平城京遷都
元明天皇の時代、和銅3年(710)に平城京遷都の詔が発せられた。
文武天皇が亡くなり、その後を文武天皇の子の首皇子(おびとのみこ)[聖武天皇]が継ぐべきなのだが、首皇子が幼いので、文武天皇の母が元明天皇として即位した。
それまで、天皇一代ごとの遷都であったのが藤原京は持統・文武・元明の3代が居住した。しかし文武天皇の末期に遷都が論じられ、元明天皇になり、藤原京から平城京に遷都した。
天皇系図

元正天皇
・父は草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子)で、母は元明天皇[阿閉(あへ)皇女]。文武天皇の姉の氷高(ひたか)皇女。
・皇太子である首皇子(聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇は55歳で、実子である文武天皇の4歳年上の姉である氷高皇女に位を譲った。
・元正(げんしょう)天皇は「中継ぎの中継ぎ」として、36歳で即位した。そして年号は霊亀(れいき)[715年]に 改められた。
・歴代天皇の中で唯一、母から娘への皇位継承が行われた天皇で、結婚はしていない。独身で即位した初めての女性天皇である。
・聖武天皇に譲位した後も、病気がちな聖武天皇を補佐したようだ。

聖武天皇
・714年(和銅7年)には13歳の首(おびと)皇子の元服が行われて正式に立太子された。
・しかし、首(おびと)皇子が病弱であったこと、皇親勢力と藤原氏の勢力の対立があったことなどで、即位は先延ばしとなり、元正(げんしょう)天皇が715年(霊亀元年)に即位する。
・716年(霊亀2年)に藤原氏の期待の光明子が首皇子の妃となった。 719年(養老3年)首皇子は政務を見始める。
・藤原不比等は720年(養老4年)に61歳で亡くなる。
・首皇子は724年(神亀元年)の24歳のときに元正天皇より皇位を譲られ聖武天皇として即位する。

光明皇后
・光明皇后は藤原不比等と県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)(橘三千代)の娘であり、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉にあたる。名は安宿媛(あすかべひめ)で、光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)ともいう。正式な尊号は天平応真仁正皇太后である。
・聖武天皇の即位とともに後宮の位階である夫人号を得る。718年(養老2年)に阿倍皇女(後の孝謙・称徳天皇)を出産。 727年(神亀4年)に基王(もといおう)[後の長屋王の変の要因となる]を出産。
・長屋王の変後、 729年(天平元年)に皇后となる。皇族以外から立后された初例であり、以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。
・仏教の庇護者としてさまざまな伝説も伝えられている。

平城京の配置

・『続紀』では707年(慶雲4年)2月に文武天皇が五位以上の者に詔して、遷都のことを議せしめたとある。
元明天皇は710年(和銅3年)3月に平城京へ遷都する。
・その詔は「四禽図(しきんず)に叶い、三山鎮を作(な)し、亀筮(きぜい)並びに従う」とあり、東に青龍の流水、南に朱雀の池、西に白虎の大きな道、北に玄武の高い山のように四神が配され、春日山、奈良山、生駒山の三山があり、天子南面にして、うしろに山を背負い、左右に丘陵、前面に平地があり、亀筮(陰陽道)に従っている。 このように平城京は理想の地であった。
四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)
・「奈良の都は四禽図(しきんず)に叶い・・・」と言われている。
・四禽図は四神のことで、青龍、白虎、朱雀、玄武である。四獣(しじゅう)、四象(ししょう)ともいう。

・古代中国で方角をつかさどる神とされた。
・高松塚古墳の石室は天井に星座が描かれており、四壁面の四神に対応して、二十八宿が描かれている。

都としての平城京
・平城京は唐の長安の都城をモデルにし、藤原京の影響を受けて造られた。
・東西は藤原京が十二条からなるのに対し、平城京は九条となり、大路小路(おおじこうじ)が碁盤目じょうに通る。
・南北は朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りがあった。
・大和盆地中央部を南北に縦断する大和の古道下ツ道・中ツ道を基準としている。下ツ道が朱雀大路に当たり、少しずれるが中ツ道が左京の東を限る東四坊大路に当たる。
・各大通りの間隔は約532メートルで、大通りで囲まれた坊は、堀と築地(ついじ)によって区画された。
・京域は東西約4.3キロメートル(外京を除く)、南北約4.7キロメートル(北辺坊を除く)。
・東に張り出した外京(げきょう)があるのが特徴で、興福寺や元興(がんごう)寺が建てられた。東大寺は外京の更に東となる。
・藤原不比等が藤原京にあった藤原氏の氏寺の厩坂寺(うまやさかでら)を移動させ、外京にある興福寺とした。
・平城京の人口は10万人とも20万人ともいわれている。

