1.10.摂関時代

政局の変化
平安京遷都
・桓武天皇は784年(延暦3年)に平城京から長岡京を造営して遷都したが、これは天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。
・しかしそれから僅か9年後の793年(延暦12年)の1月、和気清麻呂の建議もあり、桓武天皇は再遷都を宣言する(理由は長岡京を参照)。
・場所は、長岡京の北東10キロメートル、二つの川に挟まれた山背国北部の葛野(かどの)であった。
・事前に桓武天皇は京都市東山区にある将軍塚から葛野を見渡し、都に相応しいか否か確めたと云われている。
・日本紀略(にほんぎりゃく)には「葛野の地は山や川が麗しく四方の国の人が集まるのに交通や水運の便が良いところだ」という桓武天皇の勅語が残っている。
・平安京の造営はまず宮城(大内裏)から始められ、続いて京(市街)の造営を進めたと考えられる。都の中央を貫く朱雀大路の一番北に、どこからでも見えるように大極殿を作り、天皇の権威を示した。
・都の傍の川沿いには、淀津(よどのつ)や大井津などの港を整備した。これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込んだ。
・運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給される。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにした。
・また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にそれぞれ、水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給を確保しながら洪水を抑えようとした。
・そして長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認め、東寺と西寺の力で災害や疫病から都を守ろうと考えた。794年(延暦13年)10月22日に桓武天皇は遷り、翌11月8日には山背国を山城国に改名すると詔を下した。

桓武天皇からの天皇系図 

日本の歴史4巻から作成


不比等からの藤原氏系図

日本の歴史4巻から作成


冬嗣からの藤原氏系図 

日本の歴史6巻から作成

平城(へいぜい)天皇
806年(延暦25年)3月桓武天皇は70歳の長寿をまっとうした。
・その後を継いだ平城天皇は律令体制立て直しを図り、財政緊縮、民生安定の方針と地方官の綱紀刷新を行い、「一に令状によれ」として、律令の原点に戻ることを基本原則として、政策を進めた。
・藤原緒継(おつぐ)建策の六道観察使(りくどうかんさつし)という新しい官職を置き、各道におもむいて、民情を観察し、更に地方官の執務ぶりを直接監督する。それなりの効果をあげる。
・実際には活動していない有名無実の官庁を思い切って統廃合し、いつのまにか増えた令外官を廃止しあるいは統合した。令に定める官庁をも大々的に廃止・統合した。
・これらは中級官人を整理して、かれらに支給する俸給を節減する目的と思われるが、この結果、多くの中級官人が失業することとなった。
・これら律令体制立て直しの政策は性急に行われ、一度出した政策が都合が悪くなったら、それを改めることも行われた。

伊予親王の変
・藤原北家の内麻呂(うちまろ)は徳望の士とたたえられたが、同時に長男の真夏を平城天皇の側近としながら、次男の冬嗣を皇太弟神野(かみの)親王(嵯峨天皇)の側におくという抜け目がないところがあった。
・平城天皇の異母弟に南家是公(これきみ)の娘吉子(よしこ)を母とする伊予親王がいた。また、大納言雄友(おとも)は吉子と兄妹であった。
807年(大同2年)10月、伊予親王が謀反をたくらんでいると密告するものがいた。これを聞いた雄友は身に降りかかる危険を避けるため、このことを右大臣内麻呂に通報した。
・朝廷による取り調べから、吉子と伊予親王の母子を大和国の川原寺に幽閉した。二人は身の潔白を主張したが聞き入れられず、毒飲んで亡くなった。
その後無罪が認められている。
・この事件で、通報した伊予親王の伯父の雄友も伊予に流され、南家の中納言乙叡(たかとし)などが解任された。
この結果藤原南家の勢力が大きくそがれた。

薬子(くすこ)の変
・性急な立て直し政策はすぐに効果がなく、一方以前から続く旱魃(かんばつ)・疫病がおさまらない。このような状況で、平城天皇は心労がつもっていった。
・そこに、桓武天皇の寵臣藤原種継の娘の薬子(平城天皇が皇太子時代にスキャンダルがあった)とその兄の藤原仲成が天皇にとり入り、政治に口をだすようになる。
809年(大同4年)4月、平城天皇は心労から気弱になり、弟の嵯峨天皇に皇位を譲ってしまった。そして上皇として平城京へ移る。しかし公卿の一部、官人多数、太政官の外記局(げききょく)などが平城京へ移り、上皇と天皇の二局政治となる。そして対立が深まった。
810年(大同5年)9月、上皇から、平城京へ遷都せよと命令が嵯峨天皇へ届いた。そこで天皇は行動を起こし、平安京へ来ていた仲成を逮捕し、関を固め、薬子の官位を剥奪し、平城京にいるおもだった公卿・官人を召喚した。上皇は見限られて出家し、薬子は自殺し、仲成は平安京で死刑となった。

