2.05.景行天皇・成務天皇

景行(けいこう)天皇・成務(せいむ)天皇
■謎の四世紀
・中国の文献に出てこない四世紀は空白の四世紀とも言われる。
・『古事記』、『日本書紀』にはこの四世紀のことが書かれている。

4世紀に当てはまる天皇
安本美典氏による比定から4世紀付近の天皇をあてはめる。
・第2代天皇~第9代天皇(西暦298~342年)
綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)、孝昭(こうしょう)、孝安(こうあん)、孝霊(こうれい)、孝元(こうげん)、開化(かいか)
・第10代以降の天皇
(第10代)崇神(すじん)天皇(342~357年)
(第11代)垂仁(すいにん)天皇(357~370年)
(第12代)景行(けいこう)天皇(370~386年)
(第13代)成務(せいむ)天皇(386~390年)
(第14代)仲哀(ちゅうあい)天皇(390~410年)・神功皇后(じんぐうこうごう)
(第15代)応神(おうじん)天皇(410~425年)
注:太文字が4世紀の天皇


『古事記』における諸天皇の記事の量

①応神天皇(3806字)
景行天皇(3479字)[4世紀]
③神武天皇(3074字)
④仁徳天皇(2707字)
垂仁天皇(2482字) [4世紀]
⑥雄略天皇(2368字)
仲哀天皇(1630字) [4世紀]
崇神天皇(1448字) [4世紀]

・記事が多いということは事跡の多かった天皇であると考えられる。
・そして、4世紀の景行、垂仁、仲哀、崇神天皇が入っており、半分となっている。

『古事記』から各天皇名が出ている字数 拡大可

■景行天皇と倭建命 (やまとたけるのみこと)
・倭建命伝承
・三角縁神獣鏡について

景行・成務天皇などの系図 

景行天皇について
・景行天皇は『日本書紀』では西暦71年~131年となっているが、西暦370~386年頃と思われる。
・和風諡号(しごう)は『古事記』では大帯日子淤斯呂和気天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)であり、『日本書紀』では大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)である。
・纒向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)(『日本書紀』も同じ)にいたとある。 『日本書紀』によると、晩年は近江国(おうみのくに)志賀の地の高穴穂宮(たかあなほのみや)に移りそこで亡くなったとしている。亡くなった年は137歳としている。
・ 陵墓について、『古事記』では「御陵(みはか)は山辺道上(やまのへのみちのえ)にあり」と記述し、『日本書紀』の成務天皇紀で、同じように「景行天皇を倭国(やまとのくに)の山辺道上陵(やまのへのみちのえのみささぎ)に葬った」とある。
・景行天皇陵[渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん) ]は全長310メートル、後円部直径168メートルである。前方部幅170メートルの前方後円墳である。

倭建命(やまとたけるのみこと)について

・倭建命は景行天皇と針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)の子で小碓命(おうすのみこと)、またの名を倭男具那命(やまとおぐなのみこと)、倭根子命(やまとねこのみこと)といった。兄に櫛角別王(くしつぬわけのみこ)、大碓命(おおすのみこと)がいる。
・熊曾建(くまそたける)を討ち取って、タケルの名を付けて、倭建命(やまとたけるのみこと)となった。『日本書紀』の漢字は日本武尊である。
・熊襲(くまそ)、出雲など西の国々、相模、武蔵、上総、下総、甲斐、信濃など東の国々を征討し、能褒野(のぼの)で亡くなった。
・倭建命陵は能褒野墓(のぼののはか)と白鳥陵(しらとりのみささぎ)[奈良県御所市(ごせし)富田と大阪府羽曳野市(はびきのし)軽里の2か所の比定]がある。