木簡
・663年の白村江以後、朝鮮半島からの亡命者が増え、日本での文字使用の量が増える。
・平城京跡からおびただしい木簡が出土する。木簡はこの当時の歴史を知る資料として重要である。
・木簡は形式上、大きく分けて二種類となる。
①文書風の木簡
役人の勤務評定に関することがらや役所間の連絡事項を書いた。
②荷札
全国各地から都に送られてくる調(ちょう)[繊維製品or地方特産品]、庸(よう)[布・綿・米・塩など]あるいは御贄(みえに)[天皇にさしあげる食べ物]につけられていた。

法の整備(律令制)と地方
国衙と郡衙
・各地方の国府は平城京のようであった。その城内は平城京と同じように一町四方の方格で仕切られ、官設の市までそろっている。そして国衙は平城宮である。そこではその国の政務全体がとり行われ、平城宮大極殿前庭でさまざまな国家儀礼が挙行されたのと同じように、国衙政庁前庭では国司・郡司の各種の儀式が行われた。
・平城京と平城宮が律令国家の権力の象徴ならば、国府と国衙はその象徴の分身となる。律令政府の地方官である国司は、この分身としての権威を背景に、その国を統治していた。
・都からのびてきた幹線道路は、国府からいくつもの支線に分技する。これが国府と郡衙を結ぶ道路である。国衙が国司の常駐する所であれば、郡衙は郡司が政務をとるところである。
駅路と伝馬
・駅路(えきろ)[駅制]は中央と地方との間、相互の緊急情報伝達を主眼とし、中央から地方へのびる幹線道路の駅路と駅路沿いの駅家(えきか/やくけ)からなっていた。
・七道のそれぞれに駅路が引かれ、30里(約16キロ)を基準に 駅家を配置し、定められた駅馬(えきば/やくめ)を置き、の休憩・宿泊に備えた。
・駅路は目的地に最短距離で到達するように直線的路線をとって計画的に敷設され、その重要度から、大路(だいろ)・中路(ちゅうろ) ・小路(しょうろ)と区分された。幅10メートル前後の大道であった。
・駅家は既存集落とは無関係に計画的に配置され、駅馬が各5 – 20疋(ぴき)置かれていた。官人は駅鈴(えきれい/やくりょう)を携行し、駅馬を利用して駅路上を通行していた。
・また、中央・地方間の情報伝達システムとして伝馬制が整備され、使者を中央から地方へ送ることを主目的とした。
・中央から地方へ派遣される使者は、伝符(でんぷ)を携行し、伝馬(てんま)を乗り継ぎ目的地へ到達した。
国司と郡司
・国司は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す。
・郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。その任期は6年(のちに4年)で、国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。
・『日本書紀』には、大化の改新時の改新の詔において、国司を置いたことが記録されている。このとき、全国一律に国司が設置されたとは考えられておらず、また当初は国宰(くにのみこともち)という呼称が用いられたと言われており、国宰の上には数ヶ国を統括する大宰(おほ みこともち)が設置されたという(「大宰府」の語はその名残だと言われている)。
・その後7世紀末までに令制国の制度が確立し、それに伴って国司が全国的に配置されるようになったとされている。
・8世紀初頭の701年(大宝元年)に制定された大宝律令で、日本国内は国・郡・里の三段階の行政組織である国郡里制に編成され、中央集権的な律令制が布かれることとなった。律令制において、国司は非常に重要な位置に置かれた。
・律令制を根幹的に支えた班田収授制は、戸籍の作成、田地の班給、租庸調の収取などから構成されていたが、これらはいずれも国司の職務であった。このように、律令制の理念を日本全国に貫徹することが国司に求められていたのである。
・延喜式[927年(延長5年)完成]の平安時代に、各国は国力等の経済上の基準で大国(たいこく)・上国(じょうこく)・中国(ちゅうごく)・下国(げこく)の4等級に区分され、この各区分毎に適正な納税の軽重が決められた。この区分は各国の国情、時勢により変動した。また、国司の格や人員もこれに基づいた。
・大国は大和国・河内国・伊勢国・武蔵国・上総国・下総国・常陸国・近江国・上野国・陸奥国・越前国・播磨国・肥後国。(青太字は親王任国)
奈良時代の行政区分

郡司とは
・地方豪族の多くは郡司・軍毅(ぐんき)・里長などのポストをあたえられた。律令制の長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の四等官は郡司について、大領・小領・主政・主張となり、郡の大きさにより定員が決まっていた。