太平の世

・薬子の乱が終わり、嵯峨天皇は皇太子を平城天皇の皇子の高岳(たかおか)親王から、弟の大伴(おおとも)親王にかえた。高岳親王は出家して、40年後には唐へわたり、更に天竺への旅で亡くなった。
・嵯峨天皇は在位15年で823年(弘仁14年)に弟の大伴親王[淳和(じゅんな)天皇]に位を譲った。淳和天皇は自分の皇子を立太子させず、皇太子に嵯峨上皇の第一皇子の正良(まさら)親王をたてた。
・11年後の833年(天長10年)に、皇位はふたたび正良親王[仁明(にんみょう)天皇]に譲られた。嵯峨上皇は我が子仁明天皇の治世下の842年(承和9年)7月に57歳で亡くなる。
・この嵯峨/淳和/仁明天皇の治世の弘仁/天長/承和の30年が7世紀後半からの律令国家の中でまれにみる平穏な時代であった。特に血なまぐさい疑獄事件もなかった。安定した世の中は嵯峨天皇・上皇の力によるもので、嵯峨上皇が天皇一家の家父長として君臨していたためと思われる。

嵯峨天皇( Wikipediaより

承和(じょうわ)の変

・藤原北家の藤原良房は嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子[かちこ] (檀林皇太后)の信任を得て急速に台頭した。良房の妹順子が仁明天皇の中宮となり、その間に道康親王が生まれ、良房は道康親王の皇位継承を望んでいた。
・道康親王を皇太子に擁立する動きがあることに不安を感じた恒貞(つねさだ)親王と父親の淳和上皇は、しばしば皇太子辞退を奏請するが、その都度、嵯峨上皇に慰留されていた。
840年(承和7年)、淳和上皇が崩御し、2年後の842年(承和9年)7月には、嵯峨上皇も重い病に伏した。これに危機感を持ったのが皇太子に仕える伴健岑(こわみね)と橘逸勢(はやなり)などで、皇太子の身に危険が迫っていると察して、皇太子を東国へ移すことを考える。
・その計画を平城天皇の皇子の阿保(あぼ)親王に相談したが、阿保親王はこれに関与せず、この情報が逸勢の従姉妹でもある檀林皇太后を経て、中納言良房に伝わった。良房は仁明天皇へと上告した。
・7月15日に嵯峨上皇が崩御し、17日に仁明天皇は伴健岑(こわみね)と橘逸勢(はやなり)などその一味とみなされる皇太子勢力を逮捕し、六衛府に命じて京の警備を厳戒させた。

藤原良房( Wikipediaより

・皇太子は直ちに辞表を天皇に奉ったが、皇太子には罪はないものとして一旦は慰留される。しかし、23日になり政局は大きく変わり、良房の弟の左近衛少将藤原良相(よしみ)が近衛府の兵を率いて皇太子の座所を包囲し謀反人を捕らえた。
・この事件で、大納言藤原愛発(よしちか)[良房の叔父]は京外追放、中納言藤原吉野は大宰員外帥に左遷され、伴健岑と橘逸勢は流罪となった。また、恒貞親王に仕える東宮職・春宮坊の役人が多数処分を受けた。
・恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるために皇太子を廃された。そして道康親王[文徳(もんとく)天皇]が皇太子に立てられ、良房は大納言に昇進した。
・この事件により、桓武天皇の遺志に遠因をもつ、嵯峨、淳和による兄弟王朝の迭立を解消し、嵯峨から仁明、文徳の直系になっていく。

