応神(おうじん)・仁徳(にんとく)・履中(りちゅう)・反正(はんぜい)・允恭(いんぎょう)天皇の系図

■応神天皇
・出自が謎
・八幡神社の主祭神となっている
応神天皇について
・応神天皇は『日本書紀』では西暦200年~310年となっており、 『古事記』の没年干支は394年になっているが、西暦410~425年頃の在位と思われる。
・和風諡号(しごう)は『古事記』では品陀和気命(ほむだわけのみこと)であり、『日本書紀』では誉田天皇(ほむたのすめらみこと)である。
・ 『古事記』では軽島の明宮(かるしまのあきらのみや)にいたとあり、亡くなった年は130歳としている。『日本書紀』は明宮(あきらのみや)で110歳で亡くなったとし、 『日本書紀』の一説では大隅宮で亡くなったともある。
・ 陵墓について、『古事記』では「御陵(みはか)は川内の恵賀(えが)の裳伏崗(もふしのおか)にあり」と記述している。『日本書紀』では陵墓の記述がない。
・応神天皇陵は惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ) [誉田御廟山古墳(ほんだごびょうやまこふん)]で、全長420メートル、後円部直径250メートル、前方部幅300メートルの前方後円墳である。
・応神天皇陵の所在地は大阪府羽曳野市(はびきのし)誉田である。
后妃と御子 『古事記』の要点
①品陀和気命(ほむだわけのみこと)は軽島明宮(かるしまのあきらのみや)で天下をおさめた。
②品陀真若王(ほむだのまわかのみこ)の三人の女(むすめ)の長女の高木之入日売命(たかきのいりひめ)を娶って生まれた子が、額田大中日子(ぬかたのおおなかつひこのみこと)、大山守命(おおやまもりのみこと)等である。
③三人の次の中日売命(なかつひめ)の子が、木之荒田郎女(きのあらたのいらつめ)、大雀命(おおさざきのみこと)、根鳥命(ねとりのみこと)である。
④三人の三人目の弟日売命(おとひめのみこと)の子が、阿部郎女(あべのいらつめ)、阿貝知能三腹郎女(あわじのみはらのいらつめ)等である。
⑤丸邇(わに)の比布礼能意富美(ひふれのおほみ)の女(むすめ)の宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)を娶って生まれた子が、宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)、八田若郎女(やたのわきいらつめ)、女鳥王(めどりのみこ)である。
大山守命と大雀命への問い 『古事記』の要点
①応神天皇は大山守命(おおやまもりのみこと)と大雀命(おおさざきのみこと)とに、「年上の子と年下の子とどちらがかわいいか」と尋ねた。
②天皇がこのような質問をしたのは、宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)に天下を治めさせたいとの気持ちがあったからである。
③それに気が付かず、大山守命は、 「年上の子のほうがかわいく思われます」と答えた。
④次に、大雀命は、天皇が尋ねた心中を察して、「年上の子はすでに成人していますので、こちらは気にかかることはありませんが、年下の子はまだ成人していないので、こちらのほうがかわいく思われます。」と答えた。
⑤すると天皇は、「大雀よ、お前の言ったことは私の思っているとおりだ。」と言って。三人の皇子の任務を分けて、「大山守命は山と海の部(べ)を管理しなさい。大雀命は、私の統治する国の政治を執行して報告しなさい。宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)は皇位を継承しなさい。」と言った。
⑥そこで、大雀命は天皇の仰せに背くことはなかった。
矢河枝比売(やかはえひめ) 『古事記』の要点
①あるとき、天皇が近江国へ山越えをして、出かけたとき、宇治野(うぢの)のあたりに立って、葛野(かづの)をはるか遠くながめて、歌をうたった。
②そして、気幡(こはた)村に来たとき、端麗な少女(おとめ)が天皇に会った。そこで、天皇はおまえは誰の子だと尋ねた。
③少女(おとめ)は「丸邇(わに)の比布礼能意富美(ひふれのおほみ)の娘で、名は宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)です。」と言った。
④すると天皇は「明日、都に帰るときに、おまえの家にたちよろうと思う」と言った。
⑤そこで、矢河枝比売はこのことを父に話した。父は「そのお方は天皇でいらっしゃる。おそれ多いことだ。お仕え申しあげなさい」と云って、その家を整え飾って、待った。