ヤマトタケル像:歌川国芳画 Wikipedia

大碓命(おおうすのみこと) 『古事記』の要点
①景行天皇は美濃国の祖(おや)の大根王(おおねのみこ)の女(むすめ)の兄比売(えひめ)、弟比売(おとひめ)の容姿が整って美しいと聞いて、大碓命(おおうすのみこと)を遣(つか)わして、召しあげようとした。
②しかし、大碓命は自分のものとして、他の女性を兄比売、弟比売として、天皇へ献(たてまつ)った。
③天皇はそれを知って、その女性を相手とせず、悩んでいた。

大碓命(おおうすのみこと)
『日本書紀』では、大碓命と小碓命(おうすのみこと)は双生児として生まれたとし、天皇がこれをいぶかって、碓(臼)に向かって叫び声をあげたので、大碓・小碓といったとされる。
②『古事記』の景行天皇のはじめに出てくる逸話は小碓命[倭建命(やまとたけるのみこと)]の話ではなく、兄の大碓命の話である。
③しかも、大碓命は天皇の妃となる女性を自分のものにして、他の女性を差し出したとしている。天皇はそれを気にしていた。

熊曾征討(くまそせいとう) 『古事記』の要点
①天皇が小碓命(おうすのみこと)に、兄の大碓命(おおうすのみこと)は朝夕の食前に何故出てこない、やさしく教えさとすように、といった。その後、五日たっても大碓命は現れなかった。
②そこで、天皇は小碓命に、どのように教えさとしたのか、と聞いた。すると、小碓命は、夜明けに、兄が厠(かわや)に入った時に待ち受けて、捕え、つかみ打って、その手足をもぎ取り、薦(こも)に包んで投げ捨てた。と答えた。
③そこで、天皇は小碓命の猛々(たけだけし)く、荒々しいのを恐れて、西の方に熊曾建(くまそたける)二人あり。これらは朝廷に服従しないものどもである。打ち平らげよ、として遣わした。
④小碓命は髪を額のところで結っている少年であり、叔母の倭姫から、御衣と、御裳(も)を頂き、懐に剣を入れて出かけた。
⑤熊曾建が新室(にいむろ)の完成祝いの時期に合わせて、女性の姿に変装して女性達に紛れ室に入った。そして、祝宴の最高潮の時、熊曾建を刺殺した。
⑥逃げる弟の熊曾建を追い殺そうとする時、弟は小碓命に名を名乗るように言う。そこで、纒向(まきむく)の天皇の御子と答えたところ、西の方で我等より強い者はいない。東の方にこのように強い者がいたとは・・・、これからは倭建御子(やまとたけるのみこ)と称(たたえ)えましょうと言った。

熊曾征討
①景行天皇が小碓命(おうすのみこと)に大碓命(おおうすのみこと)をさとすように言ったことから、小碓命が兄の大碓命を簡単に殺すことが書かれている。それに対す天皇の反応は小碓命に対し、単に恐れを感じただけで、厳しく叱責していない。これは大碓命の悪行に対する天皇の報復が含まれているように思われる。
②倭建命(やまとたけるのみこと) について、 『日本書紀』 では幼い時から雄々しい性格であった。壮年になると、容貌はあふれるばかりの逞(たくま)しさで、身丈は一丈(じょう)とある。
景行天皇が、九州を巡幸した話や、熊曾(くまそ)を征討(せいとう)した話は『日本書紀』にみえるが、『古事記』に記載されていない。 『古事記』では、倭建命の熊曾抹殺の記事が中心となっている。  
④熊曾(くまそ)[熊襲(くまそ)]は南九州一円を指す古称とする説があり、たびたび叛乱を起こした南方系種族を指すとの説があり、狗奴国の末裔を指すとの説もある。

