2.03.神武東遷~欠史八代

Rev2 2025.08.06

第1代~9代の天皇:神武(じんむ)・綏靖(すいぜい)・安寧(あんねい)・懿徳(いとく)・孝昭(こうしょう)・孝安(こうあん)・孝霊(こうれい)・孝元(こうげん)・開化(かいか)天皇

■神武東遷
・神武東遷は九州勢力による大和朝廷成立の説明である。

神武天皇の東遷開始 『古事記』の要点
①神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)の命と五瀬(いつせ)の命は高千穂宮(たかちほのみや)居る時。
②どの地を都とすれば安らかに天下をおさめられるのか?東方をめざそうと、東征に出発する。

神武天皇
①大和朝廷の第1代の天皇が神倭伊波礼毘古命である神武天皇。
②南九州を制圧した結果、邇芸速日(にぎはやひ)の命が天下った畿内へと向かった。
③長い年月にわたって邪馬台国後継勢力の日本列島植民地化運動は東へ、東へという方向性をもっていた。

神武天皇(邪馬台国の会HP第382回より)

神武東遷経路: ①美々津
『古事記』の要点 ただちに日向(ひむか)から出発して筑紫(つくし)に向かった

①伝承によると、高千穂の宮を出てから宮崎県児湯(こゆ)郡都農(つの)町川北にある都農神社に寄ったとされている。都農神社は『延喜式』にのっている小社で、祭神は大己貴(おおなむち)神である。
②さらに、神武天皇は美々津(古名は美弥、耳津とも書く)に寄港する。
ここから船出したといわれている。美々津は西方は山、東方は日向灘をのぞみ、耳川が海にそそぐ。この地に立磐(たていわ)神社があり、神武天皇をまつる。この神社に神武天皇が順風を待つ間、少し休憩したという腰掛石があり、「神武天皇進発の碑」が建っている。
③なお、美々津港の入り口にある黒島と八重島のあいだからは、古来船出をしない習慣がある。これは天皇の東征軍がこの間から出て、二度と戻らなかったので、忌むためといれている。

霧島から美々津

『日本書紀』では神武天皇を狭野の尊(さののみこと)とし、狭野神社付近が住まいと思われる。
①その後、宮崎神宮が住居となった。
②神武東征では都濃神社に立ち寄った。
③美々津の港から出港した。

神武東遷経路: ②宇沙(宇佐)
『古事記』の要点
日向の美々津を出港後、北上して豊の国の宇沙(うさ)に着く。宇沙の国造(くにのみやつこ)の祖の宇沙都比古(うさつひこ)と宇沙都比売が宇沙の川上に足一騰(あしひとつあがり)の宮をつくってもてなした。

『日本書紀』では莬狭(うさ)とある。
『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』の国造(くにのみやつこ)本紀によると、神武天皇の時代に高産巣日(たみむすび)の神の孫の宇沙都比古を国造に定めたと記されている。
①宇佐平野には赤塚古墳があり、赤塚古墳からは4世紀後半に5面の三角縁神獣(さんかくえんしんじゅう)鏡が出土した。
②奈良時代の称徳天皇(孝謙天皇)と道鏡(どうきょう)の話で、宇佐神宮は大和朝廷に深い関係があることが分かる。

宇沙(宇佐)

①宇佐神宮と赤塚古墳はすぐ近くである。
②国東(くにさき)半島は奈良から平安時代に六郷満山(ろくごうまんざん)と呼ばれる神仏習合の仏教文化が栄え、その磨崖仏(まがいぶつ)で有名。

神武東遷経路: ③岡田の宮
『古事記』の要点
宇沙の次に、竺紫(つくし)の岡田の宮に行き、1年滞在した。

『日本書紀』 では崗(おか)の水門(岡田の宮)に2ヶ月滞在とある。
①筑紫の岡の水門にいたる。筑前国(ちくぜんのくに)遠賀(おんが)郡芦屋町で遠賀川の河口付近である。ここに岡田の宮をつくる。
②近畿へ行くには宇佐から直接東に向かった方が距離的に早いのだが、やや西よりの岡の水門の地に一時かまえたのは、北九州の邪馬台国の兵を鳩合(きゅうごう)するためか。
③岡の水門は宗像(むなかた)神社に近いところ。