・郡司の定員を削減するには主政・主張が対象となった。また地方豪族が郡司就任を望むのは大領・小領がその対象となる。
・律令官制で、郡司の四等官は官位令という編の官位相当の一覧表に出ていない。
・その後の選叙令とうい編で、大領には外従八位以上、小領には外従八位以下を与えよとある。主政・主張に至っては無視されている。
・律令制は官職の世襲を廃止することが目的で出発したはずで、官人の任命の基準は本人の人徳と才能と努力とがすべてでなければならない。それが郡司にかぎり、
「およそ郡司は清廉潔白で事務処理の能力のある者を取って大領・小領とし、剛直なのに理解が早く字がきれいで計算もたしかな者を取って主政・主張とせよ。大領・小領は才能が等しい者の間では、まず国造(くにのみやつこ)を取れ。」と規定している。先祖の国造を優先させているのである。
・国司に対する敬礼の規定で、馬に乗った者同士が路上で出会ったら、普通は位の低い方が下馬して相手に敬礼するのだが、郡司は国司の位がどんなに低かろうと下馬して敬礼しなければならない。
・官人の位階の定期昇給期限が一般に6年であるが、郡司は10年である。一般官人は位階が昇ると官位相当も原則で他の官職に栄転するが、郡司は官位相当から除外されているので、このようなことはない。
・これらについて、唐では日本の国にあたる州とか郡、郡にあたる県があるが県の官人は日本の郡司の特殊性にあたる規定がない。
兵衛(ひょうえ)と内舎人(うどねり)
・郡司の子弟のうち、おとなしくて頭のよい子は国学(地方の教育機関)に入学することができたのに対し強幹(きょうかん)[心身とも強健]で、弓や馬がたっしゃな者は、国司の推薦で上京、中央の左兵衛(さひょうえ)府[定員400人]および、右兵衛(うひょうえ)府の兵衛[定員400人]になることができる。兵衛の年齢は21歳以上とされていたが実際は初老の者もいた。
・宮城の閤門(こうもん)[内門]を日夜交替で守備し、天皇の外出のさいは部隊を編成して前後を警備する。下級の武官であるが、官位令に記載されていないから官位相当はない。そのため給与も最低の初位なみの季禄(きろく)[年俸]であった。初位なみでは独身者でも生活がむずかしいから、国許から兵衛資養物(ひょうえしようもつ)という仕送りが毎年とどけられる。正式な官人というより見習いのようなものであった。
・これに対し、内舎人[定員90人]があり、 21歳以上になれば、三位以上の高官の子は無条件で、四位・五位の子ならば審査したうえで任命された。官位相当はないが、季禄は従六位か正七位なみであった。
・兵衛と内舎人とではその後の出世コースが大いに違った。
・もともと内舎人は貴族(貴や通貴)の子だから別に内舎人を務めなくても、21歳になると、父が三位ならば従六位、五位なら従八位という、いわゆる陰位(おんい)をさずけられる資格がある。したがって内舎人をすこし務めてみて、上役からいちおう役に立ちそうだと認められれば、いきなり中央官庁の判官(じょう)クラスに任命される。
・ところが兵衛は8年務めて、ようやく初位、国許へ帰って郡司か軍毅(ぐんき)になるのがせいぜいであった。
・さらに兵衛の場合、下級官人の六位から八位の有位の子がおり、21歳になって希望すれば地方長官の審査が受けられ、上等[儀容端正、書・算に巧み]、中等[身材強幹、弓・馬に便]、だめな男は下等と判断され、上等は大舎人(おおどねり)、下等は走り使いとなる。
・地方から来た郡司の子弟は上京して兵衛となっても、下級官人の子弟の仲間となり、5位以上の高給官人の子弟とは差別されていた。
采女(うねめ)
・奈良時代の女性は官界での道が開けていたといえる。
・中央、地方、貴族、庶民とは問わず、若い娘が宮仕えしようとする時の規定は後宮職員令による。
①およそ諸氏は氏ごとに女(むすめ)を貢(たてまつ)れ。みな年は三十以下十三以上にかぎる。
②しかるべき氏の出でなくても、自ら進んで仕えようとする者を許可せよ。
③采女を貢るには、郡の少領以上の姉妹か女(むすめ)で、形容端正なものをえらべ。みな、中務(なかつかさ)省に申告し、中務省は天皇に奏上せよ。
・宮仕えする女性には下記がある。
①中央の有力者から出す :氏女(うじめ)
②庶民からの出でもかまわぬ :自進(じしん)
③郡領の姉妹か娘である :采女(うぬめ)
・氏女(うじめ)と自進(じしん)については規定がないが、采女について軍防令に人数制限の規定がある。
およそ兵衛は国司が郡司の子弟のなかから強幹で弓馬に便な者を選び、郡ごとに一人をたてまつれ、采女をたてまつる郡は、兵衛のほうは出さないこととする。
・つまり郡司は兵衛か采女かのどちらかをだせばよく、その比率は全体で2対1だという。例えば出雲の国は9郡からなっていたが、天平のころでも6郡は兵衛、3郡は采女を出していたのが、正倉院文書から分かる。

