1.04.倭の五王から仏教伝来まで

倭の五王について

倭の五王時代前後の東アジア年表


使持節(しじせつ)・都督(ととく)とは
■使持節
・「節」には「使持節」「持節」「仮節」とあり、「使持節」は二千石以下を殺すことを得。「持節」は官位なきを殺し、軍事ならば使持節と同じ事を得。「仮節」は唯軍事にのみ軍令を犯す者を殺すを得る。とある
  注:二千石は郡の長官の「太守」となる。
・漢の使持節の「節」は1.8メートルの棒に旄牛(ぼうぎゅう)の尾をつける。上下三段になっている。魏志倭人伝に出てくる「黄幢(こうどう)」もこれに近いものと考えられる。

■漢の蘇武(そぶ)
・匈奴に囚われること19年、ついに節操を保ったとして名高い漢の使者の蘇武は、文字通り「節」を携えた使者だった。
・武帝の命を受けて蘇武は「中郎将(ちゅうろうしょう)・使持節」として匈奴に使いをしたが、匈奴の内紛に巻き込まれ、単于(ぜんう)への臣属を拒否したので、北海(バイカル湖)のほとりに流された。
・「漢節を杖として羊を牧した」と伝えられている。杖にちょうど良い長さのようである。

■都督
・倭王武を「使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 六国諸軍事・安東将軍・倭王」に任命している。都督(ととく)は「かみ」と解釈すれば、以下六カ国の「長官」という意味となる。
・中国の三国時代は地方の軍事をつかさどり、ときには刺史(しし)を兼ねた。唐代は節度使がおかれて権限が縮小した。

■日本での都督
・日本では『日本書紀』の天智天皇の条で、大宰府のことを「筑紫都督府(つくしのおほみこともちのつかさ)」と記している。「都督」を「おほみこともち」と読んでいる。
・ 「おほみこと」は「天皇のことば」をさし、 「おほみこともち」は、勅命を奉じて任地にくだり、政務を執る官をさす。
・『和名抄』の五巻でも、大宰府のことを、「於保美古止毛知乃司(おほみこともちのつかさ)」と記している。

倭の五王の中国の文献
倭の五王関連記事は下記の中国側の文献に記されている。(邪馬台国の会HPより作成)

・「珍」は宋から「安東将軍・倭国王」を授かる。
・「済」は宋から「使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 六国諸軍事・安東将軍・倭国王」を授かる。
・「興」は宋から「安東将軍・倭国王」を授かる。
・「武」は梁から、「使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 六国諸軍事・征東大将軍・倭国王」を授かる。

当時の 日本(倭)と朝鮮の関係
・百済王は、倭国王よりも早く東晋・宋に朝貢していたが、こちらの爵号は、「使持節・都督百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王」(416年、腆支王[てんしおう]など)あるいは、「使持節・都督百済諸軍事・寧東大将軍・百済王」(521年、武寧王)である。軍事支配権のおよぶ範囲は、百済だけとなっている。そして、倭王済や武が中国から与えられた爵号では、百済の軍事支配権だけは除かれている。つまり、倭王済や武の軍事支配権は、新羅や任那にはおよんでいたが、百済には、およんでいなかった形になっている。

・高句麗は、前燕(ぜんえん)によって、355年に、「〔都督〕営州諸軍事・征東大将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王」に封冊され(『晋書』『資治通鑑』)、東晋によって、413年に、高璉(長寿王)が「使持節・都督営州諸軍事・征東将軍・高句麗王・楽浪公」に封冊され(『宋書』)、さらに、高璉は、宋によって「使持節・散騎常持、都督営・平諸軍事、東騎大将軍、開府儀同三司、高句麗王・楽浪公」(『宋書』)の称号が与えられている。

つまり、客観的存在である中国のみとめた五世紀ごろの倭、百済、高句麗の三国の勢力範囲は、たがいに重なつていない。

・倭…朝鮮半島の南半分の、百済の領域をのぞく地域と日本。三国時代の辰韓、弁韓の地、および馬韓の地の一部と日本。(『日本書紀』の継体天皇の6年(522)の条に、旧馬韓の地の一部であった全羅南道の、四つの県を、日本が百済に与えたという記事がある。それ以前は、この地に日本の支配権がおよんでいたとみられる。この旧馬韓に属し、のちの百済に属していなかった全羅南道の地が、爵号のなかにみえる慕韓〔馬韓〕にあたるとみられる)。

・百済……百済の地。三国時代の馬韓の全羅南道をのぞく地。

・高句麗…遼東半島の地と、南満州、朝鮮半島の北部、および営州、平州の地。高句麗の高璉(長寿王)の称号のうち「営(州)・平(州)諸軍事」の、「営州・平州」は、三国時代には、遼東の豪族、公孫氏の領域であった。公孫度は、190年に、遼東侯、平州牧と称している。「高句麗王」は、高句麗のもともとの地(南満州)の王であることを示す。「楽浪公」は、三国時代の楽浪郡の地が実質的に、高句麓の支配下にあったことを示している。