岡田の宮

①岡田の宮(岡の水門)は遠賀川の河口付近
②遠賀川は箱式石棺の多い地域であり、邪馬台国の基盤的地域。
③岡田の宮は宗像(むなかた)神社にも近い。
④兵力を集めるのによい地域と考えられる。

神武東遷経路: ④多邪理(たけり)の宮
『古事記』の要点
岡田の宮の次は、阿岐(あき)の多邪理の宮に7年滞在した。

『日本書紀』 は安芸の埃(え)の宮に2ヶ月滞在とある。
①安芸の可愛(え)の宮にいたとの説がある。ここは昔の安芸の国高田郡可愛村(えのむら)あたりで、吉田、山手の付近北側になる。
②可愛の地名は九州に邇邇芸(ににぎ)の命の日向の可愛之陵(えのみささぎ)としてある。
・また『日本書紀』の一書(第二)に曰くとして、須佐之男の命が安芸の国の可愛(えの)川上に天降ったとしている。

多祁理(たけり)の宮

『日本書紀』の一書で須佐之男の命が天下ったといわれる可愛(えの)川上に比較的近い。
①多祁理(たけり)の宮は広島市付近

神武東遷経路: ⑤ 高島の宮
『古事記』の要点
多邪理(たけり)の宮の次は吉備の高島の宮に8年滞在した。

『日本書紀』 は高島の宮に3年滞在とある。
①その後、安芸の国の可愛の宮から、吉備の国の高島の宮へ移った。神武天皇は安芸とは吉備に入った時は戦争をしていない。
②この地域は九州の親派であったかと考えられる。ここで浪速(なみはや)へ向けての戦の準備をする。
③場所は備前の児島湾の高島が有力で、児島水道、東西両大川の口の間の浅水中にある。この島及び南岸宮浦は神武帝駐師の故跡としている。

高島の宮

①吉備では高島に立ち寄る。

②高島は岡山市付近か、神島付近か?

③国うみ神話で吉備の児島が出て来る。

④明治30年~40年代の埋め立てで、現在は児島半島になった。

神武東征経路: ⑥速吸の門(はやすいのと)
『古事記』の要点
高島の宮の次は、速吸の門[明石海峡]で亀に乗ってきた槁根津日子(さをねつひこ)に案内をさせる。

速吸の門(はやすいのと)とは潮流の速い海峡の意味。

『日本書紀』 は速吸の門は大分県の関崎と愛媛県の佐多岬の間の豊予(ほうよ)海峡を指しているように見え、地理の順番も宇沙の前となる。

神武東遷経路: ⑦浪速(なみはや)
『古事記』の要点
①浪速の渡りを経て、白肩の津に船を停泊させてたとき、登美の那賀須泥毘古(ながすねひこ)が戦いをしかけて来て、五瀬(いつせ)の命が矢を受ける。
②五瀬の命は「日の神の御子として、日に向かって戦ったのがよくなかった。背中に日を負いながら戦おう」といって、南に回りこむ。しかし途中、紀国の男之水門(をのみなと)で死ぬ。

①河内(かわち)国から大和国に入いろうとした神武天皇軍は浪速(なみはや)から白肩(しらかた)の津(楯津)に上陸。ここで、軍勢を整えて待ち受けていた那賀須泥昆古(ながすねひこ)と戦うとある。
②神武天皇の兄の五瀬(いつせ)の命が那賀須泥昆古(ながすねひこ)軍の矢を受けた。その後、五瀬の命は和歌山の男之水門(をのみなと)で亡くなった。陵墓は和歌山の竈山(かまやま)。近くに竈山神社がある。


