1.07.藤原京時代

干支による紀年日法と暦(基礎知識として)
古代には年月日(その他に時間や方位など)を表すのに干支(かんし)が用いられていた。
これは、下記のように十干(じゅっかん)と十二支(じゅうにし)の組み合わせによる。

十干と五行説
・十干(じゅっかん)の読み
 甲(こう)、乙(おつ)、丙(へい)、丁(てい)、戊(ぼ)、
 己(き)、庚(こう)、 辛(しん) 、壬(じん)、葵(き)

 十干の干支(かんし)での読みは下記となる。
 甲(こうorかっ)、乙(いっorいつ)、丙(へい)、丁(てい)、戊(ぼ)、
 己(き)、庚(こう)、辛(しん) 、壬(じん)、葵(き)

・中国の原子論、五行説の五要素
 木、火、土、金、水

 この二つを配して、おのおの陽すなわち兄(え)と、
 陰すなわち弟(と)に分けると下記のようになる。
  甲きのえ  (木の兄)     己つちのと  (土の弟)
  乙きのと  (木の弟)     庚かのえ   (金の兄)
  丙ひのえ  (火の兄)     辛かのと   (金の弟)
  丁ひのと  (火の弟)     壬みずのえ (水の兄)
  戊つちのえ(土の兄)     葵みずのと  (水の弟)

十干と十二支を組み合わせる
・十二支の読み(干支の訓よみ)
  子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、
  未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)

・十二支の干支での音読みは下記となる
  子(し)、丑(ちゅう)、寅(いん)、卯(ぼう)、辰(しん)、巳(し)、午(ご)、
  未(び)、申(しん)、酉(ゆう)、戌(じゅつ)、亥(がい)

十干と十二支を組み合わせて、干支による年、日を表記すると、最初の年は甲子(かっし)[きのえね]となり、 次の年が乙丑(いっちゅう)[きのとうし]となり、次の年が 丙寅(へいいん)[ひのえとら]となる。

このように組み合わせて行き、60年たつと甲子にもどる。

十干と十二支並べて表にする

邪馬台国の会HP第370回より作成

干支による年(日)の表し方

邪馬台国の会HP第370回より作成

元嘉暦と儀鳳暦
元嘉暦(げんかれき)
・平安時代の書物『政事要略』には、推古天皇12年正月朔日に初めて日本人の手によって作られた暦の頒布を行ったとの記述があり、これは元嘉暦によるものであったと考えられる。
・元嘉暦とは中国暦の一つで、かつて中国・日本などで使われていた太陰太陽暦の暦法である。中国・南北朝時代の宋の天文学者・何承天(かしょうてん)が編纂した暦法であり、中国では南朝の宋・斉・梁の諸王朝で、445年(元嘉22年)から509年(天監8年)までの65年間用いられた。
・19年に7閏月を置き、 1太陽年を約365.2467日、1朔望月(さくぼうげつ)を約29.530585日とする。[朔:新月、望:満月]
・何承天は、景初暦の冬至が後漢四分暦の観測値に従っていたため、実際の冬至より3日もずれていることを指摘し、天体観測のやり直しを行っている。また朔日の決定に月の遅速を考慮した定朔法を用いようとしたが反対が多く採用はしなかった。

儀鳳暦(ぎほうれき)
・唐の儀鳳年間[ 676年(天武5年)~ 679年(天武8年)]に日本に伝わり、儀鳳暦と呼ばれた。
・儀鳳暦は690年(持統4年)から元嘉暦との並用を始めた(『日本書紀』持統4年11月)。ただし、当初は日食計算などに主として用いられ、『日本書紀』の期日も元嘉暦であったされている[文武天皇の即位期日(8月1日)の干支を『日本書紀』は元嘉暦、『続日本紀』は儀鳳暦で表記しているためにあたかも2説あるようにも見えるが、実際には同日であった]。
・5年後の697年(文武元年)から儀鳳暦が単独で用いられるようになった。ただし、新暦の特徴の1つであった進朔(しんさく)[朔の到来がその日の3/4以上過ぎた後になる場合には、その日を「朔日」とせずに先送りにして、翌日をもって新しい月の朔日とする]は行われなかったとされている。
・その後67年間使用されて、 764年(天平宝字8年)に大衍暦(たいえんれき)[中国、唐の玄宗が僧一行(いちぎょう)に作らせた太陰太陽暦]に改暦された。