5世紀ごろの倭、百済、高句麗の3国勢力範囲

・倭:朝鮮半島の南半分の、百済の領域をのぞく地域と日本。

・百済:百済の地。三国時代の馬韓の全羅南道をのぞく地。

高句麗:遼東半島の地と、南満州、朝鮮半島の北部、および営州、平州の地。

新羅:中国の冊封体制では新羅の支配者として表記されていない。日本の支配下と考えられる。

伽耶:同じように日本の支配下と考えられる。

5世紀ごろの倭、百済、高句麗の3国勢力範囲
(邪馬台国の会HP第234回より)拡大可

■高句麗(Wikipediaより)
第19代の王(在位:391年~412年)好太王(こうたいおう)
広開土王碑で有名。高句麗の領土を拡張させた。 396年には漢江を越えて進撃して百済の58城700村を攻略。百済が誓いを違えて倭に通じ、新羅は倭の侵攻を受けていた。400年に歩騎五万を派遣し新羅を救援した。このとき新羅の王都は倭軍に占領されていたが、高句麗軍が迫ると倭軍は退き、任那・加羅まで追撃した。ところが402年、新羅は奈勿尼師今の王子未斯欣を人質として倭に送って通交する。404年になると帯方界に倭軍の侵入を受けるが撃退した。

第20代の王(在位:413年~491年)長寿王(ちょうじゅおう)
427年に首都を国内城から平壌に移し、新羅や百済、さらに百済を援軍として助ける日本軍と戦って朝鮮半島の大半と遼河以東までに勢力を拡大し、高句麗の最大版図を成した。475年には百済の漢城(ソウル特別市)を陥落させて蓋鹵王を殺害した戦勝により、百済は熊川に南遷し、振るわなくなった。

第21代の王(在位:492年~519年)文咨明王(ぶんしめいおう)  
前の長寿王は半島内に最大版図を築いたが、百済・新羅が同盟して対抗したため、文咨明王はこの二国に対して大きな戦果をあげられなかった

■新羅(Wikipediaより)
第19代の王(在位:417年~458年)訥祇麻立干(とつぎ まりつかん)
高句麗と倭とへ人質として送られていた王弟が即位翌年(418年)に帰国すると、徐々に高句麗からの従属的体制を脱そうとした。倭との交戦もしばしば発生している。431年4月、440年6月、444年4月と倭人の侵入を受けており、444年の侵入の際には首都金城(慶州市)を10日余りも包囲された。

第20代の王(在位:458年~479年)慈悲麻立干(じひ まりつかん)
度々倭人と戦い、倭人の侵入に備えていくつもの城を築いたことが伝わっている。また、高句麗・靺鞨からも北部辺境の悉直(江原道三陟市)への侵入も受けている。

第21代の王(在位:479年~500年)炤知麻立干(しょうち まりつかん)
百済との同盟により、高句麗及び靺鞨への対抗の体制を維持した。倭との交戦も度々見られた。500年3月には長嶺鎮を倭軍に陥落させられている。

第22代の王(在位:500年~514年)智証麻立干(ちしょう まりつかん)
国号・王号の統一や軍制・官制などの整備を通して、新羅の国家形成を飛躍的に進めたと見られている。

■百済(Wikipediaより)
第18代の王(在位:405年~420年)腆支王(てんしおう)
『日本書紀』応神天皇16年では直支王(ときおう)394年2月に太子に立てられ、397年に人質として倭国に赴いた。405年9月に阿莘王が亡くなると、倭国の兵士に伴われて帰国した。416年には東晋によって 使持節・都督・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王冊封された。

第19代の王(在位:420年~427年)久尓辛王(くにしんおう)
『日本書紀』では応神天皇25年(414年)に直支王の子の久爾辛(くにしん)が王となった。とある。

第20代の王(在位:427年~455年)毗有王(ひゆうおう)
宋から430年に腆支王に与えられていた爵号を継承する。中国南朝(宋)~百済~新羅・倭国の協調体制をもって、北朝(北魏)と結んだ高句麗に対抗する態勢を整えた。

第21代の王(在位:455年~475年)蓋鹵王(がいろおう)
『日本書紀』雄略天皇5年(461年)では加須利君(かすりきみ)
中国南朝と通じるとともに新羅・倭国と同盟して高句麗に対抗する。倭国との通好。

第22代の王(在位:475年~477年)文周王(ぶんしゅうおう)
『日本書紀』雄略天皇21年(477年)には汶洲王(もんすおう)
高句麗の長寿王が475年9月に百済の首都漢城(ソウル特別市)に攻め入った。文周は王位について熊津(忠清南道公州市)に遷都した。

第23代の王(在位:477年~479年)三斤王(さんきんおう)
『日本書紀』雄略天皇23年(479年)には文斤王(もんこんおう)