応天門の変
・左大臣藤原緒継が亡くなり、良房は遠慮するものがいなくなった。 850年(嘉祥3年)に仁明天皇が亡くなり、文徳天皇が即位する。良房の娘の明子が産んだ惟仁(これひと)親王が生後8ヶ月で皇太子となる。[この幼さなさは聖武天皇の皇子以来]
・文徳天皇には4人の皇子がおり、惟仁親王は第4皇子であった。第1皇子の惟喬(これたか)親王が成長するに従い、なみなみならぬ素質を持つ皇子であることがわかり、天皇は皇太子にしたいと考える。
・天皇はこのことを大納言源信(まこと)に相談したが、源信が反対し、惟喬親王の立太子は挫折する。
857年[斉衡(さいこう)4年]に右大臣良房は左大臣をとびこし、太政大臣になる。[恵美押勝、道鏡にならぶ]
858年(天安2年)8月に文徳天皇が亡くなり、まだ9歳の清和天皇が即位する。良房はその後見人として、事実上政治の実権を握る。
・ 嵯峨源氏の左大臣源信(まこと)と大納言伴善男(よしお)は仲が悪かった。864年(貞観6年)冬に源信とその弟の中納言源融(とおる)などが反逆をくわだてているという密書が出たが、取り上げられなかった。
866年(貞観8年)閏3月に突然、応天門が炎上し、大騒ぎとなった。数日後、伴善男は良房の弟の右大臣良相(よしみ)と協議の上、源信宅を包囲した。
・良房はこの件を聞いておらず、良房は清和天皇へ奏上し、源信を弁護した。源信も恭順を示し、源信は無罪となった。
・その後、伴善男の従者に娘を殺されたとする大宅鷹取(おおやけのたかとり)が応天門の火災は、その子の中庸(なかつね)の放火であると通報した。
・そこで、伴善男と中庸や従者に激しい拷問が繰り返された。その結果、拷問耐えられず、従者たちが、中庸が計画したことで、伴善男はあずかり知らないと自供した。
・伴善男は否定し続けたが、中庸(なかつね)が父の命令で放火したものと断定された。そして、伴善男は伊豆、中庸は隠岐に配流となった。
・この事件の真相はよく分からない。『伴大納言絵詞』や、『大鏡裏書』では伴善男が源信を犯人として告発したとなっているが、『三代実録』では、応天門炎上と源信宅包囲の関係の有無もわからない。
・ただこの事件の審理中の8月に良房が摂政となり、天皇から全権を委任される。

伴大納言絵詞より、応天門炎上の場面( Wikipediaより)

最澄と空海
南都教団

・これらの教団は後世の宗派とは違い教論を研究する学団である。
・それぞれ、大学頭・小学頭・維那(いな)など指導するものがおり、研究所を持ち、図書をそなえていた。

  一つの寺院に複数の宗派があった。

・南都教団の六宗
①三論(さんろん)
②成実(じょうじつ)
③法相(ほっそう)
④倶舎(ぐしゃ)
⑤華厳(けごん)
⑥律(りつ)

・奈良時代まで、これらの教団を平等に保護して、鑑真を招聘(しょうへい)して厳密な戒律を実施しようとした。僧侶に戒律を授ける権利が南都の教団(興福寺を中心とする奈良の仏教団)に握られていた。
・しかし、光仁・桓武天皇のころの仏教界粛清政策により、経典の暗記だけでなく、どれほど教義を深く理解し学業をつんでいるかが問われるようになる。
・この時期に南都教団全体としては、衰退しながらも教学研究の機運が盛り上がって来ていた。

最澄の修行
766年(天平神護2年)に生まれた最澄は12歳のとき、唐僧道璿(どうせん)の弟子行表(ぎょうひょう)の門に入り、15歳で近江国の国分寺僧として得度(とくど)し、20歳で、東大寺戒壇院にのぼって受戒した。
・ その直後、比叡山に庵(いおり)をむすんで厳しい修行を始める。そして、数年後に、一乗止観院(いちじょうしかんいん)[根本中堂]とよばれるようになる比叡山寺を建立した。
・仏教徒は山林幽谷に入って瞑想し、激しい苦行のなかで、神秘的な霊感を得ることを理想とする。しかし奈良時代には久しく禁止されていたが、光仁天皇の時に許され、世俗を嫌う仏教徒はすすんで山林修行を行った。
・最澄も比叡山に籠り、天台の典籍を学び、天台学者としての立場をきずいていった。その名は朝廷にも聞こえ、802年(延暦21年)には大学頭和気弘世(わけのひろよ)らのあっせんで、和気氏の氏寺高雄山寺(神護寺)で南都の学匠(がくしょう)を前に天台の宗義を講演した。
・最澄はこれがきっかけとなって、入唐につながる。

空海

774年(宝亀5年)に讃岐で生まれる。母方の伯父に儒学を学び、上京して明経道(みょうぎょうどう)の学生(がくしょう)となる。そのまま行けば律令官僚となったはずだが、突然大学をやめ、仏門に身を投じる。
・ その動機は『三教指帰(さんごうしいき)』にあり、儒教(儒学による立身出世)、道教(世俗を嫌っての仙人生活)、仏教(生死の理を悟り、功徳を国家・親族に及ぼす)を比較して、仏教の優位性を解いている。
・空海は仏門を志してから数年、四国の山々遍歴して、荒々しい苦行を重ねた。この修行で神秘的な霊力を感じたと思われる。このように空海は入唐する前はまったく無名であった。

