弥生文化の起源
・歴博(国立歴史民俗博物館)の研究チームは弥生農耕の始まりを水田稲作農耕の始まりとして定義している。
・そして、AMS法(加速器質量分析法)による高精度炭素14年代測定法により、その稲作がBC.10世紀までさかのぼると発表した。
・この説への反論もあるが、弥生時代の始まりが従来のBC.3世紀から、BC.10世紀までにしなくても、BC.5世紀ごろだとすると、中国江南地域での、歴史的出来事
呉はBC.473年に越によって滅ぼされ、
越はBC.334年に楚によって滅ぼされ、
楚はBC.223年に秦によって滅ぼされた。
その難民が日本に来て、稲作など弥生文化を拡げたとの仮説の可能性が成り立ってくる。
弥生時代ごろの東アジア年表

弥生文化のおもな共通要素
①揚子江流域など南方要素
水田稲作、言語、照葉樹林帯、建築[高床、千木(ちぎ)、鰹木(かつおぎ)]、 土墩墓(どとんぼ)、鵜飼、歌垣、釣り針、入墨、弓、げた、頭貫衣、中国の古代の周時代の影響
②朝鮮半島の要素
水田稲作、言語、青銅器[遼寧式銅剣(りょうねいしきどうけん)]、無紋土器、支石墓、照葉樹林帯(南部の一部)
③縄文時代の要素
骨格、 竪穴住居、抜歯の風習、突帯文土器
各要素の影響(下表参照)
| 項目 | 日本 | 江南 | 朝鮮 |
|---|---|---|---|
| 照葉樹林 | 〇 | 〇 | 〇 |
| 建築(高床、千木、鰹木) | 〇 | 〇 | × |
| 鵜飼 | 〇 | 〇 | × |
| 長弓 | 〇 | 〇 | × |
| 下駄、貫頭衣、入れ墨 | 〇 | 〇 | × |
| 土墩墓(どとんぼ) | 〇 | 〇 | × |
| 倭の祖は呉の太伯 | 〇 | 〇 | × |
| 越の難民 | 〇 | 〇 | × |
| 稲作の伝来(稲のDNA) | 〇 | 〇 | × |
| 稲作の雑草 | 〇 | 〇 | × |
| 稲作の石包丁 | 〇 | 〇 | × |
| 日本人の起源(人のDNA) | 〇 | △ | △ |
| 日本語の起源 | 〇 | × | 〇 |
| 無文土器 | 〇 | × | 〇 |
| 支石墓 | 〇 | × | 〇 |
| 遼寧式銅剣 | 〇 | × | 〇 |
南方の要素
照葉樹林文化
・照葉樹林というのは、カシ、シイ、クスノキ、ツバキ、サザンカなどを代表する常緑広葉樹を主とする樹林である。さきのような照葉樹では、葉が比較的厚く、テラテラとした光沢がある。
・イモ類、アワ、ヒエ、キビなどの雑穀類の栽培、稲作、絹の製造などを大きな特徴とする。モチやナットウ、スシを食べ、絹や、漆(うるし)を利用する。麹(こうじ)で酒をつくり、高床の家にすむ。歌垣(うたがき)や鵜飼の習俗がある。
・照葉樹林文化は、ヒマラヤ山麓から東南アジア北部山地、南中国、日本西部にかけての東アジアの温暖帯に分布する。
・東夷伝の諸民族のなかで、『有無する所、憺耳(たんじ)朱崖と同じ』と述べて、倭人だけが著しく江南的・東南アジア的な習俗をもっていると描きだされている。
・倭人伝に現れた特徴から、採集狩猟民的な文化に遡る可能性は少なく、同じ照葉樹林帯の中国の中・南部から入ってきたと考えられる。

国立民族学博物館名誉教授 佐々木高明氏[邪馬台国の会HP第359回より]
鵜飼
・日本の鵜飼の風習は水田稲作とともに、長江の下流域から渡って来たと推定される。
・朝鮮半島には鵜飼が広まった痕跡はみつからない。また沖縄、台湾にも行った記録はない。
・中国南方の稲作文化の担い手は漢民族でない。原住民国家のうち楚の国と関係があるのではないか。
