安康(あんこう)天皇~雄略(ゆうりゃく)天皇の系図

■安康天皇
・在位が短い天皇
・子供に殺された天皇
・安康天皇紀に雄略天皇の話が入っている
安康天皇について
・安康天皇は『日本書紀』では西暦453年~456年となっているが、西暦460~462年頃と思われる。
・和風諡号(しごう)は『古事記』では穴穂御子(あなほのみこ)であり、『日本書紀』では穴穂天皇(あなほのすめらみこと)である。
・ 『古事記』では石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)にいたとあり、56歳で亡くなったとしている。『日本書紀』は大和の石上(いそのかみ)に移し穴穂宮(あなほのみや)としたとある。
・ 陵墓について、『古事記』では菅原伏見岡(すがわらのふしみおか)にあり、『日本書紀』では菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)とある。
・安康天皇は菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ)ある。
・安康天皇陵の所在地は奈良県奈良市宝来4丁目[蓬莱神社近く]である。
大日下王(おおくさかのみこ)と根臣(ねおみ)『古事記』の要点
①安康天皇は同じ母の弟の大長谷王子(おおはつせのみこ)[後の雄略天皇]のために、大日下王(おおくさかのみこ)の妹の若日下王(わかくさのみこ)を大長谷王子(おおはつせのみこ) とけ結婚させようとした。そして、坂本臣等の祖先である根臣(ねおみ)を大日下王(おおくさかのみこ)のところに遣わした。
②すると、大日下王は「このような勅令があるのではないかと、妹をそとに出さずにお待ちしていました。妹を差し出します」とこたえた。そして、ことばだけでは無礼であろうとして、押木玉縵(おしきのたまかづら)[立飾りのある冠]を根臣(ねおみ)に持たせて献上した。
③ところが、根臣(ねおみ)は押木玉縵(おしきのたまかづら)を横領して、大日下王(おおくさかのみこ)が「私の妹を同族の下敷きになどするものか」といって、太刀の柄を持って怒っていたと天皇に伝えた。
④そこで、天皇はおおいに怒り、大日下王(おおくさかのみこ)を殺して、その正妻の長田大郎女(ながたのおおいらつめ)を奪って、皇后とした。
目弱王(まよわのみこ) 『古事記』の要点
①この事件後から大分たって、天皇は昼寝をしようとして、皇后に「おまえの子の目弱王(まよわのみこ)が成人したら、私が父の大日下王(おおくさかのみこ)を殺したことを知って、反逆するのではないかということを心配している。」と言った。その時、7歳の目弱王がそばにいることに気が付かなかった。
②遊んでいた目弱王は、このことを聞き、それからすぐに、天皇が眠ているすきに、傍(かたわ)らに置いてあった太刀をとって天皇の首を討ち取った。そして、都夫良意富美(つぶらおほみ)の家に逃げ込んだ。
③まだ少年であった大長谷王(おおはつせのみこ) [後の雄略天皇]はこの変事を聞き、すぐに兄の黒日子王(くろひこのみこ)のところに行った。ところが黒日子王は驚きもせず、いい加減な態度であった。そこで、大長谷王は怒って、黒日子王を刀で打殺した。更に、白日子王(しろひこのみこ)のところへ行ったが同じような態度であったので、白日子王も穴を掘って埋め殺した。
④大長谷王は軍を起こして、都夫良意富美(つぶらおほみ)の家を囲み目弱王を差し出すように求めた。しかし、都夫良意富美は皇子が臣下を頼ってきたので、目弱王を渡すことはできないと答えた。
⑤そこで、戦いとなり、矢尽き、力尽いた都夫良意富美は目弱王を殺し、自刃した。
市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ) 『古事記』の要点