第24代の王(在位:479年~501年)東城王(とうじょうおう)
『日本書紀』雄略天皇23年(479年)には、蓋鹵王の弟で日本に来ていた昆伎王(昆支王)の第二子の末多王(またおう)とする。
新羅との同盟を結び高句麗に対抗する。倭国はたびたび東城王代の百済の内政に干渉していた。

第25代の王(在位:502年~523年)武寧王(ぶねいおう)
『日本書紀』雄略天皇5年では、加須利君の弟の嶋君とする。継体7年武寧王が亡くなったとある。梁からは、もとの<行都督・百済諸軍事・寧東大将軍・百済王>から<使持節・都督・百済諸軍事・寧東大将軍>に爵号を進められた。

4~5世紀の天皇(天皇1代10年説から)

邪馬台国の会講演資料より作成

倭の五王の血縁関係

・中国文献と『日本書紀』では血縁関係が合わない

邪馬台国の会HP第396回より作成

倭の五王の比定
・倭の五王を各天皇へ比定
倭王武が雄略天皇にあたるのは定説だが他はいろいろな説がある。
天皇の1代10年説から考えると下記のように考えられる。

①讃---応神天皇(413年:讃あり、421年:讃に爵号、425年:讃貢献)
②珍---仁徳天皇(438年:珍貢献)
③済---允恭天皇(443年:済貢献、451年:済に称号)
④興---安康天皇(462年:世子興に称号)
⑤武---雄略天皇(478年:武上表、479年:武に称号)

・中国文献
中国側の倭の五王関連記事
421年(永初 2年)讃に爵号。
438年(元嘉15年)珍を安東将軍とした。
451年(元嘉28年)済を安東将軍とした。
462年(大明 6年)興を安東将軍とした。
478年(昇明 2年)武を征東大将軍とした。

応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略の諸天皇の活躍時期の推定

邪馬台国の会HP第244回より作成


倭王讃と応神天皇

天皇系図

日本の歴史3巻と日本書紀より作成

古市古墳群・百舌鳥古墳群

古市古墳群の主な天皇陵
第14代:仲哀天皇
第15代:応神天皇
第19代:允恭天皇
第21代:雄略天皇
第22代:清寧天皇
第24代:仁賢天皇
第27代:安閑天皇
百舌鳥古墳群の主な天皇陵
第16代:仁徳天皇
第17代:履中天皇
第18代:反正天皇

Web地図情報より作成

古市古墳群のなかの主な古墳

邪馬台国の会HP第331回より拡大可


応神天皇の出自をめぐる諸説
『日本書紀』から神功皇后が新羅征伐のおり、新羅から帰って筑紫で応神天皇を出産する話となっている。応神天皇が八幡信仰の神となっていることなどから応神天皇新王朝説がある。
応神天皇について、いくつかの説を比較してみる。

①騎馬民族説
江上波夫氏によれば騎馬民族による日本建国は二段階の過程で行われたとしている。
・第一段階が南朝鮮の任那(加羅)方面から、北九州(筑紫)への侵入で、崇神天皇を主役とし、4世紀前半に行われた。
・第二段階の過程は北九州から畿内への進出で、応神天皇を主役とし、4世紀末から5世紀初めのあいだに実施されたであろうとする。
・応神天皇こそ、北九州から畿内に進出し、日本における最初の統一国家である大和朝廷を創始した。

しかし現在、この説は、あまりにも文献資料をほしいままに解釈してる傾向があり、騎馬民族説は疑問視されている。

②九州地方の豪族説
東大教授だった日本史家の井上光貞氏がとなえた。応神天皇は征服者で、九州地方におきた豪族であり、実在の確かな最古の天皇で、新王朝の始祖であろうとしている。古事記の系図と違って、応神天皇は品陀真若の王(ほんだまわかのみこ)の女(むすめ)の中日売(なかつひめ)をめとって、仁徳天皇が生まれたとしている。

③大阪平野を地盤とする豪族説
直木孝次郎氏や岡田精治氏や上田正昭氏がとなえた。崇神天皇に始まる三輪王朝が滅んで、応神天皇に始まる別の王朝である河内王朝が成立する。

④父は武内宿禰(たけのうちのすくね)とする説
高木彬光氏がとなえたもので、神功皇后の身近にいた武内宿禰が父親とする説。応神天皇以後、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略、清寧、顕宗、仁賢、武烈、と武内の宿禰の一族が繁栄していることから、この説もありえるのかもしれない。

応神天皇陵

・応神天皇陵(誉田山古墳)
『延喜式』 に「恵我の藻伏(もふし)の岡陵。軽嶋の明(あきら)の宮で天下をおさめられた応神天皇(の陵)。河内の国志紀郡にある。」と書かれている。古市古墳群のなかで一番大きな古墳である。全長420m

・仁徳天皇陵(大仙陵古墳)
百舌鳥古墳群の中にあり、日本一大きく、全長840m。
・『古事記』の記事の量
『古事記』によって、諸天皇についての記事の量を調べると下記のようになり、応神天皇が一番多い。『古事記』でも重要な天皇と位置付けている。
①応神天皇:3806文字
②神武天皇:3074文字
③仁徳天皇:2707文字
④雄略天皇:2368文字