神武東遷経路: ⑧熊野
『古事記』の要点
①伊波礼毘古の命は迂回して、熊野村に着いたが、霊力で兵士が動けなくなる。そのとき高倉下(たかくらじ)が夢で天照大御神から受けた草薙の剣(くさばぎのつるぎ)を伊波礼毘古(いわれひこ)の命に渡す。伊波礼毘古の命が草薙の剣を抜き、皆元気になる。
②八咫烏(やたがらす)の案内で吉野川の上流から、宇陀(うだ)へ行く。
③宇陀の穿(うかち)で兄宇迦斯(えうかし)弟宇迦斯(おうかし)を平らげようとして、反抗した兄宇迦斯(えうかし)の御殿の落石の罠を退ける。

『先代旧事本紀』の「天孫本紀」では、饒速日(にぎはやひ)の子の尾張連(おわりのむらじ)らの祖である天香語山(あまのかぐやま)命が天降ってからの名を手栗彦(たくりひこ)命、またの名を高倉下(たかくらじ)命としている。

上陸後の神武天皇のルートは
①「吉野河の河尻、阿陀(あだ)」贄持(にえもつ)の子(鵜飼の祖先)と会う。
②「吉野(井氷鹿[ゐひか])」井氷鹿([吉野の首[おびと]の祖先) と会う。
③「国巣(くにす)」国神の石押分(いわおしわく)の子と会う。
④最後に「宇陀の穿(うかち)」で宇迦斯兄弟を平定、反抗した兄宇迦斯を斬り散らした。

熊野

①熊野村(現在の新宮)に上陸した。
②井氷鹿(ゐひか)は水銀採掘坑の形容で、自然水銀が坑壁や底で光ったのではないか。
③ 「兄宇迦斯を斬り散らした。そこを宇陀の血原という」というのは辰砂(しんしゃ)粒が散在した状態があり、それが血の散ったように見えた。
この付近は水銀を産する。

神武天皇の大和平定

『古事記』の要点
①伊波礼毘古の命は忍坂(おさか)の大室(おおむろ)で尾の生えた土雲(つちくも)の八十建(やそたける)を宴会に誘って退治する。
②更に、那賀須泥毘古(ながすねひこ)を討とうした時、邇芸速日(にぎはやひ)の命が来て、天つ神の証拠を見せ、伊波礼毘古の命に使えると恭順を示す。
③邇芸速日の命は登美毘古(とみびこ)の妹の登美夜(とみや)毘売を娶って生んだ子が宇麻志麻遅(うましまぢ)の命としている。
④伊波礼毘古の命は荒ぶる神を服従させ、畝傍(うねび)の白檮原(かしわら)宮で天下を治めた。

『先代旧事本紀』の「天孫本紀」では、饒速日の尊は長髄彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋(みかしきや)姫を娶り、宇摩志麻治(うましまぢ)の命が生まれたとしている。
①宇麻志麻遅が物部氏の祖先である。
②神武天皇は畝傍(うねび)山の橿原(かしはら)神宮で即位した。『日本書紀』の年代では西暦紀元前660年で、皇紀元年となっている。

神武天皇即位年代を推定
・どのような経緯で神武天皇の即位を紀元前660年としたのだろうか? 
①『日本書紀』の編纂者は、中国の史書をみて日本の歴史書にも年代を入れようとした。
②そして、神功皇后を『魏志倭人伝』の卑弥呼であると考えて年代の手がかりにした。その結果、神功皇后の活躍時期を、3世紀中頃の卑弥呼の時代として、年代の記されていない古い伝承の年代を当てはめていった。
③神功皇后から14代前の天皇が神武天皇である。1代を60年として計算し、それに元も近い辛酉の年を即位の年とした。

・辛酉(しんゆう)革命説
①中国の讖緯説(しんいせつ)に基づく思想。干支(かんし)の組み合わせが一巡する60年ごとに変革が起こるという説で甲子(かっし)の年には革令、辛酉の年には革命が起きるとする。
②特に一元(60年)の21倍にあたる1蔀(ほう:1260年)ごとの辛酉の年には国家的大変革があるとされる。