①その後、近江の佐々紀の山君(やまのきみ)の祖先で、韓袋(からぶくろ)というものが、大長谷王(おおはつせのみこ)に「近江の久多綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)には猪や鹿がたくさんいる。」と話した。
②そこで、大長谷王は狩りをしようと、市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)を伴って近江へ行った。蚊屋野(かやの)に到着すると、それぞれ別の仮宮を造って泊った。
③翌朝、まだ日が昇らないうちに、忍歯王(おしはのみこ)は馬に乗って、大長谷王の仮宮の前で、大長谷王の伴の者に、「まだ、お目覚めでないのか。夜は明けた。狩場へお出かけください。」と言って、出かけてしまった。
④大長谷王の伴の者は「忍歯王は感じのよくない言い方をするので、用心して、武装するよう」と大長谷王に報告した。
⑤大長谷王は衣服の下に鎧をまとい、忍歯王のところに行き、馬を並べると、矢で忍歯王を射殺した。その場で体を斬り、飼葉桶に入れて地面に埋めた。
⑥これを聞いて、忍歯王の子の意祁王(おけのみこ) [後の仁賢(にんけん)天皇] 、袁祁王(をけのみこ)[後の顕宗(けんぞう)天皇]は 逃げて、針磨(はりま)国の志自牟(しじむ)の家に入って、身分を隠し、馬飼い、牛飼いになった。
■雄略天皇
・多くの身内を殺した天皇
・エピソードが多い天皇
雄略天皇について
・雄略天皇は『日本書紀』では西暦456年~479年となっているが、西暦462~480年頃と思われる。
・和風諡号(しごう)は『古事記』では大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)であり、『日本書紀』では大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)である。
・ 『古事記』では長谷朝倉宮(はつせのあさくらのみや)にいたとし、亡くなった年は124歳としている。 『日本書紀』は泊瀬の朝倉にいたとある。
・ 陵墓について、『古事記』では「御陵(みはか)は河内国の多治比高鸇(たじひのたかわし)にあり」と記述し、『日本書紀』では丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)とある。
・雄略天皇陵は丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ) [島泉丸山古墳(しまいずみまるやまこふん) ]で、墳丘の直径76メートルの円墳である。
・雄略天皇陵の所在地は大阪府羽曳野(はびきの)市島泉八丁目である。
后妃と御子 『古事記』の要点
①大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)は長谷(はつせ)の朝倉宮(あさくらのみや)で天下をおさめた。
②天皇は大日下王(おおくさかのみこ)の妹の若日下部王(わかくさかべのみこ)を娶った。[子供はいなかった]
③また、都夫良意富美(つぶらおほみ)の女(むすめ)の韓比売(からひめ)を娶って生まれた子はが、白髪命(しらかのみこと)[後の清寧(せいねい)天皇]、次に妹若帯比売命(いもわかたらしひめのみこと)である。
④白髪太子(しらかのひつぎのみこ)の御名代(みなしろ)として、白髪部(しらかべ)を定めた。また、長谷部(はせべ)の舎人(とねり)を定め、河瀬(かわせ)の舎人(とねり)を定めた。
⑤この天皇の時代に、呉人(くれひと)が渡来した。その呉人(くれひと)を飛鳥(あすか)の呉原(くれはら)に住まわせた。そこで、その地を名付けて、呉原(くれはら)と言う。
若日下部王(わかくさべのみこ) 『古事記』の要点