応神天皇陵( Wikipediaより)

陵墓の大きさ、古事記の記事の量からも応神天皇が事跡の多かった天皇であることがわかる。

・『日本書紀』には応神天皇陵の記述がない。巨大な古墳で、応神天皇の生前は完成せずに没後、時を経て完成し、葬られたためであろうか?
・しかし『古事記』には「御陵(みはか)は河内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)の岡にあり」とある。
・また、『日本書紀』の「雄略天皇紀」の田辺史伯孫(たなべのふひとはくそん)の記述から、「誉田陵(応神天皇陵)の付近で速い赤い馬を見て、自分の馬と変えてもらい、家に戻り一晩したら、その馬が埴輪の馬になった。そこで誉田陵へ行ったら、埴輪の馬の中に自分の馬がいたのでとりかえした」この話では伯孫が古市から柏原の方に向かっていたことから、誉田陵が古市古墳群の中に存在していることになる。

誉田陵が現在の応神天皇陵と一致すると考えられる。

古市郡から飛鳥戸郡(あすかべのこおり)へ
(邪馬台国の会HP第396回より)

■現在比定している誉田陵は応神天皇の陵墓と考えられる。
しかし、下記の根拠で応神天皇陵古墳が応神天皇の墓であることを疑う考古学者が少なくない。
①地理学者の日下雅義氏が墳丘外ではあるが、応神天皇陵古墳の範囲内の地層を検査し、古墳築造にさいしての整地以降に生じたズレから推定し、誉田陵の築造年代を5世紀末から6世紀初頭と計算した。<反論>
この調査は応神天皇陵古墳そのものの地層のズレを調べ上げたものではない。応神天皇陵古墳の範囲内の地層とはいえ、墳丘外の地層の検査である。日下氏によれば応神天皇陵古墳は土質の安定した段丘と不安定な氾濫原という異質な土地にまたがって築造されているという。とすれば地層のずれも場所によって異なるのではなかろうか?
試案の域を出ないと思われる。

②前方後円墳の大部分には円筒埴輪が使われている。川西宏幸氏は畿内とその周辺での円筒埴輪をⅠ~Ⅴの5期にわけた。応神天皇陵古墳はⅣ期としているので、5世紀中葉と後葉に比定している。また『古事記』の没年干支では、応神天皇の没年は394年とする。

<反論>
これについて、 『古事記』の没年干支は、雄略天皇以後には一致して来るが、それ以前は実際より古く位置づける傾向がある。安本先生による天皇の一代平均10年説から推定すると応神天皇没年が424年頃となる。
となると5世紀中葉はわずかにしか違っていない。円筒埴輪の最先端のものが古墳築造時に使われることを想定すればおおむね合っていると考えられる。

円筒埴輪(邪馬台国の会HP第339回より)

倭王武と雄略天皇

・雄略天皇の時代は埼玉県の稲荷山古墳、大彦の墓として、長野県、三重県、更に九州熊本県の江田船山古墳と広範囲にわたっている。
・日本武尊の東征時代から、雄略天皇の時代になるとは、広範囲から多くの人を動員できるくらいに統治が進んできていることが推定できる。
・これは、『日本書紀』の「雄略天皇紀」の鳥官(とりのつかさ)の話にあるように、信濃・武蔵の直丁(つかえのよほろ)の動員状況からもうかがえる。

『宋書』から分かる雄略天皇の勢力範囲
・『宋書』 「倭国伝」 から
興が死んで弟の武が立った。宋は、使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王とした。宋としては、百済を対象外としたのである。
このことは、朝鮮半島南部は日本の支配下にあり、百済が微妙な関係であるこがわかる。

478年(昇明2年)『宋書』から
武は使いを遣わし、「昔から、祖先は自らが戦い、東は毛人55国、西は衆夷(熊襲、隼人などか)を征する事66国、海を渡って95国を征服した。」と上奏した。
この毛人は蝦夷のこと、大和朝廷に従わない人で、英雄である日本武のことを描いたのではないか。天皇系図から、日本武尊は雄略天皇の5代上の血筋であり、祖先といえる。
『日本書紀』の景行天皇、25年の条に、武内宿禰をつかわし、北陸、東北の諸国の状況を観察したという記述がある。とくに東国のことがあり、日本武尊を征討につかわしたことがわかる。

倭王武と百済

・百済の墓誌
1971年に韓国の忠清南道で、百済の武寧(ぶねい)王陵が発見され、朝鮮最古の誌石が発掘された。『三国史記』は武寧王の在位を502年523年としている。誌石では武寧王は62歳で没したとしており、『三国史記』の情報の漏れをおぎなっている。