( 日本の歴史5巻より)
・何年かつとめて、国許へも帰らず、仕事では有能だとされれば、女孺(にょじゅ)から正式な女官となって管理職につく。位階は男官ほど面倒な規定に拘束されずに昇進する。蔵司(くらのつかさ)の尚蔵(くらのかみ)は正三位相当、膳司(かしわでのつかさ)や縫司(ぬいのつかさ)だと正四位相当といった高給をとることになる。
兵衛と違って采女は、中央有力氏族出身の子女などと、差別はなかったようだ。
采女の仕事は氏女(うじめ)や自進(じしん)とともに、天皇・皇后の身のまわりの世話をする後宮の十二司に配属され、女孺(にょじゅ)と呼ばれた。特に、水司・膳司などは采女に限定されていた。

遣唐使
・遣唐使は日本が唐に派遣した使節で、630年(舒明2年)に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らにより第1回の派遣があり、 894年(寛平6年)に菅原道真の建議により停止された。回数は説により12~20回行われたという。船団は初期が2~3艘、のち4艘に固定され、人員は250~500人ほどであった。
・おもな目的は、海外情勢や先進的な技術や政治制度、更には仏教の経典などの入手である。唐は当時の東アジア世界の中心で、唐に朝貢物をささげて通交し、文化的にすぐれた国と印象づけることは、重要な外交課題だった。
・留学生や留学僧が長年かけてあつめたものが、そのつど日本にもちこまれた。たとえば、吉備真備は兵学や音楽、暦学関係の多数の文物を、大和長岡(やまとのながおか)らは法制の知識をつたえ、空海・最澄は新しい仏教の導入につとめた。
・航路は朝鮮半島西岸を沿岸航行する北路が比較的安全だった。
・しかし新羅との政治的な対立のため、ごく初期をのぞき、五島列島から東シナ海を横断する南路か、奄美大島や沖縄などの南西諸島から東シナ海を横断する南島路をとった。
・航海技術の未熟さや、船が貧弱なこともあり、逆風や強い海流のため難破漂流し、死者・行方不明者が続出した。
遣唐使の墓誌発見の新聞記事
・2004年10月11日の『朝日新聞』は西安(唐の都・長安)で、8世紀前半に遣唐使として派遣された日本人留学生の墓誌が発見されたと報道した。記事では、この墓誌は阿倍仲麻呂と同期留学で、 734年(開元22年)に36歳で亡くなった中国名:井真成(せいしんせい)のものである。
・井真成は死後に玄宗皇帝から「尚衣奉御(しょういほうぎょ)」で従五品上を贈られた。この時期に阿倍仲麻呂は従五品下でその後安南節度使(ベトナム地方の長官)にまで昇進した。ほぼ同じ程度の出世であり、二人は似たコースを歩んでいた可能性が強い。

[邪馬台国の会HP第231回より]
中国古代の墓誌と「日本」表記
■中国古代の墓誌
・有力者が亡くなると、名前や先祖、役職や家族などの情報を石に刻み墓に収めた。
・北魏時代の5世紀後半に始まり、盛んに作られた唐時代のものは約6500個発見されている。大きさはおおむね80センチ四方から40センチ四方。来世での身分証明書という宗教的な性格と、盗掘されても被葬者が誰か分かるようにする目的があったとされる。
■「日本」表記
・「日本」と言う呼び名は7世紀から使われたとされ、大宝律令(701年)には「国号は日本を使う」との条項があった。
・しかし、今まで最古とされるものは、 746年(天平18年)の年号がある役人の報告書で、「『日本帝記』という本を書写した」と記されたものであった。
・今回、この墓誌に「国号日本」と刻まれていたことから、 734年(開元22年)が最古の「日本」表記ということになる。
井真成とは何者か?
①井上の姓
・ 鈴木靖民(やすたみ)・国学院大学教授(日本古代史)は現在の大阪府藤井寺市一体を本拠とした「井上」一族ではないかとしている。忌寸(いみき)という渡来系に多い姓(かばね)を与えられ、遣唐使など外交官の任務につくものが多く出ている。
②葛井(ふじい)の姓
・東野治之・奈良大学教授は渡来系の氏族、「葛井氏」の出ではないかと考える。「葛井氏」の活動地域は藤井寺市となる。
・佐伯有清・元北海道大教授も「葛井氏」ではないかと唱えている。佐伯教授は、姓が「白猪(しらい) 」から「葛井」に変わったのは720年(養老4年)なので、中国に居た井真成は知らなかった。しかし732年(天平4年)[井真成が34歳]の遣唐使で、白猪から葛井に変わったことを聞いたのではないか。その結果死んだときの墓誌が、「井」になったのではないかという。
③中国の姓から選んだ
・中国側の王維坤(オウ イコン)教授が、小野妹子が蘇因高、阿倍仲麻呂が朝衡(ちょうこう)と名乗ったように、日本名と無関係の改名が多かったと指摘。
・「井」は中国で古くからある姓で、西安がある陜西(せんせい)省に多い姓であるとした。
・ 716年(霊亀2年)に派遣された遣唐使の一員であったと考えると、井真成が18歳で行ったことになるので、死去したときの36歳と、ほぼ計算があう。
・当時、遣唐使として派遣される氏族は「葛井」か「井上」の2姓が圧倒的に多く、両氏族は、藤井寺市に住んでいた。藤井寺市付近は渡来系の人たちが多い先進的な地域であったと考えられる。
・宝賀寿男の『古代氏族系譜集成・下巻』(出展は鈴木真年『百家系図稿』)による葛井氏の系図から、「葛井」の姓はその前が「白猪」の姓であったことが分かる。また、 「葛井」は百済の辰斯王(しんしおう)[第16代]の子孫である( 『続紀』の通り)。
・葛井氏の系図には、728年(神亀4年)に従五位下になった「大成」と、731年(天平3年)に外従五位下になった「広成」、さらには「乙成」という末弟が記載されている。
「成」の文字の共通性などから「真成」はこの「大成」、「広成」の弟であったのではないかと考えられる。
長屋王の変など
天皇系図