①皇后の若日下部王(わかくさかべのみこ)が、まだ日下(くさか)に居た頃、天皇は日下に通っていた。そのとき、山の上から国内を見ると、屋根の上に堅魚木(かつおぎ)[鰹木]をのせて造ってある家があった。天皇はその家について、誰の家か尋ねたところ、志幾(しき)の大県主(おおあがたぬし)の家だと分かった。
②天皇は自分の家を天皇の宮殿に似せて造っているとして、ただちに人を遣わせて、その家を焼こうとした。ところが、その大県主は恐れつつしんで、頭を下げ、白い犬に布をかけ、鈴をつけて、一族の腰偑(こしはぎ)というものに犬の縄を取らして献上して許しを請うた。
③そこで、天皇はその家に火をつけることをやめて、犬を連れて、若日下部王(わかくさかべのみこ)のところへ行き、道中で、珍しいものを手に入れたとして、犬を送ろうとした。
④すると、若日下部王は天皇に「日に背を向けておいでになったのだから、不吉なことです。こちらからすぐに参上しましょう。」と言った。
⑤こういうことで、天皇は朝倉の宮に帰る途中、あの山の峠で、若日下部王を恋しく思う歌をうたった。
赤猪子(あかいこ) 『古事記』の要点
①またある時、天皇が出かけて、三和河(みわがわ)に着いたとき、河のほとりで衣服を洗っている少女がいた。その容姿が大変美しかったので、その少女に声をかけたところ、少女は「私は引田部の赤猪子といいます。」と答えた。
②天皇は「おまえはほかの男に嫁がないでいなさい。今に宮中に召そう。」と言った。そこで、赤猪子は天皇からのお召しの言葉を待って、八十年が経った。
③赤猪子はこのままでは、今まで待っていた自分の気が晴れないとして、贈り物を携えて、天皇に会いに行った。
④しかし天皇は「お前はどこのお婆さんだ。どうゆうわけで参内(さんだい)したのか」と聞いた。赤猪子は「昔、天皇のお言葉を頂き。お召しのお言葉を待って八十年が経ってしまいました。今は容姿も老いましたが、私の待っていたという情を示したくて、参内しました」と言った。
⑤これを聞いて、天皇は大変驚いて、「私は以前に言ったことをすっかり忘れていた。それなのに、お前は言葉を信じて、女の盛りをむなしく過ごさせてしまった。」として、歌をうたい、赤猪子も返歌した。そして、今更結婚もできないので、たくさんの贈り物を持たせて返した。
葛城(かつらき)の一言主(ひとことぬし)大神『古事記』の要点
①またある時、天皇は葛城の山の上に登った。そのとき大きな猪が出てきたので、すぐさま天皇が鳴鏑(なりかぶら)の矢で猪を射った。猪は怒って唸り声をあげて襲ってきた。そこで天皇は榛(はしばみ)の木の上に登って逃げた。
②またある時、天皇は葛城の山に登った時、お供のたくさんの官人たちはみな、紅い紐をつけた青い摺染(すりぞめ)の衣服を着ていた。その向かいの山の尾根伝いに山に登る人があった。その様子は天皇の行幸にそっくりだった。
③そこで、天皇はその様子を見て、伴の者に尋ねさせると、むこうからも同じように尋ねた。天皇はひどく怒って、矢を弓につがえ、大勢の官人等もみな矢をつがえた。すると向こうの人たちもみな弓に矢をつがえた。
④天皇は互いに名を名乗ろうといったら、向こうは「先に問われたから、名を名乗ろう。」といって、「私は、悪いことも一言(ひとこと)、善いことも一言で言い放つ神、葛城(かつらき)の一言主(ひとことぬし)大神である。」と言った。
⑤天皇はこれを聞いて、恐れ、かしこまって、自分の太刀をはじめとして、多くの官人の衣服も脱がせて、拝礼して献上した。
⑥一言主大神はその品々を受け取り、天皇が皇居に帰る時、大神の一行は泊瀬(はつせ)の山の入り口まで見送った。その時に一言主大神は姿をあらわした。
一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)
・一言主大神は、『先代旧事本紀』の第4巻で須佐之男(すさのお)の命の子とされてる。一言主大神は大物主の神とつながっているのであろうか?