⑥天皇がおいでになって、食事をなさり、歌をうたった。そして、結ばれて生まれた御子が、宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)である。
髪長比売(かみながひめ) 『古事記』の要点
①天皇は、日向国(ひむかのくに)の諸県君(もろかたのきみ)の女(むすめ)の髪長比売(かみながひめ)が容姿端麗であることを聞いた。
②そこで、天皇が側に仕えさせるため、呼び寄せた時、難波津に着いたのを、大雀命(おおさざきのみこと)が見て、髪長比売(かみながひめ)の容姿が整って美しいのに感動して、建内宿禰大臣(たけうちのすくねのおほおみ)に「髪長比売を私に下さるように、天皇にお願いしてもらえないか」と、頼んだ。
③建内宿禰が天皇に許しを願うと、天皇はただちに髪長比売を御子に与えた。
④与えた状況は、天皇が豊明(とよあかり)[新嘗祭(にいなめさい)]の酒宴を催された日だったので、髪長比売にお酒を受ける柏(かしわ)を持たせて、それを皇太子に与えたのである。そして「赤くつややかな少女を、自分のつまにしたらよかろう」と歌をうたった。
⑤皇太子は髪長比売を賜って、返歌をうたった。
髪長比売(かみながひめ) 『古事記』の要点
①天皇は、日向国(ひむかのくに)の諸県君(もろかたのきみ)の女(むすめ)の髪長比売(かみながひめ)が容姿端麗であることを聞いた。
②そこで、天皇が側に仕えさせるため、呼び寄せた時、難波津に着いたのを、大雀命(おおさざきのみこと)が見て、髪長比売(かみながひめ)の容姿が整って美しいのに感動して、建内宿禰大臣(たけうちのすくねのおほおみ)に「髪長比売を私に下さるように、天皇にお願いしてもらえないか」と、頼んだ。
③建内宿禰が天皇に許しを願うと、天皇はただちに髪長比売を御子に与えた。
④与えた状況は、天皇が豊明(とよあかり)[新嘗祭(にいなめさい)]の酒宴を催された日だったので、髪長比売にお酒を受ける柏(かしわ)を持たせて、それを皇太子に与えたのである。そして「赤くつややかな少女を、自分のつまにしたらよかろう」と歌をうたった。
⑤皇太子は髪長比売を賜って、返歌をうたった。
百済の朝貢 『古事記』の要点
①この天皇の御代に、海部(あまべ)、山部(やまべ)、山守部(やまもりべ)、伊勢部(いせべ)を定めた。また剣池(つるぎのいけ)を作った。
②また、新羅(しらぎ)の人々が渡来した。そこで建内宿禰命がこれらの人々を率(ひき)いて、渡りの堤池(つつみのいけ)として百済池(くだらのいけ)を作った。
③百済の照古王(しょうこおう)は、牡馬一頭と、牝牡馬一頭を阿知吉師(あちきし)に付けて送った。この阿知吉師は阿直史(あちきのふびと)等の祖先である。
④また、照古王は、太刀と大鏡とを献上した。天皇は百済に賢人がいたら献(たてま)つるようにと言った。それに対し、ただちに『論語』10巻と、『千字文』1巻とを、和邇吉師(わにきし)に託して献上した。この和邇吉師(わにきし)は文首(ふみのおびと)等の祖先である。
⑤また、鍛冶師(かじし)の卓素(たくそ)、機織女(はたおりめ)の西素(さいそ)の二人を献上した。また、秦造(はたのみやつこ)の祖先や漢直(あやのあたい)の祖先、および酒造りの仁番(にほ)またの名は須須許理(すすこり)等が来た。そして、須須許理はよい酒を造った。
大山守の反逆 『古事記』の要点
①応神天皇が亡くなった後、大雀命(おおさざきのみこと)は、応神天皇の言ったことに従って、天下を宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)に譲った。ところが、大山守命は天皇の言にそむいて天下を得たいと思い、宇遅能和紀郎子を殺そうと、ひそかに武器を用意して、攻めようとした。大雀命は兄の大山守命が武器を準備していることを聞いて、このことを宇遅能和紀郎子に知らせた。
②すると、宇遅能和紀郎子は兵を宇治川の辺に伏せ、宇治川の山の上に絹の幕を張りめぐらせた仮屋を立て、舎人(とねり)を王(みこ)にみたてて置き、自分は賤しいみなりの船頭になりすました。
③そうとは知らず、大山守命は宇遅能和紀郎子に見立てた舎人を討とうとしたが、船頭になりすました宇遅能和紀郎子が川の中ほどまで来たところで船を傾け、大山守命を河に落とした、大山守命は川辺の伏兵のため岸に上がれず、川に流されて溺死した。
④その後、大雀命と宇遅能和紀郎子が天下を譲り合った。海人(あま)が鮮魚を献上しようとすると、互いに譲り合い何日か経過する。そのようなことが一度や二度ではなかった。
⑤ところが、宇遅能和紀郎子が早く亡くなったので、大雀命が天下を治めた。
天之日矛(あめのひほこ) 『古事記』の要点