・『日本書紀』の記述
『日本書紀』では雄略天皇の5年(461年)4月に「百済の加須利(かすり)君は池津媛が焼き殺されたことを聞き、今後女を貢らない。弟の軍君(こにきし)に孕んだ女を与え、参向させた。孕んだ女は筑紫で子を産み、母子共に百済に帰った。この子が武寧王である。」と、武寧王が生まれたとしている。
武寧王が523年(『三国史記』)に62歳(墓誌)で死んだということは、461年生まれ( 『日本書紀』)であり、『三国史記』、墓誌、『日本書紀』の記述が一致することになる。

ここで問題は『日本書紀』が雄略天皇の5年を461年としていることで、これは『日本書紀』の編集者が『三国史記』から、461年を雄略天皇5年にはめ込んだためと推測する。天皇1代10年説では461年は安康天皇2年になる。

稲荷山鉄剣銘文

・埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣から銘文が見出された。その銘文の「獲加多支鹵(わかたける)大王」が雄略天皇であるとされている。

・また、この鉄剣をつくらせた「乎獲居の臣(おわけのおみ)」の「上祖(かみつおや)」として、「意富比垝(おほひこ)」の名が出てくる。この「意富比垝」が大彦の命(おおびこのみこと)であるとされている。

・大彦の命は第八代孝元天皇の皇子で、第九代開化天皇の同母の兄である。第十代崇神天皇の伯父にあたる。このことから、大彦の命は4世紀中ごろの人と考えればよい。

・『古事記』によれば、大彦の命は「高志(こし)」[越]に遣わされたという。『日本書紀』では「北陸道(若狭、越前、加賀、能登、越中、越後) 」に遣わされたとなっている。

稲荷山古墳の鉄剣剣(令和元年企画展 徹底解剖!埼玉古墳群より)拡大可

江田船山古墳の鉄刀の銘文

・熊本県玉名郡和水町(旧菊水町)のうち清原(せいばる)の古墳群最大の前方後円墳である江田船山古墳から「治天下獲□□□鹵大王・・・」の75文字の銘をもつ銀象嵌大刀が出土した。

・その銘文の大王名が稲荷山鉄剣銘文の大王名と同じの可能性が指摘されており、雄略天皇のことと考えられる。

 これらの鉄剣の銘文から、雄略天皇が関東から九州まで支配していたことが分かる。

 このように、雄略天皇の支配地域が単なる文献学上だけでなく、考古学上でも証明されたことになる。

江田船山古墳の鉄剣(Webより)拡大可

継体天皇と磐井の乱

継体天皇
第26代天皇507~531年
応神天皇の5世の孫、父は彦主人(ひこうし)の王、母は振媛(ふるひめ)。武烈天皇の死後、大伴金村らによって越前三国からむかえられて即位する。

戦後、継体天皇が応神天皇の五世の孫であるというのは、後世の造作であるとする見方が有力であった。それは皇統譜に神経質な『古事記』『日本書紀』が天皇の出自を書きもらすはずがないから、「五世孫」というのも、それ以前には四世までを王としていた皇親の範囲が五世にまで拡大された慶雲2年(705)以降に案出されたものではないかというのである。しかし、今日ではこうした諸説は否定されているといってよい。

・推古天皇前後の時期に成立したと推定される『釈日本紀』所引の『上宮記曰一云(いわくいちにいう)』に、応神天皇から継体天皇に至る系譜がしるされている。
注: 『釈日本紀』:鎌倉時代末期に成立した『日本書紀』の注釈書

継体天皇陵

■継体天皇陵古墳は継体天皇の墓ではない
・継体天皇陵古墳とされている太田茶臼山古墳(おおだちゃうすやまこふん)の1986年5月29日読売新聞夕刊の記事:継体天皇陵古墳の外堤護岸工事に伴う事前発掘調査を進めていた宮内庁は5世紀中期に築造されたことを示す円筒埴輪の破片など、約2000点を確認したと発表。継体天皇は6世紀前半とされているため、100年近くズレがある。

継体天皇陵( Wikipediaより)

■今城塚古墳
・一方、継体天皇のほんとうの陵墓ではないかと近年注目を集めているのが、北東に1.5キロの今城塚古墳(高槻市郡家新町)で、淀川流域で群を抜いて大きい。鋳造時期は出土埴輪や形などから6世紀前半とされ、継体天皇の没年と合致。
・戦国時代の武将の三好長慶は今城塚古墳の上に城を築いたという言い伝えがある。そこから「いましろ」と呼ばれるようになったとの説がある。

磐井の乱
・筑紫君磐井は『日本書紀』では筑紫国造磐井とされ、国造が姓(かばね)化している。本来は職名で、君が姓。九州の国造級豪族は火君、大分君、阿蘇君など君姓が多い。
・筑紫国造は『日本書紀』の孝元7年に大彦命を祖とするとあり、『国造本紀』では成務天皇の御世に阿部臣と同祖の大彦命五世の孫である田道命(たちのみこと)を国造としたとある。6世紀前半に、筑紫国造として北九州最大の勢力を誇る。
・ 『日本書紀』によると継体天皇21年に「近江毛野臣(けなのおみ)が兵力6万を率いて任那に行き新羅に破られた南加羅・トクコトンを回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫の磐井が反乱しようとしたがぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを恐れて、隙を窺っていた。新羅がこれを知って磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍を妨害するよう勧めた。」とある。
・朝廷が朝鮮半島へ出兵しようとしてたとき、新羅と通じて、大規模な反乱を起こした。22年に朝廷の派遣した物部麤鹿火(もののべのあらかい)の軍と戦って敗死したという。