藤原氏系図

藤原氏の勢力拡大策
・藤原氏は古来の豪族のなかではとびきり有力な氏族であったわけではなかった。蘇我氏や巨勢(こせ)氏からみればその下のランクである。しかし不比等以後、数世紀にわたって日本の政治を動かすようになった。
・不比等が勢力をえるためとった方法
①自分の娘を天皇の妃とし、未来の天皇の外祖父となることである。不比等は持統朝の末頃まであまり歴史の表面には出てこないが、娘の宮子を文武天皇夫人(ぶにん)としてから、朝廷内で力をもつようになったようだ。それには後宮で活躍していた後妻の県犬養三千代の助力もあったと思われる。
②藤原氏はその他の伝統的豪族にさきがけて律令に修熟し、律令制推進派の中心となっていたことである。古いタイプの豪族から律令制の官僚貴族へのいちはやい変身がこの時代の潮流にマッチして、時代を指導する力となった。大宝律令編集の中心メンバーに加わり、その完成・施行の前後から官位昇進が早まった。
皇親勢力と藤原勢力
・皇親勢力の中心は長屋王であった。長屋王は天武天皇の皇子の高市皇子の子で、母は天智天皇の皇女の御名部(みなべ)皇女(元明天皇の同母姉)であり、皇親として嫡流に非常に近い存在であった。
・元正天皇の妹である吉備内親王を夫人とし、不比等の娘を夫人としていた関係で、不比等の生存中はむしろ親藤原氏的存在であったようだ。平城京遷都後、右大臣藤原不比等が政界の中心となり、舎人親王や長屋王ら皇親勢力がこれに対する形であった。
・717年(霊亀3年)に不比等が右大臣であったのに、房前(ふささき)が参義となった。一氏族から一議政官(公卿)との慣行が破られた。しかし、廟堂において藤原氏の地位はさほどかたまってはいなかった。翌年に長屋王は中納言を経ずに、大納言になった。
・720年(養老4年)に不比等が亡くなると、知太政官事(ちだいじょうかんじ)が復活して舎人親王が任じた。新田部親王が天皇親衛軍の知五衛(ちごえ)及授刀舎人事(じゅとうしゃにんじ)に任じられた。これは皇親が政権と軍事を握ったことになる。
・721年(養老5年)に長屋王が右大臣になると、藤原氏も武智麻呂が中納言になり、正四位下から従三位に、房前が従四位上から従三位に、麻呂は従五位下から従四位上に上がっている。
・長屋王は724年(神亀元年)聖武天皇の即位と同日、正二位左大臣に進む。
・不比等の死後に不比等の娘で聖武天皇の生母である藤原宮子の称号(「大夫人」、 「皇太夫人」)を巡って長屋王と四兄弟が衝突する[辛巳(しんし)事件]と、その対立が露わになってきた。
・聖武天皇は病弱で、政治的な対立もさることながら、天皇に何かがあった場合には天皇の叔母・吉備内親王(長屋王妃)の生んだ男子である膳夫(かしわで)王らの王が男系皇族での皇位継承の最有力者となることも、藤原氏としては気になる問題であった。
このような長屋王の存在は藤原四兄弟にとっては面白くないものであった。
長屋王の変
・光明子は727年(神亀4年)に藤原氏待望の男の子を産んだ。誕生して1ヶ月ばかりで、基王の立太子が行われた。しかし翌年に基王は重病となり夭折した。藤原氏にとって、聖武天皇の後継問題で危機となった。
・729年(神亀6年)2月、漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人(なかとみのみやこのあずまびと)が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告した。その夜に三関がかためられ、藤原宇合(うまかい)らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲した。舎人親王などによる罪状糾問の結果、長屋王は自刃、妃の吉備内親王と子の膳夫(かしわで)王、桑田王、葛木王、鉤取王も自殺した。これが長屋王の変である。