①新羅の国に阿具奴摩(あぐぬま)という沼があり、そのほとりで賤しい女が昼寝をしている時に、日が輝いて、女が妊娠し、その後赤い玉を生んだ。この様子を見ていた賤しい男が、その玉をもらい受け、腰にぶら下げていた。
②男は牛を連れていたとき、新羅の国王の子の天之日矛(あめのひほこ)は牛を食べようとしていると考え、男を牢屋へ入れようとした。男は腰に付けた赤い玉を天之日矛に渡して、許してもらった。
③天之日矛は、この赤い玉を床のそばに置いておくと、美しい少女(おとめ)となった。そして少女と結婚して正妻にした。一緒に暮らしていたが、思いあがって、妻をののしった。その女は「あなたの妻になるようなものではない、祖国へ帰る」として、小舟に乗って逃げた。そして難波に留まった。
④そこで、天之日矛が、逃げた妻を追って、難波に着こうとしたが、その渡りの神にさえぎられて、難波に入れなかったので、但馬の国へ行った。
⑤そこで、多遅摩俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(まえつみ)を娶って生んだ子が多遅摩母呂須玖(もろすく)、その子の多遅摩斐泥(ひね)、その子の多遅摩那良岐(ひならき)、その子の多遅摩毛理(もり)等である。
⑥天之日矛が持ってきた宝は珠二貫(たまふたつら)、波振ひれ、・・・奥つ鏡(おきつかがみ)、辺つ鏡(へつかがみ)、併せて八種(やくさ)である。
応神天皇の出自の謎
『日本書紀』では神功皇后が新羅征伐のおり、新羅から帰って筑紫で応神天皇を出産する話となっている。応神天皇が八幡信仰の神となっていることなどから応神天皇新王朝説がある。 応神天皇について、いくつかの説を紹介する。
①騎馬民族説
江上波夫氏によれば騎馬民族による日本建国は二段階の過程で行われたとしている。
・第一段階が南朝鮮の任那(加羅)方面から、北九州(筑紫)への侵入で、崇神天皇を主役とし、4世紀前半に行われた。
・第二段階の過程は北九州から畿内への進出で、応神天皇を主役とし、4世紀末から5世紀初めのあいだに実施されたであろうとする。
・応神天皇こそ、北九州から畿内に進出し、日本における最初の統一国家である大和朝廷を創始した。
しかし現在、この説は、あまりにも文献資料をほしいままに解釈してる傾向があり、騎馬民族説は疑問視されている。
②九州地方の豪族説
東大教授だった日本史家の井上光貞(いのうえみつさだ)氏がとなえた。応神天皇は征服者で、九州地方におきた豪族であり、実在の確かな最古の天皇で、新王朝の始祖であろうとしている。
③大阪平野を地盤とする豪族説
直木孝次郎氏や岡田精治氏や上田正昭氏がとなえた。崇神天皇に始まる三輪王朝が滅んで、応神天皇に始まる別の王朝である河内王朝が成立する。その他、水野祐(みずのゆう)氏がとなえる河内王朝は仁徳天皇からで、応神天皇は架空だとする説がある。
④父は武内宿禰(たけのうちのすくね)とする説
高木彬光(たかぎあきみつ)氏がとなえたもので、神功皇后の身近にいた武内宿禰(たけうちのすくね)が父親とする説。
応神天皇以後、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略、清寧、顕宗、仁賢、武烈、と武内の宿禰の一族が繁栄していることから、この説もありえるのかもしれない。
応神天皇陵の存在
・『日本書紀』には応神天皇陵の記述がない。このことから、応神天皇陵を疑う説がある。これは巨大な古墳で、応神天皇の生前は完成せずに没後、時を経て完成し、葬られたためであろうか?
・しかし『古事記』には「御陵(みはか)は河内の恵賀(えが)の裳伏崗(もふしのおか)にあり」とある。
・また、『日本書紀』の「雄略天皇紀」の田辺史伯孫(たなべのふひとはくそん)の記述から、「誉田陵(応神天皇陵)の付近で速い赤い馬を見て、自分の馬と変えてもらい、家に戻り一晩したら、その馬が埴輪の馬になった。そこで誉田陵へ行ったら、埴輪の馬の中に自分の馬がいたのでとりかえした」この話では伯孫が古市から柏原の方に向かっていたことから、誉田陵が古市古墳群の中に存在していることになる。
誉田陵が現在の応神天皇陵と一致すると考えられる。

(邪馬台国の会HP第396回より)
応神天皇陵を疑う説
①地理学者の日下雅義(くさかまさよし)氏が墳丘外ではあるが、応神天皇陵古墳の範囲内の地層を検査し、古墳築造にさいしての整地以降に生じたズレから推定し、誉田陵の築造年代を5世紀末から6世紀初頭と計算した。
<反論>
この調査は応神天皇陵古墳そのものの地層のズレを調べ上げたものではない。応神天皇陵古墳の範囲内の地層とはいえ、墳丘外の地層の検査である。日下氏によれば応神天皇陵古墳は土質の安定した段丘と不安定な氾濫原という異質な土地にまたがって築造されているという。とすれば地層のずれも場所によって異なるのではなかろうか?