元嘉暦と儀鳳暦の切り替わり

445年に宋で元嘉暦が使われ、665年に唐で儀鳳暦が使われた。

・日本の歴史では456年までが儀鳳暦で700年までが元嘉暦となり、700年後がまた儀鳳暦となっている。

・このようになった理由は神武天皇から安康天皇の時代である456年前の記事が後世の儀鳳暦時代に記載されたことによると考えられる。

・これが、古い時代の記事が奈良時代の捏造によるという根拠になっている。

・しかし、干支による年代は後世に作られたとしても、記事は伝承に基づくとも考えられる。

邪馬台国の会HP第370回より作成 拡大可

東アジア情勢
新羅による朝鮮半島統一
・白村江の敗戦で朝鮮半島の足がかりを無くした日本は唐の侵攻を恐れ、内政を中心としていた。
・一方、唐は百済・高句麗をほろぼしたあと、その土地を直接支配しようとした。
・高句麗の平壌に安東都護府(あんとうとごふ)をおき、百済に熊津都督府(こむなりととくふ)をおいた。九の都督府と42州・100県をおき、半島の人間は都督・刺史(しし)・県令に任命し、唐人とともにこれを治めさせた。新羅も唐の鶏林州大都督府の直轄となり、文武王はその都護に任じられた。
・これに対し、高句麗の遺民が反乱し、 672年(天武1年)に反乱軍は一時、大同江(だいどうこう)の南まで進出した。これは背後で新羅が援助していたためである。この年は日本で、壬申の乱がおこっていた。
673年(天武2年) に、新羅は唐との誓約を破り、百済の地に侵入し、泗沘(しひ)城を正式に新羅領とした。
674年(天武3年)に、怒った唐が新羅征討を計画したが、その時は新羅の文武王が謝罪したため、いったんは落着した。
・新羅は朝鮮半島統一を目指し、675年(天武4年)に泉城で唐軍を破り、 翌年に錦江河口で唐の水軍を破り、唐の朝鮮半島支配を圧迫した。
676年(天武5年)に唐の安東都護府と熊津都督府を遼東に後退させる。
これによって、新羅は高句麗の大同江の南の地域と百済の地域を加え、朝鮮半島を統一する。新羅はその領土を9の州に分け、その下を郡・県とした。
・その後、唐との間では謝罪外交をしていたが、また小競り合いも続いていたので、緊張した関係であった。しかし渤海の誕生で、唐と渤海が緊張する関係となったので、新羅としては唐との関係を改善し、735年(天平7年)には唐の冊封体制の中に再び入った。

渤海の勃興

・唐・新羅にほろぼされた高句麗の遺民数万はこれに協力した北部満州の靺鞨(まっかつ)族とともに、唐の営州(遼寧省朝陽)におかれた。

・その後則天武后の時代に叛乱を起こし、故土に向かった。

・乞乞 仲象(きつきつ ちゅうしょう)が、この高句麗・靺鞨の一団を統率していたが、その子の大祚栄(だいそえい)は、父からもらった震国(しんこく)公の名をとって、697年(文武1年)に 震国王と称した。

図説日本の歴史 3巻より作成 拡大可

・震国の戸は十餘万で、ほぼ高句麗の旧領の北半分を領し、西は突厥と交わり、唐にも使いを遣わした。突厥をはじめとする周辺諸国の活動になやまされていた唐は大祚栄を渤海郡王とした。これより震国は712年(和銅5 ) に国号を渤海と称した。
・新興の渤海は領土拡張につとめ、新羅を圧迫、唐と事を構えることも辞さなかった。これに対し、唐は新羅と急速に親密の度を高めたので、外交的に孤立した渤海は日本に接近してきた。そして727年(神亀4年)渤海の使節が初めて、日本に来た。
・この渤海と日本との通交開始は唐とむすんでいた新羅を刺激した。新羅は8世紀になっても、しばしば日本に使節を送り朝貢の態度をとっていたが、732年(天平4年)に朝貢の間隔を広げたいと申し出た。唐を後ろ盾にして、日本に強く出てきたものと思われる。

律令制度の強化
壬申の乱の戦勝後の対応
・壬申の乱は日本国内の混乱であり、国内が疲弊した状態で、危機であった。
・また海外情勢をみれば、 朝鮮半島の新羅は百済、高句麗とは違い、積極的に唐のやり方を取り入れ、律令体制により、整備された官僚制が形成された。新羅の躍進はその結果とも見えた。
・天武天皇は朝鮮半島で高句麗の遺民の反乱や、新羅と唐の緊張関係など、国際情勢も考え、早急に国家体制を強化する必要があった。
・壬申の乱により、古来の大豪族の勢力がおとろえたので、律令体制を更に推し進め、中央集権を確立することが、可能な環境が整ったことになる。これを天皇中心の政治体制にするチャンスと考えた。
・しかも、これらのことを思案しているいとまは無かった。ただちに政策立案して、実行にうつさねばならなかった。それだけ海外の情勢がせまっていたことになる。

天武朝政権の独裁体制

・太政官は、奈良時代の太政大臣、左大臣・右大臣、大納言・中納言・小納言の代わりに、納言があった。

・また、奈良時代の左弁官/右弁官に相当する大弁官があった。

・直接、天皇が納言に指示する。納言に任命されるのは古来の豪族の長ではあったが、国政に対する発言権は極度に狭められたのではないか。

・大弁官は唐の尚書省(しょうしょしょう)をまね、行政官庁の長(六官)や地方行政組織の長[国司(国宰)]への行政命令を統括する組織である。

官司の統治体制
(日本の歴史4巻より)