空海(Wikipediaより

入唐

804年(延暦23年)7月に遣唐使船4隻が肥前の松浦港を出港した。この中に38歳の最澄と31歳の空海がいて、短期留学で教理を学び、経典を持ち帰る任務であった。
・ 最澄は台州(だいしゅう)の天台山を巡礼して、名僧道邃(どうずい)・行満(ぎょうまん)らに天台の奥義を学ぶかたわら、精力的に経典を写した。そして、230部460巻の典籍を携えて、翌年には帰国する。
・空海は大使藤原葛野麻呂(かどのまろ)一行と長安へ行き、青竜(しょうりゅう)寺に恵果(けいか)をたずね、インド直伝の真言密教を学ぶ。修行中に亡くなった師の恵果の葬儀をすませ、梵字経典をふくむ多数の典籍を携えて、最澄より1年おくれて帰国した。

最澄( Wikipediaより

帰国後の最澄
・桓武天皇は最澄をバックアップし、先に帰った最澄の持ち帰った経典は図書寮で書写され、南都の大寺院に配られた。最澄は高雄山寺で高僧に灌頂(かんじょう)をさずけ、天台宗を南都六宗とならぶ独立した一宗と認めさせた。
・平城天皇は仏教に熱意を持たなかった。次の嵯峨天皇は南都寺院を保護すると同時に、詩文の才能豊かな空海を寵愛したことなどで、桓武天皇が亡くなると、最澄は苦境に立つ。
・最澄はこの逆境の中で、盛んに南都教団を批判し、なかでも法相(ほっそう)宗との教義論争は熾烈であった。
・法相宗の徳一が衆生(しゅじょう)は仏性(ぶっしょう)[仏になれる素質]があるものと、いくら努力しても仏性が得れないものがあると説くが、最澄は衆生はみな仏になれると説く法華経にもとづく天台宗が真の仏教だとした。

帰国後の空海
・遅れて帰国した空海に対し、平城天皇は空海の入京を許さなかった。次の嵯峨天皇となり、809年(大同4年)になって入京が許された。薬子の変がおさまった直後、高雄山寺で鎮護国家の修法をいとなみ、やがてここを真言宗の根本道場とした。その後、 816年(弘仁7年)高野山に道場として金剛峯寺(こんごうぶじ)を開いた。
・空海は旧仏教勢力と正面から敵対せず、南都諸寺の顔もたて、天台・真言の顔もたてた。このやり方は嵯峨天皇の立場とあっていた。
・空海は帰国当初は衆生の済度(さいど)にさきだつ自己の完成をひたすら期したが、823年(弘仁13年)には東大寺に真言院の建立をゆるされたころから、世俗的な活動をはじめる。
・鎮護国家的修法に活躍し、内裏で祈雨の修法をおこなって大僧都(そうず)となり、宮中に曼荼羅壇(まんだらだん)を建立し、詩文を通じての嵯峨天皇・淳和天皇との親交を深めた。

最澄と空海
・空海の名声が高まり、最澄の高弟の泰範(たいはん)が比叡山を捨て空海のもとに行くにいたり、仲が良かった最澄と空海の仲も決裂した。
・空海の宮廷社会における華やかな活動に対し、天台宗は最澄が亡きのち、しだいに勢力が衰ろえていった。それをよみがえらせたのは円仁(794864)と円珍(815891)による密教化であった。
・円仁は最後の遣唐使の一行ともに唐に渡り、密教の秘宝を体得して帰国した。唐の商船に便乗して入唐した円珍は更に熱心密教を学び、帰国後園城寺(三井寺)を創建する。
・しかし最澄の一切皆戒(いっさいかいかい)・法華一乗(ほっけいちじょう)の思想は続いていった。
・こうして、天台宗も密教化し、東寺を中心とする真言密教の東密(とうみつ)と、叡山の天台密教の台密(だいみつ)が並び行なわれるようになる。
・最澄は伝教大師、空海は弘法大師の大師号が送られた。

ゆきづまった律令体制
律令の税のしくみ

日本の歴史4巻から作成

・ 公民から、租(田租)[籾(もみ)]、調[絹・絁(あしぎぬ)・生糸・真綿]・庸[麻布・綿類・米・塩]は人頭税として賦課し、税の名称と使い方がはっきり決められていた。更に正税出挙[穂つき稲の頴稲(えいとう)]が税化していた。

