記』の要点
①妹の豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)[推古天皇]は小治田宮(をはりだのみや)にて、天下を治めること37年であった。
②天皇は戊子(つちのえね)の年の3月15日に亡くなった。御陵(みはか)は大野崗(おほののをか)の上(へ)にあったのを科長大陵(しながのおおみささき)に移した。

推古天皇について
・推古天皇は『日本書紀』では西暦592年~628年在位した天皇で、 『日本書紀』の和風諡号(しごう)は豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)である。
・ 宮は『日本書紀』では豊浦宮(とようらのみや)である。御陵は『日本書紀』では遺言があって、推古天皇の子の竹田皇子と同じに陵に葬られたとある。
・推古天皇陵は山田高塚古墳(くらはしのおかのえのみささぎ) [春日向山古墳(かすがむかいやまこふん) ]で、東西61メートル、南北55メートル、高さ12メートルの3段築成の方墳である。
・推古天皇陵の所在地は大阪府南河内郡太子町山田で、近鉄南大阪線「上ノ太子」駅近くにある。

飛鳥仏教

・仏教伝来時の天皇である欽明天皇は仏教に対し傍観中立の立場であったようで、次の敏達天皇も同じようであった。用明天皇は病気がちであったので、病気平癒のために仏教に帰依した。
・続く、崇峻天皇、推古天皇も仏教に対する伝統的な立場を変えなかったようだ。
・そのような中、仏教の推進役となったのが蘇我氏で、馬子が法興寺(ほうこうじ)を飛鳥に建立した。法興寺はその後、飛鳥寺(あすかでら)と呼ばれ、蘇我氏の氏寺である。奈良に移って元興寺(がんごうじ)となった。
・蘇我氏の流れをくむ聖徳太子は深く仏教に帰依し、四天王寺を建立した。また、斑鳩(いかるが)の地に斑鳩宮を建て、この近くに建てられたのが法隆寺である。

法隆寺金堂 釈迦三尊像(邪馬台国の会HP第349回より)

■蘇我氏と物部氏
・蘇我氏は葛城氏と繋がることで発展
・物部氏の滅亡と蘇我氏の隆盛

古代の豪族

・天皇を助ける朝廷の最上位に大連[おおむらじ](連姓から選ばれる)と大臣[おおおみ](臣姓から選ばれる)がある。

・連姓の豪族は忌部(いんべ)、弓削(ゆげ)、鏡作など担当する職務に関係のある名を氏とするものが多い。

・それに対し臣姓は葛城(かつらぎ)、平群(へぐり)、巨勢(こせ)など地名を氏の名としているものが多く、土地に根をはった豪族である。

・物部氏は大連で、蘇我氏は大臣である。

古代豪族(図説日本の歴史 3巻より作成)

蘇我氏の系図

・蘇我氏の祖先については諸説あるが、 『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』によると、皇別(天皇から分かれた氏族)に分類されている。

・蘇我氏は建内宿禰(たけうちのすくね)を祖先とし、確かな存在は稲目からとなる。

・稲目の妻は名門の葛城氏の出身で、稲目のむすめ岐多斯比売(きたしひめ)[『日本書紀』:堅塩媛]、岐多斯比売の姨(おば)の小兄比売(をえひめ)[『日本書紀』:堅塩媛の同母妹の小姉君(おあねのきみ)]を欽明天皇へ嫁がせた。

・その結果、蘇我氏は天皇の外戚として、大きな勢力となって行く。

物部氏とは
■ 『古事記』『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』
・物部氏の祖先は邇芸速日命(にぎはやひのみこと)[『日本書紀』:饒速日命]である。邇芸速日命は河内の国の河上の哮峰(いかるがのみね)に天下った。さらに大和の国の鳥見(とみ)の白山にうつった。とある。
・邇芸速日命に供奉した天物部(あまつもののべ)ら二十五部があり、九州北部の地名と関係している。特に、遠賀川流域が注目される。
・邇芸速日命は那賀須泥毘古(ながすねひこ)[『日本書紀』:長髄彦]の妹の登美夜毘売(とみやひめ)を娶り、宇摩志麻治命(うましまじのみこと) という子をもうけている。宇摩志麻治命は島根県の物部神社に墓がある。