神武東遷経路図

高天原勢力の拡大

①高天原勢力は北九州制圧後、膨張を続ける出雲勢力を国譲りにより抑えつけた。

②その後、南九州を制圧し、九州全体の制圧を完了した。

③西日本の制圧が終わり、神武東遷によって、近畿を制圧し、大和朝廷が成立した。

大和の神武天皇
・神武天皇の大和での皇后と皇子

伊須気余理比売(いすけよりひめ) 『古事記』の要点
①神武天皇は日向(ひむか)にいた時、阿比良比売(あひらひめ)を娶って、多芸志美美(たぎしみみ)命と岐須美(きすみ)命、二柱がいた。しかし大和に来て大后(おおきさき)とする美人(おとめ)求めた時、
②大久米(おおくめ)命が、三島湟咋(みしまのみぞくひ)の女(むすめ)の勢夜陀多良(せやだたら)比売と、美和の大物主神によって生まれた女(むすめ)の富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)[別名:比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)]がいるという。
③7人の少女が高佐士野(たかさじの)で野遊びをしていた。その中に伊須気余理比売もいて先頭に立っていた。大久米命は天皇にどの娘を妻にしたいか歌をもって聞いたら、先頭の娘だと歌で返した。
④大久米命はそのことを伊須気余理比売に伝えると、どうして目じりに入れ墨をして、鋭い目をしているか聞いた。
⑤そこで、大久米命は御嬢さんに直にお会いしたいと思ってこのような目をしていると答えた。
⑥そして、比売はお仕えしましょうと言った。こうして、生まれた御子は、日子八井(ひこやゐ)命、神八井耳(かむやゐ)命、神沼河耳(かむぬなかわみみ)命である。

多芸志美美命の反逆 『古事記』の要点
①神武天皇が亡くなった後、多芸志美美(たぎしみみ)命は伊須気余理(いすけより)比売が生んだ3人の弟を殺そうとした。
②そこで、伊須気余理(いすけより)比売は歌をもって、子供たちに知らせた。
「狭井河(さゐがは)よ 雲立ちわたり 畝傍(うねび)山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす」

「畝傍山 昼は雲とい 夕されば 風吹かむとそ 木の葉さやげる」
③御子がこの歌を聞いて、陰謀を知り、ただちに多芸志美美命を殺そうとして、神沼河耳(かみぬなかわみみ)命が兄の神八井耳(かむやゐ)命に武器を持って多芸志美美命を殺すように勧めた。
④ところが、神八井耳命は手足がふるえて、殺せなかった。そこで神沼河耳命が兄が持っている武器を取って、多芸志美美命を殺した。
⑤このようなことがあって、神八井耳命は皇位を神沼河耳命に譲った。

伊須気余理比売、多芸志美美命の反逆
比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)
『日本書紀』では伊須気余理比売は媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)命といい、事代主(ことしろぬし)神の長女となっている。
①九州での御子には権威がなく、伊須気余理比売を妃にしたのは、大物主系の血筋と結ばれる必要があったからではないか。
②大久米命は久米氏の先祖で、目に刺青をしていることから隼人とも考えられる。大和に住む人にとってこの刺青は珍しかったのであろう。

多芸志美美(たぎしみみ)命の反逆
・神沼河耳(かみぬなかわみみ)命は三人兄弟となっているが、『日本書紀』では二人兄弟となっている。
①神八井耳(かむやゐ)命は意富臣(おほのおみ)、小子部連(ちひさこべのむらじ)、木国(きのくに)国造、山代(やましろ)国造など多くの豪族の始祖となっている。

■欠史八代
・神武天皇から崇神天皇の間の天皇を欠史八代とする根拠と疑問

欠史八代の天皇
・第1代の神武天皇から欠史八代を含め、第10代崇神天皇までの天皇

綏靖天皇~開化天皇が欠史八代と言われている天皇

孝霊天皇
『古事記』の要点
①孝霊天皇は意富夜麻登玖邇阿礼比売(おほやまとくにあれひめ)命を娶って、夜麻登登母々曾毘売(やまとととももそひめ)命や比古伊佐勢理毘古(ひこいさせりひこ)命(亦の名を大吉備津彦命)などをもうける。
②更に蠅伊呂杼(はえいろど)を娶って、若日子建吉備津彦(わかひこたけきびつひこ)命などの御子をもうける。