1.調
生糸・綿の一部は官設の織物工場でより高級な錦や綾となる。製品の絹や絁の大部分は位禄・季禄として官人の俸給となる、更に官衙の経費となる。

2.庸(よう)
本来は正丁や次丁に賦課された労役だが、代納物として、麻布・綿類・米などとなり、都で働く仕丁(じちょう)や衛士(えいじ)などの食料・賃金にあてられる。

3. 正税出挙
年料春米(ねんりょうしょうまい):利稲を精米にして送らせ、下級官人を対象に支給される給料となる。
交易雑物(きょうやくざつもの):調や庸で不足だったり、特殊な物品が必要な場合は地方に命じて、利稲を使い交易雑物として物を買わせ、調達させた。

地方財政と中央財政のしくみ

日本の歴史4巻から作成

地方の財政
・公民から集められた、田租[籾(もみ)]と正税出挙の利稲[頴稲(えいとう)]が国衙に蓄えられる。
・地方財政の運用はもっぱら稲中心によるもので、 正税出挙によって徴収した利稲で、頴稲が国衙財政(国衙の諸経費)で使用される。
・毎年都へ送る「年料春米(ねんりょうしょうまい)」は頴稲を精米して送り、同じく都に送る「年料」や「臨時」の交易雑物(きょうやくぞうもつ)の代価になる。
・それに対し、田租の籾は「動用穀(どうようこく)」と「不動穀(ふどうこく)」があり、動用穀は使い道が限られ、年に数回あるかないかの賑給(しんごう)[貧民への無償供与」だけに使われた。それに対し、不動穀はよほどの凶作でない限り使ってはならないと決められていた。
このように、正税出挙の利稲が頴稲で蓄えられ、国衙財政運用での主役であった。

課役を逃れようとする農民
・律令制では農民を把握するため戸籍・計帳(けいちょう)を作成し、農民から税をとりたてていた。この登録によって、一定の年齢の男性一人あたりで計算された課役を徴することを主として国家財政が維持されていた。
・ところが農民は税の負担を逃れるため、この戸籍を偽るようになる。女性は口分田が班給されて課役がない。男性も一定の年齢に達すると課役がかからない。阿波国の例でも、課役がからない女性と老人が多い戸籍となるのである。
・また、男でも課役がからない舎人となったり、帳内(ちょうない)[親王に仕える]とか資人[五位以上の貴族などに仕える]などとして回避していた。
・近江国では承和(じょうわ)年間(834848年)には、14,143の課丁がいたのに、貞観(じょうがん)9年(867年)には課役免除の文書を得て不課となった者が5,164人にも及んだ。

女性が多い戸籍
902年(延喜2年)の阿波国の戸籍から、男:13%、女:87%

日本の歴史6より作成

富豪の輩(ともがら)
・富豪の輩は稲穀(とうこく)を周辺農民に貸す私出挙(しすいこ)が中心の高利貸しで暴利をあげていた。更に、所有する田畠を直営方式で経営していた。この場合、水利工事を行い、農具、牛馬、種子などを貸し、日当、食料を給付して耕作させ、これを監督しながら収穫するのである。
・富豪の輩には家内隷属民がおり、更に周辺の農民には私出挙で債務を負った農民がおり、彼らは家計と住居は独立を維持しながら、家内隷属民と共に労働力を提供して債務を返済していた。
・富豪の輩は単一の階層ではなく、土着貴族、郡司、富豪浪人、荘長、高刀(田堵)[たと]など、さまざまなものが含まれる。
・これらの富豪の輩は律令支配のわく外の活動であるため、王臣家などの権威を借りて、国家の賦課を逃れるため、王臣家などへ荘園の寄進を行い荘園が増えていった。そして、荘園の在地勢力となって、摂関家などの貴族や寺社の荘園を支えたのである。

国司は法を守っていては政治ができない
・律令制では、出挙として、国ごとにおのおの定められた量の稲を保有し、それを国内の農民に貸し付け、利稲(りとう)を徴収することによって国の財政をまかなっていた。ところが時代がたつにつれ、規定量の稲が足りなくなってきていた。そのため、別途蓄えた稲を使っていた。
・このように、戸籍も当てにならない中、国司は律令法をある程度無視した独自のやり方で、国内を取り仕切っていた。
・中央政府は律令制の建前で国司に指示するため、国司のやり方と中央政府の指示とのギャップが歴然となって来た。
・国司は正税の地税化や、土人(もとからの農民)・浪人(逃亡、浮浪の民)を区別せずに賦課するなどを、中央政府に申請して公認された。
・偽籍された戸籍はよくチェックすれば、偽りであるこが分かるが、国司はそれをしていない、逆に偽籍に一役かっているのである。こうすれば、課丁が減り、上納の調庸が少なくて済む。また国図に登録された田地は荒廃ばかりを報告し、国図以外の部分では開墾が進んでいた。