・これが四川、雲南の分化また、広東、広西の文化と関係する。
古代の日本の弓
・古代の日本の弓について『魏志倭人伝』に「木弓は下を短くし、上を長くし」と書かれており、弥生時代の銅鐸にも描かれている。
・弥生時代、奈良の唐古鍵遺跡の出土品では簡単な丸木弓と弓幹の内側に樋を彫たり、節の部分を桜樺で巻き固めた黒漆塗りの精巧な弓があった。長さも2m前後の長弓。
・一方、古墳時代の埴輪には樋のある状態を表したもの、彎弓を思わせる湾曲をしめしたものもある。
・古代の日本の弓について『魏志倭人伝』に「木弓は下を短くし、上を長くし」と書かれており、弥生時代の銅鐸にも描かれている。
・弥生時代、奈良の唐古鍵遺跡の出土品では簡単な丸木弓と弓幹の内側に樋を彫たり、節の部分を桜樺で巻き固めた黒漆塗りの精巧な弓があった。長さも2m前後の長弓。
・一方、古墳時代の埴輪には樋のある状態を表したもの、彎弓を思わせる湾曲をしめしたものもある。

弓について
・弓は木・竹など弾力性のある材料で作り、弦(つる)をはり、矢をつがえて射る武器。直弓と彎(わん)弓とがある。
・直弓といっても弦をはれば曲がるが、全体がほぼ同じ曲率で曲がるのが直弓。
・日本の弓は、弥生時代、奈良後期の正倉院宝物もみな直弓。南洋の未開民族も直弓である。
・弓には構造上、丸木弓と合わせ弓との2種がある。
・丸木弓は1本の材料をそのまま削って作るが、合わせ弓は木・竹・骨角など各種の材料をはりあわせて作ったものである。
・直弓には丸木弓が多く、湾曲弓には合わせ弓が多いということは、両者が系統をことにすることを示している。
・弓は長さにより、2m以上の長弓と1m内外の短弓の2種に分けられ、長弓は直弓、短弓は彎弓である場合が多い。
・弓の手で持つところを弣(ゆづか・にぎり)、両端の弦をつけるところを弭(はず・ゆはず)という。

・樋は、弓幹に刻まれた溝のことである。樋を刻む目的について、近年、弓矢の射出実験から、樋を刻むことで矢の射出における誤差が少なくなることが分かり。樋を刻む目的は、弓の精度向上があったものと考えられる。
・日本以外の彎弓では、ゆづかが弓の中央部にもうけられるが、日本では、直弓でも彎弓でも、ゆづかが中央よりやや下方に偏っているのが特徴。
・『清水寺縁起絵巻』から、蝦夷のアテルイ軍は半弓形弓、坂上田村麻呂が率いる大和朝廷軍は長弓で、ゆづかが中央よりやや下方に偏っている。

長弓の分布
■各国、歴史的にどの弓を使っているか
・半弓形弓(アーチェリー型)
アイヌ、モンゴル、朝鮮、ペルシャ、ブータン、タイ、ニューギニア、アメリカ大陸(原住民)
・長弓
日本、台湾、中国南部の一部、フィリッピン、インドネシア
■毒矢
・アイヌは毒矢を使った。
・毒矢は北海道と沿海州、樺太、アリューシャン、アラスカ半島、雲南、四川、ネパール、ブータンに分布する。
・毒矢の起源はヒマラヤとみられる。
千木(ちぎ)、鰹木(かつおぎ)
・日本の銅鐸に書かれている家や埴輪の家は干欄(かんらん)式建築である。これは高床式建築の一つで、中国の揚子江流域にあるものである。
・特徴は屋の上部が長く、下部が短い。そして、千木、鰹木がある。
・現代でも雲南の哈尼(はに)族の家やインド東北部、アッサム地方の家のようにやたら千木が大きい家がある。
・弥生時代から始まったと見られる建築は高床式住居、千木(ちぎ)、鰹木(かつおぎ)など、江南方面から来たことが一目瞭然のものがある。
・そして、現在の神社建築は千木、鰹木がある。


中国古伝承のなかの倭
呉の太伯(たいはく)[泰伯とも書く]は倭の祖先?