■畿内での物部氏
・物部氏は河内国・渋川郡(大阪府八尾市・東大阪市付近)を本貫地とし、大和へ進出する。遠くは尾張まで進出している。
・朝廷の軍事・警察権を握り勢力を拡大してきた。飛鳥時代には大連(おおむらじ)を得、大きな勢力であった。

物部氏と蘇我氏の対立
・『日本書紀』によると、欽明天皇のあとを、敏達天皇が継ぎ、炊屋(かしきや)比売命(推古天皇)が皇后となった。
・敏達天皇没後、蘇我氏と物部氏の対立は激しくなり、蘇我氏が強力にバックアップする橘豊日王(たちばなのとよひのみこ)[『日本書紀』:大兄(おおえの)皇子 ](用明天皇)が即位した。一番年長であるとのことで一応は決着したようである。
・用明天皇の即位に不満があった小兄比売の子の三枝部穴太部王(さきくさべあなほべのみこ)[『日本書紀』:穴穂部皇子(あなほべのみこ) ]が騒ぎを起こす。物部守屋は穴太部王をバックアップする。
・用明天皇は即位2年後に亡くなる。後継ぎ問題で、蘇我馬子は兄弟相続の習慣を生かし、泊瀬部(はつせべ)皇子(崇峻天皇)を擁立。守屋は用明の異母兄弟の穴太部王を奉じて兵を起こそうとしたが、謀が漏れ、馬子は穴太部王と険悪な関係であった炊屋(かしきや)比売命にとりいり、詔を出してもらって穴太部王を殺した。
・守屋は穴太部王を失い孤立する。それに対し、馬子は長谷部若雀王(はつせのわかさざきのみこ)[『日本書紀』:泊瀬部皇子](崇峻天皇)、上宮之厩戸豊聡耳命(うへのみやのうまやとのとよとみみ)(聖徳太子)など多くの皇子を味方にする。

物部氏の没落

馬子の経路(日本の歴史3巻より作成)
現在の四天王寺(筆者撮影)

・馬子に主な豪族も加わり、主軍は蘇我氏中心に諸皇子や、紀、巨勢、膳、葛城の諸氏からなり、第二軍は大伴、阿倍、平群、坂本、春日の諸氏からなる。
・守屋は中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)が味方になったがその後裏切られ、河内を中心とした物部氏の一族で戦った。しかしその勢力は大きいものであった。
『日本書紀』によれば、守屋側の頑強な抵抗により馬子側も一時苦戦におちいった時、厩戸皇子が四天王の像を刻み、この敵をほろぼすことができれば四天王のため寺と塔を建てると誓願したとある。
・結局、この戦いで守屋が死んで、物部氏は亡んだ。
この戦いを丁未の乱(ていびのらん)ともいう。

強い勢力となった蘇我氏
・豊御食炊屋比売命(推古天皇)は在位14年に渡った敏達天皇の皇后であったことから皇族内で重きをなしていた。しかも馬子と伯父と姪の関係である。物部氏が亡んだ朝廷で馬子は強い立場となった。
・崇峻天皇は影の薄い存在で后妃に皇族がおらず。大伴氏からの妃としている。馬子によって擁立された崇峻天皇であったが、その後馬子と対立し、馬子により暗殺された。
・崇峻天皇の後、後継者が問題となった。厩戸皇子が有力であるがまだ19歳であり、炊屋姫の子の竹田皇子はそれより若かった。そこで炊屋比売が推古天皇として即位し、聖徳太子が摂政となった。日本で初めての女帝である。
・用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の3代は蘇我稲目の孫となる。