出雲建討伐(いずもたけるとうばつ) 『古事記』の要点
①倭建命(やまとたけるのみこと)は出雲国にはいり、出雲建(いずもたける)を殺そうと思い、到着するとすぐに、出雲建と親しい友情を交わした。
そして、ひそかに赤檮(いちい)の木で、偽の太刀を作り、それを携えて、出雲建と共に、肥河(ひのかわ)で沐浴(もくよく)をした。
②倭建命は先に川から出て、出雲建が置いてあった刀を取って佩(は)き[身に着ける]、太刀を取り換えようと言った。
後から、出雲建は川から上がって、倭建命の太刀を佩(は) いた。
③更に、倭建命は、さあ太刀合わせをしようと挑戦した。
そこで、おのおのが太刀を抜くとき、出雲建は太刀を抜くことができなかった。刀を抜いた倭建命は出雲建を切り殺した。
④ そして、「やつめさす 出雲建が佩(は)ける刀(たち) 黒葛(つづら)さは巻き さ見無(みな)しにあはれ」 とうたった。
⑤このように、賊を追いはらい平定して、都に上り復命(かえりごとまを)した。

出雲建討伐(いずもたけるとうばつ)
この話は『日本書紀』の景行紀には記載されていない。同じような話は『日本書紀』の崇神紀の「出雲の神宝で出雲振根(ふるね)」のところで出てくる。
出雲振根(ふるね)の弟の飯入根(いいいりね)が兄の留守の時に、崇神天皇の勅命により出雲大社にある神宝を、無断で朝廷に献上した。
このことを怒った振根が、弟を殺そうと謀って、止屋(やむや)の淵(ふち)に誘い出し、兄はひそかに木刀を佩(は)いて行き、川浴みをしている間の、弟の真剣とすり換えて弟を打ち殺した。という話である。
そして時の人の歌として、 「八雲立つ出雲建が佩(は)ける刀(たち) 黒葛(つづら)さは巻き さ見無(みな)しにあはれ」と歌ったとある。
⑤このように木刀と真剣をすり換えて相手を殺す話は、もともと出雲地方に伝えられた説話にあったのではないか。
⑥それが、 『古事記』ではヤマトタケルの話となり、『日本書紀』では出雲の神宝の話になったのではないか。

東国征討(せいとう)・焼津 『古事記』の要点
①天皇は東方の十二ヵ国の荒ぶる神、服従しない人々を平定せよと命じて、吉備臣(きびのおみ)等の祖(おや)御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)を副(そ)えて遣わせた。
②倭建命(やまとたけるのみこと)は東国へ下って行く時、伊勢の大神宮によって叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)に天皇は私が死んでもよいと思っているのでしょうか、西の方に遣わしてまだ幾らもたっていないのに、兵士も無しに、今度は東方の十二ヵ国の平定に遣わすとは。と言った。
③倭姫命は草薙剣(くさなぎのつるぎ)と袋を渡して、もしも火急の時はこれを使いなさい、と言った。
④尾張(おわり)国に到着して、国造(くにのみやつこ)の祖の家で美夜受比売(みやずひめ)と結婚の約束をして、更に平定を続けた。
⑤相武(さがみ)国に来たとき、その国造(くにのみやつこ)がこの野の中に大沼があり、この沼にいる神はひどく強暴な神だと言った。倭建命が野に入ったところで、その国造が野原に火をつけた。
⑥そこで、倭建命は倭姫命から受けた袋を開けると火打石が出てきたので、刀で草を刈り払い、火打石で向かい火をつけて、燃え迫った火を退け、その野を無事に出て、偽りを言った国造たちを皆殺しにし、焼いた。

東国征討・焼津
①西の方を征討した後、すぐに軍勢もなしに東の方の征討を命じられて、倭建命(やまとたけるのみこと)は泣きごとを言っている。しかし『日本書紀』では日本武尊(倭建命)が自分の代わりに大碓皇子(大碓命)に行くように勧めたので、大碓皇子が草むらに隠れたとしている。
②東国征討で尾張(おわり)国の美夜受比売(みやずひめ)との関係を含ませている。しかし『日本書紀』では東国征討の初めの項で、美夜受比売の記述がない。
③ 『古事記』では倭姫命が草薙剣(くさなぎのつるぎ)と火打石の入った袋を渡したことになっているが、 『日本書紀』では火打石の入った袋の話はない。記述から、倭建命(やまとたけるのみこと)は自ら火打石を取り出したとしている。
④倭建命は危機から脱出して、偽りを言った国造(くにのみやつこ)等を焼き殺したという。そのことからこの地が焼津というようになったとされている。