②円筒埴輪を研究した川西宏幸(かわにしひろゆき)氏は畿内とその周辺での円筒埴輪をⅠ~Ⅴの5期にわけた。応神天皇陵古墳のものはⅣ期としているので、5世紀中葉と後葉に比定している。
<反論>
これについて、 『古事記』の没年干支や『日本書紀』年代は古くなっている。安本美典氏による天皇の一代平均10年説から推定すると応神天皇没年が425年頃となる。
違いはわずかにしかない。円筒埴輪の最先端のものが古墳築造時に使われることを想定すればおおむね合っているのではないか。

応神天皇、仁徳天皇陵
・応神天皇陵(誉田山古墳)
『延喜式』 に「恵我の藻伏(もふし)の岡陵。軽嶋の明(あきら)の宮で天下をおさめられた応神天皇(の陵)。河内の国志紀郡にある。」と書かれている。古市古墳群のなかで一番大きな古墳である。全長420m
・仁徳天皇陵(大仙陵古墳)
百舌鳥古墳群の中にあり、日本一大きく、全長840m。
・『古事記』の記事の量
『古事記』によって、諸天皇についての記事の量を調べると下記のようになり、応神天皇が一番多い。『古事記』でも重要な天皇と位置付けている。
①応神天皇(3806字)[倭の五王時代]
②景行天皇(3479字)
③神武天皇(3074字)
④仁徳天皇(2707字)[倭の五王時代]
⑤垂仁天皇(2482字)
⑥雄略天皇(2368字)[倭の五王時代]
陵墓の大きさ、『古事記』の記事の量からも応神天皇が事跡の多かった天皇であることがわかる。

■八幡信仰
八幡信仰について
・八幡神は『古事記』『日本書紀』では登場しない。これは記紀が、高天原の神々とその流れ神々を登場させたので、民間信仰からの神々を掲載しなかったのではないか。八幡神の元は宇佐地方の土着の信仰、または渡来系の信仰がベースであったと考えられる。
・天皇の流れは、神武天皇から景行天皇までが一つの流れで、仲哀天皇、神功皇后を経て、次が応神天皇から雄略天皇までと考えられる。応神天皇から雄略天皇までは、東北の蝦夷や朝鮮半島・中国など対外的な活動が盛んなってくる。更に倭の五王として取り上げられるくらいに天皇のポテンシャルが上がってくる。
・この応神天皇が宗教と結びついたと考えられる。その結果が宇佐八幡宮の伝承と結びつき、八幡神として取り込まれたのではないか。
・八幡系の神社は稲荷神社に次いで多い。これは宇佐地方の信仰をベースにして、天孫系の神を取り入れ、更に欽明天皇のころに神仏習合で仏を取り込み、その後は武士との結びつき、時代の流れを先取りするように、変化していった結果ではないか。
宇佐八幡宮
・八幡三神は応神天皇、比売大神(ひめおおかみ)、神功皇后である。応神天皇および母の神功皇后を祀っているところから、鎌倉時代の承久の乱を記した『承久記』では皇祖神としての位置づけとなった。
・宇佐八幡宮が総本宮とされている。八幡神社は全国11万社の半分近くの4万600社が八幡神社である。欽明天皇571年に応神天皇の神霊があらわれたとし、725年に宇佐の地に宮を造立したとのこと(宇佐八幡宮HPより)。
・神仏習合が早くから始まり、749年[天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年]に東大寺の大仏建立中に、宇佐八幡の禰宜(ねぎ)の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にある。
・769年[神護景雲(じんごけいうん)3年]に称徳天皇が道鏡を次の皇位継承者にしようとしたとき、朝廷は和気清麻呂(わけのきよまろ)に宇佐八幡の託宣を受けさせて、道鏡の目的を阻んだ。このように宇佐八幡の権威が高かったことが分かる。
八幡信仰の発展
・清和源氏は八幡神を氏神とし、日本各地に勧請した。このように八幡信仰は清和源氏、桓武平氏を始めとする武家に広く信仰された。
・特に平将門は天慶2年(939年)に上野(こうずけ)の国庁で八幡大菩薩によって「新皇」の地位を保証されたとされている。八幡信仰により、記紀の天照大神による秩序とは異なる世界を創る大きな役割があったのではないか。そのことが、武家が守護神として八幡神を奉ずる理由として発展したのではないか。
・壺井八幡宮は源頼義により、河内国壷井(大阪府羽曳野市壷井)に勧請されて、河内源氏の氏神となった。また、石清水八幡宮はその子の源義家が元服するとろとなり、自らを「八幡太郎義家」を名乗った。