■聖徳太子

・聖徳太子は574年~622年(推古30年)の飛鳥時代で、父は用明天皇、母は欽明天皇の娘の間人穴太部王(はしひとのあなほべのみこ)[『日本書紀』:穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとひめみこ)]。
・上宮之厩戸豊聡耳命(うへのみやのうまやとのとよとみみのみこと)[『日本書紀』:厩戸皇子(うまやとのみこ)、またの名は豊聡耳聖徳(とよとみみしょうとく)、豊聡耳法王(とよとみみののりのおおきみ)など ]である。
・推古天皇の皇太子で、摂政となり政治を行った。特に遣隋使の派遣など外交で活躍をした。
・冠位十二階の制定、憲法十七条の制定、三経義疏(さんぎょうぎしょ)をあらわした。
上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ) 』 に伝記が記されている。
・聖徳太子に関連した書物として上宮記(じょうぐうき)がある。

聖徳太子肖像(邪馬台国の会HP第349回より)

『三経義疏』
・聖徳太子は『三経義疏(さんぎょうぎしょ) 』をあらわしたという。
・『三経義疏』 は下記の総称である。
  『法華義疏(ほっけぎしょ)』四巻
  『維摩経義疏(ゆいまぎしょ)』三巻
 『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』一巻
・その成立年代は『上宮聖徳法太子伝補闕記』によると
  『勝鬘経義疏』:609年から3年
  『維摩経義疏』:それにつづいて2年
  『法華義疏』 :更に2年
  合計7年かかって完成したという(聖徳太子36~42歳)。
・ 『三経義疏』 のうちの、『法華義疏』については、聖徳太子の自筆本と伝えられる巻物が存在する。
・ 『法華義疏』は、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の『妙法蓮華経』二十七品本を使用するなど、内容的には古いものである。
『法華義疏』は、614年615年、聖徳太子41~42歳のころの成立とみられる。

『勝鬘経義疏』(邪馬台国の会HP第349回より)

上宮聖徳法王帝説』
・『上宮聖徳法王帝説』は、最古の聖徳太子伝である。聖徳太子の誕生、一族のこと、仏教興隆のための事績などを記す。編著者は、未詳である。
『上宮聖徳法王帝説』は、性質の異なるつぎの五つの部分からなる。
①聖徳太子の系譜
聖徳太子の父母兄弟、諸子諸孫、甥姪(おいめい)、祖父母、伯叔(おじ)など。この部分は、大宝年間(701~704年)、慶雲年間(704~708年)以前の成立とみられている。すなわち、『古事記』『日本書紀』以前の成立とみられている(成立年代は、『国史大辞典』〔吉川弘文館刊〕による。以下、成立年代は、『国史大辞典』による)。
聖徳太子の事績などをのべた部分
政治上の事績・生誕、幼時の逸話。七寺建立。冠位の制定。経典の注釈書の作製のこと。講経を行なったこと。薨去、高句麗の僧・恵慈(えじ)法師の殉死。などの記事を記す。奈良時代の成立とみられている。
聖徳太子関係の古文の引証とその註釈
法隆寺金堂薬師像銘文。法隆寺金堂釈迦像銘文とその註釈。天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)銘文とその注釈。巨勢三杖(こせのみつえ)の追悼歌など。いわば、聖徳太子の伝記資料を引載した部分。平安時代中期ごろの成立とみられている。
聖徳太子の事績関係の史実についての記録の再録と追補
物部の守屋討伐のこと。四天王寺建立。戊午(つちのえうま)の年(538年)の仏教伝来と廃仏。仏教興隆。冠位制。「十七条の憲法」。山背(やましろ)の大兄(おおえ)の王(おう)事件。蘇我氏の滅亡など。和銅年間(709~715年)以降、平安時代初期以前の成立とみられている。
聖徳太子に関係する五天皇と聖徳太子の略歴の記録
欽明天皇から推古天皇にいたる五天皇の在位年数・崩年・陵名・聖徳太子の生没年・墓所などについて記した部分。太宝年間(701~704年)・慶雲年間(704~708年)の成立とみられている。