・『筑後国風土記』によると「上妻(かみつやめ)の県(あがた)・・・この墓には石の人物と石の盾が各々六十枚あって、交互に陣列を組んで周囲を巡っている。・・・ここに官軍追ひ尋(と)むるに蹝(あと)を失いけり。士(もののふ)の怒り泄(つ)きず、石の手を撃ち折り石馬の頭を打ち堕(おと)しけり」とある。

日本の歴史3巻より作成

磐井は官軍が攻めて来たとき、勢力差から勝ち目がないと判断して、豊前の国の方へ逃げてしまった。官軍は追い探したが跡を見失ってしまったので、憤懣やるかなく石造を傷つけたとのことである。

・その墓は福岡県八女市にある岩戸山古墳で、全長約135mの九州地方最大級のものである。

   扁平石人[顔面の裏には
靫(ゆぎ)と矢がきざまれ、武人を表現(日本の歴史3巻より)

欽明天皇と仏教伝来
・継体天皇のあとを継ぐ天皇は安閑天皇・宣化天皇と続く、安閑・宣化天皇の母は目子媛(めこひめ) [継体天皇が天皇になる前の女性]で、父親は尾張連草香(おわりのむらじくさか)[『古事記』に尾張連等遠祖、凡連(おおしのむらじ)の祖]である。
・継体天皇は応神天皇から5世の孫だったので、安閑・宣化天皇は更に血筋が薄くなることになる。
・それに対し、宣化天皇の次の天皇である欽明天皇の母は手白香(たしらかの)皇后 [継体天皇が大和の皇位についてからの女性]で天皇の血筋が濃い女性であった。これにより、欽明天皇は血筋が良い天皇となる。
・欽明天皇は血筋の良さと在位の長さで、天皇の権力を強化させた。

欽明天皇の即位
『日本書紀』は継体天皇が531年に崩御、安閑天皇が534年に即位、宣化天皇が536年に即位、欽明天皇が540年に即位したとしている。これに対し『古事記』 『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起』等は違う記述となっている。そこで下記の説がある。

①喜田貞吉説
「『日本書紀』にある安閑・宣化天皇はそのまま認める。しかし欽明天皇が532年から即位し、並立で存在した」とする説。

②平子鐸嶺(たくれい)説
「継体天皇崩御の年は『日本書紀』の531年ではなく『古事記』の527年で、527年から安閑天皇、続けて宣化天皇が即位、532年に欽明天皇が即位した」とする説。

③沖森卓也説
「天皇は欽明天皇のみで、欽明天皇が幼いため、安閑・宣化天皇は政治をとったかもしれないが、安閑・宣化天皇を天皇として認めない」とする説。
『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起』は538年は欽明7年としている。
これは、これらの本の作者が、『日本書紀』より後に、『日本書紀』を読んで書いたのではないかと疑われる。そうすると、継体天皇が崩御した次の年の532年に、欽明天皇が即位したと考えた(安閑、宣化を認めないとした)。

この三説どれが正しいか難しい問題である。

欽明天皇即位の謎

邪馬台国の会HP第248回より作成

欽明天皇陵

・1991年12月27日『朝日新聞』の記事は「市民が奈良県橿原市五条町の見瀬丸山古墳の内部を撮影した写真から、見瀬丸山古墳が欽明天皇の陵ではないか」というもの。しかし、現在宮内庁は梅山古墳を欽明天皇陵としている。
・「檜隈(ひのくま)」と「身狭(むさ)」見瀬丸山古墳は図にあるように、「身狭」または、「軽(かる)」の地にある。
・一方欽明天皇陵は『古事記』に記載がなく、『日本書紀』に「檜前の坂合(さかひ)の陵(みささぎ)に葬(はぶ)りまつる」と記されている。
『日本書紀』は「檜前(ひのくま)」と「身狭」「軽」とを書き分けていると考えられるので、「檜前の坂合の陵」を「身狭」の地に求めるのは間違っていることになる。

梅山古墳と見瀬丸山古墳(邪馬台国の会HP第248回より)