・鎌倉幕府が源頼朝によって開かれると、八幡神は鎌倉へ迎え入れられて、鶴岡八幡宮とされた。八幡神は御家人たちが武家の守護神として自分の領内に勧請した。
・また足利氏によって、室町幕府ができると、足利氏は源氏復興の主旨から、歴代の武家政権のなかでも最も熱心に八幡信仰を押し進めた。
■仁徳天皇
・儒教上の優れた天皇
・恐妻家として描かれている
仁徳天皇について
・仁徳天皇は『日本書紀』では西暦313年~399年となっているが、西暦425~438年頃と思われる。
・和風諡号(しごう)は『古事記』では大雀命(おおさざきのみこと)であり、『日本書紀』では大鷦鷯天皇(おおさざきのすめらみこと)である。
・ 『古事記』では難波の高津宮(たかつのみや)にいたとあり、亡くなった年を83歳としている。『日本書紀』も同じで難波に宮を造り、高津宮としている。
・ 陵墓について、『古事記』では「御陵(みはか)は毛受耳河原(もずのみみはら)にあり」と記述し、『日本書紀』では百舌鳥野陵(もずののみささぎ)とある。
・仁徳天皇陵は百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ) [大山古墳(だいせんこふん)]で、全長840メートル、後円部直径249メートル、前方部幅307メートルの日本一大きい前方後円墳である。
・仁徳天皇陵の所在地は大阪府堺市堺区大仙町である
后妃と御子 『古事記』の要点
①大雀命(おおさざきのみこと)は難波の高津宮(たかつのみやで天下をおさめた。
②葛城曽都毘古(かつらぎのそつひこ)の女(むすめ)の石之日売命(いわのひめのみこと)を娶って生まれた子は、大江之伊耶本和気王(おおえのいざほわけのみこ) [後の履中(りちゅう)天皇] 、墨江之中津王(すみのえのなかつみこ)、蝮之水歯別命(たじひのみずはわけのみこと)[後の反正天皇]、男浅津間若子宿禰命(おあさつまわくごのすくねのみこと) [後の允恭(いんぎょう)天皇]の四柱である。
③また、日向(ひむか)の諸県君牛諸(もろがたのきみうしもろ)の女(むすめ)の髪長比売命(かみながひめのみこと)を娶って生まれた子は、波多毘能大郎子(はたびのおおいらつこ)[亦の名を大日下王(おおくさかのみこ)]、波多毘能若郎女(はたびのわきいらつめ)で、併せて六柱である。
④また、庶妹(ままいも)[腹違いの妹]八田若郎女(やたのわきいらつめ)と庶妹(ままいも)宇遅能若郎女(うじのわきいらつめ)を娶った。この二人には子がいなかった。
聖帝(ひじりのみかど)の世 『古事記』の要点
①仁徳天皇は高い山に登って、四方の国を見て、「国中に炊煙が立っていない。国民はみな貧しいようだ。だから今から三年の間、人民(たみ)の課役を免除せよ。」と言った。
②そのため、宮殿は破損して、ことごとく雨漏りがするようになったが、修理しなかった。器をもって漏れる雨を受け、雨漏りがしないところに移動してしのいだ。
③その後、国中を見たら、国中に炊煙が満ちていた。そこで、人民が豊かになったことを知って、もうよかろうと課役を課したのである。
④このようにして、人民は繁栄して、賦役に苦しむことはなかった。それで、この御世を称えて、聖帝(ひじりのみかど)の御世(みよ)と言うのである。
淡海三船(おうみのみふね)による漢風諡号(しごう)が「仁徳」となったのは儒教思想に濃くいろどられたこの民を思う逸話によるものと思われる。
『日本書記』は更に細かく記述している。
皇后の黒日売への嫉妬 『古事記』の要点
①皇后の石之日売命(いわのひめのみこと)は嫉妬深かった。それで、天皇に仕えている妃たちは大変だった。天皇が吉備の海部直(あまべのあたい)の女(むすめ)黒日売(くろひめ)が容姿が整って美しいと聞いて、宮中に召し寄せた。ところが、皇后が嫉妬するのを恐れて、黒日売は故郷の吉備に逃げ帰った。
②天皇は高殿で、黒日売の船が出て、難波の海に浮いているのを眺めて、黒日売が愛(いと)しいと歌をうたった。そこで、皇后はその歌を聞いて、ひどく怒って、人を難波の大浦に遣わし、黒日売を船からおろし、陸上を歩いて行かせた。
③そこで、天皇は、皇后をいつわって、「淡路島を見に行く」と言って、淡路島から島を伝って吉備国へ行った。そして、しばらくの間、吉備で楽しく過ごした。
岡山県総社市上林の「こうもり塚古墳」は岡山県三大巨石墳の一つである横穴式石室の古墳である。この古墳は「黒媛」の墓とされ、は「黒媛塚」とも呼ばれている。
『日本書紀』では「黒日売」の話は無く、応神天皇紀のところで兄媛(えひめ)が吉備に帰る話がある。