『国史大辞典』の「上宮聖徳法王帝説」の項には、およそ、つぎのように記されている。「はじめ、①の部分のみ、ないし、それに②の部分が加わった原初的な形が、奈良時代に成立し、それに④と⑤旧の部分が加わり(当初、裏書であったとする推定もある)、さらに平安時代中期に③の部分が付加されて今本の形ができ上ったとみる見方が一般的である。
①⑤の部分の皇室系譜は、『帝紀』に類する古い資料に基づくとみられ、貴重である。他の部分にも、記紀と系統を異にする所伝として注目すべき記事が散見し、ことに戊午(つちのえうま)の年の仏教伝来の所伝、太子の薨日に関する『日本書紀』と異なる所伝などは、 著名である。」
「現在、知恩院に蔵せられる平安時代中期ごろの書写とみられる写本(一巻、国宝。古典保存会の複製あり)が現伝本の唯一の祖本である。この写本は、法隆寺に伝来したものである。」

奈良時代に成立した代表的な文献として、『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』などがある。「上宮聖徳法王帝説」は、奈良時代以前の資料を含むとみられる貴重な資料なのである。『古事記』『日本書紀』の成立以前に成立した資料を含むのであるが、『古事記』『日本書紀』にくらべれば、あまりにも、断片的である。

九州大学の教授などであった国語学者の春日政治(かすがまさじ)は、「法王帝説襍考(ざっこう)」(『国語と国文学』第百六十一号、1937年)において、『上宮聖徳法王帝説』の仮名の用例を比較研究した。『上宮聖徳法王帝説』中の固有名詞が、どのような漢字を用いて表現されているかを検討した。
人名については、表のように、『上宮聖徳法王帝説』と『古事記』とは、ほとんど変わりがなく、『日本書紀』にいたって用字が変わっていることに注意をうながす。

地名については、表のように、山代、川内、尾治などにおいては、古い用字法にしたがっているが、なお「大宝戸籍」ないし『古事記』まで下りうる可能性があり、むしろ、播磨・近江のような比較的新しい用字に、『上宮聖徳法王帝説』の成立が、『古事記』『風土記』あるいは『日本書紀』の時代までも下りうることを感じさせられるものがあると論じた。

『上宮聖徳法王帝説』の人名・地名
(邪馬台国の会HP第349回より)

『上宮紀』
『上宮記(じょうぐうき)』は古代の史書で、『聖徳太子平氏伝雑勘文』下三に「凡上宮記三巻者、太子御作也」とあり、鎌倉時代後期までは伝存したらしいが、今は逸して、全体の内容などは明らかでない。「太子御作」とするのは仮託ではないかとされている。逸文としては『釈日本紀』巻一六に「浮漂」「漂蕩」の訓「クラケナスタ、ヨヘル」が『上宮記』にも存したことがみえ、同書巻十三に男大迹天皇(継体天皇)の出自を示した系譜が「上宮記曰、一伝」として引かれ、『平氏伝雑勘文』下三に聖徳太子・多米王・長谷部王・久米王の子孫の系譜が「上宮記下巻注云」として引用される。


聖徳太子と外交手腕
・聖徳太子は隋へ日本の独立宣言をした
・隋は、日本は男の王がいたとしている

■隋による中国統一
・魏晋南北朝の末期、北周(北朝)の外戚だった楊堅(ようけん)は、581年に北周の静帝に禅譲(ぜんじょう)をせまって帝位につき、隋を建国した。これが文帝である。