・『魏志倭人伝』に「倭は断髪文身す。・・・会稽(かいけい)(郡)東冶(とうや)(県)の東にある。」と書いてある。会稽は春秋戦国時代の越の都市であり、越の風俗に似ているとしている。
・中国の王朝は 「夏→商(殷)→周」と続く。呉はこの周の文王の伯父、太王の子の太伯と仲雍(ちゅうよう)が建国したという。
・『論語』の「泰伯篇」には、泰伯は最高の人格者である。周の王朝の世継ぎの天子となるのを嫌ってその地位を弟の季歴にゆずったと記されている。
・また、『史記』の「呉太伯世家(せいか)」には、「ここにおいて、太伯とその弟の仲雍の二人は、刑蛮にはしり、文身断髪して、用うべからざるを示し(後継者として適切でないことを証明し)、もって末弟の季歴を避けた(継承権をゆずる)。」とある。
中国などの文献からの倭
・『魏略』[大康年間(280年~289年)成立]にも「その俗、男子は皆、黥而(面)文(身)す。その旧語を聞くに、自ら太伯のすえという。」とある。
・『晋書』(648年成立)にも「自ら太伯(呉の始祖。断髪文身をしたと言われる)の後裔だといい、また、上古に使者が中国に詣でると、皆が大夫を自称したという。」とある。
・『翰苑(かんえん)』(660年以前に成立)にも「(倭人は)文身黥面して、なお太伯の苗(びょう)と称す。」とある。
・『梁書』(629年成立)にも「倭とは、自らは太伯の後裔だという。」とある。
・宋の末、元の初めごろの歴史家、金仁山(1232年~1303年)は『通鑑前編(つがんぜんぺん)』のなかで、「日本いう。呉の太伯の後なりと。けだし呉亡んで、その支庶(ししょ)(傍流)、海に入って倭となる。」 なお、周は姫姓であったため、呉も姫姓であった。
・『日本書紀』の平安時代の講義筆記ノートである『日本書紀私記』に「日本が中国からの太伯伝説にもとづき、姫氏国と呼ばれていた」ことがわかる。

中国の周代の古法が倭にあった
・藤堂明保著『漢字の起源』から、『魏志倭人伝』で倭人はことがあるごとに、骨を焼いて占うとある。
・中国の商(殷)の時代でも同じようにト骨(ぼっこつ)で占っていた。そして周代の官制を記した周礼(しゅらい)に占うことが書いてあり、周の時代に、その文化が伝わったならば、倭が占う風習を持った可能性がある。
・また『魏志倭人伝』で倭人は大人を敬うのに拍手(かしわで)を打つとある。これは中国の古えの礼法であると書いている。
・周時代に「振動(しんどう)」という行為の説明があり、敬い恐れおののいたときに手を打つ礼法があると書いてある。この礼法が呉を通じて日本に伝わり残ったのではないか。
中国の商(殷)や周時代の古い礼法が、呉を通じ日本に伝わったのではないか。
倭と江南の関係
土墩墓(どとんぼ)の分布
・江蘇(こうそ)省・安徽(あんき)省・淅江(せっこう)省を中心として分布している土墩墓がある。
・現段階では
揚州(ようしゅう)付近を北限、
紹興(しょうこう)付近を南限としており、
極めて限られた地域で行われた埋葬形態である。
日本の墳丘墓と江南の土墩墓との関連性
・墳墓の構築について、中国の華北では地面より、深いところに埋め、その上に土を盛るのが原則である。
・いっぽう江南の呉、越の土墩墓(どとんぼ)[土墩は土を積んでできた高まりをさす]では地面よりも高いところに埋葬する。
・土墩墓は中国のきわめて限られた地域(春秋戦国時代の呉、越の地域付近)で行われた埋葬形態であり、越が楚に滅ぼされ、江南一体が楚の領土となってから、土墩墓(どとんぼ)は消滅し、楚の木槨墓に代わった。

(菅谷文則氏による)[邪馬台国の会HP第267回より]
・日本では、弥生時代初期の墓制は高く積み上げた墳丘の上部または墳丘中に墓室を設けたり、棺を埋めることであった。
・吉野ヶ里の墳丘墓はその代表である。
・古墳時代の古墳も、遺体を、墳丘の比較的高いところ(地面より高いところ)に埋葬する。 このように、呉・越の地域との共通性がある。
山海経のなかの倭
・『山海経(せんがいきょう)』は中国古代の神話と地理の書。
・この書で、「蓋国(がいこく)は鉅燕(きょえん)の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。」とある。
・江戸時代の初期に松下見林が『異稱日本傳(いしょうにほんでん)』で「蓋」をけだしと読み、南倭、北倭は燕に属すと読んでいる。
・朝鮮半島の南端が北倭で、九州が南倭と解釈できる。
・いづれにしても、倭は燕に属していたと書かれていた。
・春秋戦国時代の燕は太子の丹が荊軻を使って、秦王(始皇帝)を暗殺しようとしたが、失敗して秦に滅ぼされた(BC.222年)。
・三国時代には遼東半島付近に公孫氏がおり、その後公孫淵の時代に自立して燕を起こした。この時代も倭は燕に属すと書かれていた。
戦国時代の江南の難民は倭の祖先?