日本の仏教伝来の前
・中国の仏教文化は南北朝時代に最盛期をむかえ、北魏では皇帝の権力のもとに広がり、南朝では江南貴族の熱心な信仰にささえられて繁栄した。
・朝鮮で仏教伝来が最も早かったのは高句麗で、小獣林(しょうじゅうりん)王の時代に中国の五胡十六国時代の前秦から372年に伝えられたとされる。
・『三国史記』によれば、東晋から百済に仏法が伝わったのは、384年であると記されている。枕流(ちんる)王が東晋の胡僧(こそう)の摩羅難陁(まらなんだ)を招来して伝わった。
しかし本格的に普及するのはもっと後であったようだ。
・新羅は朝鮮では一番遅れ、5世紀初めごろ、高句麗から伝えられたようだ。しかし新羅の初期仏教説話では布教僧に対する迫害の話が多い。王室が布教を迫害していたが、528年(法興王の時代)に仏教保護政策に切り替えた。
・日本では、民間で司馬達当(しばのたつと)の造寺伝説等によって公伝以前、とくに渡来人の間で仏教信仰が行われていたことが知られている。

仏教伝来

・新羅は真興王の時代で、積極的な領土拡張を行っていた。百済は聖明王の時代で、新羅と戦ったり、新羅と協力して高句麗と戦ったりしていた。

・ 『日本書紀』欽明天皇13年(552年)の5月に「百済、加羅、安羅は高麗と新羅と連合して臣の国と任那を滅ぼそうとしていると奏上した。」とある。

・このような国際情勢の中、 同じ年の10月「聖明王は西部姫氏達率怒唎斯致契(せいほうきしたつそつぬりしちけ)らを遣わして、釈迦仏の金銅像一軀(かねのみかたひとはしら)・幡蓋(はたきぬがさ)若干・経論(きょうろん)若干巻をたてまつった。」として、仏教伝来の公伝があったとする。

元興寺に残されている五重小塔(国宝)Webより

・仏教伝来は『日本書紀』による552年説と『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』及び『元興寺伽藍縁起(がんごうじがらんえんぎ)』による538年(記載からは欽明7年とあるが『日本書紀』からは宣化3年にあたる)説があり、後者が有力視されている。
・ 『日本書紀』欽明天皇13年で天皇は仏を祀るかどうか、群臣に訊ねた。蘇我稲目は「西の国の諸国は皆礼拝している日本だけが背いてよいでしょうか」と賛成。
・それに対し、物部尾興(おこし)・中臣鎌子は「わが帝は常に天地社稷(あまつやしろくにつやしろ)の百八十神(ももあまりやそがみ)を、春夏秋冬にお祀りされることが仕事であります。今始めて蕃神(仏)を拝むことになると、恐らく国(くに)つ神の怒りをうけることになるでしょう」と反対した。
・天皇は稲目の意見から試しに礼拝することになった。その後、疫病がはやり、人民で若死にするものが多かった。それが長く続き手立てがなかった。
・物部尾興・中臣鎌子はもとに戻すように奏して、許可を得、仏を難波の堀江に捨て、寺を焼いた。すると雲も風もないのに、にわかに宮の大殿に火災が起きた。
・欽明天皇14年に、河内国から「海中から仏教の楽の音がし、日輪のように美しく照り輝いている」と報告があった。そこで探させたところ、照り輝く樟木(くすのき)がみつかり、これから仏像2軀を造らせた。とある。

朝鮮半島情勢
・『日本書紀』の欽明天皇紀の多くは朝鮮半島情勢の記事が多い。欽明2年に百済の聖明王(聖王)が任那復興の協議をしたとある。欽明5年に任那復興計画を立てた。
・欽明6年(545年)に高句麗で大乱が起こり、欽明7年に王権跡目争いとなった。
・欽明8年(547年)に百済の聖明王が日本への救援を要請してきた。安羅国と日本府が高句麗に百済進攻を勧めたとのこと。
・欽明8年に聖明王は自国と新羅任那の兵を率いて、高句麗を打ち、漢城を回復した。
・このような情勢の中、欽明13年(552年)に聖明王が仏像・経典を日本へ送り、仏教が伝来したことを記載している。
・欽明15年(554年)に百済は高句麗と新羅を敵にして苦戦し援軍を依頼する。日本も援軍を出す。
・欽明16年(555年)に聖明王は子の余昌(よしょう)が新羅と戦い戦果が上がらず苦しんでいるのを助けに行き、新羅に捕えられ、死ぬ。
・欽明18年(557年)に威徳王(余昌)が即位 (『三国史記』では554年)。
・欽明23年(562年)に新羅は任那を併合して、滅ぼした。
・欽明23年に大将軍紀男麻呂宿禰(きのおまろのすくね)を遣わし、新羅が任那を攻めたことを問責しようとした。結局、新羅との戦いとなり、最初は向かうところ敵なしの状況であったが、白旗をあげて進んだことから降伏したとし、攻撃を受け大敗する。
・欽明23年に大将軍大伴連狭手彦(おおとものむらじさでひこ)を遣わし、数万の兵をもって高句麗を討たせた。
・その後、新羅も高句麗も日本に使いを遣わして、献上品と調をたてまつったとある。