・『続紀』によると、 738年(天平10年)7月に長屋王に恩遇されていた大伴子虫が王のことを誣告した中臣宮処東人を斬殺した記事がある。囲碁のときに話が王のことに及んだため憤激して殺したとなっている。 『続紀』に「誣告」と記載されていることから、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたと想定されている。
天然痘の流行
・光明子の産んだ基王が729年(神亀6年)に生後1年満たず亡くなると、 聖武天皇の男子は728年(神亀5年)に産まれた非藤原氏系の県犬養広刀自 (あがたのいぬかいのひろとじ)の産んだ安積(あさか)親王しかいなかった。
・長屋王の変後、対立候補がいない中、不比等の子の藤原四兄弟はその年の7月に、聖武天皇の夫人であった光明子を皇后にし、その子の阿部内親王の地位を高め、 738年(天平10年)1月に阿部内親王が立太子する体制を作った。
・しかし、この時代に天然痘は九州からはいり、735年(天平7年)には多数の死者がでていた。それが737年(天平9年)には都にまでおよび、4月に北家の房前、7月に京家の麻呂、南家の武智麻呂、8月に式家の宇合と短期間に4人とも死没してしまった。
・天然痘の流行で貴族も亡くなる者が多く、参義で残ったのは、長屋王の弟の鈴鹿王と橘諸兄(葛城王)だけとなった。
国分寺の創建
・天然痘が猛威をふるった737年(天平9年)3月に聖武天皇は「国ごとに釈迦仏像一軀、挾侍(きょうじ)菩薩二軀をつくり、また大般若経一部を写せ」という詔をする。これには病気の流行と凶作を仏の加護によってはらい除く願いが込められていた。
・740年(天平12年)6月に「国ごとに法華経十部を写させ、また七重塔をたてさせた」という(国分寺建立の準備)。
・741年(天平13年)3月に国分寺創建の詔が出される。寺の名と住む僧と尼の人数を決め[金光明四天王護国之(こんこうみょうしてんのうごこくの)寺(国分寺)に僧20人・法華滅罪之(ほっけめつざい)寺(国分尼寺)に尼10人]、施入(せにゅう)される田と食封(じきふ)、寺院で行うべき行事などがあきらかにされた。
・発願の理由は金光明四天王の加護による五穀豊穣と国家の繁栄を祈願するとある。
・はじめ、僧寺に水田10町、食封50戸、尼寺に水田10町が施入され、それが国分寺造営の費用にされたが、この程度の財源では困難であった。
・744年(天平16年)11月に諸国の正税から4万束をさいて、僧寺、尼寺にそれぞれ2万束与え、毎年出挙してその利息を寺の費用にあてた。
・747年(天平19年)11月には僧寺を100町、尼寺を50町に増やした。
・孝謙天皇即位の749年(天平勝宝元年)7月には各寺の墾田限度を定めると同時に、国分寺の限度も増やされ僧寺が1000町、尼寺が400町となった。
・それでも各国の寺の工事は進まなかった。そのため、地方豪族による私財の寄進を受け入れ、寄進にしたものに位を与えることにした。
・これは各地の国分寺遺跡から発掘される文字瓦が示しているように、広く農民からからの寄進も集められた。
・このような努力の結果、奈良時代の末ごろには、だいたいどの国でも僧寺・尼寺の伽藍が立ち並ぶようになった。
藤原広嗣の乱
・天然痘の流行が峠を越えた737年(天平9年)9月に、藤原広嗣は従六位上から従五位下に昇進し、 738年(天平10年)4月、式部少輔のままで、大養徳(大和)守に任命される。
・朝廷内で反藤原氏勢力が台頭した背景のもと、親族への誹謗を理由に738年(天平10)年12月に大宰少弐に左遷された。
・739年(天平11年)3月に、中納言多治比広成が死去すると、大野東人など参義4人が補充され、公卿は1氏族1人の慣行が復活した。
・橘諸兄を首班とした政権は遣唐使で帰朝した僧の玄昉と吉備真備が登用された。
・740年(天平12年)8月29日、広嗣は左遷を不服とし、天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である右衛士督・吉備真備と僧正・玄昉に起因するとの上奏文を朝廷に送るが、時の権力者左大臣・橘諸兄はこれを謀反と受け取った。聖武天皇はこれに対して広嗣の召喚の詔勅を出す。