飛鳥浄御原宮
・飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)は天武天皇と持統天皇の二代が営んだ宮で、奈良県明日香村飛鳥に伝承地がある。
672年(天武元年)の壬申の乱に勝利した大海皇子が、天智天皇・弘文天皇の都であった近江国の近江大津宮から飛鳥に都を戻すべく、岡本宮にうつり、間もなくその宮の南に新しい宮室を造営し、その完成を待たずにうつったこれが飛鳥浄御原宮である。
673年(天武2年)2月に天武天皇が即位する。そして壬申の乱で苦楽を共にした鸕野讚良(うののさらら)皇女が皇后となった。
・天武天皇が即位して以降、天武天皇とその皇后で次の天皇となった持統天皇が、20年以上に渡ってこの宮で律令国家の基礎を築く事業を進めたとされる。694年(持統8年)に藤原宮に遷都され、飛鳥浄御原宮は廃止された。

中国の律令
■律
・中国には古くから、人々が社会生活をいとなむ上の規範としてある種の秩序、ある種のきまりがあった。やがて儒教が社会に浸透してくると、孝、忠、義、信などの徳目が強調されるようになる。そういう法律以前の社会規範を礼とした。この礼が犯されたとき、刑と兵がある。刑と兵は秩序維持のための力であった。漢の時代に慣習法として刑を明文化したものが律である。

■令
・律の執行には行政的な機構・組織、そして規律が必要である。皇帝のもとで裁判をするにしても、検事、判事が必要である。またその職務がどのような規律で行われるべきかを定める必要があった。令はこのように律を補うものとして、漢時代からつくられるようになった。
・それを一般的な行政法に拡大したのが北魏である。北魏拓跋(たくばつ)族は北方の少数民族であったが、武力で広大な漢の土地を支配した。それには強大な軍事力と効率的な支配機構が必要であった。その支配機構のため、従来の令を体系的な国家統治のための行政法にした。
・中国での律令編纂の歴史をみると、律は令より先に編纂され、令は王朝あるいは皇帝が交替するごとに編纂され直すという特徴が見出される。
・律は中国社会に根ざしているものであったため、王朝が変わっても、新王朝は前王朝の律を参考にするが、令は王朝の統治のための法として、新たに定めることになる。
・中国では、律が残っているのに対し、令はほとんど残こらなかったのはこのような理由からである。
・それに対し、日本では隋・唐から律令を学んだとき、令こそ国家の基本法だと考えた。そのため、令の模倣から着手したのである。飛鳥浄御原律令では令はつくられたが律はついにつくられなかった。中国とは全く逆であった。

飛鳥浄御原令
・飛鳥浄御原令(あすかきよみはられい)に先行する令には、天智天皇が668年(天智2年)に制定したとされる近江令がある。
・近江令の存在については、非存在説も含めて見解が分かれているが、近江令とは、律令制を指向する単行法令を総称したものであり、体系的な法典ではなかったとする見方が広く支持されている。
・天武天皇は、政権中枢を皇子らで占める皇親政治としたので、専制的な政治を行った。
・天武天皇は、その強力な政治意思を執行していくために、官僚制度とそれを規定する諸法令を整備していった。このような官僚(官人)と法律を重視する支配方針は、支配原則が共通する律令制の導入になっていったと考えられる。
681年(天武10年) 2月、天武天皇は皇子・諸臣に対して、律令制定を命ずる詔を発令した。しかし、律令が完成する前の686年(朱鳥元年)に天武が没したため、その皇后の持統天皇と皇太子の草壁皇子が律令事業を継承した。
・飛鳥浄御原令が諸官司に頒布(はんぷ)されたのは、689年(持統3年) 6月である。律は制定されず、令のみが頒布された。
・飛鳥浄御原令により、いくつかの重要な事項が本令により定められたとされている。天武朝において天皇号が制定され、本令により法典に明記されたと考えられている。その他、戸籍を6年に1回作成すること(六年一造)、50戸を1里とする地方制度、班田収授に関する規定など、律令制の骨格が本令により制度化されたと考えられている。
律は制定されず、唐律が適用されたとするのが通説である。

・飛鳥浄御原令は、急遽施行されたという事情もあり、必ずしも完成された内容ではなかった。そのため、律令の編纂作業はその後も継続していき、最終的に701年(大宝元年)の大宝律令によって、天武天皇が企図した律令編纂事業が完成することとなった。

地方支配の変化
・天武天皇の即位直後から天皇が意図した国家の体制づくりが進行し、地方にも変化があらわれる。
・大和朝廷は地方豪族が支配する地域を国造(くにのみやつこ)として認め、支配地域を拡大して来た。大化の改新後、評造(こおりのみやつこ)が置かれ、当初は国造と評造が併存していた。
・天智天皇から、天武天皇にかけて、評督(こおりのかみ)・助督(こおりのすけ)という二等の官で構成される地方官が設けられる。このときはまだ、国造や評造が残っていたが、旧来の国造支配の地域は分割統合され、評とういう行政区画が次々と設けられた。そして評を単位として国がつくられる。
・そこで国の行政官として、国宰(くにのこともち)が朝廷から派遣されるようになる。これが後の国司である。しかしこの頃の国司は大宝律令で規定された財政管理権などは無く、権限が限定されていたようだ。