欽明天皇のころ、朝鮮半島の拠点の任那を失った。
ただその利権から、新羅に調を求めていたようだ。百済との良好な関係を維持して朝鮮半島とかかわって行く。

■高句麗(Wikipediaより)
第22代の王(在位:519年~531年)安臧王(あんぞうおう)
梁からは520年<寧東将軍・都督営平二州諸軍事・高句麗王>に冊封された。523年に百済に攻め入り大勝利をあげた。
第23代の王(在位:531年~545年)安原王(あんげんおう)
半島内での交流については、540年に百済が攻め入ってきて牛山城を包囲したことと、このときに精兵5千を派遣してこれを撃退させたこととを伝えるのみである。
第24代の王(在位:545年~559年)陽原王(ようげんおう)
陽原王の即位には高句麗内部に内紛があった。半島内三国の間では戦乱が多くあったが、新羅に領土を奪われる結果となることが多かった。
第25代の王(在位:559年~590年)平原王(へいげんおう)
新羅が独自に中国との朝貢を行なって冊封体制下に入ったこともあって、三国間の対立情勢となったので、大きな戦は少なかった。

■新羅(Wikipediaより)
第23代の王(在位:514年~540年)法興王(ほうこうおう)
百済との良好な関係を背景に伽耶方面への勢力拡張を図り、 532年には金官伽耶を滅ぼした。
第24代の王(在位:540年~576年)真興王(しんこうおう)
積極的に領土拡張を進め、新羅の国力を飛躍的に拡張させた。562年には伽耶を滅ぼし、洛東江下流域を制圧した。この伽耶(大伽耶)の滅亡によって、朝鮮半島南東部はすべて新羅の領域となり、文字通りの三国時代となった。
第25代の王(在位:576年~579年)真智王(しんちおう)
百済の侵攻を受け、578年百済に対して閼也山城(全羅北道益山市)を割譲した。
第26代の王(在位:579年~632年)真平王(しんぺいおう)
半島内では防戦状態が続いた。626年には高句麗と百済とが和解してともに新羅に当たる状況となり、三国間での新羅の劣勢はいよいよ深刻なものとなった。

■百済(Wikipediaより)
第26代の王(在位:523年~554年)聖王(せいおう)
『日本書紀』に継体天皇18年(524年)聖明王が即位したとある。
梁からは524年に〈持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王〉に冊封され、新羅と修好するなど、中国南朝と結び、また新羅・倭との連携を図って高句麗に対抗しようとする百済の伝統的な外交態勢を再び固めた。541年には任那復興を名目とする新羅討伐を企図し、ヤマト王権の介入を要請した。しかし百済は再び新羅と連合して高句麗に当たるようになった。
第27代の王(在位:554年~598年)威徳王(いとくおう)
『日本書紀』では欽明天皇18年(557年)に威徳王が即位したと記している。 554年大伽耶(慶尚北道高霊郡)と倭国と共に新羅と戦ったが、緒戦で奇襲を受けて聖王が戦死するという結果に終わった。このとき威徳王も新羅軍に囲まれて死地に追い込まれたところを、倭の軍に助けられ逃げ延びたとされる。隋に高句麗との戦争の際に道案内をすること申し出た。このことから高句麗は百済に侵攻してくる。

「倭の五王から仏教伝来まで」まとめ
・倭の五王を各天皇へ比定
①讃---応神天皇(410年~)[別の説:讃=仁徳天皇]
②珍---仁徳天皇(424年~)[別の説:珍=反正天皇]
③済---允恭天皇(443年~)
④興---安康天皇(460年~)
⑤武---雄略天皇(463年~)

・倭の五王時代の日本と朝鮮の関係
倭:朝鮮半島の南半分の、百済の領域をのぞく地域と日本。三国時代の辰韓、弁韓の地、および馬韓の地の一部と日本。
百済:百済の地。三国時代の馬韓の全羅南道をのぞく地。
高句麗:遼東半島の地と、南満州、朝鮮半島の北部、および営州、平州の地。
新羅:日本の支配下にあったとされる。

・中国文献
『宋書』「倭国伝」 「文帝紀」 、『南史』「倭国伝」 、
『南斉書』「倭国伝」 、『梁書』「倭伝」 「武帝紀」

・応神天皇の出自について諸説があるが、『日本書紀』の記述でよいのではないか。
・ 『日本書紀』には応神天皇陵の記述がないが、古市古墳群の中にある誉田陵が応神天皇陵と考えられる。
・稲荷山古墳、江田船山古墳の鉄剣銘文の「獲加多支鹵大王」、 「治天下獲□□□鹵大王・・・」が雄略天皇であるとされている。これらの鉄剣の銘文から、雄略天皇が関東から九州の熊本地方までを支配していたことが分かる。
・継体天皇は別王朝などの説があるが、『古事記』『日本書紀』に記述されているように継体天皇は応神天皇の五世の孫と考えられる。
・欽明天皇陵は見瀬丸山古墳ではないかとの説がある。しかし、梅山古墳の方と考える。
・仏教伝来は『日本書紀』による552年ではなく、『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』及び『元興寺伽藍縁起(がんごうじがらんえんぎ)』による538年と考える。
562年(欽明23年)に新羅は任那を滅ぼした。