人頭税から地税へ
・ 律令国家の基盤は公民を把握し、それを土地に結び付け、調庸など人頭税を徴収することである。しかし基本の人民支配をつらぬくことが困難になってから久しくなって来た。
・公民としての身分をはなれた浮浪人は、有力な王臣家・寺社のいとなむ荘園や、私営田を経営する富豪たちのもとにもぐりこみ、戸籍上はいつわりの登録となっていた。そして口分田の班給もほとんど行われなくなった。
・人がダメなら動かない土地に課税しようということになる。本来、人身挙(じんしんこ)税であった正税出挙が土地単位に課せられるようになる。 822年(弘仁2年)河内国から始まり、営田(えいでん)[耕作地]1町につき30束の出挙が実施された。
823年(弘仁14年)西海道諸国に公営田(くえいでん)の制が実施される。これは国営農業で、国家が耕地を経営することで、調庸の確保と正税も増やそうとしたものである。しかし現物支給のルールは維持された。[公営田は制度として諸司田(しょしでん) などに再編され10世紀ごろには廃絶した]

現物支給から行米
・ 9世紀半ば過ぎると庸として納められる庸米が不足して支給にこと欠くようになると、諸国に「年料租春米(ねんりょうそしょうまい)」がプールされて、そこから支給される。
・更に調や庸の絹や絁(あしぎぬ)が不足すると「年料別納租穀(ねんりょうべつのうそこく)」がプールされ、これで支払われた。この場合は本来は絹などであるものが米になるため、変換レートや運賃を定めている。現物支給というルールが維持できなくなって来た。
・地方の正倉でも頴稲(えいとう)が底つき、毎年の出挙の本稲すら充当できなくなって来た。正税出挙は春または秋に本稲を貸し付けて、収穫期ののち5割あるいは3割の利息を本稲とともに徴収するものであった。
・そこで、稲を貸出したことにして、秋に利稲分の稲を徴収するようになる。出挙が昔は相互扶助のはたらきを持っていたが、意味の無いものへと変わっていった。

官田・勅旨田(ちょくしでん)
879年(元慶3年)に畿内5箇所に4000町の「官田」をおくことにした。これを元慶官田(がんぎょうかんでん)という。これは正倉の正税を使い果たし、不動穀すら減少している状況に対応するものである。実質的には位禄・季禄の料米ために田を作ったようなものである。
・その2年後、更に進めた「諸司田(しょしでん)」が設置された。これは中央官庁の大部分に特定の田地を分け与え、各官庁がその田地を経営することで、役人の給料から官庁の諸経費まで確保するためのものである。これらの土地は各官庁の所領となった。各官庁が荘園領主となったことになる。
・嵯峨天皇のころに多くの離宮を造営し、造営費捻出のために勅旨田をおいたが、それが離宮に付属する所領となった。仁明天皇のころから、離宮のなかの一つが後院と呼ばれた。
・その後、後院は天皇が退位してからの住まいにもなった。後院には建造物だけでなく、所領や財産が付随し、これを後院司(こいんじ)が管理した。律令制の頂点の天皇も私的所有の荘園領主となっていった。

寛平(かんぴょう)の治
光孝天皇の即位
・良房には男子がなく、兄の長良(ながら)の三男基経(もとつね)を養子にした。清和天皇の皇太子には基経の実の妹高子(たかこ)が産んだ貞明(さだあきら)親王(陽成天皇)が立てられた。
876年(貞観18年)27歳の清和天皇は陽成天皇(9歳)に譲位した。その後、基経は右大臣から左大臣を経ずに太政大臣となる。
・しかし、基経と陽成天皇の関係が悪化、陽成天皇が暴力的であったこともあり、基経は陽成天皇(17歳)を退位させた。
・この時すでに55歳となっていた仁明天皇の第3皇子の時康(ときやす)親王を即位させ、光孝天皇とした。恩を感じた天皇は太政大臣の基経に全権を委譲した。
光孝天皇を即位させたのが、慈円が「藤氏ノ三功」と挙げた一つである。
(第1は、鎌足と中大兄皇子が行った乙巳の変。第2は、永手と百川が光仁天皇を即位させたこと)