東国征討・弟橘比売命 『古事記』の要点
①倭建命(やまとたけるのみこと)は相模国から東方に入って、走水(はしりみづ)の海を渡った時に、その渡(わたり)の神が波を立てて船を回したので、進むことができなかった。
②そこで、后(きさき)の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が「私が御子に代わって海中に入りましょう。御子は東征に遣わされたまつりごとをとげ、天皇にご報告してください」と言った。
③后(きさき)が海に入ろうとする時に、菅畳八重(すがたたみやえ)・皮畳八重(かはたたみやえ)・絁畳八重(きぬたたみやえ)を波の上に敷いて、その上に坐(すわ)って海に入った。その結果、その暴浪(あらなみ)が自然に静まって、船は進み海を渡った。
④七日(なぬか)の後(のち)に、その后の御櫛(みくし)は海辺に流れついた。その櫛を拾って、御陵(みはか)を作り、その中に収め置いた。
⑤上総国から[東方へ]入って行き、蝦夷等(えみしども)を服従させ、また荒ぶる神たちをしずめて帰る時に、足柄(あしがら)の坂の麓で、「わが妻はああ」と言った。それで、その国をなづけて、阿豆麻(あづま)[吾妻]という。
⑥そして、その国を越えて甲斐(かい)に行った。

橘樹神社(たちばなじんじゃ)

①神奈川県川崎市高津区子母口(しぼくち)[旧武蔵国橘樹郡]にある橘樹神社は弟橘比売命(弟橘媛)を祀っている。明治以降の社格は村社で、由緒は古くから子母口村の鎮守で、倭建命と弟橘比売命を祀り、かつては立花社ともいわれた。
②社伝によると「弟橘比売命がその身を投じて海を鎮めた後、比売の御衣・御冠の具だけがこの地に漂着した。」とある。また『古事記』でも「七日後に、御櫛が海辺によって来たので、その櫛を取って御陵を作って治めた」と伝えられている。
③この社伝と『古事記』の記述とが結びつき、近くの子母口富士見台の高台にある「富士見台古墳」は、一説には弟橘比売命の「御陵」であるとも伝えられているが、史料がなく具体的なことは分かっていない。
④この「富士見台古墳」は橘樹神社の裏手の丘にあり、弟橘比売命陵であるとする説がある一方、6世紀頃に造られたもので、当時のこの地域の有力者の墓であるとする説もある。

橘樹神社(HPより)

吉備氏の系図

・ 『古事記』では倭建命(やまとたけるのみこと)が吉備臣(きびのおみ)等の祖の御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)を従えて東征したとある。
・ 『古事記』に孝霊天皇の御子に大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)[大吉備津彦命]がいた。その異母弟の若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)[稚武彦命(わかたけひこのみこと)][吉備の下の道の臣の始祖]が吉備にいた。
『日本書紀』に日本武尊が稚武彦命の子である吉備の武彦命(たけひこのみこと)をつき従えて各地を攻めたとある。
・このことから、御鉏友耳建日子が吉備の武彦命であると推定される。

『日本書紀』の吉備氏の系図
(邪馬台国の会HP第342回より)拡大可

倭建命の東征経路

倭建命(やまとたけるのみこと)は焼津→走水(はしりみず)→筑波山→酒折(さかおり)→伊吹山→能煩野(能褒野)(のぼの)の順に東征した。

吉備の武彦命が越国(こしのくに)へ派遣された話は、『日本書紀』に記されているが、『古事記』にはない。
・倭建命(やまとたけるのみこと)は尾張(おわり)の美夜受比売(みやずひめ)のもとに行ってから、東国へ行き、また尾張の美夜受比売のところに戻っている。
・記紀では書かれていないが、倭建命は常陸国(ひたちのくに)まで、行ったとの伝承がある。