皇后の八田若郎女への嫉妬 『古事記』の要点
①皇后が新嘗祭(にいなめさい)の酒を盛る御綱柏(みつなかしわ)を採りに木国(きのくに)[紀伊国(きいのくに)]へ行っている間、天皇は八田若郎女(やたのわきいらつめ)をそばに置いた。皇后が御綱柏を満載して帰ろうとした時、難波の大渡で、皇后の随伴の女が吉備の人夫から、天皇と八田若郎女が仲良くしていることを聞き、皇后に報告した。
②これを聞いた皇后は積んでいた御綱柏(みつなかしわ)を全部海に投げ捨てた。そして皇居には行かず、難波の堀江をさかのぼり奈良山の入り口から、奴理能美(ぬりのみ)の家に入った。天皇は舎人(とねり)を遣わし、次に丸邇臣口子(わにのおみくちこ)を遣わし、都へ戻るよう説得した。
③口子とその妹と奴理能美(ぬりのみ)の三人が相談して、天皇に皇后がここに来た理由は奴理能美が飼っている三色に変化する虫を見るためだと報告した。そこで、天皇もその虫を見たいと思い、奴理能美の家に行った。奴理能美はその虫を皇后に献上した。
④天皇は八田若郎女を相手にしないことにした。そして、御名代(みなしろ)として八田部を定めた。
『日本書記』では、皇后(磐之姫命)が亡くなり、八田若郎女が皇后になったと記述している。
女鳥王(めどりのみこ)の玉釧 『古事記』の要点
①天皇は弟の速総別王(はやぶさわけのみこ)を仲立ちとして、女鳥王(めどりのみこ)を所望した。女鳥王は「皇后の気性が激しいので、天皇は八田若郎女を召していない。だから私も仕えません。私はあなたの妻になりましょう。」と言ってすぐに速総別王と結婚した。
②そして、速総別王は天皇から女鳥王との仲立ちの命があったのに、復命しなかった。天皇は女鳥王のころに直接行ったが、対応が悪かった。そして、女鳥王は速総別王に天皇をころすように歌をうたった。
③これを聞いた、天皇は二人を殺そうと軍勢をおくった。二人は倉椅山(くらはしやま)に登って逃げうせたが、宇陀の曾爾(そに)に着いたとき、軍勢に追いつかれて、殺された。
④その軍勢の将軍の山部大楯連(やまべのおおたてのむらじ)は、女鳥王が手に巻いていた玉釧(たまくしろ)[腕輪]を取って、自分の妻に与えた。
⑤それから時がたって、宮中で酒宴が開かれたとき、各氏族の女たちが参内(さんだい)した。そして、山部大楯連の妻が、この玉釧を腕に巻いて参列したところ、皇后がこの玉釧を覚えており、これを見つけて、「自分の主君の御手に巻いていた玉釧を、まだ膚(はだ)のぬくもりがあるうちに剥ぎ取り、自分の妻にあたえたとは・・・」といって、すぐに死刑に処した。
■履中・反正天皇
・影が薄い天皇
・記事の量も少ない
履中天皇について
・履中天皇は『日本書紀』では西暦400年~405年となっているが、西暦438~440年頃と思われる。
・和風諡号(しごう)は『古事記』では伊耶本和気王(いざほわけのみこ)であり、『日本書紀』では去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)である。
・ 『古事記』では伊波礼(いはれ)の若桜宮(わかさくらのみや)にいたとあり、亡くなった年は64歳としている。『日本書紀』は磐余(いわれ)の稚桜宮(わかさくらのみや)で即位したとあり、亡くなった年は70歳としている。
・ 陵墓について、『古事記』では「御陵(みはか)は毛受(もず)にあり」と記述し、『日本書紀』では百舌鳥耳原陵(もずのみみはらのみささぎ)とある。
・履中天皇陵は百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ) [上石津ミサンザイ古墳(かみいしづみさんざいこふん) ]で、全長365メートル、後円部直径205メートル、前方部幅235メートルの前方後円墳である。
・履中天皇陵の所在地は大阪府堺市西区石津ヶ丘である。
墨江中王の反逆 『古事記』の要点
①天皇が難波宮に居た時、新嘗祭(にいなめさい)をして、酒宴を開いた。そして酒に酔って寝ている時に、弟の墨江中王(すみのえのなかつみこ)は天皇を殺そうとして、天皇の御殿に火をつけた。
②その時に、倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖(おや)の阿知直(あちのあたい)が天皇を連れだして、馬に乗せ、倭(大和)へ向かった。
③天皇は丹比野(たじひの)に着いたときに目を覚まし、「ここはどこか」とたずねた。そこで、阿知直は「墨江中王(すみのえのなかつみこ)が御殿に火をつけたので、倭へ逃げるところです」と答えた。