阿衡(あこう)の紛議
・光孝天皇は我が子を次代の天皇にする意思がないこと示すため、即位すると諸子を全て臣籍に下し、死を目前にしても皇太子を定めなかった。そこで、基経は光孝天皇の意を察して、源定省(さだみ)を推奨し、 887年(仁和3年)8月に宇多天皇の即位となった。
・宇多天皇は太政大臣(基経)に「関(あずか)り白(もう)」し、しかるのち天皇に奏上せよとし、関白のはじまりとなった。この時、慣例に従い基経が関白を辞退する上表文にたいする、宇多天皇の勅答[左大弁橘広相(ひろみ)起草]が問題となった。888年(仁和4年)閏11月。
・「よろしく阿衡の任をもって卿の任とすべし」という文言があったので、学者文人として出世した橘広相をねたんだ基経の家司(けいし)の藤原左世(すけよ)が「阿衡」は職掌がないと解釈して基経をたきつけた。
・その結果、基経は政務から手を引いてしまった。橘広相は自説をまげず1年ほど紛糾したが、基経が翻意して、橘広相の処罰もなくすんだ。
・この事件は広相が宇多天皇擁立に一役かったこと、広相の娘が宇多天皇の女御となって皇子を産んでいたことが関係していたかもしれない。

菅原道真と時平

・菅原氏はもとは土師(はじ)氏といったが、清公(きよきみ)・是善(これよし)・道真と三代にわたり学問にすぐれ、文章博士(もんじょはかせ)となっている。しかし道真は一時、国司となって讃岐守として4年間赴任した。

・基経の勢力が強いといっても、光孝・宇多と外戚関係がなかった天皇が続いた。891年(寛平3年)に基経が亡くなると、基経の嫡男時平は21歳で参議となった。その後、急速に官位があがる。

・それに対し、宇多天皇は讃岐から都に帰った道真を、抜擢して蔵人頭にし、寛平5年には参議とする。その後二人の昇進レースが始まる。

菅原道真( Wikipediaより

時平と菅原道真の昇進

日本の歴史6巻より作成

・道真が参議となって、 894年(寛平6年)8月に、遣唐使の派遣メンバーが決定された。しかし9月には唐の凋弊(ちょうへい)がはなはだしいこと、遣唐使の渡航が危険なことから、遣唐使派遣が停止された。

・この結果、遣唐使派遣は838年(承和5年)が最終となった。その後、唐は907年(延喜7年)に滅亡する。

・国内政策としては、寛平の治といわれるように、律令体制を維持しようとする検税使を派遣するなどの試みが行われた。

・しかし、道真は検税使の派遣に反対であり、律令体制崩壊の現実を見据える動きが起こり始める時期であった。

宇多法皇( Wikipediaより

昌泰(しょうたい)の変
897年(寛平9年)に宇多天皇が31歳で醍醐天皇に譲位してから状況が変わる。時平は醍醐天皇にはたらきかけ、妹の穏子(おんし)の入内を実現した。(醍醐天皇の皇太子時代は宇多天皇の反対があった)
899年(昌泰2年)宇多上皇が出家した。これにより、時平の反撃が行われ、 901年(昌泰4年)正月に「道真は醍醐天皇を廃止、かわりの天皇[斉世(ときよ)親王(醍醐天皇の弟)]を立てようとした」という理由から、道真を大宰権師(ごんのそつ)に左遷した。
・更に、道真の長男大学頭の高視(たかみ)が流罪となり、一族関係者も処分された。[昌泰(しょうたい)の変]
903年(延喜3年)2月、道真は大宰府にて59歳で亡くなった。
・道真が大宰府で詠んだ
「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主(あるいじ)ないとて 春なわすれそ」
の短歌は有名。

延喜の治
時平の政治

・道真を左遷した時平に表だってたてつくものはいなくなった。
・宇多天皇は醍醐天皇に譲位するとき道真と時平を内覧としたので、時平は左大臣のままであったが、内覧として政治を行った。
・律令体制を立て直すため、902年(延喜2年)に延喜荘園整理令が出された。その年に最後の班田収受が行われる。
・このように国政にかんする官符が多く発行され、時平主導で地方政治の立て直しが図られた。
904年(延喜4年)穏子(おんし)の産んだ醍醐天皇の皇子の崇象[後の保明(やすあきら) ]親王を強引に皇太子にした。
・『大鏡』によれば、時平は学才は劣っていたが、「やまとだましい」は優れていたと評されている。
905年(延喜5年)に詔命がくだされ、『延喜格(えんぎきゃく)』『延喜式』の編纂され、延喜7年に延喜通宝が鋳造された。
・格と式は弘仁(こうにん)、貞観(じょうかん)の時代に行われたが、時平の指導下で行われ、まさに律令体制を立て直す意気込みが感じられる。