倭建命および吉備の武彦命の東征経路
(邪馬台国の会HP第331回より作成)

青銅鏡
・鏡銅鏡は中国の王朝名から、前漢鏡、後漢鏡、西晋(せいしん)鏡などとして分けている。日本で弥生時代の中期頃に、副葬品として甕棺墓(かめかんぼ)から出土するのが前漢鏡である。
・中国での鏡の出土は、洛陽焼溝漢墓(らくようしょうこうかんぼ)から多く出ており、その鏡は前漢、新(王莽)、後漢時代のものである。
その後は洛陽晋墓(らくようしんぼ)から西晋鏡などが出土する。
・中国などからの舶来鏡とは別に国産鏡があり、弥生時代からあった。福岡県平原遺跡の大型の内行花文鏡が有名である。
・古墳時代になってから多く出土するのが「三角縁神獣鏡」 などの神獣鏡で、この時代のものは国産鏡が多いと言われている。
・鏡の種類は多いが代表的な例をあげれば下記となる。
  前漢鏡:「照明鏡」「日光鏡」「清白鏡」
  後漢鏡:「内行花文(ないこうかもん)鏡」「方格規矩(ほうかくきく)鏡」
  西晋鏡:「蝙蝠鈕座内行花文(こうもりちゅうざないこうかもん)鏡」「位至三公(いしさんこう)鏡」
  神獣鏡:「画文帯神獣(がもんたいしんじゅう)鏡」「三角縁神獣(さんかくえんしんじゅう)鏡」

青銅鏡の例(邪馬台国の会HPより)

照明鏡
内行花文鏡
方格規矩鏡
蝙蝠鈕座内行花文鏡
至位三公鏡
画文帯神獣鏡

三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)

三角縁神獣鏡で各部の説明をする
・中央の突起が鈕(ちゅう)で、その周りが鈕座となる。
鈕に紐を通す穴がある。
・縁の部分の断面が、突出して三角形をなしていることから「三角縁」と呼ばれ、
神像と霊獣が描かれていることから「神獣鏡」と呼ばれる。
・文様は内区と外区に分かれ、外区に鋸歯(きょし)文帯、複波文帯、櫛歯(くしは)文帯がある。
・日本で、既に500面以上も存在しており、景初三年、正治元年の紀年銘鏡がある。

三角縁神獣鏡とその断面

畿内説では三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡とする説があるが・・・
・中国では1面も出土していない
 後漢時代では中原と北方領域では画像鏡と神獣鏡はまったく流行していない。まれに環状乳神獣鏡   (かんじょうにゅうしんじゅうきょう)が出土するがこれは、南方の揚子江流域からもたらされたと考えられる。
 鏡全体から見て、中国から出土する北方(魏鏡)であれ、南方(呉鏡)であれ三角縁神獣鏡とは異なっている。鏡の直径も平均22センチほどで、中国でみいだされる後漢・三国時代の鏡よりも、はるかに大きい。
・古墳築造時に製作された?
 古墳時代からの出土が多い。また同じ古墳から出土した同じデザインの鏡は面径が一致する。
つまり葬儀にあたり同時に鋳造されたのではないかと推定される。
また、鏡作りを職業にする氏族が関係しており、鏡作り師がいたと思われる。
・三角縁神獣鏡は韻(いん)を踏んでいない
 後漢に流行した方格規矩鏡の代表的銘文では各句末に韻を踏んでいる。
方格規矩鏡の後とされている三角縁神獣鏡はまったく韻を踏んでいない。
魏の時代は曹操(そうそう)父子をして詩壇が形成された時代であり、韻を踏まない銘文をつくるはずがない。また踏み返し鏡では文字を拾って集めた鏡もある。