呉(姓は姫)
・呉王の夫差(ふさ)は越王の勾践(こうせん)によって討たれた父の闔閭(こうりょ)の仇を討つため、「臥薪」し、伍子胥(ごししょ)の尽力を得て国力を上げ、勾践を討った。そして、夫差は伸張した国力から覇をとなえようとして、伍子胥と対立し自決させた。その後、越による激しい攻撃で、BC.473年に滅びる。
越
・越の勾践は呉の夫差に臣下の例をとり、滅亡を免れる。「嘗胆」して辛抱し、范蠡(はんれい)の助けにより力を蓄え、呉のすきをついて攻め滅ぼす。
その後、楚の威王の遠征によって、無彊(むきょう)[勾践の6世の孫]は敗北し逃亡された。その後、楚の懐王の代のBC.306年頃までに、楚によって滅ぼされた。
楚
・秦の王翦(おうせん)将軍に項燕(こうえん)[項羽の祖父]が敗れ、最後の王負芻(ふすう)は捕虜となる。秦に仕えていた昌平君が項燕に奉じられて楚王と名乗るが、秦軍に鎮圧され、BC.223年に滅びた。
このようにして、滅んだ呉、越、楚の難民が朝鮮半島南部と日本の北九州へ来たのではないか?
朝鮮半島との関係
当初は「弥生時代のほとんどが朝鮮半島から来た」とされたが、最近は見直されて来ている。
朝鮮半島の稲作
・欣岩里(フナムニ)[きんがんり]遺跡
韓国・京畿(キョンギ)道驪州(ヨジュ)郡占東面欣岩里に所在し、多種多量の無文土器と石器が出土した。
特に、孔列文(こうれつもん)と二重口縁短斜線文が施文(せもん)された無文土器は、駅三洞式土器と可楽洞式土器の結合ということで、欣岩里式土器といわれている。
・大坪里(テーピョンニ)遺跡
慶尚南道晋州(チンジュ)市の大坪里でも、稲作の各種農具が出土しており無文土器の使用とともに農耕が開始されたことを知ることができる。
朝鮮半島は中国と接しており、春秋・戦国時代は燕の国の影響があったと考えられる。そのため、古い時代から稲作が伝わったと考えられる。
稲作は水田式か陸稲式か議論が分かれるが、まだ水田が発達していなかったのではないか。

・松菊里(ソングンニ) [しょうぎくり]遺跡
・韓国・忠清(チュンチョン)南道扶余(プヨ)郡草村面松菊里に所在し、無文土器時代の大規模集落遺跡。
・BC.850年~300年頃の遺跡とされている。
・石棺墓から、遼寧式銅剣(りょうねいしきどうけん)[琵琶形銅剣]が磨製石剣・石鏃や、碧玉製管玉・天河石製勾玉と伴出したことで注目された。
・多量の無文土器が出土しているが、口縁部がゆるやかに外反する特徴から松菊里式土器と呼ばれている。丹塗土器(にぬりどき)も多数出土する。
水田稲作がおこなわれた最初の時期とされており、もし、歴博が唱えるように、弥生時代の始まりが早まれば、日本の稲作は松菊里の時期と同じ頃になる。
支石墓
・朝鮮半島の支石墓は半島全域でその遺跡が見られる。無文土器の時代でもあるBC.500年頃から始まったといわれ、天井石が碁盤状となっていることなどの特徴がある。
・日本の支石墓は、碁盤形であるが、朝鮮のものに比べて小型化している。地下の埋葬には、石棺・土壙・甕棺がある。当初は、渡来人の営んだ墳墓であったと思われるが、消滅期には、日本の独自性がでている。そして、弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉したと思われる。
・日本での支石墓は下記がある
志登(しと)支石墓群(福岡県糸島市志登)
狸山支石墓群(長崎県北松浦郡佐々町松瀬免字松瀬116)
大野台支石墓群(長崎県佐世保市鹿町町深江634)
原山支石墓群(長崎県南島原市北有馬町大字坂上下名字新田ほか)