京・畿内と地方の七道の制
・飛鳥浄御原宮周辺の地域を特別の行政区として、京職(きょうしき)という官庁をおいた。(藤原京では左京職と右京職にわかれる)
畿内は都周辺の大倭(やまと)国、河内(かわち)国、摂津(せっつ)国、山背(やましろ)国を合わせて畿内という行政区とした。
地方は、令の制度で京・畿内以外の諸国を、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七つの広域行政区に分けている。

・七道の制について、 675年(天武4年)にはまだできていなかったようだが、『日本書紀』によれば、 683年(天武12年)12月、翌年10月とに使者を全国に派遣して諸国の境界を定めさたとある。これは七道の制が始まっていると解釈できる。
・唐の十道の制は軍事制度であり、七道の制はこれを模倣し、天武朝から始まったと考えられる。これにより、畿内・七道の制の成立によって、古代の中央集権体制が確立し、軍事体制も強化されていった。

持統天皇とその後継
天皇系図 

日本書紀より作成

持統天皇

・鸕野讚良(うののさらら)皇女、父は天智天皇で、母は遠智娘(おちのいらつめ)といい、母方の祖父が蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)である。父母を同じくする姉に大田皇女がいた。大田皇女の子が、後に悲劇の皇子となる大津皇子である。

・大海皇子に嫁ぎ、 壬申の乱で大海皇子が吉野に隠せいしたとき、草壁皇子を連れて従った。決起して壬申の乱を起こした時、子の草壁皇子、母を異にする忍壁皇子を連れて、夫に従い美濃に向けた脱出の強行軍を行った。

・『日本書紀』は壬申の乱で大海皇子と「ともに謀を定め」たとあり、壬申の乱への関与の高さを感じさせる。

小倉百人一首におさめられた持統天皇
 ( Wikipediaより)

・大田皇女は667年(天智6年)に亡くなる。その結果、鸕野讚良皇女が大海皇子の妃の中で一番身分が高いことになる。
・大海皇子が壬申の乱に勝利して673年(天武2年)に即位すると、鸕野讃良皇女が皇后になった。 『日本書紀』には「天武天皇の在位中、皇后はずっと天皇を助け、そばにいて政事について助言した。」とある。天武天皇にたいする皇后の影響力の大きさを思わせる。
・天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていった。 686年[朱鳥(あかみどり)元年]7月に、天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになった。
・同年9月に治世14年の天武天皇が崩御。鸕野讃良皇后は皇太子の草壁皇子が24歳と、まだ若かったので、自らが称制となった 。

天武天皇の皇子

日本の歴史4巻 より作成

大津皇子
・天武天皇が崩御後、後継の皇子について、皇太子であった草壁皇子が年齢的にも大津皇子より、1歳上であり後継者として妥当な存在であった。
・しかし『懐風藻』 [751年(天平勝宝三年)に成立した漢詩集で、編者は淡海三船(おうみのみふね)との説が有力]によれば、大津皇子は体が逞しく、幼くは文章の才があり、大きくなってからは武を好んで、剣に勝り、性格は自由奔放、腰を低くして、士を尊ぶところがあったと言われている。
・大津皇子はちょうど、天智天皇が亡くなった時の、大海人皇子と似ていた。
・ただ、大海人皇子と違うところは、天武天皇が亡くなってから、2週間後に謀反が発覚し、死を賜ったことである。
・『懐風藻』によれば、計画を進めていた同志の河島皇子(天智天皇の第2皇子)が密告したためと記されている。
・これにより、鸕野讃良皇后はわが子の草壁皇子を天皇に据えることができる状況となった。

高市(たけち)皇子
・天武天皇が大海皇子だったころ、筑紫の胸形君徳善の娘の胸形君尼子娘(あまこのいらつめ)を娶って産まれたのが高市皇子で、天武天皇の皇子の中で高市皇子が一番年長であった。
・天武天皇が吉野で挙兵した時、高市皇子は大津から駆け付け、不破の関で、全軍の総指揮官となり、壬申の乱での天武天皇側の軍を勝利に導いた立役者であった。
・しかし大津皇子の謀反後、慎重な対応をとるようになったのではないか。大津皇子事件のころから、 『日本書紀』の高市皇子の記載は簡略となる。
・高市皇子は690年(持統4年) 7月に太政大臣になった。その年の 10月に藤原宮の予定地を見にいっていおり、 藤原宮の準備にかかわったりして、持統天皇の政治を助けている。
696年(持統10年)7月に高市皇子が亡くなる。毒殺との説もある。高市皇子の死去について、『日本書紀』の記載は「高市皇子尊が薨去(こうきょ)された」と簡単である。

文武天皇

・ところが、鸕野讃良皇后が期待していた草壁皇子は3年後の689年(持統3年)4月に28歳の若さで亡くなる。そこで、鸕野讃良皇后は草壁皇子の子の軽皇子に天皇の位を継がせようと、持統天皇として即位する。