三角縁神獣鏡と倭建命(やまとたけるのみこと)
・三角縁神獣鏡は長野、静岡より更に東の山梨、神奈川、群馬、千葉、茨城、福島へと広がっている。この地域が倭建命が進出した地域と重なる。
・三角縁神獣鏡は北限が福島までのびており、岡山県発掘の同型鏡が関東に達している。これは、倭建命の従者が吉備の人たちで、同型鏡を関東へもたらしたのではないか。
・考古学者の小林行雄氏(京大教授だった)によれば、岡山県の備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同笵鏡(どうはんきょう)[コピーした鏡]が群馬県の北山茶臼山古墳、三本木古墳、山梨県の銚子塚古墳、神奈川県の真土(しんど)大塚山古墳などから出てくる。
『日本書紀』景行天皇40年の条の中で「倭建命は上総から移って陸奥国(みちのくのくに)に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦に回った。玉浦を横切って蝦夷の支配地に入った。」とある。
・この大きな鏡は三角縁神獣鏡ではないか?
・倭建命の東征の北限と三角縁神獣鏡の北限がほぼ一致する。

三角縁神獣鏡の北限

三角縁神獣鏡の北限は日本武の尊の東征経路に合う(邪馬台国の会HP第331回より)拡大可

美夜受比売(みやずひめ) 『古事記』の要点
①倭建命(やまとたけるのみこと)は甲斐国(かいのくに)から科野国(しなののくに)[信濃国]の坂の神を帰順させ、尾張国(おわりのくに)に帰ってきて、再会を約束していた美夜受比売(みやずひめ)の家に入った。
②そして、美夜受比売の襴(すそ)に月経(つきのさわり)が付く話があり、倭建命と美夜受比売は歌のやりとりをする。その後、比売と結ばれた。
③倭建命は持っていた草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を美夜受比売のところにあずけて、伊服岐の山(いぶきのやま)[伊吹山]の神を討ち取るために出かけた。

美夜受比売(みやずひめ)
①倭建命は東国征討(せいとう)の時に、結婚を約束した美夜受比売(みやずひめ)のもとに行って、比売と結ばれた。
②草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を美夜受比売のもとに置いていったのは、美夜受比売が尾張国の熱田神宮と関係していたのではないか。その後、草那芸剣は熱田神宮のご神体となる。

倭建命の死 『古事記』の要点
①倭建命(やまとたけるのみこと)は「この山の神はじかに討ち取ろう」と言って、その山に上った時、山のほとりで白い猪(いのしし)に出会った。その大きさは牛のようであった。
②倭建命は言挙(ことあげ)して、「この白い猪の姿をしているのは、山の神の使いであろう。今殺さなくても、帰る時に殺してやろう」と言った。そして山に登ると、山の神は激しい雹(ひょう)を降らせて、倭建命を打ち惑わせた。
③そして、山から帰って来て、玉倉部の清水に着いて休んでいるとき、徐々に正気を取り戻した。
④当芸野(たぎの)のあたりに来た時、「気持ちは空を飛びかけて行く思いだが、歩けなくなり、道がはかどらない。」といった。そして、少し行くとひどく疲れて、杖でそろそろと歩いた。更に少し行くと杖をついて歩いた。
⑤尾津崎(おつのさき)の一本松のもとに来ると、歌をうたった。そこから三重村へ行った時、「私の足は三重(みえ)の勾餅(まがりもち)のようになって、ひどく疲れた」と言った。
⑥能煩野(のぼの)に着いたとき、故郷の大和国をしのんだ歌をうたった。
⑦歌い終わってすぐに亡くなった。そこで、早馬の使者がたてられ、朝廷に知らされた。