支石墓は朝鮮半島から来た文化だが、その後の変化で、大型甕棺墓、箱式石棺など埋葬施設が目立つかたちになり。支石墓としては定着しなかったようだ。
突帯文土器
・突帯文土器は板付遺跡から出土した土器から、縄文時代の考古学者山崎純男氏による下記の編年がある。
夜臼Ⅰ式→夜臼Ⅱ式→夜臼Ⅱb式
・その後、突帯文土器は、夜臼(ゆうす)式土器より古い、山ノ寺(やまのでら)式土器が菜畑遺跡から出土した。
・最近は、山ノ寺式土器や夜臼式土器は刻目(きざみめ)突帯文土器とも言われ、西日本の最後の縄文土器となる。
・そして、水田稲作の始まりは、遠賀川式土器(板付Ⅰ式以降)の時代とされていたものが、新たな遺跡の発掘から、夜臼式土器、更には山ノ寺(やまのでら)式土器の時代へと遡って来た。
無文土器
・無文土器は朝鮮半島の青銅器時代の土器といわれており、土器の表面に、櫛目文土器の幾何学文様のような施文がほとんど行われず、無文のものが多いことから、無文土器という。無文土器と総称する土器は、地域や時期によって多様であり、複雑である。
・日本の縄文時代終末期から弥生時代前期に、朝鮮南部の丹塗磨研壺、そして弥生時代前期後半から後期にかけて、やはり南部の粘土紐巻き付けの無文土器ないしは、その技法を濃厚に備えた甕が北部九州を中心に出土している。
・弥生の早期水田稲作遺跡の菜畑遺跡の突帯文系の土器は粘土紐巻き付けが内傾接合であったが、板付Ⅰ式土器は外傾接合に変化した。その後の弥生時代に、全国へ波及する遠賀川式土器の最初の形式である。
土器の変遷
・縄文時代から変化した突帯文土器が朝鮮半島の無文土器の影響を受け板付Ⅰ式土器に変化して行った。
・縄文稲作の時期では内傾接合の土器が圧倒的に多い。
・朝鮮半島の無文土器は外傾接合のみである。
この板付Ⅰ式土器は朝鮮半島の影響が大きいといわれている。

縄文時代の影響
人骨や遺物から
・弥生時代の前は縄文時代であり、弥生時代は渡来人によるものとされている。この渡来人は縄文人を圧倒するほど多くはないとされているので、元の縄文人や、縄文文化は弥生時代に多くの影響を与えたはずである。
・縄文時代に抜歯という風習があった。抜歯は14~16才以上の人骨にみられる何かの儀礼と考えられている。これは中国江南や朝鮮半島に無いものである。
弥生時代の土井ヶ浜遺跡からは抜歯された人骨で出土しており、弥生人のなかにこの風習が残り、入り込んでいるいることが分かる。
・壺棺墓は縄文時代から古墳時代まで、日本で行われた墓制で、その大きさから子供用もしくは再葬用と考えられている。最初が縄文時代であることが注目される。
縄文時代の壺棺墓が北九州の甕棺墓に繋がったとの説もある。
・また竪穴式住居も縄文時代から弥生時代に受け継がれたものである。
ゲノム解析から
・従来、渡来人が縄文人と混血して、現代日本人の祖先になったとする「二重構造モデル」あったが、弥生人の人骨をゲノム解析して、弥生人は「北東アジア系」で、古墳時代の渡来人は「東アジア系」とし、縄文を加えて、「三重構造モデル」になることが提唱され話題になった。しかし最近はゲノム解析のデータ解析の量を増やし、もとの「二重構造モデル」に近い説が有力となっている。弥生人は現代人と同様、「縄文系」に加え、大陸に由来する「東アジア系」と「北東アジア系」の三つのゲノム成分を持っていたとするものである。
稲作の起源
稲作の渡来
水田耕作について、大きく二つの説がある。
①朝鮮半島ルート
考古学者が唱える。
長江(揚子江)流域から山東半島、遼東半島か更に朝鮮半島を通って日本に来た。
②江南ルート
植物学者・農学者などが唱える。