・夜麻登登母々曾毘売(やまとととももそひめ)命は、『日本書紀』では倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)と書き、箸墓古墳の被葬者である。
①夜麻登登母々曾毘売(やまとととももそひめ)命は大吉備津彦命の姉である。
②大吉備津彦は吉備津神社、若日子建吉備津彦は吉備津彦神社に祀られている。

孝元天皇、開化天皇
『古事記』の要点
①孝元天皇が内色許売(うつしこめ)命を娶っての御子が大毘古(おおびこ)命。また河内青玉(かわちのあおたま)の女(むすめ)、波邇夜須毘売(はにやすひめ)を娶っての御子が建波邇夜須毘古(はにやすひこ)命。
②開化天皇が息長水依比売(おきながのみずよりひめ)を娶っての御子が旦波比古多々須美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)。

・大毘古(おおびこ)命は崇神天皇時代の四道将軍である。建波邇夜須毘古命は『日本書紀』の武埴安彦(たけはにやすひこ)命で、崇神天皇時代に謀反を起こす。
・旦波比古多須知能宇斯王は『日本書紀』の丹波道主(たにはのみちぬし)で、崇神天皇時代の四道将軍である。

欠史八代の天皇系図

『古事記より作成
『古事記より作成

欠史八代とする理由
・事績記事の欠如
第2代綏靖(すいぜい)天皇から第9代開化天皇までの各天皇について、『古事記』『日本書紀』に系図的な記事の記載があるのみで、事績についての記載がない。

・後世的な名前
第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの名前が後世的である。

・父子継承
神武天皇から開化天皇までの9代の天皇は、みな、父子の関係にある。皇室の系譜としてほぼ確かな応神天皇以後では、7世紀に至るまで、皇位の継承は複雑で、父子継承というような単純なものではなかった。これは、皇位継承法が、中国の相続法の影響を受けて変化してきた7世紀に設定したものではなかろうか。

・古い時代の伝承の信憑性
那珂通世(なかみちよ)の年代論によると、神武天皇は西暦紀元前後の人となり、『古事記』『日本書紀』の成立まで700年もの年月が経過している。文字も暦も知らなかった日本人が、そのように昔のことをどのていど記憶していたか疑わしい。 

欠史八代の天皇の都と陵
第1代の神武天皇から欠史八代を含め、第10代崇神天皇までの天皇の都と陵の『古事記』の記述と大和の各郡の地図を下記に示す。

大和の各郡

都の所在地
『古事記』、『日本書紀』、『続日本書紀』、『延喜式』に記されている天皇の都 の所在地を調べ、地域によって分類すると下表のようになる。

・第1代神武天皇~第9代開化天皇までの都は葛城(かつらぎ)郡に多く、磯城(しき)郡は少なく、奈良県以外は存在しない。
・第10代崇神天皇~第43代元明天皇までの都は葛城郡には存在せず、磯城郡に多く、奈良県以外も少なく ない。
もし、第1代~第9代の天皇が、後につくられたものであるなら、都の所在も架空でつくられたとしなければならない。とすれば後の時代の都の所在にならってつくられるはず。しかしそうはなっておらず、初期天皇の都の多くは後代に例を見ない葛城にあったとされる。

陵墓の所在地
『古事記』『日本書紀』『続日本書紀』『延喜式』に記されている古代天皇の陵墓の所在地を調べ、地域によって分類すると下表のようになる。

・第1代神武天皇~第9代開化天皇までの陵墓は高市郡と葛城郡に存在。
・第10代崇神天皇~第43代元明天皇までの陵墓は添(そふ)郡、磯城郡(8例)、 に多くなり、高市郡と葛城郡の数に匹敵するようになる。
そして、大阪府(15例)にかなり多くなる。
これは、後代になるにつれ大和朝廷の主な活動地域が高市郡などから周辺へ広がっていったことを示す。
机上で想定したならば、第1代~第9代天皇陵の地域を古くから広範囲にしても良さそうであるのに、実際はそうなっていない。