倭建命の死

①倭建命(やまとたけるのみこと)は帰り路は尾張(熱田神宮)→近江伊吹山→伊勢[能煩野(のぼの)]となる。
②倭建命は牛のように大きな白猪が伊吹山の神の使いだと思ったが、実際は神の化身であったため、この白猪に言挙(ことあげ)したことにより、神の祟りにあった。
『日本書紀』では伊吹山の神の化身は白猪ではなく、白大蛇(おろち)である。
④神の祟りで、倭建命は急に病(やまい)となり、どんどん悪くなって行った。
⑤ 能煩野(のぼの)に着いて、国を思って歌をうたう。
倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣(あおかき) 山隠(やまこも)れる 倭(やまと)しうるはし ・・・・
そして、歌い終わって、亡くなったという。

倭建命の尾張から能褒野ルート

白智鳥(しろちどり) 『古事記』の要点
①倭建命(やまとたけるのみこと)が亡くなったことを聞き、大和にいる后(きさき)たちや御子たちは、みなこの地へ来て、御陵を造り、泣き悲しんで歌をうたった。
②すると倭建命の魂は、大きな白い千鳥となって、空に飛び立って、海に向かって去っていった。
③そこで、后や御子たちは、泣きながら追って行った。また浜の海水に入っても追って行った。
④そして、白鳥は伊勢国から飛び翔(かけ)て、河内国(かわちのくに)の志幾(しき)にとどまった。そこでこの地に御陵を造り、御魂(みたま)を鎮座させた。その陵を名づけて白鳥御陵(しらとりのみはか)という。
⑤しかし白鳥は、そこからさらに空高く飛び立って去っていった。

白智鳥(しろちどり)
『日本書紀』は『古事記』と同じように、日本武尊(倭建命)が白鳥になったことや、陵から飛び去り河内まで行ったことや、白鳥陵を作ったことが記載されている。
しかし、后(きさき)や御子が白鳥を追ったことや、歌をうたったことは記載されていない。

倭建命の子孫 『古事記』の要点
①倭建命(やまとたけるのみこと)が、垂仁天皇の女(むすめ)の布多遅能伊理毘売命(ふたぢのいりびめのみこと)を娶って生んだ御子は帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)[仲哀(ちゅあい)天皇]である。
②海に入った弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)を娶って生んだ御子は若建王(わかたけるのみこ)である。
③布多遅比売(ふたぢひめ)を娶って生んだ御子は稲依別王(いなよりわけのみこ)であり、大吉備建比売(おおきびたけひめ)を娶って生んだ御子は建貝児王(たけかいこのみこ)であり、玖々麻毛理比売(くくまもりひめ)を娶って生んだ御子は足鏡別王(あしかがみわけのみこ)である。・・・・
④倭建命の御子はすべてで六人である。 ・・・・
⑤若建王が飯野真黒比売(いいのまぐろひめ)を娶って生んだ子が須売伊呂大中日子王(すめいろおおなかつひこのみこ)である。この王(みこ)が柴野比売(しばのひめ)を娶って生んだ子が迦具漏比売命(かぐろひめのみこと)である。
⑥大帯日子(おおたらしひこ)天皇[景行天皇]が迦具漏比売命を娶って生んだ御子が大江王(おおえのみこ)である。

倭建命の子孫
①倭建命(やまとたけるのみこと)は天皇ではないが、その妃と六柱の御子について、天皇の記載と同様な扱いで書いている。
②そして、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)[仲哀(ちゅあい)天皇]や、各御子が誰の祖先であるか書いている。
③この中で、記載に矛盾するものがある。それは「大帯日子天皇(おおたらしひこのすめらみこと)[景行天皇]が迦具漏比売命(かぐろひめのみこと)を娶って生んだ子が大江王(おおえのみこ)」とあることである。
④この迦具漏比売命は若建王(わかたけるのみこ)の孫にあたる。若建王は倭建命の子だから、景行天皇は倭建命の曾孫を娶ったことになり、年齢的にありえない。
⑤この迦具漏比売命については、まったく別人の伝承があり、その別人が曾孫と同じ名前だったので、このような記述になったのではないかと推定される。