・文帝は、587年に後梁を併合、589年には南朝の陳をたおして、中国の統一を完成した。

■朝鮮半島の動き
・高句麗の平原王は陳が亡んで、隋の進攻を恐れ、防備をかためた。そのあとを継いだ嬰陽(えいよう)王は文帝に遼東郡公高麗王に封じられた。

・百済の威徳王も隋がおこるとすぐに朝貢して、帯方郡公に封じられた。これに対し新羅は地理上中国との交渉も疎遠であったのか、隋とはしばらくのあいだ交渉がなかった。

・この頃日本は崇峻天皇の時代で、 591年(崇峻4年)に任那再建をはかり、2万の軍を筑紫に駐屯させ、新羅と交渉したとある。

・その後、594年に新羅の真平王は隋に朝貢し、楽浪郡公新羅王に封じられた。

・朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済においても新羅においても、高句麗への対抗のために隋の介入を求める動きが活発となっていた。百済は高句麗とも手を結ぶ二股外交をしており、612年に隋の高句麗遠征軍が発せられたときには、隋の遠征軍に従軍はしなかった。一方で新羅とは南方の伽耶諸国の領有をめぐって争いが絶えなかった。

隋の文帝への遣い(第81巻東夷)倭国伝
・開皇二十年、倭王の姓は阿毎(あめ)字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)号して阿輩雞弥(あほけみ)というもの、使を遣わして闕(けつ)に詣(いた)らしむ。上(しよう)、所司(しょし)をして其の風俗を訪ね令む。使者言う、「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺(かふ)して、坐(ざ)す。日出ずれば便(すなわ)ち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」と。
・高祖曰く、「此れ太(はなは)だ義理無し」と。是に於いて訓して、之を改め令む。王の妻は雞弥(けみ)と号す。後宮には女六七百人有。太子を名づけて利歌弥多弗利(りかみたふり)と為す。城郭無し。

倭の五王以来、100年近く中国との外交が無かった中、隋が陳を滅ぼし、中国を統一したので、外交を始めたが、倭の五王とは違い、「アメタラシヒコ」と称し、隋の臣下ではない表現をした。
また、開皇20年は西暦600年で推古天皇の時代であり、女帝なのに何故男王としたか?
聖徳太子が摂政であったからか?
使者の小野妹子の小野氏は『古事記』から天押帯日子(あめのおしたらひこ)命の後裔であったからか?

■註釈
・「闕(けつ)」は王宮の門、「上(しよう)」は文帝、「所司(しょし)」は所管の役人。「義理無し」は理くつが立たない。
・「阿毎(あめ)」は「天」を記したもの。
・「多利思比孤(たりしひこ)」は「たらしひこ」を表記したもの。 天皇の国風諡号から男性は「たらしひこ」女性は「たらしひめ」。
・「鷄弥(けみ)」(王の妻)は「君」とみてよい。
・「阿輩鷄弥(あほけみ)」は「大君」とみてよい。奈良時代に「沖縄」を「阿児奈波」と記した例があり、「阿」は「お」とも読む。「輩」は「倍」と同じで「ほ」と読む。
・「利歌弥多弗利(りかみたふり)」は『翰苑』から「和哥弥多弗利(わかみたほり)」があり、「利」は「和」の間違いと考え、「和歌弥多弗利」と考え、「わかんとぼり」とみてよい。

隋の煬帝への遣い

・新羅(しんら)・百済(ひゃくさい)は、皆倭を以って大国にして、物品多しと為し、並に之を敬仰して、恒に、使いを通じて往来す。
・大業三年、其の王多利思比孤(たりしひこ)、使いを遣わして朝貢せしむ。使者曰く、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門(しゃもん)数十人来たりて仏法を学ばしむ」と。

隋の煬帝( Wikipediaより)

・其の国書に曰く
 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云云」と帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿(こうろけい)に謂いて曰く、「蛮夷の書、無礼なる者の有り復た以って聞(ぶん)する勿かれ」と。

注:菩薩天子は隋の煬帝、沙門は僧のこと。鴻臚卿(こうろけい)は外務省の接待係の長官。

・国書で日本の独立宣言
  この文章は日本が隋に対して、従来の属国的状態から、独立を宣言したもののようである。
『日本書紀』と記述が違う
「東(やまと)の天皇、敬(つつし)みて西(もろこし)の皇帝(きみ)に白(もう)す。・・・」とあり、隋への国書とはニュアンスが違う。


『古事記』と『日本書紀』の記述の違い


古事記と日本書紀の漢字表記比較上段が『古事記』下段が『日本書紀』