『古事記』の出雲神話で大物主関連の話が多く出てくるし、その後は雄略天皇紀以外では下記がある。
①神武天皇紀で、「大久米(おおくめ)命が三島湟咋(みしまのみぞくひ)の女(むすめ)の勢夜陀多良(せやだたら)比売の娘が美和の大物主神によって生まれた女(むすめ)の富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)[別名:比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)]がいるという。」とある。
②崇神天皇紀で、「大物主大神が陶津耳命(すえつみみのみこと)の女(むすめ)の活玉依毘売(いくたまよりびめ)を妻として生んだ子である櫛御方命(くしみかたのみこと)の子、飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)の子、建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子である意富多々泥古(おおたたねこ)を神主として、御諸山(みむろやま)の意富美和之大神(おほみわのおおかみ)を斎(いつ)き祭った。 」とある。
雄略天皇の影響力
・鉄剣から、雄略天皇の時代は埼玉県の稲荷山古墳、九州熊本県の江田船山古墳、更に大彦の墓として、長野県、三重県、など広範囲にわたっていると考えられる。
・日本武尊の東征時代から、雄略天皇の時代になるとは、広い範囲から多くの人を動員できるくらいに統治が進んできていることが推定できる。
・これは、『日本書紀』の「雄略天皇紀10年10月」の鳥官(とりのつかさ)の話から、信濃・武蔵の直丁(つかえのよほろ)の動員状況から推定できる。
『宋書』から分かる雄略天皇の勢力範囲
・『宋書』 「倭国伝」 から
興が死んで弟の武が立った。宋は、使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王とした。宋としては、百済を対象外としたのである。
このことは、朝鮮半島南部は日本の支配下にあり、百済が微妙な関係であるこがわかる。
・478年(昇明2年)『宋書』から
武は使いを遣わし、「昔から、祖先は自らが戦い、東は毛人55国、西は衆夷(熊襲、隼人などか)を征する事66国、海を渡って95国を征服した。」と上奏した。
この毛人は蝦夷のこと、大和朝廷に従わない人で、英雄である日本武尊(やまとたけるのみこと)のことを描いたのではないか。天皇系図から、日本武尊は雄略天皇の5代上の血筋であり、祖先といえる。
『日本書紀』の景行天皇、25年の条に、武内宿禰(たけうちのすくね)をつかわし、北陸、東北の諸国の状況を観察したという記述がある。とくに東国のことがあり、日本武尊を征討につかわしたことがわかる。
倭王武と百済
・百済の墓誌
1971年に韓国の忠清南道(ちゅうせいなんどう)で、百済の武寧(ぶねい)王陵が発見され、朝鮮最古の誌石が発掘された。『三国史記』は武寧王の在位を502年~523年としている。誌石では武寧王は62歳で没したとしており、『三国史記』の情報の漏れをおぎなっている。
・『日本書紀』の記述
『日本書紀』では雄略天皇の5年(461年)4月に「百済の加須利(かすり)君は池津媛が焼き殺されたことを聞き、今後女を貢らない。弟の軍君(こにきし)に孕んだ女を与え、参向させた。孕んだ女は筑紫で子を産み、母子共に百済に帰った。この子が武寧王である。」と、武寧王が生まれたとしている。
武寧王が523年(『三国史記』)に62歳(墓誌)で死んだということは、461年生まれ( 『日本書紀』)であり、『三国史記』、墓誌、『日本書紀』の記述が一致することになる。
ここで問題は『日本書紀』が雄略天皇の5年を461年としていることで、これは『日本書紀』の編集者が『三国史記』から、461年を雄略天皇5年にはめ込んだためと推測する。安本説では461年は安康天皇2年になる。
稲荷山鉄剣銘文
・埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣から銘文が見出された。その銘文の「獲加多支鹵(わかたける)大王」が雄略天皇であるとされている。
・また、この鉄剣をつくらせた「乎獲居の臣(おわけのおみ)」の「上祖(かみつおや)」として、「意富比垝(おほひこ)」の名が出てくる。この「意富比垝」が大彦の命(おおびこのみこと)であるとされている。
・大彦の命は第八代孝元天皇の皇子で、第九代開化天皇の同母の兄である。第十代崇神天皇の伯父にあたる。このことから、大彦の命は4世紀中ごろの人と考えればよい。
・『古事記』によれば、大彦の命は「高志(こし)」[越]に遣わされたという。『日本書紀』では「北陸道(若狭、越前、加賀、能登、越中、越後) 」に遣わされたとなっている。

江田船山古墳の鉄刀の銘文
・熊本県玉名郡和水町(旧菊水町)のうち清原(せいばる)の古墳群最大の前方後円墳である江田船山古墳から「治天下獲□□□鹵大王・・・」の75文字の銘をもつ銀象嵌(ぎんぞうがん)大刀が出土した。
・その銘文の大王名が稲荷山鉄剣銘文の大王名と同じの可能性が指摘されており、雄略天皇のことと考えられる。
これらの鉄剣の銘文から、雄略天皇が関東から九州まで支配していたことが分かる。
このように、雄略天皇の支配地域が単なる文献学上だけでなく、考古学上でも証明されたことになる。

■倭の五王時代の国際情勢
・中国は多くの王朝が入れ替わる時代であった
中国王朝の歴史

倭の五王の中国の文献
倭の五王関連記事は下記の中国側の文献に記されている。



都督(ととく)
■都督
・倭王武を「使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 六国諸軍事・安東将軍・倭王」に任命している。都督(ととく)は「かみ」と解釈すれば、以下六カ国の「長官」という意味となる。
・中国の三国時代は地方の軍事をつかさどり、ときには刺史(しし)を兼ねた。唐代は節度使がおかれて権限が縮小した。
■日本での都督
・日本では『日本書紀』の天智天皇の条で、大宰府のことを「筑紫都督府(つくしのおほみこともちのつかさ)」と記している。「都督」を「おほみこともち」と読んでいる。
・ 「おほみこと」は「天皇のことば」をさし、 「おほみこともち」は、勅命を奉じて任地にくだり、政務を執る官をさす。
・『和名抄(わみょうしょう)』の五巻でも、大宰府のことを、「於保美古止毛知乃司(おほみこともちのつかさ)」と記している。
当時の日本と朝鮮の関係
・百済王は、倭国王よりも早く東晋・宋に朝貢していたが、こちらの爵号は、「使持節・都督百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王」(416年、腆支王[てんしおう]など)あるいは、「使持節・都督百済諸軍事・寧東大将軍・百済王」(521年、武寧王)である。軍事支配権のおよぶ範囲は、百済だけとなっている。そして、倭王済や武が中国から与えられた爵号では、百済の軍事支配権だけは除かれている。つまり、倭王済や武の軍事支配権は、新羅や任那にはおよんでいたが、百済には、およんでいなかった形になっている。
・高句麗は、前燕(ぜんえん)によって、355年に、「〔都督〕営州諸軍事・征東大将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王」に冊封され(『晋書』『資治通鑑』)、東晋によって、413年に、高璉(こうれん) [長寿王]が「使持節・都督営州諸軍事・征東将軍・高句麗王・楽浪公」に冊封され(『宋書』)、さらに、高璉(こうれん)は、宋によって「使持節・散騎常持、都督営・平諸軍事、東騎大将軍、開府儀同三司、高句麗王・楽浪公」(『宋書』)の称号が与えられている。
つまり、客観的存在である中国のみとめた五世紀ごろの倭、百済、高句麗の三国の勢力範囲は、たがいに重なつていない。