中国の長江(揚子江)流域から直接日本に来た。
この時同時に朝鮮半島南部にももたらされたと考える。
朝鮮半島経由説
朝鮮半島南部と北九州の考古学的遺物が類似しているので、朝鮮半島南部からの渡来人が、稲作とともにたずさえてきた証拠であると考える。
考古学者:寺沢薫氏[王権誕生 (日本の歴史)]より
・韓国の麻田里(マジョンニ)(までんり)遺跡などで無文土器時代前期から中期にかけて(BC.8~BC.5世紀頃)の小区画の水田が発掘され、日本の縄文晩期後半の水田の直前にあたる。

・日本の菜畑遺跡などで見られる磨製(ませい)石包丁などは、驚くほど朝鮮半島南部の無文土器文化前・中期の磨製石器群と似ている。
・長江下流域の湖熟(こじゅく)文化の石包丁には、外湾刃半月形のほかに、内湾刃半月形、舟形、長方形、翼形と実に多様な形式があり、直接伝来したのであればこうした形式も一緒にもたらされるはずだが、北部九州では発見されていない。
・中国では、長江流域を境に北に短粒米[中国では粳(コウ)という]、南に長粒米[籼(シァン)]が分布し、流域一帯は両者の混在地帯とされてきた。それはイネの北上と時代が下るにつれて、短粒米を選択する方向に変化していった結果だととらえることができる。
江南直接渡来説
・陸路を江南の揚子江流域から遼東(りょうとう)半島に至って鴨緑江(おうりょくこう)を渡り、文字どおりに半島を南下したとは、考えられない。遼東半島付近は北緯40度、盛岡よりも北である。
・アジア各地に栽培される666品種を供試して、精密に形態、生態、生理的分類を行なったところ、日本の水稲に最も近似する品種は(朝鮮半島のものよりも)華中のジャポユカの一群であることなどが証明されている。放送大学:渡部忠世教授
・長江流域からの直接伝来は長粒種(籼)のはずとするが、華南の広西の4000年前の遺跡から今日の日本型と同じようなコメが発見された。江南でインド型の長粒(籼)のコメが優占的になったのは、時代を下って宋時代(11世紀)のことである。元京都大学教授:池上宏氏
・岡山市津島(つしま)遺跡の水田址で検出された雑草種子八十九種は、東南アジアから華中にかけて分布する雑草が大半で、長江以北には見られないものが多い。水田の雑草を稲の隨伴物とみる限り、このことも江南地方以南からの渡来を主張するひとつの根拠となりうるだろう。雑草学者:笠原安夫氏
他に元静岡大学助教授の佐藤洋一郎氏の説もある。
弥生初期の水田稲作
・弥生初期の水田稲作の小さな4枚田遺構が確認されたのは菜畑遺跡(佐賀県唐津市)で、夜臼(ゆうす)式より古い山ノ寺(やまのでら)式土器が出土している。
・同じように初期の水田稲作の遺跡は板付遺跡(福岡県福岡市博区)で、夜臼(ゆうす)式土器が出土している。
・更に同じように曲り田遺跡(福岡県二丈町)があり、夜臼(ゆうす)式土器や日本で最古といわれる鉄器が出土している。
・山ノ寺式土器や夜臼式土器は縄文晩期といわれる刻目(きざみめ)突帯文土器である。
縄文晩期の遺跡に水田稲作の跡がある。従来の範囲では縄文時代なので、縄文稲作とも言われている。

日本語起源
日本語の起源(4層の言語)
①古朝鮮語、古アイヌ語、古日本語の古極東アジア語(古朝鮮語、古アイヌ語、古日本語は共通の文法、音韻的に近い)
②インドシナ語、カンボジア語などのインドシナ半島語(日本語と偶然以上の一致を示す。黒潮に乗って来たのではないか)
③ナガー語、ポド語などのビルマ系江南語(西夏はビルマ系の言語、現在中国四川省・雲南省にいる彜(い)族(ロロ族)もビルマ系の言語)
④中国語(その後中国から文化的影響を受け、同時に中国語が入り込んだ)