・広嗣の上奏文の4日後の9月3日、広嗣が挙兵したとの飛駅(はやうま)が届く。朝廷はただちに大野東人を大将軍とし、東海・東山・山陰・山陽・南海の五道の兵1万7千人の大軍を動員して、鎮定にあたらせた。
・大野東人は早い行動で、9月21日には長門に到着し、22日は九州側の板櫃鎮を攻略した。
・広嗣は自らは大隅・薩摩・筑前・豊後の兵5000人を率い遠賀郡に到着、弟の綱手が筑後・肥前の兵5000人を率い豊後から、部下の多胡古麻呂が豊前からと3方から官軍に向かった。
・10月9日に北九州の板櫃川(いたびつがわ)を挟んで官軍六千と広嗣軍1万余が対峙した。
・官軍は反抗する者の罪は妻子親族にも及ぶと威嚇したので、広嗣軍は敗走し、10月23日には肥前国松浦郡で捕らえられ、その後唐津で処刑された。
・これによって多くの式家関係者が処分を受け、奈良時代末期には一時的には政治の実権を握るものの、後世における式家の不振を招く要因の一つになった。

聖武天皇の遷都
聖武天皇は740年(天平12年)~ 745年(天平17年)に都を転々とした。
・恭仁(くに)宮(大養恭仁大宮[やまとくにのおおみや])
天皇は広嗣の乱の決着がつかない10月に関東へ行くとして、伊勢へ行幸した。更に美濃・近江へと行幸し、 740年(天平12年)12月に恭仁に遷都した。この地は橘諸兄の本拠地であったためとの推測もある。 743年(天平15)に、紫香楽の地に何度も行幸し、この地に大仏建立の詔を発する。
・難波宮
744年(天平16)年正月、今度は難波への遷都となる。しかし元正上皇や、橘諸兄はついて行かなかった。
・紫香楽(しがらき)宮
745年(天平17年)正月に宮門に大楯と槍が立てられ、新しい都として定められた。しかし、天変地異や山火事がでるなどから、6月に平城京に戻った。
天智朝からの主な都
・難波宮(難波長柄豊崎宮)
孝徳天皇は645年(皇極4年)に難波に遷都し、宮殿は652年(皇極7年)に完成した。
・大津京(近江宮)
中大兄皇子が667年(天智6年)都を近江大津へ移した。
・藤原京
690年(持統4年)に着工され、飛鳥浄御原宮から694年(持統8 年)に遷都。
・平城京
元明天皇が710年(和銅3年)に遷都
・長岡京
桓武天皇が784年(延暦3年)に遷都
・平安京
桓武天皇が794年(延暦13年)に遷都
盧舎那大仏
・東大寺大仏は、聖武天皇により743年(天平15年)に造像が発願された。実際の造像は745年(天平17年)から準備が開始され、752年(天平勝宝4年)に開眼供養会が実施された。
・中国河南省の奉洗寺の大仏がモデルといわれ、延べ260万人が工事に関わったとされる。
・大仏は当初、奈良ではなく、紫香楽宮の近くの甲賀寺(今の滋賀県甲賀市)に造られる計画であった。
・しかし、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために造立計画は中止され、都が平城京へ戻るとともに、現在、東大寺大仏殿がある位置での造立が開始された。

・制作に携わった技術者のうち、大仏師として国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)、鋳師として高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)らの名が伝わっている。
・752年(天平勝宝4年)の開眼供養会には、聖武太上天皇(すでに譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇をはじめとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。
・開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな)が担当した。
・大仏と大仏殿はその後1180年(治承4年)と1567年(永禄10年)の2回焼失して、その都度、時の権力者の支援を得て再興されている。

・現存の大仏は像の高さ約14.7メートル、基壇の周囲70メートルで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修であるが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部天平時代の部分も残っている。台座の蓮弁(蓮の花弁)に線刻された、華厳経の世界観を表わす画像も、天平時代の造形遺品として貴重である。
・大仏は1958年(昭和33年)2月8日、「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」として国宝に指定されている。
・現存の大仏殿は正面の幅(東西)57.5メートル、奥行50.5メートル、棟までの高さ49.1メートルである。高さと奥行は創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86メートル)の約3分の2になっている。
鑑真
中国での活躍
・唐の揚州江陽県の生まれ。14歳で智満について得度(とくど)し、大雲寺に住む。18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入り、翌年弘景について登壇受具し、律宗・天台宗を学ぶ。
・律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。
・揚州の大明寺の住職であった742年(天平14年)、日本から唐に渡った僧栄叡(ようえい)、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。
・奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(僧侶に位を与える人)が必要であり、聖武天皇は優秀な僧侶を捜していた。