・倭…朝鮮半島の南半分の、百済の領域をのぞく地域と日本。三韓時代の辰韓、弁韓の地、および馬韓の地の一部と日本。(『日本書紀』の継体天皇の6年(522)の条に、旧馬韓の地の一部であった全羅南道の、四つの県を、日本が百済に与えたという記事がある。それ以前は、この地に日本の支配権がおよんでいたとみられる。この旧馬韓に属し、のちの百済に属していなかった全羅南道の地が、爵号のなかにみえる慕韓〔馬韓〕にあたるとみられる)。
・百済……百済の地。三韓時代の馬韓の全羅南道をのぞく地。
・高句麗…遼東半島の地と、南満州、朝鮮半島の北部、および営州、平州の地。高句麗の高璉(長寿王)の称号のうち「営(州)・平(州)諸軍事」の、「営州・平州」は、三国時代には、遼東の豪族、公孫氏の領域であった。公孫度は、190年に、遼東侯、平州牧(へいしゅうぼく)と称している。「高句麗王」は、高句麗のもともとの地(南満州)の王であることを示す。「楽浪公」は、三国時代の楽浪郡の地が実質的に、高句麓の支配下にあったことを示している。
・倭:朝鮮半島の南半分の、百済の領域をのぞく地域と日本。
・百済:百済の地。三韓時代の馬韓の全羅南道をのぞく地。
・高句麗:遼東半島の地と、南満州、朝鮮半島の北部、および営州、平州の地。
・新羅:中国の冊封体制では新羅の支配者として表記されていない。日本の支配下と考えられる。
・伽耶:同じように日本の支配下と考えられる。

(邪馬台国の会HP第234回より)拡大可
■高句麗(Wikipediaより)
・ 19代の王(在位:391年 – 412年)好太王(こうたいおう)
広開土王碑で有名。高句麗の領土を拡張させた。 396年には漢江を越えて進撃して百済の58城700村を攻略。百済が誓いを違えて倭に通じ、新羅は倭の侵攻を受けていた。400年に歩騎五万を派遣し新羅を救援した。このとき新羅の王都は倭軍に占領されていたが、高句麗軍が迫ると倭軍は退き、任那・加羅まで追撃した。ところが402年、新羅は奈勿尼師今(なこつにしきん)の王子未斯欣を人質として倭に送って通交する。404年になると帯方界に倭軍の侵入を受けるが撃退した。
・第20代の国王(在位:413年 – 491年)長寿王(ちょうじゅおう)
427年に首都を国内城から平壌に移し、新羅や百済、さらに百済を援軍として助ける日本軍と戦って朝鮮半島の大半と遼河以東までに勢力を拡大し、高句麗の最大版図を成した。475年には百済の漢城(ソウル特別市)を陥落させて蓋鹵王を殺害した戦勝により、百済は熊川に南遷し、振るわなくなった。
・第21代の王(在位:492年 – 519年)文咨明王(ぶんしめいおう)
前の長寿王は半島内に最大版図を築いたが、百済・新羅が同盟して対抗したため、文咨明王はこの二国に対して大きな戦果をあげられなかった。
■新羅(Wikipediaより)
・第19代の王(在位:417年 – 458年)訥祇麻立干(とつぎ まりつかん)
高句麗と倭とへ人質として送られていた王弟が即位翌年(418年)に帰国すると、徐々に高句麗からの従属的体制を脱そうとした。倭との交戦もしばしば発生している。431年4月、440年6月、444年4月と倭人の侵入を受けており、444年の侵入の際には首都金城(慶州市)を10日余りも包囲された。
・第20代の王(在位:458年 – 479年)慈悲麻立干(じひ まりつかん)
度々倭人と戦い、倭人の侵入に備えていくつもの城を築いたことが伝わっている。また、高句麗・靺鞨(まっかつ)からも北部辺境の悉直(しるじく)(江原道三陟市)への侵入も受けている。
・第21代の王(在位:479年 – 500年)炤知麻立干(しょうち まりつかん)
百済との同盟により、高句麗及び靺鞨(まっかつ)への対抗の体制を維持した。倭との交戦も度々見られた。500年3月には長嶺鎮(ちょうれいちん)を倭軍に陥落させられている。
・第22代の王(在位:500年 – 514年)智証麻立干(ちしょう まりつかん)
国号・王号の統一や軍制・官制などの整備を通して、新羅の国家形成を飛躍的に進めたと見られている。
■百済(Wikipediaより)
・第18代の王(在位:405年 – 420年)腆支王(てんしおう)