■成務(せいむ)天皇
・成務天皇は第13代の天皇で、第12代の景行天皇と第14代の仲哀天皇に挟まれ影が薄い天皇だが、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)を一番多く定めた

成務天皇 『古事記』の要点
①若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)は近淡海(ちかつあわうみ)の志賀(しが)の高穴穂宮(たかあなほのみや)で天下をおさめた。
②穂積臣(ほづみのおみ)等の祖(おや)建忍山垂根(たけおしやまたりね)の女(むすめ)の弟財郎女(おとたからのいらつめ)を娶って生まれた子、和訶奴気王(わかぬけのみこ)。
③和訶奴気王(わかぬけのみこ)は建内宿禰(たけうちのすくね)を大臣(おおおみ)として、大小の国の国造(くにのみやつこ)を定めた。
④また、国々の堺、また大県(おおあがた)、小県(こあがた)を定めた。
⑤御年、九十五歳で崩御した。御陵(みはか)は沙紀多他那美(さきのたたなみ)にあり。

成務天皇について
・成務天皇は『日本書紀』では西暦131年~192年となっているが、西暦386~390年頃と思われる。
・和風諡号(しごう)は『古事記』では若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)であり、『日本書紀』では稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)である。
・ 『古事記』は近淡海(ちかつあわうみ)の志賀(しが)の高穴穂宮(たかあなほのみや) にいたとある。『日本書紀』の成務天皇紀では宮の記述はないが、景行天皇紀の晩年に景行天皇が高穴穂宮に移ったことが記されている。
・ 陵墓について、『古事記』では「御陵(みはか)は沙紀多他那美(さきのたたなみ)の中にあり」と記述し、『日本書紀』の仲哀天皇紀では「成務天皇を狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬った」とある。
・成務天皇陵[狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ) ]は全長218メートル、後円部直径132メートルである。前方部幅111メートルの前方後円墳である。
・記紀の成務天皇の事績についての記載はほんのわずかである。

『先代旧事本紀(せんだいくじほんき) 』の国名

『先代旧事本紀』の成立は807~833年の間であると考えられ、尾張氏や物部(もののべ)氏の系譜を詳細に記しており、物部氏関係の事績が多くみられる。
・713年に元明天皇が『風土記』に対し、郡郷の名には好ましい漢字二文字で記すように述べているが、『先代旧事本紀』は、国名が1文字、3文字のものが多い。
江戸時代の国学者の伊勢貞丈(いせさだたけ)等によって偽書とされたが、『先代旧事本紀』の表記は『日本書紀』より古いので、書いてあることは間違っていないのではないか。

邪馬台国の会講演資料第218回より 拡大可

成務天皇と国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)

・成務天皇は景行天皇と仲哀天皇に挟まれて影が薄い天皇で、『古事記』の記事の量も欠史八代なみに少ない。
・しかしこの時代の天皇の中で、成務天皇が国造(くにのみやつこ) 、県主(あがたのぬし)を一番多く定めた。
・記紀には大国、小国の国造、大県、小県の県主を定めたとあり、『先代旧事本紀』の「国造本紀」に何天皇の時代に国造(くにのみやつこ)を定めたかが記載されている。
・これは景行天皇の時代に倭建命(やまとたけるのみこと)が平定した地域を、次の成務天皇の時代に国造、県主として、大和朝廷に組み入れた結果ではないだろうか。

『先代旧事本紀』「国造本紀」天皇別頻度数(邪馬台国の会講演資料第300回より)拡大可

成務天皇が定めた国造(くにのみやつこ)

成務天皇の時代に定められた『先代旧事本紀 』の「国造本紀」に記載された63の国造)

行政区の古い表記(邪馬台国の会講演資料より作成)

『古事記』と『日本書紀』の記述の違い

古事記と日本書紀の漢字表記比較上段が『古事記』下段が『日本書紀』