日本渡航
・仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う必要がある。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、サンガ内での集団の規則を「律」という。戒を誓うには、10人以上の正式の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う必要がある。
・これら戒律は仏教の中でも最も重要な事項の一つとされているが、日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が行われるなど、授戒の重要性が長らく認識されていなかった。
・しかし、奈良時代に入ると、戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性が高まっていた。栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた。
・栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった。
その後、日本への渡海を5回にわたり試みたがことごとく失敗した。
・最初の渡海企図は743年(天平15年)夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。鑑真は留め置かれた。
・2回目の試みは744年(天平16年)1月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚(よよう)へ戻らざるを得なくなってしまった。
・再度、出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕され、3回目も失敗に終わる。
・その後、栄叡は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。そのため、官吏に出航を差し止めされ、4回目も失敗する。
・748年(天平20年)、栄叡が再び大明寺の鑑真を訪れた。懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意する。
・6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、11月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風に遭い、14日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着した。
・鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている。
・751年(天平勝宝3)、鑑真は揚州に戻るため海南島を離れた。その途上、端州の地で栄叡が死去する。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。
・この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう。
・752年(天平勝宝4年 )、鑑真は必ず渡日を果たすと決意し、鑑真のもとを訪れた遣唐使藤原清河(房前の四男)らに、渡日を約束した。
・しかし、当時の玄宗皇帝が鑑真の才能を惜しんで渡日を許さなかった。
・そのために753年(天平勝宝5年)に遣唐使が帰日する際、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた副使の大伴古麻呂は密かに鑑真を乗船させた。
・11月17日に遣唐使船が出航、ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流したが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、12月20日に薩摩坊津の秋目に無事到着した。
・実に10年の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は宿願の渡日を果たすことができた。
日本での活躍
・753年(天平勝宝5年)12月26日、鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、754年(天平勝宝6年)1月には平城京に到着し聖武太上天皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺にいることになった。
・4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、聖武太上天皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒のはじまりである。
・併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後761年(天平宝字5年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。
・『続紀』は758年(天平宝字2年)8月に淳仁天皇の命により大和上(だいわじょう)に任じられ、僧綱の任が解かれたと記している。
・これにより政治にとらわれる労苦から解放され、自由に戒律を伝えられることになった。
・759年(天平宝字3年)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。
・鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。
・763年(天平宝字7年)76歳で死去した。死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている(国宝唐招提寺鑑真像)。

・これが日本最古の肖像彫刻とされている。また、779年(宝亀10年)、淡海三船[天皇の漢風諡号(しごう)作者]により鑑真の伝記『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。
まとめ
年表

平城京の繁栄まとめ
・平城京
元明天皇により遷都。唐の長安の都城をモデルにし、藤原京の影響を受けて造られた。人口は10万とも20万ともいわれる。
・遣唐使
遣唐使は630年(舒明2年)に第1回の派遣があり、 894年(寛平6年)に停止されるまで、回数は説により12~20回行われたという。
・聖武天皇
文武天皇の皇子で、元明天皇の孫となり、間に元正天皇を介して、即位した。
・光明皇后
初の皇族以外からの皇后で、聖武天皇の即位とともに後宮の位階である夫人号を得る。阿倍内親王を出産。 基王(もといおう)を生んだ。
・藤原不比等
藤原鎌足の第二子である。不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。藤原氏の実質的な家祖と解することもできる。
・長屋王の変
光明子は藤原氏待望の男の子(基王)を産み、誕生1ヶ月ばかりで立太子をしたが、翌年に重病となり夭折した。この危機から、皇親勢力の中心の長屋王を謀反の嫌疑で死に至らしめたとされている。
・藤原広嗣の乱
天然痘などで藤原氏の勢力が弱まり朝廷内で反藤原氏勢力が台頭し、広嗣は親族への誹謗を理由に大宰少弐に左遷された。広嗣は天災などの原因は吉備真備や玄昉だとして、九州で反旗を上げたが、官軍によって鎮圧された。
・聖武天皇の遷都
聖武天皇は740年から15年間、恭仁(くに)宮、難波宮紫香楽(しがらき)宮など、都を転々としたが、またもとの平城京に戻った。
・盧舎那大仏
中国河南省の奉洗寺の大仏がモデルといわれ、当初は紫香楽宮の近くに造られる計画であった。都が平城京へ戻り、現在の東大寺大仏殿がある位置での造立が開始され、延べ260万人が工事に関わったとされる。
・鑑真
日本で伝戒師(僧侶に位を与える人)が必要であり、鑑真を招いたが渡海は5回にわたり失敗し、10年の歳月をかけて日本に来た。東大寺戒壇院が建立され、その後戒律制度が急速に整備された。晩年に唐招提寺を創建し戒壇を設置した。