・その後持統天皇の希望通り、697年(持統11年)軽皇子は15歳で即位して、文武天皇となる。

・持統天皇は自身の意志によって位を譲ったが、隠居したわけではない。譲位の後も政治にかかわっていた。

・このような政治形態は平安末期から鎌倉時代の院政としてしられているが、最初におこなったのが持統太上天皇と考えられる。

文武天皇 ( Wikipediaより)

元明天皇
・自分の子の草壁皇子を天皇にしようとして、果たせず、孫の文武天皇を即位させた持統太上天皇は大宝律令が全面施行された年、 702年(大宝2年)12月に崩御する。そして病弱な文武天皇もその5年後の707年(慶雲4年)6月に25歳の若さで亡くなる。
・文武天皇が亡くなったことは天武天皇嫡系の皇子による継承の危機となり、持統天皇と同じように、文武天皇の母であった阿閉(あへ)皇女が元明天皇として即位し、幼い5歳の首(おびと)皇子を擁護する。元明天皇は天智天皇の子という権威もあり、中継ぎとしてはふさわしい存在であった。
・文武天皇の妃は藤原不比等の娘である宮子であったが、今まで皇后は皇族出身と決まっていたので、臣下の子であった宮子は皇后にはなれなかった。宮子が皇后になるのに一番反対した勢力は長屋王であった。
・次の聖武天皇の皇后の光明子は同じ藤原不比等の子であったが、藤原氏の勢力拡大を背景に皇后になれた。

藤原不比等

・藤原不比等は、大化の改新で功があった藤原鎌足の第二子である。第一子は定恵(俗名、真人)で僧侶となったので、不比等が藤原を継いだ。天智天皇の落胤との説もある。

・ 『続紀(しょっき)』 の698年(文武2年)8月に、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り(太政官の官職に就くことができる)、不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ(神祇官として祭祀のみを担当する)こととなった。不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる。

・壬申(じんしん)の乱の時は近江朝側にいたが、13歳ということもあり、処罰の対象ではなかった。

・しかし、大宝律令の編纂など外来文化の導入に努め、政治面でも影響力を強める。

藤原不比等(菊池容斎・画、明治時代)
( Wikipediaより)

県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)
・三千代の出生時期は不明だが、初め、美努王(みのおう)[美濃王]と結婚して、葛城王[後の橘諸兄(たちばなのもろえ)]、左為王[後の橘左為(さい)]を産む。
・その後美努王が大宰帥(だざいのそつ)として筑紫(つくし)に赴任した後、 700年(文武4年)に藤原不比等と再婚して、安宿媛(あすかべひめ)[後の光明子]と多比能(たびの)を産んだ。
・軽皇子(後の文武天皇)の乳母を務めて後宮で影響力をもった。
・元明天皇が707年(慶雲4年)に即位したとき、その翌年に、三千代は橘宿禰(たちばなのすくね)の氏姓を賜る。河内国古市郡[和泉国茅渟県(ちぬのあがた)の説もある]の犬養が三千代の同族で、この地に橘が植えられていたことから、三千代が橘の氏号を受けたとの説もある。
・元明天皇が三千代の政治手腕に期待することが多かったと推定される。これは河内国古市郡など渡来人氏族との繋がりで、陰で影響力があったのではないか。

渡来系氏族の繋がり
・また藤原不比等も『日本書紀』などから元来の名は「史(ふひと)」であった。これは養育者の「田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)」に基づくとの説が有力である。この田辺史は百済からの渡来系氏族のようで、その主要な居住地は河内国安宿部(あすかべ)郡であった。
・更に、持統天皇も鸕野讃良(うののさらら)皇女といわれたのは、『日本書紀』の天智紀にある「鸕野皇女」「娑羅々(さらら)皇女」が合わさったものと考えられる。
・この名は育った河内国「更荒(さらら)郡」のに居住する新羅系渡来人の名から来ているとの説がある。
・当時は朝鮮半島は白村江後の百済の滅亡、高句麗の滅亡と渡来系の人々が日本へ大勢来ており、横のつながりもあった。
・このように三千代と不比等と、持統天皇は渡来系氏族で繋がっていたのではないかとの説がある。
その中で、三千代が大きな影響力を持っていた。

和同開珎
・元明天皇の即位の翌年、武蔵国秩父から銅が産出したというので、年号を和同と改めた。『続紀』に和同年間に銭貨の記事が多いので、和同開珎の和同は年号から来たと考えやすいが・・・
・和同開珎は皇朝十二銭の最初の銭貨であった。
・日本の貨幣鋳造と発行は天武天皇のころからおこなわれていた。和同開珎の銅銭は銅の成分や字形から、何回かにわたって鋳造されていたようだ。

天武朝のころのものを古和銅といい、和銅の年代のころが新和銅という。

図説日本の歴史 3より

政治体制の整備と藤原京
続日本紀(しょくにほんぎ)
・文武天皇から、『日本書紀』に代わり『続日本紀』(今後『続紀』と省略表記)によって書かれることになる。 『続紀』は文武天皇元年8月から桓武天皇の延暦10年(791年) 12月までの9代の天皇について、足かけ95年の歴史を記述している。
・主に奈良時代の歴史が書かれていることになる。
・前半は697年(文武元年)から757年(天平宝字元年)、孝謙天皇の治世までを扱う30巻。
・後半は758年(天平宝字2年)淳仁天皇から桓武天皇の治世のうち791年(延暦10年)までの全20巻とした。
・律令国家が整えられたことにより、内記や外記、図書寮などに不十分ながらも記録や公文書が蒐集される仕組が形成されてきた事が記録の充実をもたらすことになる。
全般に記述が簡潔で、事件の要点のみを記して詳細に及ばない。