陵墓の築かれた地形
天皇の陵墓がどのような地形の場所に築かれたかを調べると下表のようになる。

・第1代神武天皇~第9代開化天皇までの陵墓は、表のように山や岡や坂の一部など、自然の丘陵を利用して築かれたとされている。
例として、畝傍(みねび)山の北の方の白檮(かし)の尾の上、腋上(わきがみ)の博多山の上、玉手の岡の上など
・第10代崇神天皇~第43代元明天皇までの陵墓は次のように平地部に築かれる例が増えてくる。
例として、菅原の御立野(みたちの)、毛受(もず)の耳原(みのはら)、丹比(たじひ)の高鷲(たかわし)の原初期の天皇の陵墓についての記述が後代につくられたものなら、後代と同じように原や野に陵墓 が築かれたとする記述が多くてもよいのだが、事実はそうなっていない。

后妃についての記事
神武天皇から元明天皇までの間に天皇の妃になった女性は58人いる。これを整理すると下表のようになる。

・表を見れば、古い時代は在地豪族の娘との結婚が多く、その後は皇族の娘が多くなる。 10代の崇神天皇以後では皇族の娘との結婚が増えている。
・もし、古代の天皇が、6~7世紀頃に机上で作られたならば、これらの天皇の皇妃も6~7世紀の諸天皇と同様に、皇族の娘が多くなるはずだが、事実はそうなっていない。

これは、古代の天皇が実在し、古代の天皇にかかわる固有の情報が伝承として伝えられたことを示すものであろう。

旧辞的部分の有無と天皇の実在性
帝紀的部分だけがあって、旧辞的部分を全く欠いている天皇の一覧表

・「帝紀的部分だけがあって、旧辞的部分を全く欠いていること」を、古代の諸天皇非実在 説の根拠にしようとすると、論理のすじが、ほとんど通らなくなってしまう。
・『古事記』全体から、「帝紀的部分だけがあって、旧辞的部分を全く欠いている」のは、第二代の綬靖天皇から、第9代の開化天皇までの八代の天皇だけではない。上表の各天皇も帝紀的部分だけがあって、旧辞的部分を全く欠いている。したがって、「旧辞的部分を欠いていること」が、その天皇の、「造作」されたことの基準になると定めたならば、用明、崇峻、推古など、多くの天皇の存在も、また、否定しなければならなくなる。

古代の帝紀は後世の造作ではない
東京大学教授であった坂本太郎氏は論文「古代の帝紀は後世の造作ではない」で次のよう に述べている。
・古代の歴代の天皇の都の所在地は、後世の人が、頭のなかで考えて定めたとしては、不自然である。古伝を伝えたものとみられる。第5代から見える外戚としての豪族が、尾張連(おわりむらじ)、穂積臣(ほずみの おみ)など、天武朝以後特に有力になった氏でもないことは、それらが後世的な作為のよるものではないことを証する。
・ 天皇の姪とか庶母(ままも)(父帝の妃)とかの近親を妃と記して平気なのは、近親との婚姻を不倫とする中国の習俗に無関心であることを示す。

東洋史学者、植村清二氏は、崇神天皇以前の天皇は最初から帝紀に記載されていたもので、それは古い伝承であると次のように述べる。
・初期の系譜的記事のすべてが、机上で制作されたと考えるのは、古人の構想力を高く評価しすぎるものである。
・帝記はもともと系譜的記載だけのものである。『古事記』『日本書紀』の原型は、帝記に、旧辞が加わってできたと考えられるから、旧辞の物語が欠けていたとしても、それは、帝記を疑う理由とはなりえない。

古事記と日本書紀の人名表記比較(補足)