④天皇が大坂の山口に来たとき、一人の女人(おみな)に出会った。大和への道を聞くと女人(おみな) は「武器を持ったものが大勢この山を塞いでいます。当芸麻道(たさまじ)を回った方がよいでしょう」と答えた。
⑤そこで、天皇はまっすぐな近道を行かず、遠回りの当芸麻道(たさまじ)を通って、大和の石上神宮(いそのかみじんぐう)に着いた。
水歯別命と曽婆訶理 『古事記』の要点
①石上神宮に入ったところで、弟の水歯別命(みずはわけのみこと)が来て、拝謁を申し入れた。ところが天皇は水歯別命は墨江中王(すみのえのなかつみこ)と同じように反逆するのではないかと疑って会わなかった。そこで、水歯別命は反逆の心は持っていないと伝えたが、天皇は「それなら、難波に戻って、墨江中王を殺して来い。そうしたら会う」と言った。
②水歯別命は難波に行き、墨江中王のそばに仕える隼人(はやと)の曽婆訶理(そばかり)に会って、「もし、おまえが私の言うとおりにしたら、私は天皇となり、おまえを大臣にしよう」と言った。そこで、曽婆訶理は墨江中王(すみのえのなかつみこ)が厠へ行った時に、矛で刺し殺した。
③水歯別命は曽婆訶理を連れて、大和へ戻る途中、大坂の山の入り口で、曽婆訶理は大きな手柄を立てたが、主君を殺したことは人の道に背くことだ、また手柄に報いないことは信義に反する。といって約束を守ると、今後の曽婆訶理が怖い。いっそ曽婆訶理を亡き者にしようと考えた。
④水歯別命は山の入り口[近つ飛鳥(あすか)]で留まり、仮宮を立て、曽婆訶理を大臣にして、酒宴を張り、顔が隠れるくらいの大きな杯で酒を勧め、顔が隠れているときに、隠しておいた剣で、曽婆訶理を殺した。その結果、水歯別命は大和(遠つ飛鳥)に戻り、天皇に拝謁できた。
反正天皇について
・反正天皇は『日本書紀』では西暦406年~410年となっているが、西暦440~442年頃と思われる。・和風諡号(しごう)は『古事記』では水歯別命(みずはわけのみこと)であり、『日本書紀』では瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと)である。
・『古事記』では多治比(たじひ)の柴垣宮(しばかきのみや)にいたとあり、亡くなった年は60歳としている。 『日本書紀』は河内の丹比(たじひ)に都をつくったとし、これを柴籬宮(しばかきのみや)というとある。
・陵墓について、『古事記』では「御陵(みはか)は毛受野(もずの)にあり」と記述している。『日本書紀』は耳原陵(もずのみみはらのみささぎ)としている(允恭天皇紀)。
・反正天皇陵は百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ) [田出井山古墳(たでいやまこふん) ]で、全長148メートル、後円部直径76メートル、前方部幅110メートルの前方後円墳である。所在地は大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町。 ・反正天皇の記紀の記載量は非常に少ない。
反正天皇 『古事記』の要点
①履中天皇の弟、水歯別命(みづはわけのみこと)は多治比柴垣宮(たじひのしばかきのみや)で天下をおさめた。
②この天皇は身の丈が九尺二寸半あり、歯の長さが一寸、幅が二分あり、上下等しく整っていて、珠をつらぬいたようにりっぱであった。
③天皇が、丸邇(わに)の許碁登臣(こごとのおみ)のむすめ、都怒郎女(つののいらつめ)を娶って生まれた子は、甲斐郎郎女(かいのいらつめ)、都夫良郎女(つぶらのいらつめ)である。また、同じ臣のむすめの弟比売を娶って生まれた子は、財王(たからのみこ)、多訶弁郎女(たかべのいらつめ)である。
・反正天皇の記述は少ない。
■允恭天皇
・病弱の天皇
・国中の部の長の氏姓を正した
允恭天皇について
・允恭天皇は『日本書紀』では西暦412年~453年となっているが、西暦442~460年頃と思われる。
・和風諡号(しごう)は『古事記』では男浅津間若子宿禰命(おあさつまわくこのすくねのみこと)であり、『日本書紀』では雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさづまわくごのすくねのすめらみこと)である。
・『古事記』では遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)にいたとあり、亡くなった年は記紀共に78歳としている。
・陵墓について、『古事記』では「御陵(みはか)は河内(かわち)の恵賀(えが)の長枝(ながえ)にあり」と記述し、『日本書紀』では長野原陵(ながのはらのみささぎ)とある。
・允恭天皇陵は恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ) [市野山古墳]は全長230メートル、後円部直径140メートルである。前方部幅160メートルの前方後円墳である。
・允恭天皇陵の所在地は大阪府藤井寺市国府(こう)1丁目である
后妃と御子 『古事記』の要点
①反正天皇の弟、男浅津間若子宿禰命(おあさつまわくごのすくねのみこと)は遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)で天下をおさめた。
②意富本王(おほどのみこ)の妹(いもうと)の忍坂之大中津比売命(おさかのおおなかつひめのみこと)を娶って生まれた子は、木梨之軽王(きなしのかるのみこ) 、長田大郎女(ながたのおおいらつめ)、境之黒日子王(さかいのくろひこのみこ)、穴穂命(あなほのみこと)[後の安康天皇]、軽大郎女(かるのおおいらつめ)、亦の名は衣通郎女(そとほりのいらつめ)、[名を衣通王とするのは、その身の光が衣より通り出ることから]
③続いて、八瓜之白日子王(やつりのしろひこのみこ)、大長谷命(おおはつせのみこと)(大長谷若建命)[後の雄略天皇] 、橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)、酒見郎女(さかみのいらつめ)の九柱である。
軽大郎女(かるのおおいらつめ)は別名が衣通郎女(そとほりのいらつめ)[その身の光が衣より通り出る]と言われるくらい、絶世の美人であった。
即位と政治 『古事記』の要点
①允恭天皇が初め皇位を継承しようとしたとき、病気があるから皇位を継承することはできない、と辞退した。
②しかし、皇后を初め、多くの高官たちが、即位するよう勧めたので、天下を治めるようになった。
③このとき、新羅の国王が貢物を積んだ船を八十一隻も献上した。その大使の金波鎮漢紀武(こんはちんかんきむ)は薬の処方についてよく知っており、天皇の病気を治した。
④また、天皇は天下の人々において、氏名の氏、姓が誤っていることを、憂いて、味白檮(あまかし)[甘樫坐(あまかしにます)神社がある岡]の言八十禍津日(ことやそまがつひ)の埼(さき)に、盟神探湯(くがたち)の釜をすえて、国中の八十友緒(やそとものお)[部(べ)の長]の氏姓を正しくした。
⑤木梨之軽太子(きなしのかるのひつぎのみこ)の御名代(みなしろ)として、軽部(かるべ)を定め、皇后の御名代(みなしろ)として、刑部(おさかべ)を定め、皇后の妹の田井中比売(たいのなかひめ)の御名代(みなしろ)として、河部(かわべ)を定めた。
軽王(かるのみこ)と軽大郎女 『古事記』の要点
①天皇が亡くなった後、皇太子の木梨之軽太子(きなしのかるのひつぎのみこ)は皇位を継ぐことに決まっていたが、即位する前に、同母妹の軽大郎女(かるのおおいらつめ) に密通した。この密通事件を知って、朝廷の官吏や天下の人民は軽太子(かるのひつぎのみこ)よりも、穴穂王(あなほのみこ)に心を寄せた。
②そこで、軽太子は恐ろしくなって、大前小前宿禰(おおまえおまえのすくね)の大臣(おおおみ)の家に逃げ込み、武器を作って備えた。その武器は内部を銅にした矢で、それを名付けて軽箭(かるや)という。
③穴穂王(あなほのみこ)も武器を作った。今でも使っている穴穂箭(あなほや)である。そして、穴穂王は軍勢をおこして大前小前宿禰の屋敷を包囲した。
④大前小前宿禰は穴穂王に「同母兄に対し兵を差し向けないでください。世間が笑うでしょう。私が捕らえて引き渡しましょう」と言った。穴穂王が囲みを解いて兵を引くと、大前小前宿禰は軽王を捕らえて、差し出した。
⑤軽王は四国の伊予に島流しとなった。軽王が流されたあと、軽大郎女は恋しく思い、軽王を追っていき、泊瀬(はつせ)の川でともに死んだ。
絶世の美人の軽大郎女(かるのおおいらつめ)と軽皇太子の悲劇は川に入っての心中で終わる。
古代の美人の代表は小野小町だが、軽大郎女も代表的美人であったようだ。
『古事記』と『日本書紀』の記述の違い

古事記と日本書紀の漢字表記比較上段が『古事記』下段が『日本書紀』