大宝律令
・天武天皇により681年(天武10年)に律令制定を命ずる詔が発令され、
天武天皇没後の689年(持統3年)6月に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が頒布・制定された。
・ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、日本の国情に適合しない部分も多くあったのではないか。
・更に律令編纂は行われたようで、現状の体制に適合させる努力をしてきたようだ。
・そして、700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝元年)8月に大宝律令(6巻の律と11巻の令)として完成した。
・大宝律令の撰定は持統太上天皇の影響が大きくあったと考えられる。
・その後757年(天平宝字元年)施行された養老律令は大宝律令継承した。、そして律令制度は形骸化して明治維新まで存続した。
・大宝律令は、日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令で、唐の永徽律令(えいきりつれい)[651年制定]を参考にしたと考えられている。
・刑法的な「律」は唐のものを模倣しているが、行政法的な「令」は唐の模倣はあるが、日本の実情に合わせてつくられている。
・大宝律令は忍壁(刑部)(おさかべ)皇子を総裁として、19人によって編纂された。
・日本古来の豪族でも、藤原不比等、坂合部宿禰唐(さかいべのすくねもろこし)が加わったが、多くは渡来系の氏族であった。
・渡来系の氏族としては、中国系の一世である薩弘恪(さっこうかく)がいた。
・しかし、多くは二世以降となる伊岐連博徳いきのむらじはかとこ)、白猪史骨(しらいのふひとほね)、黄文連備(きぶみのむらじそなう)、田辺史百枝(たなべふひとももえ)、田辺史首名(たなべふひとおびとな)などの氏族であった。

評(こおり)から郡へ
・大化の改新で地方の行政区画が評(こおり)となったが、大宝令によって、評が廃止されて郡(ぐん)がおかれ、郡司は大領(だいりょう)・少領(しょうりょう)・主政(しゅせい)・主帳(しゅちょう)の四等官が任命された。
・特に権限が強かった大領・少領のみを差して「郡領」とも言う。中央の官人が任期制で派遣されていた国司と異なり、郡司は、旧国造などの地方豪族が世襲的に任命され、任期のない終身官であった。
・郡司は徴税権のみならず、保管、貢進、運用、班田の収受も任されるなど絶大な権限を有しており、律令制初期の地方行政は朝廷から派遣されていた国司と在地首長としての権威を保持していた郡司との二重構造による統治が行われていた。
・しかし、朝廷は郡の分割や郷の編入などで郡の再編を進め、豪族の勢力圏と切り離した行政単位としての郡の整備を進める。
・また、郡内に複数の豪族が拠点を置く場合は、持ち回りで郡司に任命するなど、特定の豪族が郡司を独占しないように配慮した。

渡来系の人々
・古墳時代少し前から、渡来系の人たちが来たのは下記時期が考えられる。
 ①3世紀ごろ
弥生時代終末期から古墳時代。中国では後漢から三国時代に変わる混乱の時期、朝鮮半島では楽浪郡など後漢の直轄地が、公孫氏の領土に変わる混乱期であった。
 ②5世紀中から後半にかけて
倭の五王時代に、朝鮮半島との関係が深くなり、渡来人が来るようになったのではないか。奥三河、遠江などで、このころからの渡来系の人の遺跡が存在する。
 ③6世紀後半から7世紀初めにかけて
562年に新羅が任那を併合した、更に日本では仏教が盛んになり、これに関連して朝鮮半島の人々が日本へ来たのではないか。
 ④7世紀後半
百済の復興をかけた白村江の戦い(663年)の敗北、高句麗の滅亡(668年)などで、多くの亡命渡来人が日本へ来た。その数は多く、大和朝廷としては都の周辺に居住させないためと、未開地の開発のために関東などへと移住させたと考えられる。

渡来系氏族と建郡

・上野(こうずけ)国に三つの有名な古代の石碑がある。

  ①山ノ上碑(高崎市山名町) 681年(天武10年)

  ②多胡[たご]碑(高崎市吉井町) 711年(和銅4年)

  ③金井沢碑(高崎市山名町) 726年(神亀3年)

・多胡碑の碑文は上野国の「片岡郡、緑野(みどの)郡、甘良(かんら)郡の三郡」から300戸をさいて多胡郡をつくったことを記念して設置されたもので、この多胡郡設置については『続紀』の711年(和銅4年)3月に書かれている。しかし、碑文の「弁官符」と「給羊」の解釈ではいまだに説が分かれる。

・「給羊」の「羊」は方角説と人名説と動物の羊説があるが、人名説が有力で、多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)とする。