藤原時平(Webより

909年(延喜9年)4月に時平が39歳で亡くなる。この前後から国政上の諸制度が大きく変わる。
・時平は中央政府指導で律令制度を建て直そうとしたが、現実に合わないと考え、晩年には国司が現状に対応して取っていたやり方を国家として認めて行く。

忠平の時代
・ 時平が亡くなると8歳年下の弟の忠平が藤氏長者となった。忠平は性質が温厚で、宇多上皇、道真とも親交があった。道真が大宰府に流された後も便りを出していたという。
・宇多上皇は道真左遷で、国政関与から遠ざかっていたが、忠平の時代になって、関与を増してくる。 927年(延長5年)に延喜式が完成する。
930年(延長8年)に、醍醐天皇は皇后穏子(おんし)が産んだ寛明(ひろあきら)親王(朱雀天皇)に譲位したあと、亡くなった。朱雀天皇は8歳と幼少だったので、忠平が摂政となった。
・忠平の時代に、承平天慶の乱が起きたが、いずれも最終的には鎮圧された。時平の時に律令制を立て直そうと中央からの指令が多かったが、忠平になって、国政にかんする官符が著しく減る。
・律令制の仕組みが地方行政と合わない状況が分かって来て、中央政府から無理な指令を出すことが控えられた。

923年(延喜23年)に時平が苦労して皇太子にした保明(やすあきら)親王が21歳の若さで亡くなった時、道真の怨霊の性だとされた。
930年(延長8年)に6月に清涼殿に落雷があり、公卿を含む複数が亡くなった。醍醐天皇はこのショックで病になり、9月に亡くなった。この落雷も道真の怨霊によるものと信じられた。
・時平の子孫が顕忠(あきただ)を除き、みな夭死した。これも道真の怨霊の性だと信じた。
・こうして朝廷により947年(天暦1年)、道真を祀った北野天満宮(北野神社)が建てられた。

北野天満宮(北野天満宮HPより

まとめ
年表

摂関時代まとめ
・薬子の変
律令体制立て直しを図った平城天皇が心労のとき、藤原種継の娘の薬子が政治に口をだす。平城天皇が弟の嵯峨天皇に皇位を譲り、上皇として平城京へ移る。平城京遷都の動きから嵯峨天皇が薬子を捕え、実権を握る。これで平城京へ戻ることはなくなった。

・承和の変
淳和天皇系の皇太子を陰謀で廃位し良房が外戚となる嵯峨天皇系の文徳天皇を即位させた。この結果、嵯峨、淳和による兄弟王朝の迭立が解消され、嵯峨天皇直系の継承となった。応天門の変で良房は清和天皇の摂政となった。

・最澄と空海
南都教団から、最澄は天台宗を南都六宗とならぶ独立した一宗と認めさせ、天台宗はその後、円仁・円珍により密教化した(台密)。空海は高野山に金剛峯寺を建立、大僧都となり(東密)、詩文を通じての嵯峨天皇・淳和天皇との親交を深めた。

・ゆきづまった律令体制
律令体制の租庸調(人頭税)は偽籍された戸籍などで、徴収に行き詰まる。そこで人頭税から地税にきりかえるなど、国司は必ずしも律令制に従わないやりかたで対応する。また、中央政府は営田を国営農場のかたちで運用したり、官人の給料のために、官営田とするものも出てくる。

・光孝天皇の即位
良房には男子がなく、兄の長良三男基経(もとつね)を養子にした。基経と粗暴な陽成天皇の関係が悪化し、基経は陽成天皇(17歳)を退位させた。 そして、55歳となっていた仁明天皇の第3皇子の時康(ときやす)親王を即位させ、光孝天皇とした。

・宇多天皇
光孝天皇は即位すると諸子を全て臣籍に下したが、死を目前にして、基経のおかげで、臣下だった源定省(さだみ)を後継ぎとし、宇多天皇となった。

・菅原道真と時平
基経が亡くなると、基経の嫡男時平は21歳で参議となった。宇多天皇は讃岐から京に帰った道真を、抜擢により蔵人頭にし、更には参議とする。その後、時平と道真の昇進レースが始まる。宇多天皇が31歳で醍醐天皇に譲位してから状況が変わり、道真は晶泰の変で時平により大宰府に左遷される。

・延喜の治
時平は左大臣のままであったが、内覧として政治を行った。 時平の時代に』『延喜式』などが編纂され、延喜通宝が鋳造された。時平が亡くなると弟の忠平が政治を行い、朱雀天皇の時代は摂政となった。道真の怨霊を恐れ、北野天満宮(北野神社)が建てられた。