「語順の特徴に関するかぎり、日本語の『目的語-動詞』的配列は、支配の方向性が驚くほど首尾一貫したもっともプロトタイプ(原型)に近い型といってもよい。
また、この語順の型は、現存資料で溯りうる最古の時代から、基本的にはほとんど変化がなく、多くの過渡地域に見られる動揺や混合特徴は、漢語やヨーロッパ語の影響による一部の現象を除いて、まったく認められない。
日本語はこの点で、インド亜大陸のドラヴィダ諸語、アジア北・東部のアルタイ諸語と共に、『目的語-動詞』言語圏の中のもっとも安定したタイプに属し、他方、東南アジアとオセアニア(オーストラリア、ニューギュア、メラネシア、ポリネシア、ミクロネシア)を中心とする『動詞-目的語』言語圏とは明確な一線を画している。」
日本語の起源(形成のプロセス)
・およそ1~2万年前には「古極東アジア語」があった。音韻体系、文法体系、基礎語彙において共通性を持っていた。
・その後、古日本語(日本語基語)、古朝鮮語、古アイヌ語は船による人の移動などで、たがいに接触をつづけながらも、次第に方言化し、さらには異なる言語となって行った。
・古日本語の系統をひく言語は稲作の渡来などと共に長江下流域からのビルマ系言語の系統をひく言語などの影響を受け、倭人語が成立する。
・その後、朝鮮半島からしだいに追い出され、日本列島の太平洋岸のインドネシアとかカンボジア系も言語などの語彙も取り入れ日本語となった。
・さらに歴史時代にはいって、語彙的に中国の影響を受けながら、現代の日本語を形成するようになった。
弥生時代の成り立ちのまとめ
・当初、弥生時代の人や文化や稲作などほとんどが、朝鮮半島から来たという仮説が多かったが、その後の研究で、朝鮮半島だけではなく、東南アジアや江南などの南方要素もあることが分かった来た。
・日本の西日本は東南アジア北部、雲南山地、中国江南・華南、朝鮮半島南部と同じ照葉樹林文化圏の共通性がある。
・弥生時代の頃には、中国江南以外の南方文化の影響があり、日本の太平洋岸にインドネシアなど東南アジアの人と文化が入っていた。
・水田稲作は縄文晩期の突帯文土器(山ノ寺式土器や夜臼式土器)の時代に中国の江南方面から北九州と朝鮮半島の南へ同時に来た。( BC.5世紀頃)
・これは稲のDNAからも裏付けられ、この稲作は北九州、四国、近畿の一部に伝搬する。
・中国では春秋時代の「呉」「越」抗争で「越」が滅亡( BC.334年)、次に「呉」の滅亡( BC.473年) 、次に「楚」の滅亡( BC.223年) 。これらの難民が日本に来たと考えられ、そのようなことから呉の太伯伝承もうまれた可能性がある。
・日本の弥生時代の文化風習が中国の江南から直接来たと思われる高床、鵜飼、げたなど、南方的文化的要素が多いことは確かである。
・また、稲作初期の頃の板付Ⅰ式土器の時代に、中国の燕・漢の影響により文化が高まった朝鮮半島から、人と文化の流入がある。(BC.300年頃から)この文化も遠賀川式土器を伴い、現地の縄文人と共同で、弥生時代として全国に広まる。これが従来の弥生時代の始まりである。
・言語についても同じことが言え、この地域が日本語祖語のクレオール発生地域として想定できる。この共通文化圏が縄文要素、江南要素、朝鮮半島南部要素の複合体となっている。そして、これらの地域内の往来も多かったと考えられる。
・その後の弥生末期の邪馬台国時代には、各地域の独立性が出てきて、特に朝鮮半島との自由な往来が減って行ったのではないか。そして、クレオール発生地域の共通性が無くなって行ったのではないか。