・また、「羊」には氏も姓もないから、渡来系の人であろうとする説もあり、埼玉県掛川市に高麗(こま)神社がある。

多胡碑の拓本
日本の歴史4巻 より

・関東地方には渡来系氏族の集団が多数居住していた。しかも比較的新しい渡来人が多い。 『日本書紀』に天武朝から持統朝にかけて、百済人を武蔵国、高麗人を常陸国に、新羅人を下野国と武蔵国に居住させたとある。
・これは後進地域の関東を渡来人を使って開発させたのではないか。このような歴史を経て、 716年(霊亀2年)に駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七か国の高麗人1799人を武蔵国に移住させて高麗(こま)郡がつくられる。
・高麗郡からは、聖武天皇の寵厚く従三位の位までにのぼる高麗福信(こまのふくしん)[高倉福信]がでている。
758年(天平宝字2年)に武蔵国に新羅郡がつくられる。『続紀』に、新羅人を閑地に移して郡をたてたと述べている。やはり僻地開発が期待されたのであろう。[志楽・志楽木・志羅木・志木(しき)・新倉(にいくら)と読まれた]
・その他、『続紀』に、尾張国の外従八位上席田君迩近(にきん)および、新羅人74家を美濃国に移住さて、席田(むしろだ)郡を建てたとある。

位階による特権

・推古朝で定めた冠位の制は、大化の改新、天武朝、大宝令と変わってきた。

・八位以上になると課役(かやく)が免除された。五位以上は本人と父と子、三位以上は本人、祖父、父、兄弟、子、孫。

・五位以上は通貴、貴といわれ多くの特権がある。官給の資人(しにん)、位田、位封、位禄が付く。また刑法上の取り扱いが違い、位を下げて罰のレベルが免除になる。

・陰位(おんい)の特権があり、 21歳以上になると位がさずけられる。四・五位は子が対象、三位以上は子と孫が対象で、一位の場合は五位であり、自動的に貴族となる。

日本の歴史4巻 より作成

藤原京遷都
・『百人一首』の持統天皇の有名な和歌に下記がある。
春すぎて 夏来(き)にけらし 白妙(しろたへ)の 衣(ころも)ほすてふ 天(あま)の香具山(かぐやま)

現代語訳:春が過ぎて夏がやってきたようですね。夏になると真っ白な衣を干すと言いますから、あの天の香具山に(衣がひるがえっていますから)。

・これは、持統天皇が藤原宮から香具山を詠ったものとして有名である。
・藤原京の着工は天武天皇のころから行われた。持統天皇は691年(持統5年)から新都建設工事を具体化する。そして、694年(持統8年)に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらぐう)から藤原京へ遷都した。
・藤原京は持統・文武・元明の三天皇が居住した16年間の都で、中国の都城制を模倣して日本で最初に造られた本格的な都城であった。
・これにより、海外諸国に対する国力の誇示と、国内の地方豪族や人民に対する威圧の意味もあったと思われる。

藤原京

・藤原京は北に耳成山(みみなしやま)、東に香具山(かぐやま)、西に畝傍山(うねびやま)と三方に小さな山に囲まれている。
・それ以前の飛鳥の諸宮が数ヘクタール、飛鳥浄御原宮でも十数ヘクタールであることから、それ以前の規模より、大きかった。
・都市としての大きさも、東西
10坊、南北10条で、5.3
キロ四方である。

これは、平城京の4.3キロ
四方より、1キロ大きい。

日本の歴史4巻より作成 拡大可

・藤原宮の宮城は大垣が宮の内外を隔てた。その広さは東西927メートル、南北906.8メートル、面積は84ヘクタールで、平城京と比べ、東西、南北とも、100メートル短い。
・藤原京の人口は『続紀』 701年(大宝元年)の記事から下記であった。
 ①三位以上:6人
 ②五位以上:119人
 ③六位以上は五位の5倍と計算して、600人程度。

これに下働き、女官などを入れ、おおよそ数千人の人口と推定される。
・この地は地下水の水位が高く、湧水が多いので、池が多い。
・また一説では、藤原鎌足誕生堂付近に藤の木があり、その側に「藤井」という名水があったことから「藤井ヶ原」と呼ばれた。これを略して、藤原と呼んだとのことである。
・ 平安時代の『扶桑略記(ふようりゃくき) 』に、平城京遷都の1年後の711年(和銅4年)に藤原宮が焼失されたと記載されている。本当に焼失したかは不明。

高松塚古墳
高松塚古墳について
・高松塚古墳は、藤原京期(694年710年)に築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。
・古墳は奈良県高市(たけち)郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)にあり、檜隈(ひのくま)の地に位置している。この地がその東北の飛鳥の地と接し、古くより皇室との密接な関係のもとに発達したと考えられる。
・宣化天皇は廬庵入野(いおりの)に都したといわれ、欽明天皇の葬られたのは檜隈の坂合(さかい)陵などである。
・もう一つはこの地と朝鮮系渡来氏族と繋がりが深いことである。応神天皇の時代に阿知使主(あちのおみ)を祖とする東漢(やまとのあや)氏の分派氏族がこの地に居住していた。
・高市郡は古名を今来(いまさ)郡といったのは、新漢(いまきのあや)つまり、新来の漢人(あやひと)に由来する。