『日本書紀』応神天皇16年では直支王(ときおう)394年2月に太子に立てられ、397年に人質として倭国に赴いた。405年9月に阿莘王(あしんおう)が亡くなると、倭国の兵士に伴われて帰国した。416年には東晋によって 使持節・都督・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王冊封された。
・第19代の王(在位:420年 – 427年)久尓辛王(くにしんおう)
『日本書紀』では応神天皇25年(414年)に直支王(ときおう)の子の久爾辛(くにしん)が王となった。とある。
・第20代の王(在位:427年 – 455年)毗有王(ひゆうおう)
宋から430年に腆支王(てんしおう)に与えられていた爵号を継承する。中国南朝(宋)~百済~新羅・倭国の協調体制をもって、北朝(北魏)と結んだ高句麗に対抗する態勢を整えた。
・第21代の王(在位:455年 – 475年)蓋鹵王(がいろおう)
『日本書紀』雄略天皇5年(461年)では加須利君(かすりきみ)
中国南朝と通じるとともに新羅・倭国と同盟して高句麗に対抗する。倭国との通好。
・第22代の王(在位:475年 – 477年)文周王(ぶんしゅうおう)
『日本書紀』雄略天皇21年(477年)には汶洲王(もんすおう)
高句麗の長寿王が475年9月に百済の首都漢城(ソウル特別市)に攻め入った。文周は王位について熊津(ゆうしん)[忠清南道公州市]に遷都した。
・第23代の王(在位:477年 - 479年)三斤王(さんきんおう)
『日本書紀』雄略天皇23年(479年)には文斤王(もんこんおう)が亡くなったとある。
・第24代の王(在位:479年 – 501年)東城王(とうじょうおう)
『日本書紀』雄略天皇23年(479年)には、蓋鹵王(がいろおう)の弟で日本に来ていた昆伎王(こんきおう)[昆支王]の第二子の末多王(またおう)とする。
新羅との同盟を結び高句麗に対抗する。倭国はたびたび東城王時代の百済の内政に干渉していた。
・第25代の王(在位:502年 – 523年)武寧王(ぶねいおう)
『日本書紀』雄略天皇5年では、加須利(かすり)君の子の嶋君(せまきし)とする。継体7年武寧王が亡くなったとある。梁からは、もとの<行都督・百済諸軍事・寧東大将軍・百済王>から<使持節・都督・百済諸軍事・寧東大将軍>に爵号を進められた。
■倭の五王
・どの天皇を倭の五王とするか
・中国文献と記紀との違い
4~5世紀の天皇

古市(ふるいち)古墳群・百舌鳥(もず)古墳群
古市古墳群の主な天皇陵
第14代:仲哀天皇
第15代:応神天皇
第19代:允恭天皇
第21代:雄略天皇
第22代:清寧天皇
第24代:仁賢天皇
第27代:安閑天皇
百舌鳥古墳群の主な天皇陵
第16代:仁徳天皇
第17代:履中天皇
第18代:反正天皇

古市古墳群のなかの主な古墳

倭の五王の血縁関係
・中国文献と『日本書紀』では血縁関係が合わない

倭の五王の比定
・倭の五王を各天皇へ比定
倭王武が雄略天皇にあたるのは定説だが他はいろいろな説がある。
天皇の1代10年説から考えると下記のように考えられる。
①讃---応神天皇(413年:讃あり、421年:讃に爵号、425年:讃貢献)
[別の説:讃=仁徳天皇]
②珍---仁徳天皇(438年:珍貢献)
[別の説:珍=反正天皇]
③済---允恭天皇(443年:済貢献、451年:済に称号)
④興---安康天皇(462年:世子興に称号)
⑤武---雄略天皇(478年:武上表、479年:武に称号)
・中国文献
中国側の倭の五王関連記事
421年(永初 2年)讃に爵号。
438年(元嘉15年)珍を安東将軍とした。
451年(元嘉28年)済を安東将軍とした。
462年(大明 6年)興を安東将軍とした。
478年(昇明 2年)武を征東大将軍とした。
応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略の諸天皇の活躍時期の推定

『古事記』と『日本書紀』の記述の違い

古事記と日本書紀の漢字表記比較上段が『古事記』下段が『日本書紀』