・高松塚古墳の石室は天井に星座が描かれており、四壁面の四神に対応して、二十八宿が描かれている。
・東壁面では、中央に青龍を描き、その上に日像(にっしょう)を配し、それらの南側に男子4人、北側に女子4人の群像を描く。
・これに対する西壁面には、中央に白虎を描き、その上に月像(げっしょう)を配す。東壁と同じような男女群像がある。
・北壁面には玄武があるが、南壁面は朱雀の像は検出されず、盗掘の孔がある。

古墳内部の壁面(日本の歴史4巻より作成)

壁画は石室の切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗った上に描かれている。

・服装は緑の衣を着、赤の紕帯(そえおび)を腰に結び、四色の裙(も)をはいている。
・衣と裙の間のひだがある衣服が褶(ひらみ)である。
・このような服装を着るのは702年(大宝2年)以降であり、襟が左前となっており、 719年(養老3年)にいまのように右前に変える法律を出している。

中でも西壁の女性群像は(壁画発見当初は)色彩鮮やかで、飛鳥美人と騒がれた。
女性の服装 (Webと日本の歴史4巻より作成

高松塚古墳の被葬者について
・被葬者については諸説あり特定されていない。そもそも飛鳥地域の古墳群で被葬者が特定されているものが稀である。被葬者論に関しては、天武天皇の皇子説、臣下説、朝鮮半島系王族説と大きく 3つに分類できる。

天武天皇の皇子説
 忍壁(おさかべ)皇子、高市皇子、弓削皇子ら、天武天皇の皇子を被葬者とする説。
 忍壁皇子説を唱える代表的な人物は、直木孝次郎氏、猪熊兼勝氏(考古学者)、王仲珠氏ら。根拠は46歳位で死亡したと見られる忍壁皇子が出土人骨の推定年齢に近いことと、人物像の服装など。
 高市皇子説を唱える代表的な人物は、原田大六氏(考古学者)、河上邦彦氏(奈良県立橿原考古学研究所 )、豊田有恒氏(作家)ら。

弓削皇子説を唱える代表的な人物は、菅谷文則(元滋賀県立大学名誉教授)、梅原猛氏(哲学者)ら。
しかしながら、出土した被葬者の歯やあごの骨から40代から60代の初老の人物と推測されており、20代という比較的若い頃に没したとされる弓削皇子の可能性は低いと考えられる。

臣下説
 岡本健一氏(京都学園大学教授)、白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館館)らは石上麻呂説を主張する。この説となると高松塚古墳は奈良時代の年代となる。

朝鮮半島系王族説
 百済王禅光と主張するのは千田稔氏(国際日本文化研究センター名誉教授)。堀田啓一氏(高野山大学教授)は高句麗の王族クラスが被葬者であると主張している。

まとめ
年表

藤原京時代まとめ
・東アジア情勢
新羅は共に百済・高句麗を滅ぼした唐と争い、高句麗の大同江の南の地域と百済の地域を加え、朝鮮半島を統一する。また、滅ぼされた高句麗の遺民はこれに協力した北部満州の靺鞨(まっかつ)族と共に渤海を建国した。唐、新羅、渤海、日本の各国の関係がからみ複雑な国際情勢となる。

・飛鳥浄御原令
天武天皇は、その強力な政治意思を執行しようと、官僚制度とそれを規定する諸法令を整備するため、律令制の導入を推進した。しかし律は制定されず令のみで、最終的には大宝律令で整う。

・持統天皇
天武天皇の崩御後、皇太子の草壁皇子がまだ若かったので、自らが称制となり、次の有力な天皇候補となる大津皇子を謀反の容疑で排除する。しかし草壁皇子が若くして亡くなったので、その子の軽皇子が育つのを待ち15歳で即位させ、文武天皇とする。そして自らは太上天皇となる。

・元明天皇
文武天皇が若くして亡くなったので、文武天皇の母の阿部(あへ)皇女が元明天皇として即位する。

・藤原京遷都
藤原京の着工は天武天皇の頃から行われ、持統天皇になって新都建設工事を具体化する。そして 694年に飛鳥浄御原宮から藤原京へ遷都した。

・県犬養三千代
初め、美努王と結婚して、葛城王(後の橘諸兄)を産む。不比等と再婚し、安宿媛(光明子)を産む。その後三千代は橘宿禰の氏姓を賜る。河内国古市郡など渡来人氏族との繋がりで政治手腕が高いと推定され、陰で影響力があった。

渡来系氏族と建郡
関東地方には渡来系氏族の集団が多数居住しており、比較的新しい渡来人が多い。後進地域を渡来人を使って開発させたと考えられる。武蔵国に高麗郡、新羅郡、美濃国に席田(むしろだ)郡など多くの渡来系の郡がつくられる。

・高松塚古墳
藤原京期に築造された終末期の二段式の円墳である。石室は天井に星座が描かれており、四壁面の東に青龍と日像と女子像と男子像、西に白虎と月像と女子像と男子像、北に玄武がある。被葬者については天武天皇の皇子説が有力とされている。